おあずけ
「お兄ちゃん…………いま……」
好きっていわれた……その意味はもちろん、妹としてではなく……。
突然の告白が信じられなくて、口を半開きにしたまま真っ赤になって固まっていると、影近がふいに立ち上がった。それによりハッとする。
「カゲチー大丈夫? 背中……」
「あぁ……いや、まだ痛いけど、まあ、自業自得だから……」
「その通りだ。心配なんかしなくていいよ、あや」
まだ、影近が私にキスしたことを根に持っているらしい兄は、影近を睨みつけている。そんな兄に向かって、影近は恐れ気もなく淡々といい返す。
「お兄さんが単純でよかったです。昨日の時点で、かなり追い詰めてる手ごたえがあったので、もう一押しかと思って、あやには悪いけど、キスでダメ押ししてみました。まあ、俺のファーストキスに免じて許してください」
「許せるかぁ!…………あやお願いだから、こいつにとどめを刺させて?」
「だ、だめ。っていうかカゲチー……ファーストキスをあんなあっさり……私、春奈に合わせる顔ないよー……」
影近の想い人はあくまで春奈なのに、大事なファーストキスを好きでもない子としてしまうとは。男の子は女の子ほど、ファーストキスへのこだわりはないということなのか。無表情の影近からは、どうもその辺が読み取れない。
というか、いやいや待て。影近が何気に今あっさりとニセップル作戦をほのめかせる発言をしたにもかかわらず、兄は気にした様子がない。これはどういうことなのか。
「あれ、お兄ちゃん? 今カゲチーがいったこと、気にならないの?」
「ん? あやがこいつと、恋人のフリしてたこと? それなら最初から気づいてるけど?」
「え。ええぇっ! そうなの?」
まさかバレていたとは。しかも最初からって……。
「あれ? じゃあ、なんでお兄ちゃん……」
「それは、またあとで、ね……それよりお前、さっさと帰れ」
私に対する柔らかな物言いとは打って変わって、影近のことを雑に追い出そうする兄を、軽くたしなめる。すると影近は、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「気にしなくていい。とにかく、うまくいってよかった」
「……あっ、うん……ありがとね」
「お礼なんかいわなくていいんだよ、あや……こいつ、とんでもねぇ」
影近の考えはいまいち理解できないけれど、あのキスも、私のためだけに取った行動であったのは間違いない。そういう意味で、素直に感謝の言葉が出た。
もう役目は終えたとばかりに帰ろうとする影近を、玄関まで見送りにいく。兄も私の後についてきて、玄関で靴を履く影近を待っていると、ふいに肩を抱き寄せてきた。
「お兄ちゃん? なに?」
「そんなに独占欲むき出しにしなくても、盗ったりしませんよ」
呆れたように影近がいうと兄は、どうだかといって、今度は私の髪を梳いてきた。
「カゲチーは好きな子いるよ? お兄ちゃんも前に会ったでしょ? 春奈っていう子」
「え。じゃあ何こいつ。好きな女がいるのに、あやにキスしたのか? ふざけやがって……」
「もういい、あや。何をいっても怒らせるだけだ。俺はたぶん、お兄さんのブラックリストに追加されただろうからな」
「わかってるじゃないか。あとお兄さんって呼ぶな? ムカつくから」
高校生相手に大人げない兄を尻目に、影近はドアを開ける。
「ばいばい、カゲチー。本当にありがとう」
「……夜道には気をつけろよ」
「意味深ですね。お兄さんが家から出ないように、見張っててくれよ、あや」
最後に兄とよくわからないやり取りをした後、影近は帰っていった。
キスされたことには、さすがにビックリしたし、このことは死んでも春奈にはいえない。墓場まで持っていく覚悟を決めなければならないだろう。
でもついに……長年アプローチし続けてきた清一と、こんなにあっさりうまくいくなんて……やっぱり影近には感謝しかなかった。
「おいで、あや」
「あっ、お兄ちゃん……」
私の手を握り、リビングのソファへと連れ戻した兄が、私の体をそのままソファへと押し倒す。
「えっ! な、なに……んむっ」
反射的に起き上がろうとすると、それを制するかのように兄の唇が、私の唇に押しつけられる。
これまでで一番深い口づけに、ガチガチに緊張してしまう。
「んっ……んうっ!?」
すると突然、ぬるりとした感触が口内に侵入してきた。
これはまさか……! と、考えに至ったとたん、兄の唇は離れていった。
「ははっ、ごめん。ビックリした……?」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、舌をペロッと出す兄のその表情が、どこか艶めかしく見え、私はカアッと顔へと熱が集まっていくのを感じた。
大人の余裕を見せられた気がして、なんだか悔しい。思わず頬を膨らますと、今度は膨らませた頬に軽くキスをされた。
「お兄ちゃんを騙した罰だよ」
「え、騙した?」
「あいつと付き合う云々っていうやつ」
