第二五話「教えてドッペル先生」
調子が出なかったり年度末で休みが潰れたりでかなり間が空きましたが、ようやく更新再開です。
日本には現在、一万二千人の冒険者がいる。
冒険者は青銅・白銀・黄金の三クラスにランク分けされている。青銅クラスは一一〇〇人程度、白銀クラスは一〇〇人程度。黄金クラスは日本には四人、全世界で一二人しか存在していない。
三クラスに入る冒険者は全体の一割。残りの九割はランク外の、「石ころ」と呼ばれる冒険者だ。冒険者歴一年(実質一年と九ヶ月)、国内順位四二四二位――花園巽は正念場の三年目を間もなく迎える、石ころ冒険者である。
場所はマジックゲート社大阪支部、ときは三月下旬。メルクリアでのギガントアント発見を発端とする大事件が一応の解決を見た直後。ビル内の一角のパーティションで区切られた応接室の一つには現在、五人の人間が集まっていた。
「それにしてもたった一人でギガントアントの巣を潰して、女王蟻だけでなくレベル二千のヴァンパイアまで倒してしまうなんて」
「身体は大丈夫なんですか?」
呆れたようにそう言う美咲と、心配そうな声のしのぶ。巽は笑顔で力こぶを作って見せた。
「滅茶苦茶疲れたけどそれだけだし、一晩寝たらもうこの通りだ」
巽は「俺のことより」と真顔になり、
「しのぶ達の方がよっぽど大変だっただろう。白銀を手玉に取るようなヴァンパイアに狙われるなんて」
「もう駄目かと思ったけど、黄金が三人も助けに来てくれたからね。これで助からなきゃそれこそ嘘でしょ」
ゆかりがそう言って朗らかに笑い、巽も「確かに」と頷く。
「まー、鉄仮面が雑魚相手に無双している間に巽ちゃんがそのエルミオニってヴァンパイアの魔核を破壊。ヴァンパイアはメルクリアの露と消えたわけだ」
話をそうまとめたのは最後の一人の、高辻鉄郎だった。
「大手柄だね、巽ちゃん。特別報奨金も用意しているよぉ?」
にやりと笑う高辻に対し、巽は当惑の表情を見せた。
「いえ、でも俺の実力で倒したわけじゃなくてただの偶然でしょう? 報奨金をもらうほどのことはしていないですし、このヴァンパイアの魔核だって黄金の人に返さなきゃ」
「あのね巽ちゃん」
高辻は人差し指を突きつけて巽の口をふさいだ。
「石ころが倒したモンスターの魔核を横から取り上げるような連中だと、『黄金のアルジュナ』やシャドウ・マスターや鉄仮面のことを思っているわけ? そっちの方がよっほど失礼だよ?」
「いやまさか、そんなつもりは」
「おっちゃんはあの三人を怒らせるのはゴメンだからねー。その魔核は巽ちゃんのもんだし、特別報奨金だってちゃんと受け取ってもらうよぉ?」
それでもなお躊躇いを見せる巽に対し、
「運も実力のうちと言います。受け取ってもいいのではないですか?」
「巽さんがいなければあのヴァンパイアが生き残って、面倒なことになっていたかもしれません」
「巽君はメルクリアを救ったんだから、胸を張るべきなんじゃない?」
美咲としのぶとゆかりが口を揃え、巽もようやく決意ができたようだった。
「……判りました。それじゃありがたく受け取らせていただきます」
高辻がのし袋に入った特別報奨金支払書を手渡し、巽がそれを受け取る。しのぶ達三人が拍手をして祝った。
「でも巽ちゃん、昨日一日で随分もうけたんじゃない?」
「この魔核も合わせれば五千メルクを越えますね」
その金額に一同が「おー」と感嘆する。
「ローンの返済は終わっているんですよね。これでようやく念願の魔法剣を買えますね、今度はキャッシュで」
「そうだな。今度は絶対に折れない剣を買うことにする」
巽はそう言って拳を握り締めた。
「ま、どんなに高額の魔法剣だろうと『絶対に折れない』はあり得ないけどねー」
と高辻は笑う。
「魔法剣の他に何かほしいものはないわけ?」
