第一〇話「場外乱闘で退場」その1
一二月に入り、最初の月曜日。巽達はメルクリア大陸へとやってきている。
マジックゲート社ヴェルゲラン支部にて、巽達は冒険者メダルのデータを更新した。ランク外の冒険者に与えられるメダルは薄い石の円盤だ。専用の魔道具を使い、魔法のインクでその表面にデータを記載。データを更新する際は魔法の研磨機で表層を削り、改めてデータを書くのである。
「魔法って便利よね」
ゆかりは返却された冒険者メダルを弄びながらそんなことを言い、
「わたし達の世界も負けていないと思いますよ」
美咲がそう指摘した。
「青銅以上のメダルには通信機能があって、自分でデータを読みに行って自動で更新してくれるそうです」
「早くそれを手にしたいですね」
今はまだ石製のメダルを美咲が握り込む。しのぶは「ええ」と微笑んだ。
「でもこの調子なら……巽君?」
ゆかりが巽を呼び、しのぶと美咲が振り返る。巽は三人から数歩後ろを歩いていて、
「ふふふふ……」
自分のメダルに視線を落とし、不気味ににやついていた。
「巽先輩、ちょっと気持ち悪いです」
「そ、そうか」
美咲に言われ、巽は慌てて両掌で自分の頬を張る。それで普段通りの仏頂面となったが、よく見れば頬の端が微妙に吊り上がっていた。
「それで、何笑っていたの?」
「いや、大分順位が上がったな、と」
「巽君は今何位?」
ゆかり達が巽のメダルを覗き込み、巽もまた彼女達のメダルを見せてもらう。そうして開示された四人のデータは以下の通りである。
「花園巽 /戦士 /ランク外/一四四八ポイント/九二九三位」
「深草しのぶ/忍者 /ランク外/一五六七ポイント/九一〇一位」
「鷹峯美咲 /侍 /ランク外/一一八二ポイント/九九三八位」
「紫野ゆかり/メイジ/ランク外/一一五一ポイント/九九七六位」
四人は少しの間、それぞれの感慨を噛み締めていた。
「ゆかりさんも四桁になったんですね。これで全員四桁です」
「夏前には『俺が四桁になれるのはいつのことか、このまま冒険者を続けて大丈夫なのか』って思っていたのにな。いつの間にか四桁になっていて、八千番台ももう目前だ」
「ええ。そしてこのまま七千番台、六千番台と駆け上がっていって……」
「来年のうちには青銅クラス!」
ゆかりが威勢良く拳を突き上げ、美咲が強く、しのぶが静かに頷く。
「確かに、この調子ならそれも決して夢じゃない」
巽もその目標を否定はしなかった――ただ、
(そのとき俺は、このパーティに残っているんだろうか)
内心のその不安は外に出さなかったが。
……ゆかりや美咲、しのぶの三人は青空市場に買い物へと向かったが、巽は支部に残っている。買い物好きの三人――特にゆかりに付き合っているとそれだけで日が暮れてしまうので、巽は一人トレーニングに勤しんでいた。
マジックゲート社ヴェルゲラン支部の敷地内には鍛錬場が設置されている。そこでは研修中の新人からベテランまでが区別なく同じ場所でそれぞれトレーニングに励んでいて、巽もその中の一人だった。
施設は性別で区分されているわけではないが、自然と男女に別れて固まっている。巽がいるのは当然男ばかりのエリアで、多くの者が半裸で汗を流していた。巽もまた上半身裸だが、その身体は傷跡だらけだ。戦士職であれば傷を負うのも役目の一つであり、傷跡だって勲章であり武勇伝だ。誰もが多かれ少なかれ傷跡を作っているが、その中でも巽はかなり傷の多い方で、ちょっとばかり目立っていた。ただその理由がクルートーという雑魚を相手にしたためであり、巽としては恥ずかしく思っていたが。
巽は姿見の鏡の前に陣取って剣を振り回している。剣は鍛錬用の特大、超重量の代物だ。巽は汗だくになりながら一心に剣を振るっていた。鏡の中ではマッシブな、目つきの悪い男が無様に剣に振り回されている。
「美咲とは雲泥の差だな」
と巽は苦笑する。流麗な美咲の剣は巽にとって羨望の的だったが、そこへと至る道はあまりに遠く果てしないように思われた。それに美咲の固有スキル――巽が心から渇望するものを美咲は既に手にしている。
「『月読の太刀』――一体どうやってるんだろうな、あれ」
巽は見様見真似で剣を振るうが、鏡の中の男は泥鰌すくいをやっているようにしか見えなかった。
「それにしのぶの『隠形』、俺にあの力があれば……」
巽は剣を正眼に構え、明鏡止水の心境となって自分の気配を消そうとする。当然だが、鏡の中の男は間抜けな姿をさらしたままで、消えていなくなりはしていない。
「ゆかりさんはまあ、苦戦しているみたいだけど」
ゆかりは固有魔法らしきものを使えるようになったが、まだ使いこなせてはいなかった。
「もっと色々とできるような気がするんだけどねー、これ」
と試行錯誤をくり返しているが、あまり進展は見られない。今のところは(ひどい二日酔いのときとか)限られた状況でしか使えず、せっかくの固有魔法も宝の持ち腐れに等しかった。
