第三話「賢者の贈り物」
今日も今日とて、巽はメルクリア大陸でモンスター討伐中だった。場所はナマジラ地方の第二〇七開拓地。ちょっとしたゴブリンの群れが湧いて出たという話を聞き、手堅く稼ぎに来たのである。
ゴブリンの目撃情報がある場所はもう何組ものパーティが索敵していたので、その場所は外して適当に森の中をうろつく。道中に何匹かの低レベルモンスターを狩ることができたが他に収穫はなく、そろそろ帰ろうかと思っていたとき。
「――見つけた!」
巽は茂みの向こうに一匹のゴブリンの姿を見出した。ゴブリンの方も巽に気付いたようで、慌てて逃げ出す。巽はそれを全力で追った。中途半端な高さの灌木が生い茂り、巽の行く手を邪魔している。ゴブリンはそれを潜り抜けてかなり先を進んでいた。
「ええい、くそ!」
巽は長剣を鉈のように振るって灌木を切り払う。茂みの中に獣道を発見、少しは走るのが楽になりそうだった。
「よし、これで――」
そう思った途端、巽の身体が地面に沈んだ。腹を大地に打ち付けて目を白黒させる。
「な?! これは」
穴だ。巽の爪先から胸までがすっぽりと収まる深さの穴が地面に空いている。そこに身体が填り込んでいる。
「まさか、落とし穴?!」
戦慄が巽の脊椎を駆け抜けた。ただ地面に穴が空いていただけならそこに巽が填るはずもない。穴は人為的に隠されていて……要するに罠だった。気配を感じて顔を上げると、そこには一匹のゴブリンが佇んでいる。
「――っ!」
巽は胸まで穴に填ったまま長剣を構えた。顔を汚す泥を汗が流していく。ゴブリンは一匹だけで……巽を見つめたまま動こうとしない。巽の顔にやがて怪訝な思いが浮かんできた。
それほど長い時間ではなかった。やがてそのゴブリンは巽に背を向け、その場から立ち去っていく。
『……』
巽は穴の中からその背中を見送った。巽の目はこぼれんばかりに大きく開いている。ゴブリンは去り際に声を発していた。普通のゴブリンが発する耳障りな啼き声ではない。
『イノチビロイヲ・シタナ』
聞き取りにくくはあっても、それは確かに人間の言葉だった。穴から這い出た巽は長い時間その場に立ち尽くしていた。
花園巽・一八歳は冒険者歴四ヶ月の駆け出し冒険者である。
「はあ……」
布団に寝転がった巽はスマートフォンから視線を外し、物憂げなため息をついていた。接続先は冒険者SNSで、今画面に表示させているのは今週更新された、冒険者としての巽のデータである。
「花園巽/戦士/ランク外/三四七ポイント/一万一三三九位」
国内順位一万一三三九位……微妙と言うか、芳しくない数字だった。冒険者順位は獲得ポイント順位と同義であり、ポイントは討伐実績により加算される。レベル一のモンスターを一匹狩れば一ポイント。その一年分の累計が表示されたものである。
例えば今回のデータは七月三一日に更新されたものだが、集計されているのは去年の七月三一日から今年の七月三〇日までの討伐実績だ。次回の更新日は八月七日で、集計されるのは去年の八月七日から今年の八月六日までの討伐実績となる。要するに冒険者順位とは、直近一年でどれだけモンスターを狩ったか、どれだけ魔核を回収してメルク金貨を稼いだかを順位付けしたものなのだ。
「四月から冒険者になったんだから、去年から稼いでいる人達に届かないのはしょうがない。今競うべきは同期の連中だ」
巽は三月試験に合格して高校卒業と同時に冒険者となったが、同じ月に冒険者となった人間は約二〇〇人。その後五月試験と七月試験でそれぞれ二〇〇人が合格となっている。七月試験の合格者は今日ようやく研修が始まったところで、狩り場に出てくるのはこれからの話だろう。
巽はSNSアプリのオプションを使い、国内順位一覧から同期だけを抽出して確認する。三月試験の同期一九七人のうち、既に廃業したのが一三人。残り一八四人だけで見るなら巽の順位は七九位となった。
一八四人中七九位――真ん中よりもやや上程度で、お世辞にも優秀と言える数字ではない。さらに言えば先週よりも同期内順位が下がっている。
「少しでも順位が上がったなら気休めにもなっただろうけど……」
ほんの一つでも二つでも順位が上がれば「自分は前進しているのだ」と肯定的に考えることもできただろうが、この順位ではそれもできない。認めたくない現実を否応もなく突き付けられている――自分が石ころの、さらにその中でも最底辺であるという現実を。