「ほしいものと言うか……前々から考えていることなんですが。誰か指導してくれる人はいないかな、と」
巽の要望に高辻は「ほう」と頷いた。
「俺が青銅になるために、冒険者として成長するために、固有スキルをもっと上手く使えるようになるために――一人で手探りでやるにはちょっと効率が悪いもんで、誰かが指導してくれればって前々から思っていたんです」
判ります、と大きく頷くのはしのぶである。
「確かに自分だけじゃどうにもできなかった壁も指導してくれる人がいれば乗り越えられるかもしれません」
「剣術ならわたしが指導できますが巽先輩が望んでいるのはそれではないのでしょう?」
「俺に足りないのが剣の技術なら美咲に教わるけどな。何が不足していて何を鍛えたらいいか、それも含めて教えてくれる人がいれば……」
一同は「うーん」と唸って腕を組んだ。
「巽ちゃんの固有スキルは特殊だからねー。指導できる人がいるかどうか」
「ヤーガおばさんとか、ドッペル先生とか?」
「ヤーガおばさん」は黄金クラスの一人を指導したと言われる、高名な白銀クラスの冒険者だ。ロンドン本部に所属する最古参の冒険者の一人であり、
「あの人なら一応知り合いだけど、話をしてみようか?」
高辻の提案に巽は「とんでもない」と大きく首を振った。
「黄金を指導した人に石ころの指導をしてくれ、なんて言えません。少し気に留めておいてもらえればそれで構いませんから」
その日の会話はそれで終わり、巽はそんな会話を交わしたこともその日のうちに忘れてしまっていた。一方の高辻は、
「……ってことなんだけど、はっちゃんは巽ちゃんの師匠になれるような人に心当たりはない?」
『難しいですね。忍者なら私が指導できなくはないですが、彼のような特殊な戦士の指導は、私では』
そーかー、と高辻は嘆息する。その夜、高辻は東山迅八氏に電話をして巽の指導の件で相談しているところだった。
『ヤーガおばさんは顔見知りなのでしょう? あの人に指導を依頼しないのですか?』
「うーん、あの人が巽ちゃんに興味を持ってくれるかどうか判らないからねー。はっちゃんはドッペル先生とのコネはない?」
『私も噂に聞く以上のことは知りませんよ』
「そーかー。正体はかなり強力なモンスターだって話だからもしかしたら、って思ったんだけど」
「ドッペル先生」はこれまで何度か目撃例が報告されている、謎のモンスターの通称である。狩り場に出現したそれは相対した冒険者の瓜二つの姿となって襲いかかってくる。戦法や固有スキルすらも完全にコピーした、完璧な「もう一人の自分」――その正体は未だ不明だがそんなことができるモンスターはドッペルゲンガー以外に考えられない。
これまで襲撃されたのは青銅の上位や白銀の下位といった実力者ばかりだが、撃退するのがせいぜいでありこれを殺すには至っていない。多くの場合冒険者の方が手玉に取られてひどい目に遭うのだが、これに殺された者もまた皆無である。むしろ自分自身と戦うことで自分の問題や欠点を目の当たりにし、この敗北をきっかけにさらなる成長を遂げる冒険者の方が多かった。そしてこの話を聞いた冒険者達は「自分の前にも現れてくれれば」という願望を込めてこのモンスターのことを「ドッペル先生」と呼ぶようになったのだ。
『白銀の下位ですら倒せないのですからそのレベルは少なくとも先日のヴァンパイアと同程度。あれと同じく魔王の幹部であっても不思議はないですね』
「でも『ドッペル先生』に殺された冒険者は一人もいないって話だけど?」
『ええ、どうやらそれは人間に悪意を持っていないらしい。正直言って理解に苦しみます……ですが』
「ですが?」
高辻の問いに東山氏は答えなかった。
『いえ、何でもありません。彼の指導のことは私も気にかけておきます』
東山氏が別れの挨拶をし、電話はそこで切れた。高辻と東山氏がそんな会話をしていた事実を巽が知る由もなく、
