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石ころ冒険者  作者: 亜蒼行
一年目
5/52

第四話「しのぶ・こい」




 ときは八月の中旬。世間的にはお盆の真っ直中だが、親とほぼ絶縁状態の巽には何の関係もない話である。巽はいつものようにメルクリア大陸にやってきて、マジックゲート社ヴェルゲラン支部の建物の前で高辻と落ち合っていた。


「よう、巽ちゃーん」


「こんにちは、高辻さん。それでこちらが……」


 高辻の背後に隠れるようにして立っているのは、小柄な一人の少女。背は低く、非常に華奢で、顔立ちも幼く中学生でも通りそう……と言うか、どう転んでも一八歳以上には到底見えない。髪型はおかっぱ風のショートで、身にしているのは一般的・伝統的な忍者装束、背負っているのも忍者刀だった。


「初めまして! 花園巽です!」


 目つきが悪く無愛想で、無駄に威圧感があることを自覚している巽は、今日は努めて愛想良く振る舞った。笑顔を絶やさない巽に対し、


「……」


 その少女と高辻は何故だか微妙そうな顔である。巽の笑顔の仮面はもう剥がれそうになっていた。


「何か言いたいことでも? 高辻さん」


「その笑顔は気持ち悪いとか、おっちゃんそんなこと思っていないよー? まあ詳しくは落ち着ける場所で話そうか」


 と高辻は二人を連れて移動を開始する。その道中、


「あ、あの……深草ふかくさしのぶです」


 小さな声で少女が自己紹介をする。巽は「そうか、よろしく」と笑顔を見せて……


(どこかで聞いたような?)


 と首をひねっていた。

 それから数分後、三人が到着したのは町中の喫茶店である。通りに面したテラスにいくつものテーブルが並び、三人はそのうちの一つに着席した。


「いらっしゃいませにゃー、ご注文はにゃー」


 と猫科の獣人のウェイトレスが注文を取りに来ている。


「人面果のフレッシュジュースを三つ」


 メニューを見る間もなく高辻が三人分の注文をする。何か言いたげな巽に対し、


「ま、ここはおっちゃんのおごりだから」


 と高辻は笑う。巽は一言、「ご馳走ゴチになります」と深々と頭を下げた。


「人面果のフレッシュジュース三つ、お待たせしましたにゃー」


 とほとんど待つ間もなくウェイトレスがそれを持ってきた。透明なグラスになみなみと注がれているのは鮮血のような真紅の液体で、グラスの縁には人面果が――その名の通り人の顔の形をした果物がくい込んでいる。人面果は断末魔のような形相で恨めしげに巽のことを凝視していた。


「美味いんだぜ、これ」


 と高辻がそれを口にする。巽もおそるおそる、毒を舐めるように飲んでみるが、炭酸みたいな刺激が強く味はほとんど判らなかった。

 一息ついたところで、


「……ええっと、それじゃ、まずはメダルを見せ合おうか」


「はい、そうですね」


 巽としのぶはまず互いの冒険者メダルを交換し合い、見せ合った。現時点の巽の情報は以下のようになる。


「花園巽/戦士/ランク外/三八一ポイント/一万一二三七位」


 これに対し、彼女のメダルは以下のように記載されていた。


「深草しのぶ/忍者/ランク外/五〇〇ポイント/一万一〇三三位」


 さらに見れば彼女は巽と同じく三月試験の合格者、つまりは巽の同期である。


「俺と同期でもうこんな順位に……俺だって頑張ってるのに……!」


 嫉妬と羨望が腹の底から湧き上がってくるが巽は歯を噛み締めてそれを塞き止め、再び腑へと落とし込んだ。しのぶに悟られないよう小さく深呼吸し、平静を装う。


「俺と同じソロなのにもうこんな順位に。すごいな」


 巽が表向きの顔で素直に賞賛し、しのぶは「いえ、そんな……」と身を縮めた。


「俺と同期なんだな。研修中はやっぱり高辻さんの指導を?」


 その問いにしのぶはちょっと困ったような顔をする。小さく首を傾げる巽に、


「あー、巽ちゃんや」


 高辻が苦笑しながらある事実を告げた。


「研修中、しのぶちゃんは巽ちゃんとずっと同じ班だったんだぜ?」


 巽は「はい?」と目を瞬かせた。少しの間しのぶの顔をじっと見つめ、次いで高辻に向き直る。


「いや、いなかったですよ?」


「いたんだな、これが」


 高辻が「うんうん」と頷き、巽は困惑を深めた。


「おっちゃんが巽ちゃんの研修を受け持ったとき、同じ班にいたのは巽ちゃんも含めて六人。他の五人の顔を思い出してみ?」


 高辻の言葉を受けて、巽は研修中のことを、同じ班にいた顔ぶれを想起した。


(まず男が二人、戦士とレンジャー。レンジャーの奴は俺のすぐ下をうろちょろしていて、戦士の奴は『ル・ガルーくらい一人で狩れなくてどうする』って大口叩いていてこの間廃業したはず……女が戦士とメイジで、戦士の方は男の戦士と仲が良かったけどまだ廃業してなかったかな。メイジの子は結構頑張っているようだけど――)


