(12)
なんだかんだいっても私は、この夏の間ずっと満ち足りていたと思う。突然日常へと引き戻され、それが100年後の未来だと知らされて以来私はこの日常を受け入れようとしてきた。それにいっぱいいっぱいだった。そして、ようやく心の中に平穏というものが生まれてきたように思うと、後は夏休みを待つばかり。その前に中間テストという憂鬱が残っているのも確かだが、それでも私は結構この日常を楽しんでいるのだと思う。
最初は違和感のあった私の名前、宮野有希。しかし、今となっては私を表す唯一のもの、かけがえのない私の名前になったのだと思う。
名前というのは自分自身でつけるものだという言葉を聞いたことがある。だけど、それは自分以外のかけがえのない存在があってのことだと思う。そういう人たちに自分の名前を心に残してもらいたい。
人が自分の名前にこだわるのはそういうことがあるのではないかと今になったらそう思う。
たとえこの日常が何らかの原因で突然にして壊れてしまっても、私は忘れない。私の名前を、私の心に残るかけがえのない者たちの名前を。私は忘れたくない。
もう、何も忘れたくない。
なくした記憶を取り戻せなくてもいい。ただ、今の記憶をなくさなくてもいいのなら。私は他に何もいらない。
アリアの助手である斎原隆一の送迎する車が研究所のガレージで止まった。
「ありがとう・・・。」
唯奈はそういうと私と一緒に車から降りた。隆一は相変わらず何も言わずに車を発進させた。
「相変わらず無愛想なやつだな。」
ここに来るまでも彼と一言も会話を交わすことはなかった。彼は静かなのが好きなのだろうか。私たちまで会話しづらい雰囲気だった。
「有希ちゃん。そんなこと言っちゃ、だめだよ・・・。」
そういう唯奈を見て肩をすぼめると、私たちはとりあえずアリアの研究室へ向かうことにした。
日頃から家に戻らない彼女だったがここ一週間ぐらいは電話すらもよこさない。多忙なのだろうが、せめて電話ぐらいするべきだとおもう。唯奈がときおりとても寂しそうな顔をして電話機を見つめているのを見ると、どうも心が痛むような気がしてならない。
エレベーターを降りて彼女の研究室に向かう。気のせいかだろうか?この施設全体があわただしい雰囲気に包まれているような気がする。
いつもなら気さくに声をかけてくれる者も、今回は軽く会釈をするだけで足早に去っていってしまう。心なしか、皆ピリピリしているようだ。
私たちは少し居心地が悪くなった。
「みんな・・・忙しそう・・・だね・・。」
「ああ・・・。何かあるのかな?」
見当がつかないが、近く何か大きなことがありそうな、そんな雰囲気が漂っている。
「・・・・。」
私は、アリアの研究室をノックしていた。コンコンという小気味のいい音が手を伝わってくるがなんの反応もない。
「留守かな・・・?」
私は軽くドアノブを回してみた。・・・ロックされていない。
「不用心だな。」
さてどうしたものか。
勝手に中に入ってしまうのも少し気が引けるが、このまま手をこまねいているのも何かつまらない。
「中で待たせてもらおうよ。」
唯奈がそういうので、私はとりあえず賛成して中にはいることにした。
「失礼するよ・・・。」
私はドアを開いて中をのぞき込んだ。やはり誰もいない。しかし、部屋の明かりはつけっぱなしだった。机の上にも大量のデータディスクが散乱しており、落ち着きのない部屋だった。
「不用心というよりずぼらだな。」
私はやれやれと息をつくと適当に空いた席を探して座ることにした。この前まではもう少しましだったような気もするが。
空調が効きすぎていて少し肌寒い。私は立ち上がり、エアコンのコントローラーを見つけると出力を下げた・・・。ふと、アリアの机を見た。
「あれ?起動しっぱなしじゃないか。」
そこにはアリアがいつもつかっているモニターノートがあった。
モニターは黒一色だが電源は入っている状態だった。いわゆる待機モードというやつで起動したまま放っておくとこのような状態になる。
「・・・。」
私は、不思議な好奇心に駆られてモニターをいじってみた。すると待機モードがとかれてモニター画面が露わになってゆく。日記だろうか?英語で書かれているが読むことはたやすい。
『有希の診察結果が出た。』
一週間前の項にはそう書かれていた。
「どうしたの?人に日記を見るのはいけないと思うよ。」
唯奈も私に気がついたのか、近寄ってきた。
『その結果を見て、私は驚きを隠すことができない。』
