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石ころ冒険者  作者: 亜蒼行
二年目
30/52

第二二話「人生損益分岐点」その1




「今日は第二二一開拓地でジャージーデビルを狙います!」


「そうか。頑張ってるんだな」


 ときは一二月の中頃、場所はメルクリア大陸ヴェルゲラン。「技術向上研修」を開催するため開拓地に向かおうとしていた巽は御陵汐とばったり出会い、立ち話をしているところだった。


「花園さんもすごいですよね。わたしのパーティメンバーも花園さんの研修を申し込んだんだけどもうずっと順番待ちだって言っています」


「そうなのか。ちょっと申し訳ないけど、受講希望者が大勢いるから」


「そうですか……コネがあってもどうしようもないですよね」


 残念そうにそう言う汐に対し、巽は「悪いけど」とくり返した。


「ところで山科と蹴上も二人でパーティを組んで頑張っているぞ。この間はオウド・ゴギーの群れを狩ったって言っていたな」


 汐は「そうですか」と形だけの返答をした。


「まだそんなレベルでうろうろと。才能ないのははっきりしてるんだから早く辞めればいいのに」


 呆れたようにそう言う汐を、たしなめるべきかどうか巽は迷う。だがそれは、才能に恵まれた人間の上から目線の放言ではあっても、必ずしも間違いではなかった。そうこうしているうちに汐がパーティメンバーに呼ばれ、彼女は仲間の下へと走り出した。


「それじゃこれで!」


「ああ、気を付けてな」


 巽は手を挙げて彼女を見送り、自分も研修の受講生を連れて転移施設へと向かった。

 美咲・しのぶ・ゆかりの三人が石ころから青銅に昇級した頃、巽もまた少しずつ前へと進んでいる。国内順位五千番台の壁を乗り越えるのももう間もなくだった。











 一二月中旬のある火曜日、巽達スパルタ団の面々は第二一六開拓地へとやってきていた。


「よう、久々だな」


 そのベースキャンプで鞍馬口天馬とそのパーティに遭遇。途中までは行動を共にすることとなる。スパルタ団の四人と鞍馬口パーティの四人、計八人の冒険者が隊列を作って森の中を進んでいった。


「最近景気はどうなんだ?」


「まあ、悪くはないですよ」


「そりゃ、あんな大人気の研修をやっていればな」


 鞍馬口が皮肉のようにそう言い、巽は曖昧な笑みでそれを受け流した。


「見つけた固有スキルは遠慮なくパクってるんだろう? どんなスキルをコピーしたんだ?」


「そうですね。モンスターが出てきたら見せられると思うんですが」


 巽は周囲を見回すがそう都合良くモンスターは出てこない。それから半時間ほど先に進んでもごく低レベルの雑魚モンスターが二、三匹出てきただけだった。


「やっぱり人数が多いとダメだな」


 と鞍馬口が舌打ちした。

 冒険者の間には「パーティの人数が増えるとモンスターが見つけにくくなる」というジンクスが存在する。「多人数の気配を感じたモンスターが警戒して避けようとするから」がその理由とされているが、実際のところは不明である。ただ多くの冒険者が経験則としてその正しさを実感していた――また「人数が増えるとそれだけ魔核の配分で揉める可能性も増える」という経験則も存在し、その正しさは数学者と社会学者が保証してくれることだろう。このため一つのパーティの定員は四人から五人が最適、七人が上限とされている。

 そのうちに彼等は道がY字に分岐する場所へとやってきた。


「ここいらで分かれた方が良さそうだな」


「そうだな。それじゃ気を付けて」


 鞍馬口パーティが右へ、スパルタ団が左へと道を選び、それぞれ進んでいく。巽達が左の道を進んで数十メートルも歩かないうちに、


「Gigigigigi!」


 轟くモンスターの咆吼。巽達はまず顔を見合わせ、次いで元来た道を引き返して走り出した。


「鞍馬口さん!」


 鞍馬口パーティの下に真っ先に到着したのは巽である。予想通り彼等は大型モンスターとの戦闘に突入しているところだった。彼等が戦っているのはレンオルム。蛇のような顔と胴体、長いたてがみ、狼のような前足を有する、キメラ系モンスターだ。