「あれ?」


 ある事実に気が付いた巽は脳内の記憶のファイルをひっくり返した。懸命にファイルのページを繰るが、どうしてもそれが出てこない。あるはずのものが見つからない。


「六人……確かに六人だった。君……君なのか? 本当に?」


 巽の問いにしのぶが小さく頷き、「ついでに言えば」と高辻が付け加えた。


「研修の一一日目と二一日目から指導員が交替して班も編制し直したじゃん? でもしのぶちゃんは一月ずっと巽ちゃんと一緒の班だったから」


 愕然とした巽は馬鹿みたいにぽかんと口を開き、そのまま固まった。


「……あの、ごめんなさい」


 としのぶが恐縮する。高辻が「別に謝ることじゃないじゃん?」と取り成し、巽もその間にようやく精神的に体勢を立て直した。


「むしろ俺の方が申し訳ない。いくら君が忍者だからって――」


 自分の言葉に触発され、巽はある可能性に気が付く。高辻は面白そうににやにやとした。


「もしかして」


「うん、多分その通り。これがこの子の固有スキル」


「シャドウ・マスターの固有スキルみたいですね」


 と巽は感心した。シャドウ・マスターは黄金クラスの一人で、その職業は忍者である。大阪支部に属する冒険者で、おそらく日本人男性。年齢・経歴・本名・素顔、その一切が非公開となっていた。


「『隠形絶影(Invisible shadow)』――おっちゃんは何回か直に見たことがあるけど、確かによく似ている。シャドウ・マスターがスキルを使ったら本当に姿が見えなくなって、突然モンスターが死んでいくんだ。モンスターは自分が何で、どうやって殺されたのか、死んだ後でも理解できなかっただろーね」


 おおー、と巽が感嘆する一方、しのぶはあらぬ誤解をされないよう説明しなければならなかった。


「あ、あの、わたしはただの石ころで、黄金クラスの人と比べられるのもおこがましくて、同じスキル名を使うなんて身の程知らずな真似はできないから、このスキルもただ単に『隠形』っていう風に……」


 巽は「なるほど」と理解を示す一方、高辻は「使っても文句は言わないだろうにねー」と意味深に笑った。


「ま、確かにしのぶちゃんはまだまだ駆け出しのひよっこで、固有スキルも使いこなせていない。と言うか、最初から使えたのは良かったけどそれを制御できずにいて、研修仲間にも認識してもらえなかったくらいだから」


 巽は「ああ」と腑に落ちた顔をした。


「そりゃそうか。いくら忍者でも普段から身を隠したりしないよな。しかも研修中なのに」


「わざとじゃなかったんです……」


 としのぶは恐縮することしきりだった。


「高辻さんはこの子のことを認識できたんですか?」


「そりゃそーよー? おっちゃんこれでも六千番台だったんだぜぇ?」


 高辻はちょっと心外そうな声を出した。


「今のこの子のスキルが通用するのは低レベルのモンスターと低順位の冒険者だけ。それにいくらスキルがすごくても攻撃力が足りないから狩りではかなり苦労をしているらしい。低順位の冒険者には姿が見えないからパーティに入れてもらえず、高順位からすればパーティに入れるほどのメリットがなく……」


「仕方がないからずっとソロでやっていたんですけど、最近ようやくスキルを制御できるようになったんです。それでその……」


 しのぶはそこで言葉を途切れさせた。何か言いたげにちらちらと視線を送ってくるしのぶに対し、巽はちょっと不思議そうな顔で続きを待っている。二人がそのまま沈黙し、高辻が苦笑しながら話を進めた。


「ま、しのぶちゃんほどのスキルがあれば入れてくれるパーティはあるだろうけど、この子も結構コミュ障だからねー。コミュ障仲間の巽ちゃんを紹介してあげたわけ」


「まあ、そういう子との方が上手くやっていけるかもしれません」


 人付き合いが苦手なのは事実なので巽は高辻に対して特に反発しなかった。


「君さえよければしばらくお試しってことで、明日から一緒に狩りに行ってみたいんだけど」


「はい、よろしくお願いします」


 しのぶが〇・一秒で返答して深々と頭を下げる。巽もまた「こちらこそ」と頭を下げ、二人は少しの間お辞儀合戦をした。

 ……話が終わって、三人が喫茶店を出たところで、


「ところで巽ちゃーん」


 高辻が巽の首に腕を回し、巽の顔を自分の顔のすぐそばまで引き寄せた。


「しのぶちゃんって可愛いだろ?」


 声を潜めて高辻が問い、巽が「ええ、まあ」と答える。


「巽ちゃんだって健康な男の子だ、可愛い女の子と親しくお付き合いしたい気持ちはあるだろうけど……」


「もちろんありますけど、今はそんなことを考える余裕はありません」


 きっぱりとした巽の返答に高辻は「巽ちゃんは真面目だねぇ」と首を振った。


「ま、そーゆーところを見込んで紹介したんだけどさ。……要するに『するな』と言いはしないけど、パーティメンバーとお付き合いするときは慎重に、ってこと。色恋沙汰で崩壊したパーティの話もまたありふれてるからねぇ」