「あ……うん。ごめんなさい」
理由はどうあれ、私が影近を巻き込んで、兄を騙したことには変わりはない。素直に謝る。
でも1つわからない。兄が私に気持ちを打ち明けたのは、兄が影近に妬いたからであるはずなのに、作戦に気づいていたならなぜ? 当然、その疑問は湧いた。
「関係ないよ。フリだろうがなんだろうが。あやが他の男に触れられるのなんて、許せない。他の男と話してるのを見てるだけでも、十分腹が立つのに」
「え……えぇー……お兄ちゃんって、もしかして、嫉妬深かったりする?」
普段の兄はスマートな大人のイメージだが、お酒に酔った時の兄が、本当の彼の姿だというのならば、本来は甘えん坊で、焼きもち焼きだったりするのかなとは思っていた。
酔った清一を思い浮かべながら訊いてみると、彼は驚くようなことをいい出した。
「なにいってるんだよ。あやはよく知ってるだろう。酒に酔ったフリをして、よくあやに迫ってたんだから」
「え、え? 酔った……フリ?」
「いや、フリっていうか、酔ってはいたけど、完全に無意識なわけじゃなかったんだよ。あやのこと抱きしめたり、キスしたりした時も……」
「え、え、えっ」
「あやが大人になるまでは、自分の気持ちは抑えようって決めてたけど、だからといって、まったく何もせずにあやのこと突き放してばかりいたら、あやの気持ちが他の男に移っちゃうかもしれないだろう? だから、あやの気持ちを繋ぎとめる意味も込めて、ね。もちろん俺があやに触れたかったっていうのが、一番の理由だけど」
長々と色々いわれても、頭が追いつかない。
清一はお酒に弱い。だからいつもお酒に酔った時に私に迫ってくるのは、酔った勢いだと思っていたけれど、キスをしてきたのは意識的なものだった? つまり、憶えている。酔った翌日には、いつも何食わぬ顔でいたというのに、本当は酔っていた時に、私に何をしたのかという記憶はあったということ。
それがわかると、気恥ずかしさや騙されていた怒りよりも、1人で一喜一憂していた自分がひどく滑稽に思えてきて、落ち込んだ。
「じゃあ……中2の時、お兄ちゃんが初めて私にキスした時のことも、憶えてる?」
「もちろん、憶えてるよ」
あっさり認める清一。私は2年前の夏に想いを馳せる。
「……私……あの時、すっごい嬉しかった。心臓壊れるんじゃないかっていうくらい、ドキドキして。今思うと恥ずかしいけど、これでお兄ちゃんと恋人同士になったんだって思って……でも次の日、お兄ちゃんはいつもと変わんなくて……"なんだ、私の勘違いだったのか"って思ったら、悲しくて……その日はずっと泣いてた……」
あの日の感情が今になって蘇ってくるようで、私はうっかり涙を零してしまう。
「っ!? ご、ごめん! あや、ごめん! ごめんね。いうべきじゃなかった。自分の気持ちを伝えたからって、何もかも話していい気になってた……泣かせてごめん」
今まで見たことがないくらい狼狽して、私をあやすように抱きすくめる兄に、私は首を横に振った。
「ちがう。違うよ、逆。ちゃんと話して。もう隠し事しないで。ちゃんと私のこと、対等に見てくれたら……それでいいから」
「あや……」
過去はどうでも、大切にしたいのは、これからの関係。
気持ちをそう切り替えると、涙はすぐに引いていき、まだ不安そうな顔で私の様子を窺う兄に、笑みが零れた。
「もう隠してることないよね? お兄ちゃん」
「え。もうないと思うけど…………あー……俺がすっごい嫉妬深いこととか?」
「え? それはさっき聞いたよ」
「違うんだよ。俺は、嫉妬深いなんてもんじゃないんだ。嫉妬深い以上の言葉を知らないから、そう表現するしかないだけであって、あやに触れる男、いや、あやの視界に入る男すべてを、殺してやりたくなる」
「え」
「さっき帰ったあいつのことも、昨日から1000回以上は脳内で刺し殺してるし、昨日見た夢ではあいつを機関銃でハチの巣にしてた」
それはちょっとテレビゲームのやりすぎでは……? と、私がいえた義理ではないが、思ってしまう。
そうか。まさか清一が、そこまで影近に妬いていたとは。影近には悪いけれど、私はちょっと嬉しくなってしまう。
「そっか。でも別にいいよ。私、焼きもち焼かれるの、なんか好きみたいだし」
「ほ、本当? じゃあ、もう2度とあいつと口利かないで」
「それは無理」
速攻拒否すると、兄はムッとしたように、私の体を抱き寄せてきた。
「……でも、もうあやは俺のだから」
「っ……!」
耳元近くでそう囁かれると、背筋がゾクリとした。
そして、再び唇を重ねようと、清一の顔が近づいてくる――が、私はそれを指で止めた。
「え、なに。なんで?」
今度は、清一が目を丸くする番だった。イチャつきたい気持ちは私も同じだけれど、まだその時ではない。
私は名残惜しく思いながらも、兄から距離をとってソファに座りなおす。
そして真っすぐ清一を見上げながら、きっぱりといい切った。
「私まだ、お兄ちゃんとは付き合えない」