「そう言えば、しのぶと別パーティになってからは彼の様子は見ていなかったか」
東山氏がそんな呟きを漏らしたことを、巽だけでなく高辻もまた知らないままだった。
何日か経て、四月。巽にとっては冒険者となって実質三年目であり、青銅クラスになれる事実上の最後の年である。
「でもやるべきことは今までと何も変わりないんだけどな」
モンスターを狩ってメルクを稼いで良い装備を調え、モンスターを倒してカルマを獲得して少しずつでも実力を付けていき順位を上げていく。青銅になるための近道などどこにもなく、千里の道を一歩ずつ歩いていくしかないのだった。
そして今日も巽は技術向上研修を開催し、何人かの受講生を連れて狩り場に出ているところだった。研修は大きな問題もなく進められ、受講生の一人は固有スキルの発現に成功する。
「久々に使える固有スキルが手に入ったな」
とそれをコピーした巽も内心でホクホク顔だった。今回手に入れた固有スキルは「影分身」、忍者のように分身を生み出す技である。今のところ分身は一体だけで使えるのもごく短時間だが、使い方次第で非常に強力な武器になることは間違いなかった。
巽が技術向上研修を開催するようになって数ヶ月。これまで目の当たりにしてきた固有スキルは数え切れないほどだが、そのうちコピーしたのはごく一握りでしかない。固有スキルは「魂の形」と言われ、同じ固有スキルは二つと存在しない――だが見た目そっくりな固有スキルは結構多いのだった。
「移動に関しては『疾風迅雷』や『空中疾走』があれば充分だし、攻撃も『月読の太刀』より上の技はなかったし」
固有スキルを分類すると攻撃技・移動技・防御技・回避技等々となり、同系統の技がいくつもあっても実際に使用するのはそのうちの一つ二つでしかない。結局、各分野の最も強力な技一つ二つをコピーしておけばそれで事足りるのである。
そして夕方、研修を終えた巽は受講生を連れて帰路に就いた。森の中を歩き、ベースキャンプの木柵が視界に入った頃。
「花園さん、後ろにモンスターが」
受講生の一人が警告を発し、巽が振り返る。後方数十メートルの上空で滞空しているのは、鳥の翼に鹿の頭部と二本脚を持った、キメラ系モンスター。
「ペリュトンだ、それも五匹も」
と受講生は青い顔をする。レベル六〇から七〇とされるそれは彼等にとって適正レベルを遥かに超えた強力なモンスターだった。だが巽にとっては手頃な獲物でしかない。
「ベースキャンプに入れ。俺はあの群れを片付ける」
巽の指示で受講生は駆け足でベースキャンプへと向かった。ペリュトンはせっかくの獲物を逃すまいとグライダーのように滑空して受講生に襲いかからんとする。だがその眼前に巽が立ち塞がった。
「『空中疾走』!」
高々と上空に舞い上がった巽が剣を振るい、ペリュトンの首が二つ刎ね飛ばされる。怒りの啼き声を上げるペリュトンは標的を巽に変更した。
「来たか」
着地した巽めがけて上空からペリュトンが一直線に突進。巽はぎりぎりまでそれを引きつけ、
「『影分身』!」
今日手に入れたばかりの固有スキルを早速行使。二人に分身した巽が二匹のペリュトンを同時に屠る。最後に残ったペリュトンは逃げるか戦うか迷ったようだが、巽がその隙を逃すはずもない。「疾風迅雷」で一瞬で距離を詰めて剣を一閃、ペリュトンの身体を真っ二つにした。
「すげぇ……五匹もいたのにあっと言う間に」
「あれが四千番台……」
ベースキャンプに避難した受講生は瞬きする間も惜しんで巽の戦いを見守っていたが、それはほんの二分足らずで終わってしまった。巽が一息ついてベースキャンプに向かおうとした、そのとき。
「なんだ、あれ?」
「冒険者か? でも……」