「手出しは要らねえよ! こいつは俺達が狩る!」


「鞍馬口! だがレンオルムは」


「要らねえって言ってるだろ!」


 鞍馬口は熊野の手出しも口出しも退け、ほぼ単独でモンスターと戦っていた。レンオルムは三メートルを超える長い胴体を振り回し、鞍馬口は必死にそれを避けている。振り回されるその尾の直撃を受け、既に鞍馬口パーティの二人は行動不能である。


「クマさん、レンオルムのレベルは」


「七〇から八〇だが、あの大きさだと上の方に近いか」


 つまりは鞍馬口達の適正レベルよりも大分上のモンスターだということだ。実際それは鞍馬口の攻撃を跳ね返していて、鞍馬口は「空中疾走」を使ってそれの攻撃を何とか避けている。


「どうする、リーダー。このままじゃ」


「判っている。だが」


 熊野は判断に迷った。鞍馬口達ではレンオルムには勝てず、このままでは殺されるだけ……それは目に見えている。だがさらなる成長のため、壁をぶち破るため、自力でこの程度のモンスターを倒せずしてどうするのか――鞍馬口のその意地を熊野は自分のもののように良く理解できた。鞍馬口の意地と意志を無視できず、同時に鞍馬口がこのまま殺されるのを座視もできず、板挟みの熊野は懊悩する。だが悩んでいるだけで何もしなければ結局それは傍観と同じなのだ。

 レンオルムはその巨体に見合わぬ素早さで動き回り、牙を剝いて鞍馬口の足を噛み砕かんとする。ジャンプした鞍馬口はその顔を蹴り、さらに「空中疾走」で上空へと逃れた。


「くそっ、こいつのレベルはアンフィスバエナとそう違わないはずだぞ! アンフィスバエナは一度狩っているのに――」


 鞍馬口が時間切れで落ちてきて、レンオルムが大口を開けてそれを待ち構えた。鞍馬口の脳裏で走馬燈が走り抜ける。アンフィスバエナを狩ったときには……そう、もう一人メインアタッカーが――


「パクリ野郎!」


「呼びましたか?」


 巽が固有スキル「空中疾走」でレンオルムの虎口へと飛び込み、その顎を蹴飛ばして口を閉じさせ、さらに長剣でその右目を潰す。それと同時に鞍馬口が短剣でその左目を串刺しにした。


「Gigigigigigigi!」


 レンオルムは痛みと屈辱でのたうち回り、その左右に巽と鞍馬口が同時に着地する。余計なことを、と鞍馬口が舌打ちするが、それ以上の文句は言わなかった。それを見て熊野と神ゴリ子も参戦、四人の冒険者がモンスターを包囲した。

 レンオルムが一際大きな咆吼を上げ、まず巽へと襲いかかった。巽は間五髪くらいでそれを避け、長剣でその後頭部を痛打した。一瞬動きを止めるレンオルムに対し、熊野と神ゴリ子が同時に掴みかかる。二人がその胴体にしがみついて振り回そうとし、レンオルムがそれに耐え、両者の力はしばし拮抗した。


「おっさんそのまま!」


 鞍馬口がとどめを刺すべく突撃し――だがそれはレンオルムの擬態だったのかもしれない。モンスターは熊野達をしがみつかせたまま尾を振り回し、それで鞍馬口を殴打。三人はまとめて吹っ飛ばされて地面を転がった。何とか立ち上がろうとしているがそのダメージは軽くないようである。

 まともに戦えるのは俺だけか、と巽が剣を構え、


「どうやら戦力になるのは君だけのようだ」


 そう声をかけてきたのは鞍馬口パーティのメイジであり、巽が彼の方を振り返った。


「全力で君に『加速』を掛けるからそれで仕留めてきてくれ」


「判りました」


 足に力を溜める巽に対し、メイジの男が杖を振るう。次の瞬間、時間の流れが変わった。レンオルムがゆっくりと突進してくる。巽もまたレンオルムに向かって突貫した。巽の体感で一〇秒以上を経てようやく長剣とモンスターの牙が激突しようとする、その瞬間。


「奥歯のスイッチ――!」


 補助魔法「加速」と同じ効果を有する固有スキル「奥歯のスイッチ」を発動、その二つを重ねたことにより時間の流れがさらに遅くなった。レンオルムは眼前だがまるで止まっているように見え、その顔に落書きだってできそうだ。


(まあ、やらないけど)