「冒険者になった以上は青銅なんて通過点。いずれは白銀、いつかは黄金――そう思っていたのに」
石ころで終わるために冒険者をやっている者など皆無だろう。冒険者になる前は、なった当初は誰だって巽と同じことを考えているはずだ。そして何ヶ月か冒険者を続けてみて、大多数が巽と同じことを理解するのである。
「……俺、才能がないのか?」
五月試験の合格者で既に順位で巽を追い抜いている者は一乗寺姉妹だけではなく、アプリで確認すれば何人もの名前を見出すことができる。「才能がある冒険者」とは彼等のような人間のことを言うのだろう。そして巽は彼等に踏み台にされる、有象無象でしかなかった。
「順位とクラスは無関係、とは言うけれど……」
青銅クラスに上がるには「レベル三桁のモンスターを普通に狩れる」、それだけの実力があることをマジックゲート社に認めさせればいい。順位が一位だろうと一万位だろうと、クラス認定自体には無関係である。
だがそれだけの実力を身につけるにはくり返し狩りをして経験を積まなければならず、一万メルクを超える高価な装備を手に入れなければならず、そのためにはモンスターを狩って狩って狩りまくって金を稼ぐしかなく……そうしていれば結局順位は順当に上がっていくのだ。一二〇〇位、それが青銅クラスに到達する国内順位の目安である。今の巽にとってそれは月よりも遠い、決して手の届かない遙か彼方だった。
「……あいつ廃業したのか」
同期メンバーのうち廃業者の一覧を開示し、巽はそこに見覚えのある名前を見出した。四月に一緒に高辻の研修を受けていた、態度の悪かった連中の一人である。まあ当然そうなるよな、と巽は彼等を軽侮しようとする。が、頭を強く振ってその考えを打ち消した。
「他人は他人、自分は自分だろ。あの連中が冒険者失格だったからって俺が今よりマシになるわけじゃない」
早々に冒険者という職業に見切りを付けた彼はむしろ賢明なのかもしれなかった。八月か、と巽の思考はある方向へと流される。
「……今から受験勉強を頑張れば一浪でそこそこの大学に進学するのも不可能じゃないかも。でも学費は」
起き上がった巽はチラシの裏に様々な数字をボールペンで書き殴った。
「文系私大の四年分の学費が大体四〇〇万円。今の俺の獲得ポイントが三四七ポイントってことは三四七メルク稼いだってことで、でも鎧のローンとかグローブ代とかポーションとかで同じだけ出ていって、貯金はあるけどローンの残りと相殺すれば実質マイナス。仮にゼロから始めるとして、理想的に行って一月一〇〇メルク貯金できるとして今から四ヶ月……一二月かよ。稼いだメルクを全部学費にするなら生活費はアルバイトでまかなう必要があって、今まで通りアルバイトをしながら受験勉強……無理だな。せめて一〇月から身体を空けるとして、一月に二〇〇メルク稼げるなら一〇月までに四〇〇メルク。一〇〇万円もあれば余裕で春まで暮らせるから、その分も加算して一〇月までに五〇〇メルク……一月に二五〇メルク。一月四週として一回の狩りで六〇メルク。一〇メルクのモンスターなら六匹、五メルクなら一二匹……そのくらいなら何とかならないか?」
冒険者SNSに接続してレベル五前後の、狙い目のモンスターを検索しようとしたところで巽はようやく自分の思考が迷走していることに気が付いた。獲らぬ狸の皮算用もいいところ――いや、獲らぬモンスターの魔核算用か。
「いやいや、それだけ稼げるなら廃業する必要はないだろ。狩りで学費を稼ごうなんてやっぱり無理がある。……母さんに頭を下げるか?」
母親は巽が冒険者となることに猛反対をしていた。頭さえ下げたなら喜んで大学進学の支援をしてくれるかも――
「だあーっっ! 冗談じゃねー!」
気弱になった自分を叱りつけるように巽は大声を上げる。強く握り締めたスマートフォンが掌の中で軋んだ。
「あれだけ大喧嘩をしてほとんど絶縁までして、やっとの思いで冒険者になったのに……今さら頭を下げるなんて死んでもゴメンだ。俺は冒険者なんだ、冒険者を続けていくんだ。順位だってこれから上げられる」
奮起した巽はまず高辻宛てのメッセージを入力した。
「メンバーを募集しているパーティがあったら紹介してください……と。よし、送信」
ソロで続けるのではなくパーティに入ることができれば順位も上がるはず、と巽は考えている。メイジの支援が得られればそれに越したことはないし、それがなくても、低順位でも力を合わせればレベル二桁のモンスターを狩れるようにもなるだろう。
