(1)
私はその時、太陽の光を浴びていた気がする。
おぼろげに頭に浮かんでくるその情景は、幾度となく私を迷わせた。その迷いはいつしか不安となり、恐怖へとつながっていった。
そう、あのとき確かに私は太陽の下にいた。暖かな光に包まれて私は幸せを感じていた。しかし、私の記憶もそこまでだ。なぜここに至ったのか。何一つ思い出すことはできない。
私は目覚めたとき、記憶を失っていた。
「おはよう。ここがどこか分かる?」
まどろみに支配されていた私の意識に最初に聞こえてきたのはその声だった。私は目を開けていたのだろうか?私の目の前には確かに闇が広がっていたはずだ。しかし、その闇はいつしか薄れ、ぼんやりとした輪郭を持ち始めた。
「・・・・あ・・・・ああ・・・。」
うめき声を聞いた気がする。それが私自身の発した声とも言えないような声であることに気がつくのに少々時間を要した。
「おはよう。自分の状況が分かる?」
再び聞こえる声、私はその声に向かって手をさしのべた。まるで、遠ざかってゆく何かをその手で追い求めるように。その瞬間、私の目の前に広がっていたぼやけた情景は一気に回復し、現実的な輪郭をあらわにし始めた。
「覚醒レベル6。順調です。」
機械的な男の声。私の視界にはいないものの声。私の視界の中には一人の女性が映し出されていた。
「気分はどうかしら?」
分厚いレンズ越しに光る柔和な笑みをたたえる瞳を見た瞬間。私は何か満たされるものがあった。私の視界は再びぼやける。どういうことか、私は涙を流していたようだった。
「ア・・リ・・ア・・。」
私の口からうめき声ともつかない言葉が紡ぎ出される。私にとってどういうことか、その言葉の意味は推し量ることはできなかった。しかし、それを聞いた女性の表情がみるみる驚愕のそれに変わっていくことは、鈍くなった私の頭でも理解できた。
「どうして・・・。」
私の目の前にいる女性はただそう漏らしただけだった。しかし、私はそれに答えることはできなかった。私の意識は再びまどろみの海へと沈んでいったからだ。
・・・その時すべてが始まった。長かった夢の終わり。その夢が私の現実にどのように関わってくるのか、それを何も分からないままにすべては始まった。ただ一つのイレギュラーを除いて、すべては順調だったのかもしれない。だが・・・、誰かが言った「未来は未だ来ず。すべては確率論的にのみ知ることができる。そこで引き起こされるすべてのこと。奇跡とも称されるようなことは人の想像を遙かに超えたもの。問題は、その本人の意志なのだ。」というように。すべてはまだ決まったわけではなかった。それが、今の私を支える唯一の希望となっている。決まってしまった後ですべてを後悔してもそれはもう叶わぬこと。過去というのは過ぎ去ってゆくもの。それをたぐい寄せることはすでに不可能なのだ。
だから思い起こしてみよう。今の私がどうしてこうなってしまったのかを・・・。
気がついたら私はベッドの上でただじっと天井を見上げていた。記憶にない天井。それ以前に私はいつからこうしていたのだろうか、まどろみから意識を持ち上げたのはいつだったのだろうか。それとも、これもまた夢の続きなのか。
私は体を起こした。狭くも広くもない。一人の人間が生活するには適度な空間が私の周りに広がっている、何か鼻を刺激する臭いがいやに不快に感じられる。
「ここはいったい・・・?」
私はベッドから起きあがろうとした。しかし、それはかなえられなかった。意識してみると私の身体はまったく言うことを聞かない。しかも、鈍い痛みを伴ってきた。その瞬間、私の身体にいわれもない激痛が走った。
「・・・・!」
私は、瞬間、身を縮み込ませていた。
「あう・・・・うう・・・。」
うめき声を上げようにも舌がまったくついてこない。私の身体はいったいどうなってしまったのだ?この痛みはいったい何なのだ。私の頭の冷静な部分が疑問を発するがそれに見合う答えは返ってこなかった。
「起きたのかしら・・・・・。・・!」
聞き覚えのある声がした。私は顔を向けようと思ったがそれすら私の身体は許さない。
「たいへん!」
その声の持ち主は私の腕を取り上げる、
「う・・・あ。」
腕を捕まれた瞬間さらなる激痛が走るが、彼女はそれにかまうことはなかった。
私の腕に何かが突き立てられる。それが注射であることはすぐに理解できた。見ると、私の反対の腕にも注射の後がいくつも見られる。
冷たい何かが注がれるのを感じると、その瞬間私の痛みはあっけないほどすぐに取り払われた。
「これでしばらくは大丈夫だけど。また痛むようだったら腕に巻いてるスイッチを押してね。」
私は右腕を見た。どうして気がつかなかったのか。そこには何かが巻き付けられてあり、『緊急時には押してください』と言う説明書きのそばに赤いスイッチがぽつんと一つあった。
痛みが消え去り、安心したのか、私はベッドに倒れ込んだ。今度は眠気が襲ってこなかった。おかげで私はこれまでのことをいろいろ思い返すことが・・・・できなかった。
どういうわけか、私は自分に関することすべて、いや、自分だけではない、私の目の前で柔和な笑みを浮かべているこの女性のことについても、どうしてここにいるのかと言うことも、あろう事か自分の顔も親の顔も思い出すことはできなかった。
私はがばっと跳ね起き、女性の顔を見た。
「なぜ・・・?なぜ、何も思い出せないんだ・・・?」
その女性は一瞬にして笑みを崩し何か恐ろしいものを見るような目つきで私を見た。私だけではない、彼女もまた困惑していた。
「記憶喪失?」
彼女の身なりを見るいじょう彼女が医者であることは明白だが、その彼女からその言葉が出るまで、私は自分に起きたこと理解できなかった。
