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(6)

 見慣れない天井・・・。

 私は目を開いた。何か夢を見ていたような気がするが、現実に意識を戻すとそれは霧のごとく霧散してしまい、私はただ漠然としたイメージのみを思い出すにすぎなくなってしまう。何か、重要な夢だったような。

 私の過去に関するものだったのだろうか?どうあれ、去っていってしまった夢を追うことはできなくなってしまった。

 私は周りを見回した。そして、私の目の前に見慣れない天井があった理由を思い出した。

「アリアの家に居候することになったんだっけな。」

 私は思いっきりのびをすると、エアコンのスイッチを入れた。夜寝るときは少しエアコンは弱めにするのがこの家の決まりらしい。

 この家に住むようになってまだ一日。初めてこの部屋を見たときはとまどいを感じた。そして、私の歓迎会と称された食事にはなにやら家族の暖かさというものを感じた。

 私は、安らかに眠ることができたが。やはり、不安は残る。それが、見慣れない天井を見たときふいに訪れた感情だったのかもしれない。

「順応力は高いと思ったんだけどな。」

 私は、暑苦しそうに薄い布団をはねのけるとまた大きなあくびをした。

「有希ちゃん・・・。起き・・・た?」

 弱々しいノック音と共にその音に勝るほどのか細い声が廊下から聞こえた。唯奈だろう。この家にいるとしたら彼女ぐらいなものだ。

「ああ。今起きたばかりだ。」

「入っていい?」

「ああ。」

 別に私の部屋にはいることを躊躇する理由などどこにもないだろうに。ノックさえしてくれれば勝手に入ってくれてもいいと最初にいっておいたが。それを実践するのはまだ難しいようだ。

 私は、ベッドから立ち上がるとスリッパを履いた。ピンク色の一般的にかわいいと称されるウサギ柄のスリッパだが、どうも私にはこういうのは似合わないような気がする。

 インテリアは私が決めさせてもらった。マックレイ親子に頼むと、これぞ正しい女の子の部屋(想像はできないが)にされてしまいそうで、背筋が寒くなったからだ。

 ドアノブの音がして唯奈が入ってきた。夏らしいシンプルな服装をしている。

「あ・・・。ごめんなさい・・・。まだ着替えていなかったんだね?」

「ん?ああ。そうだな。」

 確かに私は黒色で無地のパジャマ(アリアにはさんざん地味だとかオッサン臭いとかいわれたもの)を着ていた。

「えっと。その・・・。」

 一緒の家で暮らすんだから、変に気を遣うこともない。ともいってあるが、それを実践するのは困難のようだ。

 名前で呼ぶあうことにはさほどの抵抗もなかったようだが、それ以外のことはまだ不慣れのようだ。しかし、対人恐怖症というわけではないと思うのだが。

 実際私たちの間にまともな対話が成立したのはそんなにあることではなかった。

 言いよどんで、話のとっかかりをつかみかねている彼女を見て、私は、

「まあ、落ち着いて・・。深呼吸でもしてみるか?」

 唯奈は数回深呼吸をすると、

「ご飯、できたけど・・・。食べる?」

 私はずっこけそうになった。

「どうしたの?」

 唯奈はまじめな顔をして私の顔ををのぞきこんで来た。

「いや。なんでもない。そうだな・・・。いただくとするか。」

 私はそう答えると立ち上がり大きくのびをした。

「うん。待ってるよ・・。」

 そういうと唯奈はそそくさと部屋から出て行った。私は、ため息を一つだけつくとパジャマを脱ぎだした。

 私はブラをはめTシャツに袖を通すと青色のジャケットを羽織り、薄い生地のジーンズをはいた。ジーンズは私の身体にぴったりとフィットし、少し締め付けられるようだが、別に不快ではない。それに生地が通気性のよい素材でできているので、涼しくていい。