「……確かにそうですね。今は順位を上げることを優先させないと」


 そんな内緒話を最後にし、パーティメンバー紹介はお開きとなる。巽は高辻と別れ、装備の更新・消耗品の補充のために青空市場へと向かった。……その何歩か後ろをしのぶが歩いている。


「……あの」


「は、はい!」


 立ち止まって巽が声をかけ、しのぶがびっくりしたような声を出した。


「君も青空市場に?」


「はい」


「それじゃ一緒に行こうか」


 何気なさを装い巽が誘い、しのぶは嬉しそうに「はい」と頷く。そして巽と並んで歩き出した。


「今年冒険者になったんだよな。年齢は?」


「一八歳です」


「じゃあ高校を卒業してすぐ?」


「はい」


「高校はどこ?」


「宮津の方の……」


 とにかく会話をしないと、という使命感により巽はしのぶに話しかけ、色々と訊ねる。しのぶの方にも会話をしたいという思いはあるようでちゃんと答えてくれるのだが、話が広がっていかない。巽の問いにしのぶが答える、客観的に見ればそれは会話と言うより尋問に近かった。

 そして青空市場に到着し、巽はある武器店へと直行する。


「ああお客さん、目当ての商品を用意していますよ!」


 メルクリアン商人は巽に営業スマイルを見せてその防具を取り出した。それは指先から肘までを覆う、鋼鉄のガントレットである。新品同様に磨き上げられたそれは太陽の光を受けて金色に輝いており、巽の瞳もまた同じように喜びに光っていた。


「ガントレット、買うんですか」


「ああ。これを手に入れるためにこの四ヶ月間爪に火を点すような冒険者生活を……」


 と巽は感慨にふけっている。その巽にメルクリアン商人は満面の笑みで現実を突きつけた。


「お値段頑張って勉強しました! 大まけにまけて、なんと九七メルク!」


「きゅ、きゅうじゅうなな……!」


 最初から判っていたことだが、その数字の大きさに巽は気が遠くなる思いをしている。巽は高速で何度も指を折って暗算した。


「九七メルクは今のレートで一〇六万七千円、ガントレット一組に一〇七万! 工場の時給が千円だから一〇六七時間、一月一六〇時間働くとして六・七ヶ月、年にすると半年以上……!!」


「いえあの……レベル七、八のモンスターを十何匹か狩ればそのくらいは」


 しのぶのもっともな突っ込みに巽も多少は冷静さを取り戻したようだった。巽は大きく深呼吸をし、


「確かに君の言う通りだ。それに装備を更新していかないと上を狙えない……!」


 それを買います――その一言を発するには幅が何メートルもある谷を跳躍するかのような決断が必要だった。巽はその準備のためにくり返し深呼吸をし、しのぶは、


「花園さん……!」


 手に汗を握ってその姿を見守っている。ただ、客観的に見ればそれは「初めてのおつかい」とそれを見守る母親のようであり、


「あのー、早くしてくれません?」


 メルクリアン商人もそう言わずにはいられなかった。

 ……結局、無事にそのガントレットを購入し、


「これで貯金はゼロ……金属鎧のローンも残っているのに」


 と巽の口からは乾いた笑いしか出てこない。


「パーティを組めたんですから、これからは稼ぐのももっと楽になりますよ」


 しのぶが懸命に慰め、巽も気を取り直したようだった。


「装備してみたらどうですか?」


「そうだな。それじゃ早速」


 巽は両手にそれを装着。おろし立てのガントレットは巽の両腕で金色に輝いた。


「ふっ、でもこれで防御力は大幅アップだ」


 と巽はようやく買い物の結果に納得する。しのぶが「格好良いです」と半分本気のお世辞を言い、巽も「そうか?」と満更でもない様子だ。ただ、しのぶの感想はひいきの引き倒しに近いものがあった。鎧の胴体部分は元々中古の上に傷も増えて大分くたびれてきたが、これを買い換えられるのはかなり先の話だろう。一番安いパーツであるガントレットだけ新品で、他の部分がくたびれた巽の姿は駆け出し冒険者を絵に描いたようであり、通りすがりのベテランが、


「ああ、俺にもあんな頃があったなぁ」


 と生温かく微笑ましげな視線を送ってくる。巽がそれに気付かなかったのは幸いだったと言えるかもしれない。

 巽の買い物を終え、今度はしのぶの番だった。しのぶはポーションの他、何本かの苦内を買い揃えている。それらは何の魔法効果も付与されておらず、鋭利ではあってもただの鉄の塊に過ぎなかった。