何者かが巽に接近している。革鎧を身にした、軽装の、男の冒険者――のはずである。大した距離ではないのにその男の顔が判別できない。若いのか壮年なのか、美形か不細工なのか判らない。それどころかちょっと気を抜けば男か女かすら認識できなくなる。確かなのは人の形をした何者かがそこにいることだけだ。
「何が起きてる? 何かされているのか?」
「もしかして、モンスターか」
「どうやらそうみたいだぞ」
受講生が見守る中、巽が剣をその何者かに向ける。その何者かもまた剣を抜き、両者は鏡写しの体勢となって対峙した。
一方巽は、本当に鏡に向かい合っているような錯覚に陥っている。まるで蝦蟇蛙のように大量の冷や汗が巽の額を濡らした。巽が対峙している何者か――その姿は巽そのものだった。顔かたちや背格好、装備や武器に至るまで、巽と何一つ違わない。
いや、一点だけ違うところがあった。追い詰められたように汗を流している巽に対し、その偽者は嘲笑するかのような余裕の笑みを見せている。その表情は巽の神経を逆なでした。
人間の姿形をそっくり模倣するモンスター――巽が脳内のデータベースを検索し、結果が提示される。巽は目を見開いた。
「こいつがもしかして『ドッペル先生』か?」
それなら殺される心配はない――安堵して気が抜ける巽に対し、その偽者が一瞬で距離を詰めて剣を振るった。巽は脊椎反射で頭を屈め、それを躱す。立ち位置が入れ替わり、二人の巽は再び剣を向け合った。
「こいつ……!」
避けるのが刹那でも遅れていれば巽は致命傷を負っていただろう。それで巽は理解するしかなかった。
「こいつがドッペル先生だなんて保証はどこにもない。どっちにしても、この場を切り抜けるためには全力でこいつを倒さないと……!」
巽は相対する偽者をただのドッペルゲンガー――狩るべきモンスターと認識。ドッペルゲンガーの方もそれを察したのだろう。嘲笑や挑発ではない、好戦的な笑みを見せた。
ベースキャンプの木柵の上から受講生が固唾を呑んで見守っている。巽とドッペルゲンガーは少しずつ距離を詰め、やがて両者は激突した。
「『奥歯のスイッチ』!」
巽は固有スキル「奥歯のスイッチ」を行使しドッペルゲンガーに急接近、そのまま剣で両断しようとする。だが、ドッペルゲンガーの身体は陽炎となり、巽はそれを突き抜けてしまった。
「くそっ、『蜉蝣』か!」
これが固有スキル「蜉蝣」なら背後への攻撃はワンセットだ。巽は体勢を崩しながらも無理矢理剣を振るい、ドッペルゲンガーの剣を打ち払う。そうして距離を取り、何とか体勢と息を整えた。
今度はドッペルゲンガーが攻撃する番だった。剣を掲げて突進するドッペルゲンガー、その身体が二つに分裂した。固有スキル「影分身」だ。二人の巽が左右から巽を挟み撃ちにせんとする。巽は「空中疾走」でそれを避け、分身のうちの一つへと上空から逆襲。分身は消えたがそれだけで、本体のドッペルゲンガーは無傷である。
「『疾風迅雷』!」
巽は超高速の移動技で一瞬で距離を詰める。そのまま身体ごと剣を叩きつける勢いでドッペルゲンガーをぶった斬ろうとし――剣は受け流され、巽は顔面から地面に突っ込んだ。
「何?!」
慌てて振り返ると、ドッペルゲンガーがバレリーナのように爪先立ちで高速回転をしている。防御技の「円の極意」だ。だがその回転が永遠に続くわけではない。ほどなくして回転は止まり、巽はその瞬間を狙って剣を振るう。ドッペルゲンガーがそれを受け止め、次にドッペルゲンガーの攻撃を巽がはじき返した。
両者の剣がぶつかり合い、火花が散る。両者が同時に「奥歯のスイッチ」を行使し、その剣閃は目にも止まらぬほどだ。その超高速の戦闘にベースキャンプの受講生は唖然として言葉もない。だが「奥歯のスイッチ」は強力な分消耗も激しい。巽は急速に減っていく自身の魔力に焦りを覚えずにはいられなかった。
(このままじゃじり貧だ。早く勝負を決めないと……!)