「とにかく今のままじゃダメだ。狩りをして、実績を上げて、金を貯めて装備を調えていかないと」
巽はさらにパーティをサポートするサービスに接続、メンバーを募集しているパーティを見て回った。だが低順位の戦士を受け入れてくれるパーティなど滅多なことでは見つからない。巽は一旦そこから離れ、気分転換に雑談掲示板に移動した。布団に寝転がりながら、いくつかのスレッドタイトルを見て回る。
「【石ころにも】月収二〇万の壁【格差はある】」
「【戦士過剰】転職のすすめ【メイジ稀少】」
「【パンの耳は】冒険者やめたい……【もう嫌だお】」
「【いっそPK】パーティメンバーを追い出したい【してやろうか】」
「【アルジュナとも】丸一〇年迎えたけどなんか質問ある?【知り合いだぜ?】」
手から滑り落ちたスマートフォンが顔に当たり、巽は痛い思いをした。
「な、何してるんですか高辻さん……」
そのスレッドを覗いてみるとスレッド主はやはり高辻だった。そもそもこれらの掲示板を、このSNSを運営しているのはマジックゲート社であり、「責任をもって発言する」という趣旨により匿名性は完全に排除されている。その発言が誰のものかはほんの一回のタップで調べられることだった。そして「パーティメンバーを追い出したい」というスレッドではスレ主のパーティメンバーが全員揃い、泥沼の罵り合いが展開されている。
「パーティを組めば組んだでそれなりの苦労があるんだな……」
巽は何だか遠い目となってしまった。その後も何となくスクロールを続ける中で、あるスレッドタイトルが巽の目を引く。
「しゃべるモンスターの目撃情報スレ」
そう言えば、と巽は今日の狩りのことを思い出していた。巽はそのスレッドを覗いてみる。書き込みの少ない、かなりの過疎となったスレッドだ。
『スカルラッティの第二二一開拓地の先で見かけたジャージー・デビルがしゃべっていた。狩ろうとして逆に殺されそうになった』
等と、各地のいくつかの目撃情報が記載されていて、それを疑うような記述はほとんどない。どうやらしゃべるモンスターはかなり珍しいようだが絶無ではなく、冒険者にもそのように認識されているようだった。
『ヴェルゲランの先、ナマジラ地方の第二〇七開拓地近くの狩り場で、しゃべるゴブリンを見かけた。落とし穴に落とされたけど、こいつ一匹だけだったので向こうが逃げていった』
と巽は書き込みをする。それはそのスレッドにおける何ヶ月かぶりの書き込みだった。
……それから何日か後、町工場でのアルバイトの休憩中。スマートフォンをいじっていた巽はSNSに自分宛のメッセージが届いていることに気が付いた。すわ高辻さんか、と勇んでタップするが、表示されたのは全く知らない名前である。
「室町千夜子……? 誰だよ」
と巽は首を傾げながらメッセージを開封した。
『初めまして、掲示板の書き込みを見ました。あなたが見たしゃべるゴブリンについて、もっと詳しく教えてください』
そして翌週の狩りの日、巽の横には室町千夜子という女性がいた。先週に引き続き第二〇七開拓地へとやってきた巽は、彼女と一緒にしゃべるゴブリンを探して森の中を進んでいるところである。
室町千夜子という女性は二〇歳過ぎ、女性としては背が高い。巽と同じ戦士職で防具はかなりの重装、背負っているのは自分の身長ほどもある大剣だ。メダルを見せてもらったが彼女の現在の順位は九五一三位と、巽よりも大分高かった。
「この辺?」
「いえ、先週ゴブリンがいたのはもう少し先でした。一週間も経っているのにまだそこにいるとは思えませんが……」
「とりあえずそこまで行って、そこを起点に捜索範囲を広げてみようか」
巽は「はい」と頷く。二人は移動を続けた。
「悪いね今日は。変なことに付き合わせちゃって」
「いえ、構いません。こうして普段通りに狩りもできることですし」
巽は低レベルモンスターを狩りながらそんな会話をする。順位の高い千夜子がフォローをしてくれたためか、巽も危なげなくモンスターを倒すことができた。
「それにしても、随分面白いことしてるのね」
と千夜子は巽の戦い方を見て感心する。巽は今日はグラディウスという二本の短剣を手にしていて、二刀流で戦っていたのだ。
「その、尊敬している冒険者が小太刀二刀流の人で、ちょっと真似してみようかと」