「それでも一本二メルクもするんですよね」


「高いよな、それは」


 しのぶのため息に巽は心から同意した。


「でもドワーフの鍛冶屋さんが一本一本手で作っていることを思えば仕方ないのかもしれません」


「地球側ならもっと安く買えるんだろうけどな」


「確かに少しは安いですけど、そこまで安くないです。こっちみたいに需要も使い道もありませんし」


 調べたの?という巽の問いに、


「メルクを円に換金して向こうで買ってこっちに持ってきて、ってやっぱり想像します」


「そーだよなー。それができればどんなにか……」


 と巽は嘆息する。地球側とこのメルクリア大陸との間で行き来できるのは「情報」だけであり、地球側の武器・機械等をこちら側に持ち込むことは不可能だった。

 それならこちら側で地球の武器、例えば銃器・火器を再現すればいい――という発想が当然出てくるが、あいにくそれにも制約があった。ドワーフの職人技術なら火縄銃程度は難なく再現できるし、時間さえあればより高い威力の銃器も作れるようになるだろう。だが彼等の世界では火器の製造・所持は極めて厳しく制限されていて、事実上不可能と同じだった。

 彼等の世界でも火器は独自に発明されていて、それはそれなり発達して戦争にも使われたことがある。二〇〇年前の大きな戦乱で火器が大規模に使用され、そのときの戦禍があまりに悲惨だったため、彼等は火器の製造所持を制限するようになったのだ。法律を整備し、また江戸時代の日本と同じように「銃器は卑怯者の使う野蛮な武器」という道徳を発達させ、二〇〇年を経て彼等の世界から火器は一掃されてしまっている。そんな禁制品を、異世界の冒険者が「作ってくれ」と頼んだところで、頷いてくれる職人がただの一人もいるはずかない。

 買い物を終えた二人は支部への帰路に就く。話すことがなくなってしまって巽が沈黙し、しのぶもまた何も言わない。何か話さないと、と思いながらも沈黙の時間が長くなるほどしゃべりにくくなってしまい、結局二人はただ黙々と歩き続けた。

 長い時間がかかったわけではないが、マジックゲート社ヴェルゲラン支部に到着するまでの道程は果てしないように思われた。ようやく支部に到着し、「それじゃ」としのぶと別れて一人になり、巽は露骨に安堵する。そして自分の棺桶が置いてある部屋へと向かい、棺桶に入って世界を転移し、元の地球の大阪支部に戻ってきて、


「あ、花園さん」


 棺桶部屋の前に佇むのはしのぶだった。今のしのぶは当然ながら忍者装束ではなく、夏らしく涼しげなワンピースだ。巽の身体が数瞬硬直する。


「ええっと、それじゃ行こうか」


「はい」


 どこか嬉しげに頷くしのぶに対し、巽は思わず顔を逸らしていた。

 マジックゲート社大阪支部の建物を出た二人はJR大阪駅へと向かって歩いていく。ここでもまた二人はほとんど黙ったままである。


(……何かしゃべらないと)


 と思いつつもしゃべることが何も思い浮かばない。結局全く会話がないまま十数分が過ぎ、二人は大阪駅のホームまでやってきた。


「それじゃ俺、こっちだから」


 と東海道線のホームを指差す。


「はい、おつかれさまです。また明日」


「うん、明日はよろしく」


 巽はしのぶと挨拶を交わし、エスカレーターに乗ってホームへと向かう。ふと後ろを見るとしのぶはその場に佇んでいて、巽の視線に気が付くと手を振り出した。巽も軽く手を挙げてそれに応え、そうしているうちに巽はホームまで運ばれていく。ようやくしのぶの姿が見えなくなって、


「はあ」


 と巽は疲れたようなため息をつく。それほど待つことなく普通電車がやってきて巽はそれに乗車。電車に揺られること約三〇分、巽は自宅の最寄り駅に到着した。

 駐輪場から自転車をひっぱり出し、それに乗ったところで、


「あれ?」


 今、その物陰に慌てて隠れたのがしのぶのように思えたのだが……


「こんなところにいるわけないか」


 巽は深く考えることなく自宅のアパートに向かって自転車を漕いでいった。











 そして翌日、メルクリア大陸のヴェルゲラン支部。朝の早い時間に巽はそこへとやってきた。しのぶとの待ち合わせまではまだ大分時間がある。だが、


「あ、花園さん。おはようございます」


 しのぶはもうその場所で巽のことを待っていた。しかも忍者装束が昨日とは一変している。昨日までは伝統的・スタンダードなそれだったのだが、今日身にしているのは太腿や二の腕の肌を外に出したものだった。もっとも、太腿や二の腕は鎖帷子で防護しているし、膝から下・肘から先はブーツやグローブで覆っている。


「ど……どうしたの、それ」


「ちょ、ちょっとおしゃれしようと思って……変ですか?」


「変じゃないけど……」


 メルクリア大陸にあって、しのぶの格好くらいは変のうちに入らなかった。そもそも肌の露出度合いは元の世界でも夏なら普通に見かける程度だし、もっと奇抜・奇天烈な格好の者、肌を露出させた冒険者はいくらでもいる。だがやはり、赤の他人がいくら露出過多な格好をしていようと、それよりも身近な少女のちょっとした肌の方にどきどきするのが男というものだった。

 照れた巽にあてられたのか、しのぶは今さらのように恥ずかしそうにした。いかにも忍者らしく九字護身法の印を両手で結び――途端にしのぶの姿が見えなくなる。巽は思わず周囲を見回し、しのぶの姿を探した。


(わたしはここです)