 私が部屋を出ると、パンの焼ける香ばしいにおいが漂ってきて、ふいに腹がぐーっと一声鳴った。

 腹をさすりながら階段を下りるとそこはすぐにリビングになっていてその向こうには広いキッチンが見える。唯奈はすでに椅子に座って私を待っていた。

 そのテーブルには香ばしい匂いを漂わせる食パンとバターとジャム、そして牛乳が置かれていた。それを見ただけで私の腹はまたグーッと鳴った。

 病院食はお世辞を言ってもうまいとは言えなかった。だから、そういう食事はとてもありがたい。

 私は、満天の笑みを浮かべると唯奈の向かい合うように椅子に座った。

「それじゃいただくとするか。」

 私は、そういうと早速ジャムを取ってふたを開けた。

「うん・・・。そう・・だね・。」

 ぽつりぽつりとした口調は相変わらずだが、いつもよりは楽しそうだ。彼女はご丁寧に手を合わせ「頂きます」と一言言うと、バターとバターナイフを取りパンに塗り始めた。少し冷めているため、固まったバターはパンに付きにくい。

 少し難儀そうに塗っているその仕草を見ながら私は、ジャムの付いたパンにかじりついた。香ばしい香りが口いっぱいに広がる。これは、そこらで買ったパンではないと直感した。

「これは、自家製なのか?」

 私が唯奈に聞くと、唯奈は恥ずかしそうにうなずき、

「あんまり・・・うまくないけど・・。」

 などと言うが、とんでもない。

「そんなことない。すっごく美味いよ。」

 私は、即座に彼女の謙遜を打ち消した。

 これはそんじょそこらのパン屋ではとうてい作れない味だ。そもそも素材が違う。

 これが美味くないといってしまえば、巷のパン屋はどうなってしまうのだ。というほど美味い。

「すごいよな。こんなの作れてしまうなんて。」

 私はしきりにうなずきながらどんどんパンをかじっていく。このジャムもいい感じだ。

「このジャムも自家製なのか?」

 もしや、と思って聞いてみた。それの予感は的中だった。

「うん・・。余った材料とかで作るから。そんなに・・・。」

「いやいや。これも美味い。」

 少なくとも、これには私が記憶しているジャムの味(いつ食べたのかは分からないが)を遙かに凌駕するほどの深みを感じる。

「すごいな。唯奈は。」

 私は、ため息をつくようにそうつぶやくと、彼女は夕焼けのように顔を真っ赤にして、”そ、そんなこと。ないよ・・。”と言いながら手をもじもじとしていた。

 私は、砂糖の入った牛乳を飲むと席から立った。唯奈はまだパンをかじっている。ずいぶんゆっくりとしたペースだ。これでは全部食べ終わるまでに日が暮れてしまいそうだ。

「小食なのか?」

 私が試しにそう聞いてみると、彼女はうなずいた。

「昔から、あまり・・・食べられないから・・・。」

「そうか。大変なんだな。」

 というと、また彼女は、”そ、そんなことないよ・・。”といってさらに食べるペースを落としてしまった。そういえば、昨晩の夕食もアリアが”歓迎会だー”とかいってとばしまくっていたのに対して、彼女はあまり食べていなかった。

「それじゃ。私は部屋に戻るよ。」

 と言って階段に向かおうとするが、唯奈は私の方を不思議そうな顔をしながら見つめていた。

「・・・どうした?」

「今日、いい天気だよ。それに、久しぶりに紫外線警報も出てないし。」

 確かに、今日は紫外線警報が出ていないため、人はつかの間だが外の世界に出ることができる。4月が終わりに近づくにつれ外の気温も下がり始め、今では人が短時間であれば外に出られる程度には下がっている。だが、私には外に出られない理由があった。

「今度学校に編入になるよな。」

 私がそういうと、彼女はパンを手にしたままうなずいた。

「後二週間ぐらいで学校が始まる。」

 また彼女はうなずいた。

「だけど。宿題はやらないといけないみたいでさ。」

 彼女はそこまで聞くと、”ああ”と言ってうなずいた。

「一人で大丈夫?」

 と、彼女なりに心配してくれているが、そんな心配は無用だ。

「大丈夫。そこら辺のことは覚えてるから・・・。」

 私がそういうと、どういうわけか、彼女は”あっ!”と短く声を上げうつむいてしまった。

「どうした?」

 私が怪訝そうな声で彼女の顔をのぞき込もうとするが、彼女は私と視線を外して、

「ごめんなさい。・・・記憶がないってこと・・思い出させてしまって・・・。」

 ああ、そういうことか。なるほど、ひときわ他人のことを第一に思う彼女ならそう思うかもしれない。しかし、そんなことはノープロブレムだ。

「いいさ。別に不自由はしていないから。」

 そう、どういうわけか私は、自分に記憶がないことを鬱に思ったことはない。ないものは仕方がないというか。前向きでいられるのだ。

「でも・・・。」

 それでも彼女の気は済まないようだ。

「いいって。」

 このままではらちがあかないと思い、私はそう言い残すとさっさと階段を上って自分の部屋に入っていった。

「だけど・・・。」

 私は部屋のドアを閉めると、誰に向かって言うともなくつぶやいた。

「何故、私は平気なんだろう?」

 常識的な人間は今までの記憶がなくなり、しかも知らないうちに100年もの長い時を眠らされていたら気がおかしくなるか、そこまで行かなくとも無気力になってしまうものだと思う。