あるいはドッペルゲンガーの方も同じことを考えていたのかもしれない。両者は同時に後退して距離を取った。一拍おいて、再び互いが互いに向かって突進する。コンマ一秒ごとにその距離は八メートル、六メートルと減っていく。間合いが四メートルを割ったとき、ドッペルゲンガーと巽はそれぞれ固有スキルを行使した。ドッペルゲンガーが選んだのは「影分身」であり、巽は賭に勝ったと内心で喝采した。
「『阿修羅拳』!」
巽の剣が三つに分身し、三つの剣が二人の巽に襲いかかる。剣の一つは分身をかき消し、もう一つはドッペルゲンガーの剣に受け止められる。そして最後の一つがその剣をはじき飛ばした。ドッペルゲンガーは「空中疾走」で難を逃れるがそれはただの時間稼ぎでしかない。巽が「疾風迅雷」を行使、着地地点へと向かって一瞬で駆け抜けようとし――
「ぐあっっ!」
足をもつれさせた巽が転倒する。慌てて上体を起こすと、自分の足の間に一本の剣が。
「まさか、『百手の巨人』?!」
ドッペルゲンガーは武器操作の固有スキルで自分の剣を巽の足の間に差し込み、巽を転ばせたのだ。刃ですねを切られてかなりの血が流れているがそれどころではなかった。ドッペルゲンガーがもう眼前まで迫っていて、巽が剣を払おうとするが腕を振り回しただけのそれは素手で簡単に受け止められた。腕を捻り上げられ、その手から剣がこぼれ落ちる。
ドッペルゲンガーがその拳を巽の顔面に叩き込み、巽の意識は一瞬途切れた。ただでさえ体勢が整っていない上に敵は「剛力招来」により筋力を二倍三倍に増幅しているのだ。その一撃で意識を失わなかった巽の方をほめるべきだろう。
「く……くそ」
巽はドッペルゲンガーに対抗して「剛力招来」を使おうとする。だが痛みと消耗により集中できず固有スキルが発動することはなかった。哀れむような笑みを見せたドッペルゲンガーが巽へともう一撃を加え……巽の意識はそれで完全に断たれてしまう。巽は地面に倒れ伏し、死体同然の姿となった。
「頑張ってはいるようですが、まだまだですね」
ドッペルゲンガーは巽と同じ声でそう言い、懐から何かを取り出した。それを巽の腕に装着した彼が立ち上がり、ベースキャンプに背を向ける。彼は森へと向かって歩いていき、やがてそのまま姿を消していった。
「……お、おい」
「そ、そうだ。急がなきゃ」
その結末に呆然としていた受講生だが、それも長い時間ではない。ベースキャンプから出てきた受講生が巽を救助したのはそれからすぐのことだった。
……一方それから少しだけ時間が経った、森の中。ベースキャンプから充分な距離を置き、ドッペルゲンガーは足を止めた。彼は刺すように鋭い視線を四方へと飛ばしている。
「……何者ですか。この私が気配もまともに掴めないとは」
「動くな」
耳元でささやくように告げられた声に、ドッペルゲンガーは全身を硬直させた。まるでいきなり心臓を鷲掴みにされたかのようで、嫌な汗が止まらない。この背後の何者かがその気になれば自分など抵抗する間もなく殺される――彼は本能でそれを理解した。
「降参です、戦うつもりはありません」
ドッペルゲンガーはゆっくり両手を挙げて戦意がないことを示し、それを受けて背後の何者かが何メートルか後退して距離を取る。ドッペルゲンガーは安堵のため息をついた。
「お前は『ドッペル先生』と呼ばれているモンスターだな」
「ええ、その通り。そう言うあなたは……」
ドッペルゲンガーがゆっくりと振り返ると、そこにいるのは腕を組んでたたずむ一人の忍者だ。忍者としては標準的な、特徴のない姿だが、
「もしやあなたは黄金クラスのシャドウ・マスター……?」
シャドウ・マスターが「いかにも」と頷き、ドッペルゲンガーは感嘆の吐息をもらした。
「いやはや、まさか黄金クラスにお目にかかれるとは。早めに降伏して正解でした」
「訊きたいことがいくつかある。偽りなく回答するなら危害は加えない」
「判りました、答えられることには回答しましょう」