 どこからともなくしのぶの声がするが、姿は見当たらない。


(それじゃ狩り場に行きましょう)


「え? このまま?」


(はい)


 しのぶの意志を変えるのはどうやら無理のようで、肩を落とした巽は一人(主観的には)、転移の魔法陣へと向かった。

 ……それからしばらく後。中継地点をいくつか挟み、巽はとある開拓地へとやってきている。そのベースキャンプを出、しばらく歩き、巽はモンスターの出没する森の中へと足を踏み入れた。そこは低順位冒険者向けの狩り場として推奨されている場所である。


「とりあえず奥に進んでみようか」


「そうですね」


 ここまで来ればしのぶもスキルを解除して姿を現している。だが前を歩くのは巽で、しのぶはその少し後ろを付いていった。


「さて。この近くには謎の古代遺跡があって、アンデッド系のモンスターが多く出るって話だけど」


 そんな話をしている先から何体ものゾンビ兵が姿を現す。二人は手早くゾンビ兵を始末していった。


「花園さんが使っているの、不思議な剣ですね」


 今日の巽が使っているのはツヴァイヘンダー。例によってレンタルサービスを利用したものである。


「この間これを使ってる冒険者と一緒に狩りをしたんだけど、攻撃力があって取り回しも悪くなさそうだったから」


 そう言いながら巽はツヴァイヘンダーを振り回し、何体ものゾンビ兵をまとめてなぎ払った。一方しのぶが使っているのはごく一般的な忍者刀だ。しのぶはそれでゾンビ兵の首を一刀両断している。


「攻撃力が足りないって話だけど、さすがにゾンビ兵程度にてこずることはないか」


「最初はやっぱり怖かったですけど」


 ゾンビ兵の掃討が終わり、二人は探索を再開した。その道中、


「花園さん覚えていますか? 研修のときにゾンビ兵と戦ったときのことを」


「ああ、うん」


 と返答する巽はちょっと首を傾げた。


「でも何か変わったことあったっけ」


 初見のゾンビ兵は非常に気持ち悪く恐ろしかったが、所詮レベル二、三の低レベルモンスター。研修中のひよっこでもパーティで戦えば苦戦する相手ではなかったし、実際特に問題なく掃討したはずである。


「別に大したことじゃないかもしれませんが……あのときはわたしもゾンビ兵と戦っていて。一人で」


 巽は想像を巡らせる、そのときのしのぶのことを――同行しているパーティメンバーには全く認識されず、空気そのものとして扱われ、もちろん会話もなく、ただ一人後ろから皆に付いていくだけ。皆から外れたところで一人でモンスターと戦って、危機に陥っても誰も助けてくれず、怪我をしても誰も心配してくれず……


「あー……ごめん」


 非常に居たたまれない気持ちとなった巽が思わず謝ってしまう。しのぶは「どうして謝るんですか?」と微笑みを見せた。


「あのとき花園さんはわたしを助けてくれたのに」


 巽は「え?」と後ろを振り返ってしまった。


「わたしは隅っこの方で集団からはぐれたゾンビ兵を相手していて、一体倒して油断したところに後ろから不意打ちで襲われたんです。普通のモンスターならまだ冷静に逃げられたのかもしれないですけど、ゾンビ兵だったから……」


「うん、それはよく判る」


 と巽は深々と頷いた。ゾンビ兵はその名の通り動く屍体、腐った屍体のモンスターだ。それに後ろから突然襲われれば誰だって狼狽するだろう。


「多分そのゾンビ兵は最初はわたしが見えていなかったんだと思います。歩いていた先に偶然わたしがいて抱きつく形になって……わたしは腐った屍体にいきなり抱きつかれてもうパニックになってしまって、その拍子にスキルも効力を失ってしまって、わたしを認識したゾンビ兵がわたしを殺そうとして。怖くて身体が動かなくて、もう少しで殺されるところだったんですけど、そのゾンビ兵を斬り払ったのが花園さんだったんです」


「たまたま俺が近くにいて、たまたまそのゾンビ兵を始末しただけだろ」


「その後花園さん、わたしに『大丈夫か?』って声をかけてくれましたよ?」


 巽は少しの間自分の記憶を検索した。


「……覚えていないけど、乱戦だったからそんなこともあったかもしれない」


「あったんです」


 としのぶは力強く断言した。


「ゾンビ兵だけじゃないです。ジドラに掴まれたときも、ナーヴャツィに噛まれそうになったときも、オード・ゴギーが上から降ってきたときも、花園さんが助けてくれました」


 しのぶの声には感謝と好意が溢れていたが、巽にとっては全く身に覚えのない話であり、戸惑うばかりである。


「……まあ、一緒に研修を受けていたんだから仲間だろ。仲間なんだから助け合うのは当然、お互い様ってことで」


 しのぶが「え?」と疑問を顔に浮かべ、巽が笑って言う。


「今の話聞いていて思い出した。後ろから飛んできたナーヴャツィがいきなり足下に落ちたことがあったけど、あれ君だろ?」


 しのぶが驚きに眼を丸くする。巽は自分が正鵠を射たことを理解した。


「二匹のゴブリンを同時に相手していて、一匹がいきなり死んだこともあった。オウド・ゴギーに噛まれたときに誰かに治療薬を手渡されて、それが誰だったのか結局判らなかった。あれも君だろ?」