マジックゲート社のこちら側の支部では研修中の新人冒険者向けに武器や装備のレンタルといったサービスも実施している。巽は自分の戦い方を未だ確立させておらず、そのサービスを利用して試行錯誤をくり返していた。
「室町さんの使っている武器も変わってますよね」
「ああ。これ、ツヴァイヘンダーって言って、昔本当に使われていた武器」
二人の前に吸血コウモリの群れが襲来するが、千夜子はツヴァイヘンダーを縦横に振るってモンスターを次々と瞬殺する。ツヴァイヘンダーの刀身の根本には皮が巻かれていて、千夜子はそこを握ってその大剣を振り回していた。形は剣だが使い方は槍や矛に近く、長さや重さの割に取り回しは悪くない。巽は狩りをするのも忘れ、千夜子の戦いぶりに見惚れていた。
吸血コウモリの群れはあっと言う間に掃討され、二人は探索を再開する。
「それで、しゃべるゴブリンを探している理由ですけど……」
「ああ、詳しくは会ってから話すって言ってたわね」
と千夜子はちょっと困ったような顔をする。しゃべりたくないわけではなく、どう説明するべきか迷っているような様子だった。
「わたしは大阪の大学に行ってるんだけど、元々冒険者なんかになる気はなかったのよ。でもそこで知り合ったあいつに誘われて一緒に試験を受けて、たまたま二人とも合格して、あいつとペアを組んで狩りを続けて……」
「恋人だったわけですか? その人と」
巽の確認に「まあ、いつの間にかね」と千夜子は笑う。
「それでその人は……」
ある予感を抱きながら巽が問い、千夜子は表情を消して、
「死んだわ。モンスターに殺された」
と端的に答えた。巽は「そうなんですか」と陳腐な反応しかできないが、冒険者という身の上ではごくありふれた話だった。
「わたしは見ての通りの前衛で、あいつはメイジで後衛。わたし達は良いコンビで、このままずっとやっていけると思っていた。青銅にだっていずれは手が届くと……でも、そう思っていたのはわたしだけだったみたい」
千夜子はそう言って自嘲した。
「この一〇年、学会では『異世界研究』っていうのが爆発的に流行っているけど、あいつも大学でそれを研究するつもりだった。冒険者になったのも研究の一環で、わたしは強引にそれに誘われた。その上、わたしは女なのに前衛でモンスターとの戦いで矢面に立って、あいつは後衛――どうなるか判る?」
「……立場が対等じゃないって言うか、その人は室町さんに対して負い目ができるんじゃ」
考えつつ返答する巽の回答に千夜子は「その通り!」と二重丸を与えた。
「負い目があるからあいつはわたしのことを優先していて、最初は遠慮していたわたしも次第にそれが当然と思うようになっていって……パーティで狩りをしたときに回収した魔核の配分をどうするか、大抵のパーティは一度はそれで揉めているってよく言うわよね」
「はい。俺が一度組んだ相手とは後衛も含めて全員均等に配分しました」
「それが一番一般的で、一番揉めないやり方よね」
と千夜子が頷き、
「でもわたしはそうしなかった」
と昏い目を伏せた。
「わたしが回収した魔核はわたしのもの。前衛のわたしが魔核のほとんどを回収をするのが当然で、あいつには稀にほんのおこぼれがあるばかり。最初のうちはわたしも『半分回す』って言ってたんだけどあいつが『いいよいいよ』って遠慮して、そのうちわたしもそれを言わなくなって……」
千夜子は深くため息をつく。
「前衛ってお金かかるでしょ?」
その嘆息に巽は心からの同意を示した。
「怪我をすれば治療薬、毒を受ければ毒消し。装備だってこんな中古のよれよれの鎧が自動車が買えるような値段で、簡単に破損するこんな安物のグローブも半月分のアルバイト代が吹っ飛ぶような値段で」
巽の愚痴に千夜子も「うんうん」と頷く。
「もちろんメイジだって魔法を使うのに触媒が必要だけど、そういう消耗品を買う場合はパーティの財布から出すのが普通じゃない? でも前衛の装備はわたし達の個人負担が当たり前」
「戦士職は損ですよね」
少しの間、二人は互いの境遇を相哀れむように頷き合った。
「文字通りモンスターの矢面に立って危険な目に遭うのはわたしなんだからわたしの装備を優先するのは当然で合理的で、それがあいつの安全にもつながる……わたし達の選択は間違っていたわけじゃないと思う。ただ、何事にも程度とか限度とかがあるわけよね」
巽は「はあ」と相槌を打って続きを促した。