「それでももう固有スキルが使えるんだから、いずれは使いこなせるようになる。固有スキルが何なのかそれすら判らないままじゃ……」
巽は「があーっ!」と叫びながら、不安をかき消すように剣をでたらめに振り回す。疲労がたまっていたためか体勢が崩れ、すぐ後ろを歩いていた人の身体にその剣が当たりそうになり、
「フンッ!」
避けるのは難しくなかっただろうに、その男は巽の剣を避けず、むしろ一歩踏み込んで自分から当たりに行った。上半身裸の、鋼のようなその筋肉が巽の剣を受け止め、はね返す。そのためさらに体勢を崩して倒れそうになるが、巽は何とか踏み止まった。
「……えー、済みません。大丈夫ですか?」
謝る必要があるだろうか、と疑問を感じながらも一応の礼儀として巽はその男に謝る。その男は剣の当たった箇所を手で払い、巽のことを鼻で笑った。
身長一八〇センチメートル近い巽よりもさらに頭一つ分大きく、身長は一九〇センチメートルに達しているだろう。筋肉の量も巽を圧倒して余りあった。大腿周りなどしのぶのウェストほどもありそうだ。プロレスラーのような巨体と筋肉を誇る、大男である。
「そんなへなちょこの剣でこの身体に傷を付けられると思っているのか?」
大男はそう言って巨城のような筋肉を誇示する。どうやら巽に喧嘩を売っているらしく、非常に判りやすい、単純な挑発だった。多少は不快に思ったものの、その挑発に乗らないのは決して難しいことではなく――
「ちょっとばかり本気でやってみましょうか?」
剣を投げ捨てた巽が問い、大男は面白そうに笑う。巽は敢えてその安い挑発に乗ることを選択した。
「この俺を倒せるかどうか、全力でやってみるといいぜ。お嬢ちゃん」
「それじゃ、お言葉に甘えて――!」
巽の放った右拳がまっすぐに大男の脇腹に突き刺さる。岩を殴りつけたような手応えに巽は顔をしかめた。大男は牙を剥き出しにして笑う。
「ところで、やり返さないとは言ってないよな?」
大男の右拳が巽の顔面にぶち込まれる。巽は何メートルも吹っ飛び、地面にぶっ倒れた。だがそれほど間を置かずに立ち上がる。
「へっ、この程度かよ」
巽は強がりを言いながら拳を撃ち放ち、それは大男の右頬に突き刺さった。ダメージが入ったようには見えず、大男はにやりと笑うだけだ。
「ふっ、この程度か?」
大男の番となり、そのアッパー気味のフックを巽は避けなかった。全身の力を腹に込めてその一撃を受け止める。わずかに巽の足が宙に浮き、また地面に接する。巽の身体がふらついたが倒れるには至らなかった。
巽と大男は一撃ずつ拳を応酬した。相手の攻撃は決して避けず、身体で受け止める。歯は折れ、血が流れるが痛みは感じない。大男だけでなく巽も笑っていた。溢れるアドレナリンがテンションをマックスにしている。
「はははは! やるな、おっさん!」
「誰がおっさんだ! 俺はまだ二三だ!」
「それは嘘だ!」
いつの間にか二人の回りには野次馬が集まり、どちらかを応援している。その中にはゆかり達三人の姿もあったが、巽はそれに全く気付いていなかった。
大男の渾身の一撃が巽の顔面を打ち抜く。巽は大の字になって倒れ……起き上がることができなかった。巽は倒れたまま酸素を貪っている。
「はあ……強いな、おっさん」
巽はその大男の勝利を、自分の敗北を認めた。だが決して悪い気分ではない。不安やら嫉妬やら焦りやらを、血や汗と一緒に全て流し出したかのようだ。
「少年、お前はまだまだだが……見込みはある。俺と一緒に強くならないか? 俺のパーティに入ればお前はもっと強くなれるぞ」
「あんたの?」
巽の確認に大男は「ああ」と頷く。そして大男は巽に対して手を差し延べた。上半身を起こした巽はその手を取るかどうか迷っているようにも見えたが、
「巽君も男の子だねぇ、こんな無茶して」
「治療薬です、巽さん」
「まだまだですね、巽先輩」
実際にはどう言って断ろうかと考えていただけだった。野次馬の垣根を割ってゆかりとしのぶと美咲が巽の下に駆け寄り、それぞれの方法で巽を労っている。大男は愕然とし、差し延べたままの手を震わせた。
「そ、その人達は……?」
「俺のパーティメンバーです」
巽やや気まずげに説明。ゆかりがふざけて、
「名付けて、巽君ハーレム!」
と巽にしなだれかかる。しのぶも対抗して巽の腕を取り、美咲はそっぽを向いて他人の振りをした。大男の手の震えは短い時間で全身に波及した。大男は顔を俯かせていたが、
「ムッキー!! 羨ましい妬ましいっ!!」
突然魂からの咆吼を上げ、巽はちょっと途方に暮れた。
「これは暴力ではない、制裁であるっ! 全ての非モテ・非リア充な男の、愛と怒りと哀しみをこの拳に込めて!」
大男が巽に殴りかかろうとし、美咲がその腹を鞘に入れたままの日本刀で横殴りにする。大男は一瞬で無力化されていた。