 巽は腕ごと長剣をモンスターの口内へと突っ込み、その脳天を内側から貫いた。剣を手放した巽はレンオルムの下顎を全力で蹴り上げ、その衝撃で剣が頭蓋骨を突き抜ける。剣が高々と宙を飛び、巽が走り抜け、落下してきた剣をキャッチ。『加速』の効果が切れたのはそれと同時であり、


「Gigigi……」


 レンオルムが倒れ伏したのもまた同時だった。それが吐き出した魔核が巽の長剣へと回収され、戦闘は無事に終了する。


「大丈夫ですか、クマさん、神さん」


「あ……ああ。大した傷じゃない」


「治療ももう終わっていますよ」


 巽は熊野達の下へとやってくるが、その巽に熊野達は戸惑ったような目を向けた。それを不思議に思いながらも巽は大して気にせずに、


「それじゃ俺達は元来た方に戻ります。俺が回収した魔核は」


「要らねえよ、そんなもん」


 と鞍馬口がふて腐れたように強がりを言うがメイジの男はそれを無視。


「狩りの後で連絡してくれ。配分はそこで」


 メイジの言葉に「判りました」と巽が頷き、そしてスパルタ団がその場から立ち去っていく。鞍馬口は舌打ちをし……メイジの男は長い時間その背中を見送っていた。

 その後スパルタ団は普通に狩りをし、やや不漁だったものの特に何事もなくヴェルゲランへと戻ってくる。

 事件が起こったのはその狩りの後である。











 場所はマジックゲート社ヴェルゲラン支部、日が沈んで大分経った頃。


「遅かったな。待っていたぞ」


 スパルタ団が、巽が狩りから戻ってくるのを一人の男が待っていた。年齢は二〇代前半、巽と変わらないくらいの長身で、痩身。眼鏡を掛けた理知的な、だがどこか冷たい印象のその男は、鞍馬口パーティのメイジである。


「ええっと確か……椥辻さん」


椥辻早海なぎつじ・はやみだ。よろしく頼む」


 巽は「はあ」と曖昧な返事をした。これまで何度か関わりがあり、狩りを共にしたこともあり、親しいわけではないが一応知り合いの範疇の人物だ。その彼の今さらな言葉に巽は首を傾げている。


「それで魔核の配分ですけど」


「半々にしてそれぞれのパーティの共同口座へ、でいいだろう」


 椥辻の即断に巽は「はい、それで」としか言えない。


「それでは手続きに。君に話したいこともある」


 椥辻は必要なことだけを言い、さっさと進んでいく。巽は熊野達に「先に帰ってください」と言い残して急いで椥辻に着いていき……残された熊野達は、


「来るべきものが来た、ってところだな」


 とため息をついていた。

 受付に行って口座振替伝票に必要事項を記入して提出。それで魔核配分の手続きは終了した。その後二人は屋外、事務所棟を出てすぐの玄関横へと移動。

 それで、と巽は椥辻に向き直った。


「話というのは?」


「私とパーティを組まないか?」


 単刀直入でド直球な提案に巽は短くない時間言葉を失った。


「……それじゃ今のパーティは」


「君も私もそこから抜けて、二人でパーティを組むということだ」


 我知らずのうちに巽の口から唸り声が漏れている。


「椥辻さんのような強力なメイジと組めるのは、願ってもない話です。途轍もなく魅力的な提案です」


「私も同じ組むなら力のある前衛と組む方がいい。そうしなければ上を狙えないのだから」


 椥辻が言うのは冒険者としての常識であり、定石だった。損得だけで考えるなら、考えるまでもない。椥辻の提案を一も二もなく受け容れる、それしか選択肢はあり得なかった。


「……少しだけ考えさせてもらってもいいですか」


 だが巽にはこの場で頷くことができなかった。椥辻の差し出した手を、あるいは失うかもしれないと判っていても。


「今のパーティメンバー、クマさんにも神さんにもこれまで随分世話になっています。後ろ足で砂をかけるような真似は……」


「正直言って私には理解できないな」


 と椥辻は肩をすくめた。


「世話になったと言っても一方的に、ではないだろう。君だって彼等のパーティに大いに貢献してきたはずだ。これまでのことに感謝はされても、抜けたことを恨まれる筋合いはあるまい。それに、力の差も開いてきただろう」