「回収した魔核はわたしが独占して、わたしばかりが装備を更新して、あいつを置き去りにしてわたしだけがどんどん順位を上げていって、メルク金貨を円に換金してもそれすらわたしが独占して、些細であってもわたしばかりが『自分へのご褒美』をあげて……いくらあいつがお人好しでもそりゃ切れるわ。わたしだってそうなる」
よくある話だな、と巽は思う。冒険者SNSの雑談掲示板に行けばこんな話はいくらでも見聞きすることができ、何時間でも読み続けることができる。だが他の冒険者との付き合いがほとんどない巽にとって、現実にこのような話を耳にするのはこれが初めてだった。
「もちろんわたしだって何も考えてなかったわけじゃない。『そろそろあいつにもレベルアップしてもらわなきゃ』って思っていて」
これ見て、と千夜子が取り出したのはメイジの杖だった。指揮棒程度の大きさでかなり小振りではある。だが総ミスリル銀製で、相当に高性能で相応に高価格――どんなに安くとも数百メルクはするものと思われた。
「青空市場であいつがほしがっていたからさ。本当に本当にほしがっていて、でもあいつの貯金じゃ到底手が届かないから、わたしがこっそり買って、プレゼントするつもりだったんだ。びっくりさせてやろうと思って」
喜んでくれるだろうって思って――そう笑う千夜子の顔は幸せな恋をする乙女のそれで……それが暗転する。
「『魔核の配分を変えてほしい』、あいつがそう言い出したのは、わたしにとっては突然だった。でもあいつはずっと不満を抱えていて、ずっと考えた上でのことだったんだろう。『あの杖を手に入れるのにこのままじゃ何年かかるか判らない』って言って……」
千夜子は沈黙した。少し待って巽は「それで、室町さんは何と?」と問う。
「『ちょっと待って』。
『考えさせて』。
わたしは咄嗟にそれを拒絶してしまった。
『わたしがあれをプレゼントするつもりだったのに』
『わたしの思いやりを無駄にするつもりなのか』
……そんなことを思ってしまって、つい」
項垂れた千夜子は重苦しいため息をついた。
「本当にわたしは……どこまでも、どうしようもないくらいに愚かだった」
「でも……その言い方なら完全に拒否したわけでは」
と巽は何とかフォローしようとし、千夜子は「そうね」と頷いた。
「でも、あいつにとっては完全否定と同じだったんだろう。そう思われても仕方のないことをずっとわたしははやってきたんだから。わたしは馬鹿で、あいつの気持ちや立場を全く理解しなかった……しようとすらしなかったんだから」
「それで、その人と揉めて」
「うん。
『僕の支援がなければこれほどモンスターを狩れたはずがないのに、魔核を独占するのはおかしい』
そこまではいいんだけど、そんなのお互い納得してやってきたはずなのに、ってこっちにだって言いたいことはある。不満があるなら普段からちゃんと言えばいいのに何も言わずにぎりぎりまで溜め込んで、まとめて爆発させてそんなヒステリーを起こさなくても、って。で、売り言葉に買い言葉でお互いどんどんエスカレートして……言っちゃいけない言葉もぶつけ合った。正直もう、これで終わりだと思ったよ」
終わらなかったんですか?という巽の問いに、千夜子は直接答えなかった。
「散々揉めた、その次の狩りに、わたしは一人で行くことになるだろうって思っていた。でもあいつはいつもの待ち合わせの場所にやってきて、いつものように二人で狩りに出た。会話はほとんどなかったけど『これからも二人でやっていけるんだ』って思っていた。でも……」
不意に千夜子はある方向を指差した。
「ここからそんなに離れていない。ガイトラッシュを狩った帰り道にわたし達は偶然ゴブリンの群れに遭遇して、行きがけの駄賃のつもりでその群れを掃討することにした。でもあいつは……ガイトラッシュのときはちゃんと支援してくれたのに、支援をしてくれなかったんだ。
『僕はただ見ているだけなんだろう? 実際にそうさせてもらうよ』
『君は君だけの力でモンスターを狩っているんだろう? 実際にそうしてみればいい』
そう言ってあいつは嗤って……本当に高みの見物をしているだけだった」
千夜子の口から歯の軋む音が聞こえた。
「支援魔法がなかったからちょっとだけ手間取ったけど、それでもゴブリンごときにわたしがやられるわけがない。わたしは何とか群れを掃討して、でも討ち漏らした何匹かがあいつに向かっていって。普段なら全力であいつのところに戻るのに、そのときは足が動かなかった。