……それから少し後、ヴェルゲラン支部の付属病院。巽はそこで治療を受けている。
「こんなの一晩寝てれば治るのに」
と巽は病院に行くことに強く抵抗したのだが、しのぶ達はそれ以上に強硬だった。最後には巽も折れざるを得ず、今こうしてメイジの医者にかかっている。
折れた歯を魔法薬で固定し、女性のメイジが巽の頬に手を添えて呪文を唱えた。やがて、
「はい、これで元通り」
メイジがそう言うので巽は頬を軽く叩いて確かめてみる。折れたはずの歯はしっかりと歯茎に食い込み、容易なことでは外れそうになかった。
「ありがとうございます」
と巽が頭を下げ、そのメイジが付け加えた。
「ああ、奥歯に大きな虫歯ができていたみたいだからついでに直しておいたわ。だから治療費二メルク追加ね」
気軽にそう言うメイジに対し、巽は頬を引きつらせることしかできなかった。当然だが、今回の治療費は全て巽一人の負担である。
治療を終え、病院を後にした巽はゆかり達三人と合流する。何故かその場には喧嘩相手の大男がいた。
「済まなかった、心配させて。ところで……」
と巽が何か言いたげな視線を大男へと向け、彼は白い歯を輝かせてとっておきの笑みを見せた。
「俺は熊野亮、『スパルタ団』というパーティのリーダーをやっている」
ついでに巽は熊野からメダルを見せてもらった。それに記載された彼のデータは以下の通りとなる。
「熊野亮/戦士/ランク外/二〇七九ポイント/八〇一一位」
今の自分より大分上位だろうと予想していたが、大体巽の予想通りだった。熊野はにこやかな笑みを絶やさないが、三人の女性達は彼から距離を置いている――熊野は未だ上半身裸なのだからそれも当たり前だが、熊野自身はそれを判っていないようだった。
プロレスラーのような巨体とボディビルダーのような発達した筋肉。角刈りの髪は短く、それを金色に脱色している。肌は良く日焼けし、小麦色だ。顔は……決して不細工ではない。ただまつげが長く、やや大きめの目は若干垂れ目で、顎が割れている。かなり濃ゆい顔立ちで、あまり一般受けはしないだろうと思われた。
「スパルタ団……メンバーは何人?」
「今は俺一人だ」
熊野は胸を張ってそう答え、巽は「一人かよ」とつい突っ込みを入れる。
「ようやく有望そうなメンバーを獲得できると思ったのに……」
と熊野は未練がましい視線で巽を舐め回し、巽は怖気を振るった。
「いや、今のパーティに充分満足していますから」
ゆかりが後ろで「そりゃハーレムだもんね」とか言っているのを巽は無視。熊野は「そうか」と残念そうなため息をついた。
「だが気が変わったら声をかけてくれ。我が団の門戸はいつでも開いている」
そして熊野は巽達に背を向けた。
「それでは縁があればまた会おう、少年――我が友よ」
そう言い残し、熊野はその場から立ち去っていく。巽はしばらくの間その背中を見送った。
「……変わった人でしたね」
とのしのぶの呟きに、
「冒険者にはおかしいのが多いってよく言うもんね」
ストーカーが何か言ってる、と思いながらゆかりが頷き、
「ええ、全く」
ダメ人間が何か言ってる、と思いながら美咲が頷き、
「……」
アホの子が何か言ってる、と思いながら巽が無言で頷いていた。その巽の横顔をしのぶがじっと見つめていて、
「ああ、傷だらけの巽さんも格好良いなぁ」
等と思っているがそれだけではなく。
「……巽さんはあの人のパーティに未練があるんですか?」
「未練?」
巽は意外なことを言われたように一瞬首を傾げた。少しの間を経て、巽は自分の考えをまとめる。
「未練と言うか……ちょっと考えていたんだ。もししのぶや、美咲やゆかりさんを紹介してもらえなかったら。もしずっと一人だったら、一も二もなくあの人の誘いに乗っていただろうな、って」
「そんなこと考えても仕方ないでしょう。今はわたし達がいるんですから」
と美咲。さらにゆかりが、
「もしかして巽君、わたし達に何か不満でも?」
と自分の豊満な胸を巽の腕に押し付けるようにし、赤面した巽がゆかりの身体を押し退けた。
「不満なんかあるわけないでしょう。みんな、俺にはもったいないくらいのパーティメンバーです」
そう、彼女達に不満などあるはずがない。あるとするならそれは力の足りない自分自身に対してだ。
巽達は大阪に戻るために転移施設へと向かった。元々巽は口数がかなり少ないが、今日はさらに減っている。巽はスパルタ団に対し、ゆかり達には告げなかったある考えを抱いていた。
「もし、みんなが力をつけて青銅に上がって、俺一人だけが石ころに取り残されたなら……」
そのときはスパルタ団に入ることになるのかもしれない――可能性は決して低くないその未来図に、巽の思考は囚われていた。