 しのぶは巽の言葉を否定しない。それは肯定と同義だった。


「礼を言いたいって思っていたんだ。助けてくれてありがとう」


「わたしも、わたしだって……ありがとうございます。わたしを助けてくれて。わたしを見つけてくれて」


 しのぶは眩しいものを見るかのように瞳を潤ませ、だがまっすぐに巽を見つめる。巽はその視線から逃れるように顔を逸らした。それでもしのぶはじっと――ひたすらじいいぃぃっっと巽を見つめている。


(ど、どうしよう……)


 何かおかしな空気が流れている。しのぶが何かを期待するように巽のことを見つめている。巽の言葉を、巽の行動を待っている。だが巽には何をどうすればいいのか見当が付かなかった。何を言えばいいのか、どうすればこの空気を変えられるのか、懸命に自分の知識と経験を検索するがその答えは一向に出てこない。


(……いっそモンスターでも出てきてくれれば)


 巽の短絡的なその願いは何者かによって聞き届けられた。二人の前方の茂みががさごそと音を立てる。すわモンスターか、と巽は喜び勇んでツヴァイヘンダーを構えた。しのぶもまた(少し残念そうな顔をしつつも)忍者刀を構えて敵に備える。そして茂みの中からモンスターが姿を現し、


「……こいつまさか」


「ブラックドッグ……?」


 体長は一メートルを優に超え、その重量は百キログラムを軽く超えるだろう。全身は漆黒で、その目は燃えるように赤い。イギリスに言い伝わる魔犬であり、シャーロック・ホームズシリーズの「バスカヴィル家の犬」に登場する犬もブラックドッグが元になっているとされている。


「どうしてこんなところに……」


 と唇を噛み締めるしのぶ。ブラックドッグは二人を獲物と狙い定めたようだった。身を低くし、小さく唸り声を出している。


「ブラックドッグはレベル一〇、わたし達ではまだ危険です」


「ソロでならな。二人がかりなら何とかなる」


 怯む巽だがそれも一瞬のことだ。ツヴァイヘンダーを構え直した巽は如何にしてこのモンスターに勝つか、その身体を破壊して魔核を回収するか、それだけに思考を振り向けた。巽に逃げる気がないことを理解し、しのぶもまた忍者刀を構え直してその横に並ぶ。そもそもここまで接近された以上逃げるのも戦うのも危険の度合いはそれほど変わらなかった。


「『隠形』を使います。多分通用するはずです」


「判った、牽制を頼む」


 しのぶが小さく頷き――その気配が消えていく。その姿が見えなくなる。気が付けばしのぶの存在は完全に消失していた。その隠形の見事さに巽は感嘆し、ブラックドッグも戸惑ったような唸りを出している。

 巽は先手必勝とばかりにツヴァイヘンダーを大きく振りかぶり、ブラックドッグの頭部めがけて力任せに振り下ろした。モンスターは横にスキップしてそれを躱し、大地の一蹴りで巽の懐へと飛び込んでくる。巽は咄嗟に左腕を突き出し、ブラックドッグはそれに食いついた。


「間抜けな奴――!」


 もし先週に同じ状態に陥ったなら巽の左腕は食いちぎられて、この時点でもう戦闘不能となっていただろう。だが今週の巽は安物のグローブではなく、ガントレットを装備していた。鋼鉄のそれはブラックドッグの牙すらものともせず、むしろ噛みついた方がダメージを受けているくらいだ。ブラックドッグは苛立たしげに吠えている。

 巽が右拳をブラックドッグの頭部に叩き付け、刃ほどに鋭く尖らせた鋼鉄の拳はモンスターの皮を裂いた。血を散らしながらブラックドッグは後退する。少し距離を置き、巽とブラックドッグが対峙した。


「いける……! 勝てない相手じゃない!」


 巽は高揚に血を沸き立たせた。装備をグレードアップさせたことで巽の防御力・攻撃力は増し、レベル一〇のモンスターとも対等に戦えるようになった。たかだか頑丈なガントレット一つでこれなのだから、もっと装備を充実させたならどれだけ強くなれるのだろう。魔法剣、魔法付与の鎧が手に入れば、パーティにメイジを入れて補助魔法で支援してもらえば――


「青銅クラスはそうやってレベル三桁のモンスターを狩ってるんだ。あいつ等だって超人じゃない、俺と何も変わらない!」


 今の巽にとってブラックドッグは狩れて当然の、割のいい獲物にしか見えなかった。巽が無造作にブラックドッグに接近し、モンスターもまた巽に向かって疾走する。巽のツヴァイヘンダーがブラックドッグを斬り裂こうとし、その牙が巽の肉に食らい付こうとし、互いに空を切った。両者はめまぐるしく立ち位置を変えていて、しのぶは攻撃のチャンスを掴めずにいる。