『わたしがいなくても自分の身くらい自分で守れるんでしょ? やってみたらいいじゃん』
――口にはしなかったけどそのときはそう思っていて。あいつは二匹までは危なげなく倒したけど気を抜いたところに隠れていた三匹目に後ろから襲われて……」
千夜子はそのまま沈黙する。巽も何も言えず、静寂は思いがけないくらい長く続いた。
「……しゃべるゴブリンを探しているのは、仇討ちってことですか? そのゴブリンが恋人を殺したから」
「仇討ちと言うか、けじめと言うか……結局仇討ちかな?」
と千夜子はちょっと笑った。
「そのゴブリンが憎いわけじゃない。憎むとしたらわたし自身の愚かしさで、それにも憎しみすら湧かなくてただ呆れるばかりなんだけど……でもやっぱりけじめは必要だから」
「その人を殺したゴブリンがしゃべっていたわけですか」
その問いに千夜子は「いえ」と首を横に振り、巽は戸惑いを見せた。
「え、それならどうして」
「確証は何もない。ただ場所が近いから可能性があるって思ってるだけ。――あいつがこの世界で色々と調べていて、聞いた話なんだけど……」
千夜子は少しの間、説明するべき順序を整理しているようだった。
「知っての通り、この世界はゲームじゃない。『経験値』なんて便利なシステムはどこにもない」
巽は当惑を隠して「はい」と頷く。
「野球の選手は試合に出場すればその回数に応じただけ自動的にレベルアップする――わけじゃない。考えて、身体を動かして、試合の経験を全力で消化して血肉にして、それでようやく野球が上手くなっていく。それはこちらの世界でも同じことで、ただ漫然と狩りをしているだけじゃ、何百回狩りをしようと何十年冒険者を続けようと、決して石ころからは抜け出せない。考えて、身体を動かして、経験を骨身に刻み込んで、ようやくレベルアップする。少しずつ順位を上げていくことができる――ここまではいいわね」
「はい」
「でもこの世界には地球にはない、『経験値』に近いものが存在する。冒険者は殺したモンスターから魔核を奪っているだけじゃない。モンスターから『何か』を奪って、それを糧にし、自分の力にして強くなっていく。その何かをあいつは『カルマ』って呼んでいて……この呼び方も概念もこっちの世界からの輸入品らしいんだけど」
少しの時間をかけて、巽は千夜子の説明を腑に落としていった。
「……判る気がします。冒険者の上位と下位の差はただの経験や才能、装備の差ってだけじゃ到底説明がつかない」
「うん。ただ、同じだけ狩りをしていても誰もが同じだけカルマを得られるわけじゃない。カルマの獲得にもそれぞれ得手不得手があって、才能の差があって、結局それが上位と下位の差になっていくんだろうね」
巽は内心で落ち込んだ。とにかくモンスターを狩ればレベルアップする、と希望が見えたところに、結局そこにも才能が必要ということなのだから。
「そしてモンスターも冒険者と同じようにカルマを獲得する能力があると考えられる。もちろん冒険者と同じように個体によって才能の差はあるだろうけど。冒険者殺しに成功したモンスターは急激にレベルを上昇させて飛び抜けた存在となる――奴もいる」
「ゴブリンにそういうのが多いって聞きます。ゴブリンは大抵レベル一以下なのに、中にはレベル一〇に達する個体がいたりするって」
「まさしくそういう奴が冒険者殺しに成功した個体なのよ」
なるほど、と巽は得心した。
「まあでも、レベル一〇でもゴブリンは所詮ゴブリン。ちょっと順位の高い冒険者にはもう敵わないわよね」
「で、そのゴブリンは冒険者に退治されて、魔核とカルマを奪われて。冒険者はそれに応じて順位を上げて」
「その冒険者ももっとレベルの高いモンスターに殺されて、そのモンスターはレベルを上げて」
「そのモンスターも結局青銅に殺されて、青銅だってモンスターに殺されることもあって……何と言うか」
と巽は慨嘆した。
「『血を吐きながら続ける、悲しいマラソン』?」
千夜子が先制して述べた喩えに巽は「そうそう」と頷いた。
「冒険者が強くなってもモンスターだって同じだけ強くなっていく。際限がないじゃないですか」
「でもモンスターが強くなればそれだけレベルの高い魔核が回収できる。冒険者は儲かるわよ?」
「それ以上にメルクリアンが、でしょ」
巽は吐き捨てるように言った。
「メルクリアン、あの連中……最初から俺達をモンスターの餌にするつもりで」
「あるいはそうなのかもしれない。でも」