翌日の火曜日は巽達にとっての狩りの日だ。巽達は例によってヴェルゲラン支部の前にやってきていて、開拓地へと向かおうとしていた。
「よお! 縁があったようだな」
と四人に声をかけてきたのは熊野亮だ。巽は思わず一歩引き、しのぶ達は二歩も三歩も下がっている。
「どうかしたか?」
「それはこっちの台詞ですよ。その格好は……」
熊野の武器はハルバード。装備は、グローブ、ブーツ、黒いパンツに赤いマント、それにラウンドシールド……それだけだ。上半身裸どころでなく、パンツ一丁である。マントも身体を隠すことにはほとんど使わず、鍛え上げられた筋肉を余すことなく誇示している。
「これは我がスパルタ団の正式装備だ」
熊野はそう言って巽達に対して斜めとなり、右腕を直角に曲げてその手首を左手で掴んで――ボディビルのサイドチェストのポーズを取って見せた。別の生き物のようにピクピクと動く胸筋に、しのぶ達がさらに遠くに逃げていく。
「もしかしてスパルタ団に入ったらその格好を」
「当然してもらうぞ。少年なら俺と並んでもそれほど見劣りしないだろう」
この瞬間、仮にまたソロになったとしてもスパルタ団に入団するという選択肢は巽の中から永久に削除されたのである。
……中継地点をいくつか挟み、巽達は第二一三開拓地へとやってきた。以前使ったのはレベル一〇台のモンスターが出てくる狩り場だが、今回はそこに隣接する、レベル三〇台が出没する狩り場へと向かっている。
「……それで、どこまでついてくる気ですか」
「細かいことは気にするな! 狩りは道連れ世は情けと言うだろう」
熊野はそう言って笑い、巽はため息をつく。そのとき、熊野が耳をそばだてた。
「熊野さん?」
「出てくるぞ、用意しろ」
熊野の警告に巽と美咲は戦闘態勢に移行。それほど間を置かずにモンスターが姿を現した。上半身は人間の女、下半身は蜘蛛の、キメラ系モンスター――アラクネーだ。
「防御は任せろ」
「お願いします!」
巽と美咲、それにしのぶがアラクネーへと突進する。アラクネーもまた三人を獲物と見定め、牙を剥いた。下半身の蜘蛛が口から何かを噴き出す。美咲としのぶは横に飛んで逃げたが巽はガントレットでそれを受けた。
「くっ、糸か!」
それは高い粘着力を有する蜘蛛の糸だ。アラクネーは糸を戻して巽を引き寄せようとし、巽は大地を踏み締めて抵抗した。両者の綱引きが均衡していたのは少しの間だけで、巽はアラクネーの方へと引きずられている。
「巽さん!」
「巽先輩!」
そのとき、しのぶと美咲が左右からアラクネーを攻撃した。一撃離脱をくり返す二人にアラクネーは苛立ったように啼いている。アラクネーの注意が二人へと向けられている、その隙を巽は見逃さなかった。
「巽君!」
それと同時にゆかりが巽へ「加速」の支援魔法を行使。巽はアラクネーへと向かって疾走した。元々糸で、強い力で引っ張られていた上にゆかりの支援魔法もあるのだ。アラクネーが何をどうする間もなく、突貫した巽が長剣を下半身への蜘蛛へと根本まで突き刺す。
「Gugigigigigi!」
アラクネーは断末魔の悲鳴を上げ、巽はとどめを刺した。突き通した剣をそのまままっすぐに上へと引き上げ、アラクネーの上半身を真っ二つにする。アラクネーの身体が魔核を吐き出し、それは無事に巽の剣に回収された。
狩りの様子を後ろで観戦していた熊野だが、
「良いパーティだな」
「そうでしょ?」
そんなことを言い、ゆかりと笑い合っている。だがそのとき、茂みを突き破ってモンスターが奇襲を仕掛けてきた。ゆかりを押し退けた熊野が間一髪で、ラウンドシールドでその攻撃を受け止める。
「ギガントタランチュラか!」
それは体長二メートルほどのギガントタランチュラだ。その大きさならレベルは二〇にも満たないだろうが、ただ素っ裸に近い熊野にとっては相手が悪すぎる――誰もがそう判断した。
「熊野さん!」
ギガントタランチュラの猛毒をわずかでも喰らえばポーションを使う間もなく即死である。巽は大急ぎで熊野の下に向かおうとし、
「見よ! 我が筋肉は鋼鉄の城壁!」
熊野が前屈みとなり両腕で大きな輪を作るようにする。それはボディビルのモストマスキュラーのポーズだ。熊野が歯を剥き出しにして笑顔を作り、その筋肉が光を放ち――無防備な熊野にギガントタランチュラが噛みついた。だが熊野は笑顔を保ったままだ。
「Gyugyugyugyu?!」
噛みついた方の牙が折れ、ギガントタランチュラが戸惑ったような悲鳴を上げている。その間も熊野は気持ち悪い笑顔を絶やさない。熊野がゆっくりとハルバードを振り上げ、
「フンッ!」
得物がギガントタランチュラの胴体を貫通する。吐き出された魔核は熊野のハルバードに回収された。
ギガントタランチュラの屍体を投げ捨てているところに巽達が集まってきた。ただししのぶや美咲は巽を盾にするような立ち位置だったが。