ドッペルゲンガーは擬態を解いた。巽の姿を失ったそれは男でも女でも子供でも年寄りでもなくなり、不定形ののっぺらぼうとなる。何者としても認識できないその姿こそがドッペルゲンガーの本性なのだろう。
「お前はこれまでくり返しマジックゲート社の冒険者を襲っているが、それを殺してカルマを奪っているわけではない。お前の目的は何だ?」
「目的は二つあります。一つはマジックゲート社の冒険者の実力がどの程度か調査すること」
「もう一つは?」
「私の趣味です」
ドッペルゲンガーが堂々と断言し、シャドウ・マスターは少しの間言葉詰まったようだった。
「趣味とは……」
「人間をからかって遊ぶことが、です。冒険者のカルマは確かに魅力的ですが、私を倒せる白銀は日本だけで何十人もいますからね。マジックゲート社を本気にさせれば私など即座に退治されてしまいます――どこかの間抜けなヴァンパイアのように」
ドッペルゲンガーがその声に嘲笑をにじませる。シャドウ・マスターは覆面の下で眉を上げた。
「エルミオニとは知り合いだったのか」
「顔見知りではありましたよ。会うたびに殺し合いになりかける仲でしたが」
シャドウ・マスターは少しの間考え込み、
「お前がこれまで襲ってきたのは白銀の下位や青銅の上位。石ころを襲ったのは今回が初めてのはずだ」
「ええ、お察し通り。あの間抜けを倒したという石ころに興味があったのと、お礼の一環です」
「そう言えば彼に何かを渡していたな」
その言葉にドッペルゲンガーはまるで笑ったように見えた。
「私が手助けできるのはここまでです。あれをどう生かすかは彼次第でしょう」
ドッペルゲンガーは「それよりも」と話題を変えた。
「ここで知り合ったのも何かの縁です。何かあったときに連絡を取れるようにしたいのですか」
「私とか」
ドッペルゲンガーは「ええ」と強く頷いた。
「黄金クラスとのコネクションは私の立場を補強する、この上ない材料となります。私はこれでも四大魔王の幹部クラスです、あなたにとっても損な取引ではないと思いますが」
シャドウ・マスターは考える振りをするが、考えるまでもないことだった。仮想敵の幹部と個人的なつながりを持つこの機会を、外務省の元職員である彼が見逃すはずもない。
「判った。まずはヴェルゲランに連絡員を用意する」
「ええ、いずれは他の町にもバックアップを配置しましょう」
この二人の邂逅はメルクリアとマジックゲート社にとって大きな意味を持つことになるのだがそれはかなり先のことであり、ただの石ころの巽には何の関係もない、別世界の話だった――今はまだ。
場所はマジックゲート社ヴェルゲラン支部、その付属病院。時刻は既に夕方の遅い時間である。
「巽さん、ドッペルゲンガーに襲われたって!」
「大丈夫なんですか、怪我は!」
病院に飛び込んできたのはしのぶと美咲で、ゆかりが少し遅れてそれに続いている。治療を終えたところの巽は目を丸くした。
「また随分と耳が早いな」
「何を暢気な、怪我はどうなんですか」
「見ての通りだ」
と巽は笑って見せた。
「足を斬られた他はぶん殴られて鼻血が出ただけだ。治療ももう終わっている」
その説明にしのぶ達は安堵のため息をついた。
「そうですか。良かった」
「まあそれはともかく」
と口を挟んできたのは高辻である。
「いつまでもここにいたらお医者さんの邪魔になるから移動しようぜ?」
その提案を容れて巽達は病院を出、その玄関のすぐ横で立ち話の態勢となった。
「それにしても巽さん、ヴァンパイアの次はドッペルゲンガーと戦うなんて。ドッペル先生は最低でもレベル二千だって言われているのに」
「そういう星回りなんでしょうか。ちょっと羨ましいかもしれません」
美咲の感想に巽は「いやいやいや」と大きく手を振る。
「もっと実力が付いてからならともかく石ころのうちからこんな目にばかり遭っても」
「トラブルメーカーってやつかしら」