 自分はブラックドッグと対等に戦っている、巽はそう思い込んでいただろう。だが少し離れて戦況を俯瞰しているしのぶの目には、巽の危うさは明白だった。――巽は調子に乗っている。自分達はまだまだひよっこで、相手はレベル一〇のモンスターなのに。

 同じような攻防がくり返される中で、巽が「掴んだっ」と呟く。ブラックドッグは一定のリズムで動いている。俺が剣を振り下ろして、奴がそれを左に避けて、俺の左側に回り込んで、喉元めがけて飛び込んできて――


「なっ?!」


 だがそのとき、ブラックドッグは巽の予測通りには動かなかった。それが地を這うように身を伏せて疾走し、巽の足に牙を突き立てんとする。ブラックドッグが巽の腰から下を狙ったのはこれが初めてだ。十数回の攻防を伏線とし、ブラックドッグは巽の裏をかいたのだ。


「くそっ!」


 それでも巽は咄嗟に最善を選択する。モンスターの鼻先にブーツの底を叩き付け、それは悲鳴と怒りの声を同時に上げた。そして巽はブラックドッグに足をすくわれた格好となり、そのまま尻餅をついてしまう。鼻先を蹴られたそれは後退するがすぐに体勢を立て直し、烈風のように飛び込んでくる。座り込んだ体勢の巽に迎撃の手段は何もない。


「くっ……!」


 できることは、ツヴァイヘンダーを握り締めて全身を硬直させることくらいだ。そして、


「きゃあっ!」


「深草!」


 しのぶの悲鳴が上がり、血が舞った。巽を守ろうとしたしのぶがブラックドッグの前に立ちはだかり、それと正面衝突したのだ。それはしのぶのことを認識していなかったらしく、意図して攻撃されたわけではない。だがモンスターの強靭な前足で殴られ、鋭い爪が身体に食い込み、鎖帷子は引き裂かれた。右腕からかなりの血が流れ、しのぶは痛みに顔をしかめている。

 一方のブラックドッグは完全に怒り狂っていた。モンスターの右目には苦内が突き刺さっていて、それはしのぶの置き土産だった。ブラックドッグがしのぶに狙いを定め、しのぶは怯えた顔を見せた。だがそのしのぶを庇うように巽が立ちはだかる。ブラックドッグの唸りがさらなる殺意に満ちた。


「花園さん……」


「済まなかった、頭が冷えた」


 巽は持っている治療薬全てをポーチごとしのぶに投げ渡す。それを受け取ったしのぶは治療に専念した。

 ブラックドッグに作戦負けし、危機に陥り、しのぶに助けられ、しのぶを身代わりに負傷させ、巽の自信は完全に潰されていた。いや、それはただの過信だったのだろう。自分は冒険者歴四ヶ月の、国内順位一万一千番台の、同期の中でも特別優秀ではない、ただの石ころなのだから。


「石ころは石ころらしく、知恵と勇気をしぼらなきゃな」


 巽はにやりと笑うとツヴァイヘンダーを大きく振りかぶり――それを後ろへと投げ捨てた。しのぶが目を丸くし、ブラックドッグも訝るような唸りを上げている。


「さあ、来な!」


 とボクサーのように構える巽。ブラックドッグは警戒しているが怒りはそれを上回ったようだった。大地を蹴って矢のように駆けてくるモンスター、巽は両拳を振るってそれを迎撃した。

 右拳が鼻先に突き出され、ブラックドッグは反射的にそれに噛みつく。巽は左拳をそれの頭部に叩き付け、それは後退して拳打を避けた。ブラックドッグが後方から巽の喉元を狙うが、巽の裏拳がそれを迎える。ガントレットが獣の毛を切って散らした。

 ブラックドッグは戦況を冷静に検討しているかのようだった。長物を捨てた巽は素早さを増したようだが、それだけだった。ガントレットはちょっとばかり厄介だが自分を殺すほどの攻撃力はない。何を考えているのか知らないが、何かをする前に噛み殺してしまえばいい――そのように判断したのだろう。

 ブラックドッグは身を低くし、全身の力を後ろ足に溜めた。巽も敵の決意を感じ取って警戒する。ブラックドッグは全力で大地を蹴り、爆発的な瞬発力を生み出した。弾丸のような速度で一直線にそれが飛び込んでくる。巽が伸び上がり、高々と手を掲げて――


「Gyruu……」


 モンスターの頭部が真っ二つとなる。捨てたはずの長物を何故持っているのか――そんな疑問を抱きながら、ブラックドッグは意識を失い、やがて骸となった。

 ツヴァイヘンダーによりブラックドッグの魔核を回収し、力を使い果たした巽はその場に座り込んだ。その隣にはスキルの効果を解いたしのぶが立っている。


「すごいです花園さん、レベル一〇のモンスターを倒すなんて」


「いや、君のおかげだよ。判ってくれるかちょっと心配だったけど……」


「判りますよ、そのくらい」


 としのぶは笑顔を見せた。

 巽のツヴァイヘンダーを回収したしのぶは固有スキル「隠形」を使ってブラックドッグから身を隠し、タイミングを計ってそれを巽に手渡したのだ。しのぶのスキルは手に持っている限りは武器にも効果が及ぶ。もし最後の瞬間を客観的に見ている人物がいたなら、その者には何もない虚空からいきなりツヴァイヘンダーが現れて巽がそれを掴んだように見えただろう。