「……それが熊野さんの固有スキルですか?」
「その通り!」
既に筋肉の輝きは失われていたが熊野はまた別のポーズを取っている。
「『筋城鉄壁(Muscle Castle)』――見ての通り、あらゆる攻撃を寄せ付けない防御技だ」
なるほど、と巽は感心した。
「その固有スキルがあるからパンツ一丁のその格好でも問題ないのか」
問題はあるでしょ、と後ろでゆかりが突っ込んでいるが巽の耳には届いていないようだった。
……巽達よりも順位が高く、経験も長いだけあって熊野は優秀な冒険者だった。その彼がメイジの直衛に専念しているので巽と美咲は前衛として全力で狩りができ、それをしのぶがサポートする。彼等はレベル三〇台のモンスターを調子良く狩っていき、景気良く魔核を回収していった。
そして夕方となり、巽達はヴェルゲランへと戻ってくる。今回回収した魔核は二〇個以上、五〇〇メルクを超える収入となった。巽はそれを、熊野も含めた五人で均等割する。
「いいのか? 俺は大して働いていなかったぞ」
「そんなことはありません。熊野さんがいたからこそ俺達は全力を出せたんです」
それ以上は熊野も何も言わず、ありがたく自分の取り分を受け取った。その後彼等は転移門を潜って大阪まで戻ってくる。巽達五人はマジックゲート社大阪支部のビルの前に集まっていた。日は既に沈み、夜の帳が大阪の街を包んでいる。
「よし、少年! 飲みに行くぞ!」
熊野がそう言って巽の首に腕を回した。その暑苦しさに閉口した巽が腕の中から逃れようとする。
「おっ、いいわねぇ。どこ行こうか?」
とゆかりは非常に乗り気だったが、美咲としのぶはあまり気が進まないようだった。その三人に対し、熊野が片手を拝む形にする。
「済まんな、今回は男同士の話があるんだ。ゆかりさんとはまた今度、二人きりで」
ゆかりは軽い態度で「そう?」と頷いた。
「それじゃほどほどで帰ってきなさいよねー」
ゆかりはそう忠告してあっさりと去っていく。美咲やしのぶもまたゆかりと一緒に帰路に就き、その場には巽と熊野が残された。
「……俺、未成年ですから飲めませんよ?」
「別にいいさ。俺も飲むより食う方がずっと好きだからな」
巽と熊野は繁華街に移動。行き先は一度行ったことのある、飲み放題食べ放題の居酒屋だ。その店に入った二人はまずは生ビールと烏龍茶と、肉料理をある限り頼んだ。熊野は自分で言う通り、馬食はしても鯨飲はしなかった。巽は最初から食うことだけに専念している。狩りで腹を減らした、巨体の二人がひたすら食って食って食いまくり、店長は青い顔をしていたかもしれない。
「……それで、何か話があるはずじゃ?」
一通り食って腹の具合も落ち着き、ようやく巽が話を向ける。
「そうだな」
と熊野はまず生ビールのジョッキを一気に飲み干した。そして、
「お前のパーティに入れてくれ」
単刀直入に用件を告げる。巽は目を丸くした。
「……でも、順位は熊野さんの方がずっと上で」
「俺はもう二年も続けてこの程度だ。やはりソロでは限界がある」
「ずっとソロだったんですか?」
熊野は「そういうわけじゃない」と首を振った。
「これまでいくつかのパーティに加入したことはあるが、色々と不運が重なってな。人間関係でパーティが崩壊したり、人間関係でパーティが分裂したり、人間関係でパーティを追い出されたり」
それは本当に不運なだけなのか?と巽は疑問を抱いたが、とりあえずは話の続きを促した。
「順位が上と言ったところでほんの千余りだろう。お前達なら一月もあれば追い抜いてしまうかもしれん。同じ組むなら上に行ける奴等と組みたい」
「そう思うのは判ります」
ただ、仲間だけが上へと上がっていき自分だけが取り残されることもあり得るのではないか……そう思わずにはいられなかったが。
「俺の実力は今日見せた通りだ。一緒にやるのに不足はないと思うが?」
少し考え、巽は熊野に返答した。
「俺の一存では決められません。みんなと相談して返事しますので、それまで待ってもらえますか」
「それが当然だろうな。判った」
熊野もこの場での回答は要求しなかった。本題の用件が片付き、話は余談へと移っていく……あるいはこちらの方が本題だったのかもしれないが。
「正直言って即座に断られるものと思っていた。自分のハーレムに他の男を入れるのは嫌だろう」
「ハーレムじゃありませんよ」
巽は当然そう言うが熊野はそれを信じないようだった。
「何言ってやがる、あんなタイプの違う美人美少女を集めておいて……! お姉さん・同級生・ロリ、爆乳・普乳・微乳、選り取り見取りの選び放題だろうが!」
ロリってしのぶのことか? あいつは美咲よりも一学年上なんだけど……と巽はどうでもいいことを考えていた。
「それで、誰がお前の本命なんだ? 少年」
「いや、確かに三人とも美人で可愛いと思いますけど、そんな風には……」