 その指摘に巽が沈黙するが、それは否定を意味しなかった。


「君は彼等三人に足を引っ張られて上の獲物を狙えない。彼等は君の力に寄りかかり、冒険者として成長する機会を奪われる。これ以上君が彼等とパーティを組んでもお互いにとって有害無益となるだけだ」


「そりゃ、理屈で言えばそうかもしれませんが」


「感情の問題があるのは判っている。だがそれは彼等の問題であって君と私には関係のない話だ」


 一連の椥辻との会話により、巽はある危惧を抱かずにはいられなかった。


「……あの、今のパーティを抜けることは鞍馬口さんには」


「これから話す」


 その端的な回答に巽は頭を抱えたくなった。


「……それ、滅茶苦茶揉めるパターンでしょう。今のパーティを抜けて、よりによって俺と組むなんて、あの鞍馬口さんが聞いたら」


「許すわけがないだろうが!!!」


 突然二人の間に割って入ってきたのは、言うまでもなく鞍馬口である。彼はまず椥辻に掴みかかった。


「てめえ、俺達を裏切るつもりか!」


「意味が判らないな。君と組むときに何か契約でも交わしたか?」


 鞍馬口の火のような剣幕に直面しても椥辻は涼しげな態度を保ったままだ。ただそれは精神が強いと言うより、無神経なだけと言うべきだったが。


「より上を狙える者と組もうとするのは当然のことだ。君と組んでいてもこれ以上順位を上げられないが、彼と組めばあるいは青銅まで」


 鞍馬口は椥辻の襟首を締め上げるが、彼の態度もその意志もそんなことで変わりはしない。鞍馬口は歯を軋ませ、突き放すようにして椥辻を解放した。


「このパクリ野郎!」


 そしてその矛先が巽へと向かい、巽は椥辻のようには平静でいられなかった。


「固有スキルだけじゃなくうちのメイジまでパクるつもりかよ?! この泥棒猫が!!」


「いやその、組もうと言ってきたのは椥辻さん」


「言い訳するんじゃねぇよ!」


 と鞍馬口が殴りかかってくる。順位の近い冒険者に本気で殴られたらさすがにただでは済まないので巽も避け、鞍馬口もむきになった。鞍馬口の全力の攻撃を巽はこっそりと「奥歯のスイッチ」を使って躱し続ける。このためますます鞍馬口が激高し、その悪循環が続いて、


「てめえ、もう許さねえ……!」


 ついには鞍馬口が剣を抜き、巽も顔色を変えた。だがそこに、


「おい、さすがにそれはまずい」


「少し頭を冷やせ」


 熊野と神ゴリ子の二人が素早く割って入った。熊野が剣を抑えて神ゴリ子がスリーパーホールドを決め、そのまま鞍馬口を締め落としてしまう。巽はただ唖然としていただけである。ついでに言えば鞍馬口パーティの残り二人もこの場に現れているが、その二人は仲裁に入れず傍観していただけだった。


「クマさん、神さん、どうしてここに」


「まあ、こうなるんじゃないかと思ってね」


「話は最初から聞かせてもらっている」 


 熊野達の言葉に巽は気まずそうな顔をし、次いで椥辻に向き直った。


「済みません、お話の返答は明日に」


「ああ、判った」


 それじゃ、と巽と熊野達が立ち去っていき、その場には鞍馬口パーティの四人が残された――もう三人と一人かもしれないが。











「俺達からも話があってな。ちょうど良かったよ」


 転移門をくぐって大阪に戻ってきた巽達三人は梅田の居酒屋に足を運んだ。個室ありのやや高級志向の店であり、そこなら落ち着いて話もできるだろう。

 肉料理をメニューの端から端まで頼んで三人がかりでむさぼり食い、腹もほどほどにふくれ、ようやく話が始まろうとしていた。


「――巽、俺と姉御は青銅になれると思うか?」


 簡潔で端的なその問いに巽は言葉を詰まらせた。そんな巽の姿に神ゴリ子は面白くなさそうな顔をし、熊野は苦笑する。


「青銅になるのを諦めたわけじゃない。だが客観的に見てもう難しいのは自分でも判っている」


 その嘆息に、巽はつい「はい」と頷いていた。


「十年経って登録を抹消されたら……まあ、今まで通りジムのインストラクターをやっていればとりあえず食っていけるだろう。だがな巽、俺はこの業界が好きなんだよ。たとえ登録を抹消されても、狩りに行けなくなっても、この業界でやっていきたい。この世界に関わっていたいんだ」