「怪我は大丈夫か?」


「ええ、傷はもう塞がっています」


 そうか、と巽は安堵のため息をつく。


「ああ、本当疲れた。大物も狩れたことだし、今日はもう引き上げようか」


 そうですね、としのぶも頷き、二人は意気揚々とベースキャンプへの、ヴェルゲラン支部への帰路に就いた。










 マジックゲート社ヴェルゲラン支部に戻ってきた巽は支部付属の病院でしのぶの傷を治療させた。携行の治療薬はあくまで応急処置、怪我を完治させるにはメイジの治癒魔法が必要だからだ。


「大した怪我じゃありませんし、治療薬で治したのに」


 としのぶはかなり強く固辞するが巽はそれ以上に強硬であり、結局しのぶも根負けした。なお治療にかかった費用は一〇メルクちょうどである。


「ブラックドッグの分がまるまる飛んでいっちゃいましたけど」


 としのぶは苦笑いするが、巽は特に気落ちしていなかった。


「討伐実績が消えるわけじゃないし、別に構わないさ」


「でも……」


「金よりも君の身体に傷を残さない方が大事だろ」


 巽の断言にしのぶが沈黙する。顔を赤らめたしのぶに巽が慌てたように、


「ゾンビ兵も狩って赤字にはならなかったし、来週また二人で頑張らないといけないし、傷を残して動きが悪くなったら問題だろう。そういうことで、うん」


 早口の巽に対し、しのぶは柔らかに微笑んだ。


「……そうですね。来週頑張って取り返しましょう」


 その後、巽としのぶはメルクリア大陸から日本の大阪へと戻ってくる。マジックゲート社大阪支部を後にした二人はJR大阪駅へと向かいのんびり歩いていった。


「暑いな今日も」


「ええ、本当に」


 既に日没寸前の時刻だが、場所が大阪梅田という都会のど真ん中でヒートアイランドの真っ直中ということもあり、まとわりつくような不快な暑さが二人を包んでいる。


「あー、汗が気持ち悪いー、シャワー浴びたいー」


「花園さんの部屋ってクーラーつけないんですか?」


「そんなお金ないしなー。生活だけで精一杯」


「まあ、あの辺山がすぐそばだから夜になれば涼しいですよね」


 巽達は貨物梅田駅の地下道を歩いていく。地上よりも多少は空気が涼しく、二人は人心地ついていた。


「ああ、腹減った。晩飯どうしよー」


「昨日買っていたかぼちゃはもう全部食べちゃったんですか?」


「ああ、そうか、それが残っていたな。手っ取り早く味噌の照り焼きにするか……」


 そんな会話をしているうちに巽達はJR大阪駅に到着する。


「それじゃ、お疲れさま」


「はい、お疲れさまです」


 巽はエスカレーターに乗って東海道本線のホームへと上がっていく。しのぶはそれを下から見送り、ふと振り返った巽が手を挙げるとしのぶは微笑みながら手を振り返した。

 そして巽がホームまで運ばれて姿を消し――しのぶは素早く行動を開始した。少し先まで進んで階段を駆け上がり、東海道本線のホームにやってくる。帰宅で一番混雑する時間帯であり、巽の姿は確認できなかった。だが乗り込む電車は判る。しのぶは一番早く来た京都行きの普通電車に乗り込んだ。

 ……約三〇分頃。自宅の最寄り駅に到着した巽が改札を抜けて歩いていく。その巽を、距離を置いてしのぶが尾行していることに巽は全く気付いていない。巽は普段通りに駐輪場に駐めていた自転車を引っぱり出し、自転車を走らせた。しのぶもまた自分の自転車を駐輪場に置いていて、それに乗り込んでいる。

 帰宅途中にいつものようにスーパーに立ち寄り、半額シールの貼られた総菜の唐揚げを手に取ってしばらく悩み、無念そうにそれを元に戻し、なくなりかけていたシャンプーを補充し、レジを通過して――その一挙手一投足を物陰からしのぶが見守っている。巽はこれっぽっちも気付いていない。

 古アパートの一室に帰宅した巽はまず部屋中の窓を開け放って空気を入れ換え、その間にシャワーを浴びた。手早く汗と汚れを流した巽は窓際にトランクス一枚で仁王立ちとなり、全身に涼しい風を受けながらコップの麦茶を飲み干している。

 一方、そこから百メートルほど離れた場所にある寂れた神社。その片隅の物置、その裏。そこにはしのぶが陣取っていて、大型の双眼鏡を使って巽の部屋を覗き込んでいた。高倍率の双眼鏡には巽の良く鍛えられた肉体が、筋肉が、まるで手を伸ばせば触れられそうなくらいはっきりと見えている。


「ああ……巽さん」


 しのぶはささやくように巽の名を呼んでいる。とろけるようなその声は、幸せそうなその笑みは、恋する乙女以外の何物でもなかった。




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