「きれい事を言うなーっ!!」
熊野は血涙を流しそうな勢いで巽を否定する。
「少年だって健康な成人男子だろうが! 彼女達と仲良くなりたい、ああしたいこうしたいと思ったことがないなどとは――」
「そりゃ、もちろんありますけど……」
巽は気まずそうに肯定した。
「でもあの中の誰かと付き合うようになって、もしそれでパーティが崩壊したらどうするんですか。あのパーティなら青銅になることだって決して夢じゃないのに」
「む……確かにそれで慎重になるのは判る。俺が以前いたパーティの一つも、それで潰れていたからな」
熊野は少しの間考え込んだ。
「……となると下手にパーティに入るよりはパーティの外にいて、距離を縮めていく方がいいのか?」
「あの三人の誰を狙っているんですか?」
「そんなの、ゆかりさんに決まっているだろう」
熊野の即答に巽は一拍置いて「……ああ」と理解の声を出した。確かにゆかりなら熊野と年齢的にも釣り合うし、女の魅力でもあの三人の中では一番だ(特に胸)。狩りの場では優れたメイジとして信頼できるところも見せている。……ただ、
「普段のゆかりさんは家事も分担しないで四六時中飲んだくれてるし、借金にも抵抗ないし、どうしようもないダメ人間だからなー。この人そこまで知らないんだよな」
そこまで知っている巽としては、誰か一人と付き合うとしてもゆかりだけは「ない」だろうと思っている。そこまで知らないのなら、まずゆかりを選ぶのは納得と言うものだった。
「冒険者は男の方が多いからな。女は選ぶ方で、男は選ばれる方。女の冒険者が選ぶのは上に行ける男だ。下で燻っている奴なんぞ歯牙にもかけられん」
「それは一般社会でも同じですよね」
「ああ。ただ、冒険者が上に行く方法は一つしかないし、順位も明確で競争も熾烈だ。女が男を選ぶのも自然とシビアにならざるを得ん」
色恋沙汰で崩壊するパーティが後を絶たないのもそれが理由の一つだった。
「いっそ冒険者から探さないで、外で恋人を探したらいいんじゃ?」
「確かにそうなんだが、なかなか知り合う機会がなくてなー」
「俺もアルバイト先が町工場で、同僚はおばさんばっかりです」
「俺の勤め先はこんな感じだ」
と熊野はスマートフォンに写真を表示する。そこに写っているのは何人もの、笑顔の、筋骨隆々のボディビルダー達だ。
「スポーツジムのインストラクターをやっているんだが、受け持っているのはこんな連中で周りはむさい男ばかりだ」
さらに熊野はブラウザを開いてあるブログを表示した。
「俺の一般向けのブログだ。いずれ青銅になったときのために今からスポンサーを探して、一般のファンも獲得して……と考えて色々やっているんだが」
青銅以上の冒険者にはプロスポーツ選手のように企業がスポンサーに付くことがある。冒険者が「儲かる商売だ」と見なされるのも、スポンサーを有する冒険者が一般に対して目立っていることが理由の一つだった。確かに青銅になれば獲得するメルクは万を軽く超え、円に換金すれば一億にも二億にもなるだろう。だがそのメルクのほとんどは装備の更新に使われ、生活費や遊興費に回されるのはほんのごく一部である。もちろん例外も多いが、「青銅になっても生活は前と変わらない」という冒険者の方が大多数だった。
「スポンサー、見つかりましたか?」
「八千番台の石ころを相手にする企業なんか……」
と熊野は苦笑する。
「一般のファン、付きましたか?」
その問いに熊野は黙ったまま、ブログのコメント欄を表示した。
『どこのハッテン場に行けば会えますか? 兄貴!』
「こんな書き込みばっかりな俺の気持ちが判るか?! 少年!」
熊野が噛み付くように吠え、巽が「判りたくありません!」と即答。熊野は、
「ちくしょう、俺は普通に女が好きなのに……」
と自棄酒を煽っている。巽は熊野に同情するがその一方で、
「これは仕方ないんじゃないかなぁ……」
そう思わずにもいられなかった。ブログに掲示された写真の一つ、そこでは上半身裸の熊野が口にバラをくわえながらポーズを取っていたという……。
翌日、夕食の席で巽は三人に「熊野亮をパーティに入れる件」について提案する。三人はまず沈黙をもってそれに応え、それは思いがけず長く続いた。
「……その、実力的には何も問題ないと思うんだが」
巽が返答を促すように言い、
「ええ、確かに。実力に不足はありません。ですが……」
と美咲。
「問題はそこじゃなくてねー」
とゆかり。
「あの格好は『ない』です」
としのぶが結論を述べ、美咲とゆかりも頷いている。あまりにあっさりと否決され、巽は中途半端な笑顔を硬直させた。
「その……そこまでダメかな?」
「他人事なら笑っていればいいですが、自分のパーティを笑われたくはありません」
と美咲。しのぶもいつになく強く自分の思いを主張する。
「一緒にいて仲間だと思われるのは恥ずかしいです」