「有希ちゃんのこと?」
唯奈はそういうと口を閉じた。私はそれをどんどんスクロールさせてゆく。
『有希の特異性は記憶喪失だけではない。精密検査を行った結果、彼女の脳内には何か特殊な。普通の人間にはないようなものが付着していることが分かり、それが彼女の情報を司る部分に密接していることが分かった。事実、彼女思考時には、あきらかにこれは活発化していたのだ。』
その下には私の頭のX線写真のようなものが記載されていた。確かに私の脳内に何か特異な影のようなものが映し出されている。
『あえて断言しよう。これはCPUだ。しかし、これが記憶喪失・・健忘症の直接の原因になっていることはないと私は考える。今のところこれが身体に害をなすものではない以上、無理に取り出すことはかえって危険である。しかし、彼女の特異性はこれだけでは終わらない。それは、彼女の身体能力にもある。十中八九遺伝子的な改造が原因となっていると考えられるが、彼女の筋力、動体視力、骨格の強度、反射神経などは一般的な人間のそれの軽く2倍はあろうほどのものだ。』
私は息をのんだ。
『人間というのは自分自身の本来の力に制限を加えているというのは有名なことだ。そのため人は自分の力で自分の体を壊すことはないという。私は独自にこれをリミッター的本能と呼んでいる。もし、人間がこのリミッター的本能を自由に操ることができたのなら。と考えてみた。有希の場合はそれが故意に引き出されているのではないだろうか?という仮説を立てた。』
これは日記の領域を越えている。おそらくアリア本人も書いているうちに歯止めがきかなくなってしまったのだろう。日記はまだ続いた。
『しかし、これは仮説の域を出ることはない。たとえ故意に引き出されているのであれば、誰が、なんのためにそれを行ったのか。かつての災害以前の記憶がほとんど残されていない今日では、彼女にそれを施せざるをえない事情を推測することは難しい。もし、何者かが自らの薄汚い野望のために有希の体をこのように改造したのであれが、私はそのものを許すことはないだろう。一人の科学者として、そして、何よりも有希の母親として。ただ有希がそのことに気がつくまでに私は調査を完了させなければならない。なぜなら、彼女は旧世代から現代に残された記憶の鍵なのだから。それに、有希がこのことを自覚したなら、どのようなことが起こるのか見当もつかない。だから、我々は再び有希が発見された研究施設跡を調査するため調査隊を結成した。答えはおそらくあそこにあるはずだ。有希も連れて行くつもりだ。きっと彼女はこの世界を再びかつての豊かな世界にする為の鍵となるだろう。この日記が誰かの目にとまることがないことを切に望む。』
私は、しばらく何も言えなかった。これが私の秘密・・・今までアリアが隠してきた秘密なのだ。
私は人間ではないモンスター。
そんな言葉が重く心にのしかかってくる思いだった。
のどの奥が乾いてヒリヒリする。言いようのない不快感から私は吐き気すらも感じていた。
「・・・有・・・希・・・。」
部屋の入り口から人の声がした。私は振り向いた。そこにいるのが誰なのか、だいたい見当がついていた。
「見て・・・しまったの?」
アリアは青い顔をして立ちすくんでいた。
「ああ。見た。」
私は心が冷めていく思いがした。だんだんと身体の温度が下がってゆく、それは人間ではない機械のような冷たさだった。
「・・・・。」
私たちはしばらく何も言葉を交わさなかった。部屋の温度が下がってゆく。それは空調のせいではない、これは心の寒さだった。
「お母さん・・・嘘・・だよね・・。」
アリアにとって驚愕だったのは私に知られてしまったことだけではない、唯奈にも知られてしまったということだ。
「・・・・今日は帰りなさい。今夜、いろいろ話をしましょう・・・。」
アリアは弱々しい声で私たちを外へといざなった。
私も少し落ち着きたい。しばらく時間がほしかった。
私も唯奈もそれに従い、部屋を出た。
後悔しても遅い、もう私は知ってしまった。
私は始終口を開くことはなかった。車の中でも、家についても、昼食の時も。ずっと何かを心に刻みつけていた。それは、これから起こることをすべて受け入れる覚語をしていたのか、今の現実から逃げたかったのか、それは分からない。
しかし、私は後悔したかった。見なければよかったと。
私は、これからどんな顔をして過ごしていけがいいのだろうか?