「記憶喪失なのか・・・。」
確かに何も思い出せない。これを記憶喪失と言わずしてなんと呼ぼうか。私は、ずいぶん間抜けなことを行ったようだ。
それを自覚すると、以外にも私は冷静になってきた。今私に必要とされるもの、それは今ここにいる事情とここはどこかと言うことだ。
私は意を決して面を上げた。
「私はいったいどうしてしまったんだ?それと・・ここはどこだ?あんたはいったい?」
私は、率直な疑問のみを口に出した。ほかにも知りたいことはいろいろあるが、まだ考えがまとまっていない。
落ち着きのある私の声を聞いて彼女も幾分平静を取り戻したのか。私の質問に答えるべく口を開いた。
「まず、私の名前はアリア・マックレイ。この病院の医者で、あなたの主治医を担当するものです。病院と言いましたが、ここは軍の施設だと思ってくれてかまいませんし、私も軍所属です。」
私はうなずいた。
「順番はあべこべになるますが、あなたは5年近く前国家軍の遠征時にその場所で発見されたいわゆる負傷者です。あなたの眠っていた施設はすでに人はおらずあなたのデータもすでに末梢済みだったためにここに運び込まれてきました。」
私は驚いた。
「では、私は少なくとも5年間も眠っていたということなのか?」
しかし、彼女は首を振った。そして、さらなる驚愕の事実を告げられることとなった。
「いいえ。その時すでにあなたは途方にも長い時間を眠っていました。カプセルの中で。コールドスリープという言葉をご存じですか?」
その言葉には聞き覚えがある。どこで聞いたかは知らないが、確か、瞬間的に人体を低温にすることにより細胞の活動を押さえ、一種の冬眠状態にすることで長い時間を眠り続けるというものだ。
私は、首を縦に振った。私は聞きたかった、私はどのくらい眠っていたのか。
「あなたは、我々の推定では少なくとも100年から60年間眠っていたということになります。」
「100年・・・。」
私は驚愕すると共に恐怖を覚えた。それほどまでの時間眠っていたということは私には重大な身体的異常があったと言うことではないのか。はっきりしない記憶を振り起こしてみると、確かコールドスリープというのは現代の医学では治療不可能な病気を進歩した未来の医学で治療するのが目的の一つであったはずだ。
「発見された当時、あなたにはなんの身体的異常は見られませんでした。」
それを察したのか、彼女はそういった。
「なぜ、コールドスリープをとくのに5年の歳月を費やしたかといいますと、あなたの身元を割り出すことに手間取ったからです。」
「私の身元・・・?・・私の出身地が分かったのか?」
しかし、彼女は首を縦には振らなかった。
「分からなかったのか・・。」
私は落胆を隠せなかった。
「残念ですが・・。それでもコールドスリープを解いたのはこれ以上は身体に障害を残すことになりかねないという医学上の配慮があったからです。」
私のために・・・・か。
「私が何者なのか分からない・・と言うことか・・・。」
「残念ですが。そういうことです。」
しかし、分からないことをとやかく言うのはあまり堅実的ではない。私は、どういうわけかあっさりと割り切ってしまった。不思議と私には、高い順応性が備わっているようだ。
この状況をあっさりと受け入れてしまう自分に驚愕するべきなのか、感謝するべきなのだろうか。それは少し難しい問題に思えたが、今はそれはどうでもいい。
「今の私の身分はどうなっているんだ?まさか、名前すらないと言うことではないだろうな。」
それを聞いた彼女は、ぱっと表情を明るくすると、
「えーっとですね。とりあえず特殊な事例なので、私たちが勝手に決めさせてもらったことなのですが。」
名前など自分で決めろとかいわれなくてよかった。決めようがないからな、こればっかりは。私は、少し楽しみに思った。もちろん、気に入らない名前なら即、却下するつもりだったが。
「宮野有希でどうかしら。年齢は17歳。東方出身ということにしておいたけど・・。」
私は一瞬言葉を失った。
・・・あれ?
ふとした違和感から私は、それを確かめるべくそっと自分の胸に手を置いてみた。大きくもなく小さすぎることもない、一般的に良い形とされるそれの柔らかな感触が私の手を伝わってきた。
なんということだ、私は自分の性別すら忘れていたのか!私は女性だったのだ!
「ははは・・・。」
私は笑うしかなかった。
「気に入らないかしら?」
心配そうな彼女の声を聞いて、私はあわてて首を振った。
「別になんでもない。気にするな。」
気づかれてなるものか。こんなこと恥ずかしすぎて死んでしまう。
「そう?」
言葉遣いも改めなければならないだろうか?いや、そんなものは適当でいいな。
「ああ。宮野有希・・か。まあまあじゃないか?」
「そういってもらえて嬉しいわ。」
彼女の顔に再び柔和な笑みが戻った。
私も次第に落ち着いて来たようだ。ふと、腹にこもっていた力を抜くと、不覚にもグーッという音を立てた。
当たり前か。100年近く何も食べていないのだから。
それを聞いた彼女は”あははっ”と笑って、
「今がどういう時代なのかと言うことを説明しなければならないようですが、まあ、食事の後でよろしいですね。今お持ちします。」
医者である彼女が食事を持ってくることもないだろう、と心の中でそう思っていたが今はそれに甘えるとしよう。
この100年で食事がどのようにかわったのだろうか。100年前の食事を思い出せない私だが、それを見たら何かを思い出すだろう。そんな希望を持ちながら「腹減ったぞ!」と抗議の音をあげる腹をさすりながら私は心待ちにしていた。