その結論に巽はぐうの音も出てこない。その後、巽は冒険者SNSを使って熊野に対し、パーティ加入が否決された旨のメッセージを送った。巽は対人関係のスキルがまだまだ不足していて、否決の理由も遠回しにすることなく、言われたことをほぼそのまま書いてしまう。その結果、
『どちくしょーーー!!!』
という熊野からの返信には、夕陽に向かって走る熊野の後ろ姿の写真が添付されていた。どうやら画像をコラージュして作ったものらしい。
「結構余裕があるんだな」
と巽が一安心し、そして次の火曜日。
「ふっ、また会ったな。少年」
ヴェルゲラン支部の前で熊野が巽達を待ち構えていた。この日の熊野はパンツ一丁ではなく、その上から麻布の服を身にしている。防御力という意味ではパンツ一丁とほとんど変わらない装備だったが、社会的には大違いだった。
「今日も同行しても構わないか?」
熊野の依頼に巽は素早く三人の顔色を窺う。常識の範囲内の服装に三人も反対はないようだった。
「ええ。それじゃ今日もよろしくお願いします」
その日の狩り場も第二一三開拓地であり、前回に負けないくらいの収穫で無事に狩りを終えることができた。以降、熊野はパーティメンバーだとも、そうでないとも言えない、曖昧な立ち位置を占めることとなる。
「いいんですか? これで」
「別に構わんよ」
巽の確認に熊野はそう言って肩をすくめた。
「今無理に加入して変に浮くより、時間をかけて親しくなった方がいいだろう。実質的には加入しているのと何も変わらないんだから」
その次の火曜日も熊野は狩りに加わり、回収された魔核は熊野も含めた五人で均等に配分された。また、熊野は狩り以外でも巽達と接触を持つべく努力していた。ある日の平日、
「よう、こんにちは」
「あれ、熊野さん?」
美咲としのぶがアルバイトをしているファミリーレストラン。熊野は何人かの男を連れてそこにやってきた。熊野の同行者は全員プロレスラーみたいな体格の持ち主で、熊野の勤めるジムのボディビルダーなのだろうと思われた。
「京都に行く用事でちょっと近くを通ったからな。どうせ飯を食うなら知り合いのところにしようと思ったんだ」
「そうですか。ごゆっくりしていってください」
と美咲は営業スマイルを見せる。同じシフトにはしのぶも入っていたが二人とも仕事中であり、それを放棄して熊野と話し込むことはできない。料理を持っていくついでに二言三言世間話をするくらいだ。
「あ、あんな可愛い子が冒険者なんだ……」
と熊野の同行者の一人が熱に浮かされたようになっている。ただ彼は非常に奥手で社交性に乏しく「知り合いの知り合い」でしかない美咲達に話しかけるなど思いも寄らない。スマートフォンでこっそりと二人の写真を撮るのがせいぜいだった。
食事を終えた熊野が退出し、美咲としのぶは普段の業務に戻っていく。二人にとって熊野の訪問は日常のほんの小さな起伏であり、その日の夜には言われなければ思い出せないような出来事でしかなかった。
……それが彼女達にとっての大事件へと発展するのに必要だったのは、ほんの数日の時間だったのだ。
『本当に済まん!! 俺のミスだ!』
金曜日の昼。休憩中に更衣室で自分のスマートフォンを確認した巽は、熊野から五分置きに十数件もの着信が入っている事実を発見した。さらにはゆかりや美咲、しのぶからも何件もの着信が入っている。巽はまず熊野に電話を入れ、一コールもしないうちに熊野が出――開口一番で熊野が土下座せんばかりの勢いで謝ってきたのだ。
「何があったんですか?」
『ネットで検索をかけてみてくれ。「石ころ」「冒険者」「可愛い」とかで』
冗談みたいな指示に首を傾げながらも巽は言われた通りにする。表示された無数のリンクを上から順に読み上げていき、
「『【千年に一度】超絶可愛い冒険者が発見されるww【石ころ】』……」
『それだ、それを開け』
言われた通りにリンクを辿っていくと、開示されたのは某匿名掲示板のまとめサイトだ。スクロールして内容を見ていき――巽はそのまま言葉を失った。
『な? すげえ可愛いだろ?』
『確かに青銅でもこんなに可愛いのはなかなかいないぞ』
『ファミレスでバイトかよww さすが石ころはビンボーだなww』
『これどこだ? 情報求ム』
『うちの近所! 待ってろ、写真撮ってくる』
『潜入ww 期待ww』
隠し撮りされたと見られる美咲としのぶの写真が掲示されている。さらに写真が何枚も追加されている。掲示板を見た何人もの野次馬が二人の勤め先に行って、隠し撮りをしているのだ。中にはスカートの中を窺うような、きわどい写真も混じっていた。掲示板の住民は大喜びで大騒ぎをし、「もっと撮ってこい」と煽っている。
「こ、これ……」
スマートフォンを持つ手が震える。巽は怒りとも焦りともつかない感情に心と身体を支配された。