夜になってアリアは帰ってきた。私たちは遅い夕食を取りながらお互いの顔を見ることもなくただ黙々と食事を続けているだけ。何を食べているかも、もうどうでもよくなっていた。
「一つだけいうわ。」
食後の紅茶を飲み終わったアリアは意を決して口火を切った。
「有希。あなたには確かに特異性があるし、普通の人間ではないことも確かよ。だけど、・・・それでも、あなたは間違いなく人間よ。だから・・・自分で決めなさい。」
そういうと、彼女は懐から手帳のようなものを取り出して私の前に置いた。
パスポートと記されているその手帳を私は見下ろした。
「3週間後、私は調査隊を組んであなたの眠っていたところを再調査しに行く。当初の予定なら、私はあなたを半ば無理矢理にでも連れて行くつもりだった。だけど、こうなってしまってはそれもできない。だから・・・。」
アリアは私の目を見つめた。
「行くかどうかは自分で決めなさい。」
彼女は少し言葉を切ると、再び口を開いた。
「おそらく、あそこには何かがあるはず。それがあなたの記憶に関わることなのかどうかは分からない。まったく関係のないことかもしれないし。ひょっとしたあなたの心の傷が広がるだけかもしれない。だからよく考えてみて。私たちはもう、あなたに強制はしない。あなた自身で決めてほしいの。」
私は目を閉じた。もう答えは決まっている。いや、最初からその答えしか残されていない。何も見なかったことにしてすべてを忘れることはたやすいのかもしれない。だが、それは私の美学に反する!
私は、パスポートを手にとって握りしめた。
「私は行く。誰がどう言おとも私は私だ。それを証明するためにも・・・。私は行く!」
「有希ちゃん・・・。」
そばに立ちつくしていた唯奈は私に困惑の眼差しを向けていた。
「そう。分かったわ。それは、あなたが持っていなさい。時間が来たら追って連絡するわ。」
「その前に、私が発見されたっていう場所の大まかな情報はないのか?それぐらい見ておきたいのだが・・。」
私がそういうと、アリアは、
「ええ。いいわよ。明日送るわ。」
「ありがとう。」
アリアは立ち上がるとリビングを出て玄関に向かおうとする。
「もう・・いっちゃうの?」
唯奈は寂しそうな表情でそれを見送った。
「ごめんなさい。今が一番忙しい時期だから。この調査が終わったらしばらくは暇になるの。そのときは・・。」
唯奈の目がパァーッと明るくなっていく。
「うん。それまで待ってる。いってらっしゃい。」
「行ってきます・・・。」
アリアがドアを閉めたことを確認して私は階段を上り自分の部屋に入った。
「自分の秘密か・・・。本当に、何があるんだろう。」
私は心に決めていた。私は自分の謎を解き明かしに行く。ただ、自分一人だけで、だ。行くと答えたときからもう、心で決めていた。
出発は3週間後だといっていた。
私は中間テストが終わったら出発しよう。
誰にも気づかれずに事を進めるのは困難かもしれない。
しかし、私はやり遂げてみせる。
私は再び決意を固めるとベッドに横になった。
車の発射音が表から聞こえた。アリアが乗っているのだろうな。
私はその音が聞こえなくなるまで追い続けた。
・・・こういう夜はいい夢を見たいもんだな。
ただ漠然とそんなことを考えながら私はまどろみの中へと落ちていく。
その夜は穏やかでいい夜だった。