「ちょっと違うと思う」
それはゆかりの方だろうと、誰もが内心で突っ込みを入れた。
「それで、ドッペル先生と戦って何か得るものはあったんですか?」
「得るものと言うか」
と巽は腕輪の填められた右手首を美咲達に見せる。人の指ほどの太さの輪で、鈍く輝く総金属製。表面には複雑な文様が隙間なく刻み込まれている。
「ドッペル先生に倒されて、目が覚めたら腕にこれが填っていたんだ」
「どういうマジックアイテムですか? 魔力を貯蔵するとか増幅するとか」
「いや、逆だ」
と高辻が説明する。
「これは犯罪者に科せられる呪いのアイテムの一種で、固有スキルを封じ込めるものだって話だ」
「実際固有スキルが何一つ使えなくなってる」
軽い調子で肩をすくめる巽に対し、しのぶ達は到底平静ではいられなかった。
「そ……そんな! 固有スキルが使えないなんて、冒険者としては死んだも同じじゃないですか!」
「腕を出してください。その程度の腕輪など……」
と今にも斬りかからんとする美咲に対し、巽は「待て、落ち着け」と慌てた様子を見せた。
「得物を使うまでもないんだ、本気になれば素手でも壊せる。ほら」
と巽が腕輪のある箇所を指し示す。その箇所は鉈か何かで斬られたように抉られ、削られていた。普通の人間ではまず不可能だが、高順位の冒険者であればその箇所を起点にして腕輪を引き千切ることは難しい話ではないだろう。
「いつでも外せるのにあえて外していないわけね」
ゆかりの確認に巽は「ああ」と頷く。
「最初は俺も焦ったけどそのうち落ち着いて、ずっと考えたんだ。ドッペル先生がどういうつもりでこんな腕輪を俺に科したのかを」
「それで巽ちゃんの考えは?」
「青銅になるためにはもっと強力な固有スキルを手に入れなきゃいけない、固有スキルをもっと上手く使いこなせるようにならなきゃいけない、俺はずっとそう考えていた……でも、もしかしたらそれは違うのかもしれない。固有スキルよりも先に冒険者としての基礎を固めろ――ドッペル先生はそう言いたかったんじゃないかな」
巽は自分自身に語りかけるようにそう言う。美咲としのぶは戸惑ったような顔を見合わせた。
「でも固有スキル抜きでモンスターを狩るなんて……あまりに危険じゃないですか?」
「それが正解だという保証はどこにもありません。正直言ってとんでもない回り道だとしか思えないのですが」
「急がば回れって言うだろう?」
と巽は笑った。
「俺の思い違いかもしれないけど、それでもこの修行は無意味じゃないと思う」
巽が既に覚悟と意志を固めていることはその黒曜石のような瞳を見れば自明であり、内心では反対のしのぶと美咲もそれ以上は何も言えなかった。ゆかりもまた真摯な眼差しで巽を見つめた。
「当分の間固有スキルを封印する――巽君が決めたことならそれについては何も言わない。でも」
ゆかりは不意に笑い、
「それなら次の狩りまでに魔法剣を買わなきゃね。魔法剣があれば固有スキルが使えない分をカバーできるんじゃない?」
「確かにそうです」
「今日はもう無理ですね。明日買いに行きましょう」
ゆかりの提案にしのぶも美咲も諸手を挙げて賛成し、それはもう彼女達の中で決定事項扱いだった。巽は苦笑しながらも反対はしない。
「巽ちゃんは魔力が足りなくて固有スキルと魔法剣の両立が難しいからただの鉄の剣で狩りをしていたわけだけど、固有スキルを封印するなら問題なく魔法剣を使えるんじゃない?」
「ええ、その通りです。その意味でも固有スキルを封印する意味はあると思います」
方針が決まり、話を終えた巽達五人は大阪へと帰るべく転移施設へと向かって歩いていく。ふと、巽は右手首をかざして腕輪を見つめた。月明かりを反射したそれは鈍いながらも金のように光っている。
「……大丈夫、あと一年ある」
巽は迷いを振り切って迂回路へと向かって足を踏み出した。約束の場所から遠ざかりながらも、いつか必ずそこにたどり着くと信じて。