 巽は無言で頷いて続きを促した。


「じゃあどうするか、というのをしばらく前から考えていて、高辻さんのコースを進めばいいんじゃないかと判断した」


 ああ、と巽は納得の声を上げる。


「それで安全指導員に」


「ま、そういうことだ。青銅になれなくても安全指導員になれば登録を抹消されてもこの業界で食っていける――だが冒険者が世に登場してもう一一年だ。これから先は同じことを考える奴がどんどん増えていくと思う。だから今から手を打っておく。今から安全指導員としてのキャリアと実績を積み重ねていけば、登録抹消が目前まで来て慌てて安全指導員を目指すような連中が湧いて出ても競争に負けることはないだろう」


 なるほど、と巽は頷きつつ神ゴリ子に話を振った。


「神さんも安全指導員を目指すつもりなんですか?」


 まあね、と神ゴリ子は酎ハイのグラスを一気に飲み干す。


「冒険者を辞めても今さらリングには戻れないし、戻る気もない。――わたしが所属していたのは吹けば飛ぶような弱小団体で、トップレスラーでもプロレスだけで食っていくのが難しかった。ましてやわたしみたいな底辺レスラーはバイトの掛け持ちが当たり前だったんだ」


 神ゴリ子は昔を懐かしむような顔でそう語った。


「冒険者になったのも最初はアルバイトの一つのつもりだったけど、思ったよりもずっと金を稼げたし、何より性に合っていた。できれば青銅になってこのまま……」


 彼女は寂しげな顔で首を横に振った。


「青銅になるのを諦めたわけじゃないが、現実は見据えなきゃいけない。丸一〇年を迎える頃にはわたしも三〇だ。リングに戻るのが絶対に無理ってわけじゃないが……その歳になってから時給千円かそれ以下のバイトをしながら、たかだか何十万円の賞金を稼ぐためにリングで血みどろになるのもねぇ」


「オーク二、三匹分ですか」


「冒険者をやっていると金銭感覚がおかしくなるからまずいよな」


 熊野の言葉に巽も神ゴリ子も「うんうん」と頷き同意を示した。


「じゃあプロレス以外の普通の仕事、って言われても全くぴんと来ない。わたしが知っているのはプロレスとアルバイトと、冒険者の仕事だけだ。だったら三〇過ぎてから一般社会こっちで普通の仕事を探すより安全指導員を目指した方がまだ確実だろう。それに何より、いい金になる」


 熊野が「そういうことだ」と深々と頷く。安全指導員の給料は最低でも三桁万円の後半だと言う。今と比較すれば収入は一桁落ちるが、現役のときとは比較にならないほど安全になるのである。


「週一回狩りに行って適正レベルより少し上の獲物を狙って、少しずつでも実力を付けて順位を上げていく。他の日は新人研修を受け持って安全指導員としての実績を積み重ねる……結局やるべきことは今までと何も変わらない」


 熊野はそう言って軽く笑う。だが巽は熊野に同意することができなかった。今までと何も変わらない――そんなわけはない。「脇目もふらずに青銅を目指した」これまでと、「青銅になれなかった場合を考えて準備しておく」これから、その二つが同じだなんてあり得ない。


「済みません、今まで散々世話になっておきながら」


 巽はテーブルに手をつき、額を接するほどに頭を下げた。


「でも、クマさん達が今後そういう方針で狩りをするなら俺は一緒にやっていくことはできません。実力がどうこうって話じゃなくて」


「そうだな。これまでなら上に行くために危ない橋を渡ることもあったが、これからはそういう無理は避けるようになるだろう」


 狩りに対する姿勢が違う、危険に対する気概が違う、順位に対する執念が違う。挑戦や冒険よりも安全を選ぶ――彼等が登録上は冒険者であることに何も変わりはない。だが事実上は、心のあり方の上では「冒険者」の現役を引退したのである。


「ま、出会いと別れは冒険者につきものさ」


「お前なら青銅になれるだろう。青銅まで行けよ、巽」


 熊野がそう言ってグラスを掲げる。神ゴリ子もまたグラスを差し出し、顔を上げた巽もビールの入ったグラスを持った。三人が乾杯をし、涼しげな音を立て、そしてグラスの中身を一気に飲み干す。巽はビールの苦みには慣れず美味しいとはとても思えなかったが、それもまた人生の味だった。




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