 しかし、私の場合至って平然とそれを受け入れてしまっている。それはどうしてなのだろうか。ひょっとしたら、眠らされる以前は、ものすごい悪だったか、取り返しのつかないことを犯していたのかもしれない。そして、頭が無意識のうちに記憶を隠蔽し、それを甘んじて受け入れるように働いた。

 もし、そんなことが起こっていたとなると・・・、私はいったい何者なのだろうか。何故、100年もの間誰の目にもとまらない地中深くで眠っていたのだろうか。

 そして、その答えを得られる日は来るのだろうか。

 ・・・・そんなこと、今考えていても仕方がない。今、切実なのは残された夏休みの宿題なのだ。

 私はそう思い立ち、急いで机に向かい、モニターノートを立ち上げると送られてきたテキストファイルを開いた。

 このテキストは1年でやってきた内容の総復習を目的にされているようで、基本問題から応用、発展と幅広いレベルの問題がふんだんに用いられている。授業用のコンピュータというものも学校から斡旋され、宿題や連絡事項などは、すべてデータ化され生徒に配布される。

 紙のプリントを配り、重い教科書を担いで学校に行っていた時代とはかわったものだ。私にはその知識しかないので、改めてこれを見せられたときは驚きを隠せなかった。

 しかし、環境の変動により紙という資源が大変貴重なものになってしまった今日ではこうするしかほかがなかったのだろう。使える紙と言えば何度リサイクルしたのか見当のつかないほど粗悪なものしか残されていない。

 ゴミを出すときでも紙だけ特別に種類分けが必要らしい。

 私は、ひたすらに問題を解いた。だされているのは、数学と物理化学、そして英語なので、分量が多い。私は、ひとまず数学からやっつけ始めた。数学はIAIIBまでで、IIICの知識も持っている私にとっては造作でもないことだ。さほど気になる問題もない。

 私は、しばらく時間を忘れて問題を解いていった。頭の中が数字で埋め尽くされるぐらいに問題を解いた。

「ふう・・。」

 どれだけ時間がたったのか。単元が微分から積分にかわるあたりで私は手を止めた。IIB最後の分野なので、これが終わればもう数学も終わったも同然だ。

 私は、一息つこうと窓際に腰を下ろした。

 ふと、私は思い当たりベッドの脇にある鞄のポケットを探った。そこには、ここに来る前アリアにもらったタバコが入っていた。

 ことのほかタバコを吸っていると気が落ち着くみたいだ。とアリアに告げたら一箱12個入りのカスールとかかれたタバコをくれたのだ。

 仮にも法的に17歳の私にそんなものをポンと手渡すアリアの感性を私は疑った。まあ、このことを話題にしたのは私だが、いや、こんなことになるなど、誰が予想できようか。かといって、それを受け取って、今つかおうとしている私も私なのだが。

 私は、一箱取り出して封を開くと一緒について来たライターを取り出して、窓を開け枠に座り込んだ。窓の外は小さなベランダのようになっているので落ちることはないし、今日は紫外線警報が出ていないので安心して窓を開けられる。

 私はタバコに火をつけるとゆっくりと煙を吸い込み吐きだした。床にほっぽり出しておいた灰皿を取り、灰をはらう。

 こういうのもまったくかわっていない。かわったものといえば、タバコには有害な物質ニコチンやタールなどが含まれなくなったことのみだ。20歳以上でないと喫煙できないのもかわっていない。教育上の配慮でもあるのだろうか?