と千夜子は巽を突き放すように告げた。
「それが嫌なら冒険者を辞めればいい」
沈黙する巽に千夜子が続ける。
「わたし達は誰に強制されたわけでもなく自分の意志で冒険者をやっている。モンスターに殺されて、カルマを奪われてその糧になる……そういうこともあり得ると百も承知で。たとえそうなったとしても全ては自己責任、誰を恨む筋合いもない。死ぬのが嫌ならいつでも冒険者を辞めればいい――違うかな?」
その問いに巽は「いえ」と首を振った。
「確かにその通りです」
「マジックゲート社が全世界でたった七箇所しか転移門を設置していない、メルクリアンが自由で平和で豊かな国にしか転移門の設置を認めていないのはそういうことなんでしょ、きっと」
現在、転移門が設置されているのはイギリスに一箇所、日本・ドイツ・フランスに各二箇所、合計四ヶ国七箇所だけである。アメリカでも転移門を誘致する動きが度々起こっているが国内の宗教右派の反対が根強く、未だ実現していなかった。
少しの間、沈黙が二人の間を流れていき「……それで」と巽が話を戻す。
「冒険者殺しに成功したモンスターはその冒険者のカルマを奪っていく。もしかしてしゃべるモンスターって」
「ええ。カルマを獲得して上がったレベルは様々な形で発現する。力、魔法、それに知能・知識」
「そうか、そりゃそうだよな。しゃべるにはそれだけの知能が必要ってことか」
突然、二人の足下から地面がなくなる。二人は脳内を真っ白にしたまま、地の底へと落下していった。
自由落下したのはほんの一、二メートルだった。そこから下は急斜面、というよりは若干斜めになった岩肌に身体をこすりながらの転落である。だがそのため落下速度はかなり殺され、数メートル下の地面に激突しても大怪我だけはしなかった。
「ああ……くそ」
巽はふらふらしながらも何とか自力で立ち上がる。荒い岩肌に全身をこすり、まるで大根おろしにかけられたようだったが、それも金属鎧のおかげで致命的なダメージはない。千夜子もまた巽に手を引かれ、何とか二本の足で立ち上がった。
「大丈夫ですか」
「身体中が痛いけど、何とか」
千夜子は痛みに顔をしかめながら剣を抜く。巽もまたそれに続いた。地の底の暗闇で爛々と何かが光っている。無数のそれが巽と千夜子を見つめている。岩肌を背にした二人は何十対もの禍々しい光に半包囲されていた。それらの光は一つ残らず殺意を、嘲りを、欲望を湛えている。二人を生きたまま喰らって、この飢餓を満たしたい――無数の光が雄弁にそう物語っている。
「ゴブリン……」
千夜子が忌々しげに呟いたように、二人を包囲しているのはゴブリンの群れだ。その数は二〇を超え、三〇にもなるだろう。
「どうやら探す手間が省けたようですね」
「ええ、全く」
ゴブリンの知能はかなり高いと言うが、それでも落とし穴を掘ったなどという話は聞いたことがない。群れを統率しているのは冒険者殺しに成功した個体だとしか、そうして高い知能を獲得した個体だとしか考えられなかった。天然の洞窟を利用して落とし穴を作り、間抜けな冒険者が引っかかるのを待っていたのだろう。
ゴブリンの群れは二人を包囲したまま動こうとしなかった。群れを成そうと所詮ゴブリンはゴブリン、この程度なら巽一人で掃討することも不可能ではないだろう……ゴブリンの方もまるでそれが判っているかのようである。
風を切り裂いて何かが飛び、巽の横を駆け抜けて壁に激突し砕け散った。
「な……」
巽は言葉をなくした。それはただの石だ。その辺に転がっている石ころをゴブリンが投げつけたものだった――スリングを使って。
「冗談じゃないぞ……!」
と巽は焦る。群れの奥の方で、何匹かのゴブリンが革製の粗末なスリングを振り回している。遠心力を付け、充分に加速された石が投擲され、二人のすぐそばに着弾した。幸い命中率は良くないようだが、その速度と威力は洒落にならなかった。かなりの大きさの石が、野球の投手が投げるくらいの速度で飛んでくるのだ。もし頭部に命中すれば大怪我は必至、運が悪ければ即死である。
「わたしが前に出る。被弾覚悟で群れの中に突っ込むから」
順位に大きな差があり、防具も千夜子の方がより重装だ。巽もその判断を是とした。
「続いて!」
千夜子は頭上で両腕を交差して頭部を守りながら突貫する。巽がその後に続いた。投擲された石飛礫が千夜子の腕に、胴体に命中する。だが少し足が遅くなるだけで千夜子の足は止まらない。見る間に群れが接近し、怯えて狼狽えるゴブリンの顔も見えるようになった。
「よし、このまま!」
このままいける、そう思っていた、まさにそのとき。
『――マタ・ボクヲ・ウラギル・ツモリ・ナノカ、チヤコ』
金属同士をこすり合わせたような、聞き取り難い声。人間のものではない、その声。だが話している言葉は人間のそれだった。千夜子にとって最も親しかった男の言葉――
「け、研二……」
いつの間にか千夜子の足は止まっていた。目の前にいるのは一匹のゴブリンで――嘲笑に口を歪めたそのゴブリンは、弓に矢を番えた。
「――!」
咄嗟に腕を交差して頭部を守る千夜子、その手首に矢が突き刺さった。運悪く矢は関節部の、装甲の薄い箇所を貫いたらしい。唇を噛み締める千夜子の身体が崩れ落ちた。
「室町さん!」
千夜子に駆け寄ろうとする巽だがその足下に毒矢が突き刺さり、思わず急停止。さらに飛来する石の弾丸を巽は剣を振るってなぎ払う。そうやって足を止めている巽をゴブリンの群れが包囲した。その中心にいるのは、弓を構えたゴブリン――群れの長であり、千夜子の恋人を殺してそのカルマを、その知能を奪ったモンスターである。
『オロカナ・オンナダ』
そのゴブリンはそう言って嗤っていた。千夜子の身体を足蹴にし、嘲笑っていた。
『ゴウヨクデ・オロカナ・オンナダ。ナカマヲ・ミステタ・コノオンナニ・フサワシイ・マツロダ』
「てめえが何も言わなかっただけだろうが!」
巽が突然吠え、そのゴブリンは不快げに眉を寄せた(ように見えた)。
「確かに室町さんにも落ち度はあっただろうけど、てめえはどうなんだよ! 言うべきことをずっと何も言わずにいて、抱え込んでいて、室町さんにどうしてほしかったんだよ!」
『タニンガ・ナニヲ……』
忌々しげに歯を軋ませるそのゴブリン。そのゴブリンは今にも巽の胸へと毒矢を放たんとし――その足下に何かが転がった。銀色に輝くそれは、総ミスリル銀製の杖だ。
『ナ……』
ゴブリンの身体が硬直した。まるで何者かに操られるかのようにゴブリンは弓を投げ出し、その杖を手に取る。愛おしげにその杖を撫でるゴブリン、その前に何者かの影。
思い出したように顔を上げるそのゴブリンの前に屹立していたのは、千夜子だった。巨大なツヴァイヘンダーを高々と掲げた千夜子は、
『――』
「……さよなら」
その一言だけを添えて、満身の力と体重を込めて剣を振り下ろす。ゴブリンの身体は粉々に砕け散った。
群れの長を殺されたゴブリンは逃げにかかるが、地底の洞窟の中では逃げることも容易ではなく、巽達にゴブリンを見逃す理由もない。多少時間はかかったが巽達は三〇匹ほどのゴブリンを一匹残らず始末することができた。
「室町さん、身体は大丈夫なんですか?」
「ええ。倒れているときに隠れながら毒消しは飲んだから」
そう言いながら、千夜子は潰れたゴブリンの手からミスリルの杖を取り返す。そのゴブリンを見下ろす千夜子の横顔からは、どのような想いも読み取ることはできなかった。
「……その、室町さん。このゴブリンは」
「ええ、判っているつもり。このゴブリンはただの壊れたレコーダー。あいつがここに、この中にいたわけじゃない」
千夜子はそのゴブリンから背を向け、二度と振り返ることはなかった。
……その後二人はゴブリンが梯子代わりにしていたと見られる丸太を見つけ、それを足場に落とし穴を登って地上へと戻ってくる。ヴェルゲラン支部へと戻り、元の日本の大阪へと戻り――
室町千夜子が廃業届を提出したのはその日のうちのことだった。
『巽ちゃん、入れてくれるパーティ探してるって言ってたじゃん?』
その週の週末、巽の下に高辻からのメッセージが届いた。
『巽ちゃんと同じくソロでやってる子がいて、その子なら紹介できるけどどう? 悪い子じゃないよー、とっても可愛い女の子だぜぇ?』
室町千夜子とその恋人の顛末は巽の記憶にまだ鮮明であり、巽はちょっと躊躇った。だがそれも長い時間ではない。
『一度会ってみたいと思います。よろしくお願いします』
と高辻に返信。何秒も数える間もなく、
『回収した魔核はパーティ全体で均等分配、これを承諾してもらえるかまず確認してください』
と追加送信する。その後何度かやりとりがあり、巽はパートナー候補を紹介してもらえる段取りとなった。
「よし」
と巽は拳を握り締める。そうして巽は前へと進んでいく。どんなに小さくとも、一歩一歩前へと。