 私は、タバコをくわると青々とした空を見上げた。鳥さえ飛んでいない空虚な青空はまるで今の私を象徴しているようにも思えた。

 私はタバコを一本吸い終わると、フィルターだけになったそれを灰皿にこすりつけ窓を閉めると、エアコンの出力をあげた。

 灰をゴミ箱に捨てて灰皿を引き出しにしまうと、ドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ。」

 この家にいる限り私の部屋を尋ねてくる人間は限られている。案の定、そこには唯奈が、紅茶の入ったティーカップが二つのせられたトレイを持って立っていた。

「あの・・・。休憩にって・・・思って・・。」

 ありがたい。やはり、心を落ち着けるのはタバコより紅茶だろう。それに、唯奈の入れた紅茶はとてもうまい。

「ありがとう。」

 私は満天の笑みを浮かべて唯奈を中に招き入れた。タバコの匂いは残っていないのでひとまず安心だ。あのタバコはさほど匂いのするものでないのが幸いだった。

 唯奈はトレイを小さなテーブルにのせると私に片方を差し出した。

 私は、それを受け取り、ひとまず口に含んだ。

 ほどよい苦みがうまみとなって口の中に広がる。この味と香りの広がりというか、それが残す余韻がたまらなくいい。

「・・・どう?」

 唯奈は少し心配そうに私の表情を伺うが、私はにっこりして、

「美味いよ。本当に、唯奈は紅茶入れるのとか美味いな。」

 唯奈は顔を赤らめると、

「そんな・・・。有希ちゃんたら・・・。」

 と、まんざらでもないように俯いてしまった。私はそれすらも愛らしく感じると、また一口飲み皿にのせられているクッキーを口に含んだ。

 これも手作りのようだ。

 本当に、唯奈は何でもできるのだな。と私は感心した。私にはとうてい無理だし、やろうとも思わない。しかも、それを当たり前にこなしてしまうのだから。

 アリアは本当に不幸だった。こんないい娘を持ちながら親子らしい関係を築いてこれなかったのだから。彼女があれほどまでに後悔する気持ちもよく分かる。

 私は、しばらくティータイムを楽しんだ。二人の間にはこれといった会話もなかったが、それでも、唯奈と一緒に過ごす時間は私に安らぎを与えてくれる。かけがえのない時間がそこにはあった。

「勉強は順調・・・?」

 唯奈は私にそう聞いてきた。

「え・・?ああ。別に難しい問題が出てくるわけじゃないから。2週間もあれば何とかなりそうだ。」

 数学は難なくできたが、物理化学、そして英語という二つがまだ残っているのだ。特に物理化学に置いては時代と共に変化することもあるだろうから、私の知識が通用しないこともあり得る。

「がんばって・・・ね。」

 唯奈はそういいながら空になったカップをトレイに乗せるとあまったクッキーだけを置いて立ち上がった。

「ああ。」

 私は、そう力強く答えて親指を立てて見せた。唯奈は一瞬だけ微笑むと部屋から出て行った。

「さてと・・・。」

 私はクッキーの入った入れ物を手に取り再び机に向かう。窓の外を見ると、今までさんさんと照りつけていた太陽も少しかげり夕闇を思わせる風景が街を覆っていた。人に自由が戻る日も近い。そんなことを思わせる風景だった。


 こうして私がこの家に居候を始めてから二回目の夜が来た。

 私は、濡れた髪をタオルでなでながら唯奈の部屋に向かって、”出たぞ。”とだけ声をかけると自分の部屋の中に引っ込んでいった。

 太陽も沈み、今は月の光が窓辺を明るく照らしている。

 私はカーテンを引いて電気の光量を上げた。

「ふう。」

 と一息だけため息をつくとタオルを頭に乗せたままベッドに座り込んだ。

 時間は、11時を少し回ったところ。寝るにはまだまだ時間が早い。それに、まだ学校の宿題をやらなければならないが・・・。日中、少し無理をして頭を使いすぎたせいか。私に異様な眠気が襲ってきていた。

 ・・・回復したと言っても、まだまだ身体の方は本調子じゃないってことかな。

 ふいに大きなあくびが口から漏れだした。・・・もう寝ることにするか。

 私は黒いパジャマに着替えると布団に潜り込んだ。手元のスイッチを操作して電気の光量とエアコンの出力を低くする。

 設定することにより、本人の覚醒レベルに合わせて光量や出力を調整してくれるプログラムが組まれているので、私は目をつぶることにした。

 ・・・いい夢が見られるといいな。

 眠りに陥るとき、私はそんなことを思っていた。そして、それが夢で終わってくれることをどこか願って、私はまどろみの中に陥っていった。


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