『この間、俺がジムの仲間と一緒に二人の店で飯を食ったんだ。その中の一人が二人のことを隠し撮りしていた。そいつが冒険者マニアだってことは知っていたがまさかこんなことをするなんて……』
熊野は苦り切った様子でそう言う。巽の混乱は限度を過ぎたためその口調はかえって平坦となっていた。
「その人が写真を拡散したんですか」
『ああ。そいつはネットの仲間内で見るだけのつもりだったようだが、「仲間内」の中にはそう思わなかった奴がいたってことだ……いるに決まっているだろうがそんなもの』
熊野はそう吐き捨てる。巽は深呼吸を数回し、冷静になるべく尽力した。
「二人には連絡を?」
『ゆかりさんを通じて連絡してもらっている。俺は休暇をもらって駅前で待機中だ』
「判りました、俺も行きます」
巽は昼でアルバイトを早退し、自転車に乗ってJRの駅へと向かう。自動車にも負けないほどの速度で車道を疾走し、ものの数分で駅に到着した。田舎の小さな駅のことであり、熊野と合流するのは何も難しくはなかった。巽よりも先にゆかりもやってきている。
「早かったわね、巽君」
「悪かったな、少年」
「いえ、それよりも……どうするんですか?」
巽の問いに、少しの間熊野とゆかりが沈黙した。
「自分の写真を勝手に撮られてそれをネットでばらまかれるって、そりゃ気持ち悪いよね。しのぶちゃんがかなりショック受けてるって」
ゆかりはいつになく嫌悪感を露わにしてそう言う。
(しのぶちゃんはずっといじめられてたらしいからねー。いじめっ子達が写真を見るんじゃないかって不安なんだろうねー)
ゆかりはその憂慮を自分の内心だけに止めていた。
「……はっきり言って、拡散自体はもう止めようがない。暇人共が飽きるのを待つしか……」
熊野は言葉に深い悔恨をにじませた。
「今二人は?」
「店に二人目当てっぽい客がいるから、店長にお願いして裏方に回してもらっているって」
そうか、と巽は少しだけ安堵した。
「とりあえず、これ以上隠し撮りをされるのを防がんと」
「そうね。もう、しばらくバイト休んだらいいんじゃない?」
「そうですね。今日から日曜まで休んで、月火は元々休みですし」
「そこまで行けばもう年末か。燃料の補給がなければ暇人共もさすがに飽きて、別の話題に移っているだろう」
それで解決……するかどうかは何とも言えない。だがとりあえずでも対策が立ち、巽は気分的に大分落ち着いた。
その後、三人は熊野の自家用車を使って美咲としのぶのファミリーレストランへと移動した。ゆかりはバックヤードの二人の下へと向かい、巽と熊野は客席に座る。料理を注文し、普通の客の振りをしながら注意深く店内を見回した。
「いたぞ、多分あの連中だ」
熊野が顎で巽の後背を指す。巽がスプーンを使って後ろを見ると、そこには何人かの若い男が座っていた。その連中の一人が一眼レフの大きなカメラを構え、何度も店内を見回している様子がスプーンに写っている。
「……っ」
巽がスプーンを握り締め、それは飴よりも簡単にねじ曲がった。
「放っておくしかない。我慢しろ」
「でも……」
「ここで暴力沙汰でも起こしてみろ。ネットイナゴが大喜びで食いついてくるだけだ」
その理屈は巽にも理解できる。やり場のない憤懣は腹に抱え込むしかなく、巽の腑は煮えくり返りそうになっていた。そこにゆかりからの着信、巽は〇・五秒でそれに出た。
「もしもし、どうなりました?」
『まだ交渉中。今日はもう早退して、明日明後日と休ませてもらって、って話をしたんだけど、ちょっと難しいみたい。そりゃ、祝日で土日でクリスマスだもんね』
巽は「うーん」と唸ってしまう。このかき入れ時に二人に休まれると大変だ、という店の事情は容易に想像できることであり、それを無碍にしにくいというのも人情的によく判る話だった。
「……二日半全部でなくても休めるだけ休んで……あとできるだけ裏方で仕事をするとか、深夜とか早朝とかのシフトに入るとか」
『うん、今その方向で店長さんとすり合わせてる。進展があったら電話するね』
「お願いします」
そうして一旦電話が切られ、巽と熊野は無言で、腕組みをして次の電話を待つ。料理が出てきて、それを食べ終わる頃にようやくゆかりからの電話が入ってきた。
『決まったわ。土曜と日曜の遅い時間に入らなきゃいけないけど、あとは休めるって』
そうか、と巽は安堵のため息をついた。
『今日はもう上がれるけど、いつもみたく歩いて帰って変な連中に尾行でもされたら嫌じゃない? クマやんに家まで送ってもらうように言って』
「判りました」
巽はゆかりの依頼を熊野に伝え、熊野は「判った」と会計を済ませ、駐車場へと向かう。巽は自分の自転車を回収するため四人と別れ、一人駅まで歩いていくこととなった。
「くそっ……何だってこんなことに……」
行き所のない苛立ちを踏みつけるようにし、巽は寒々しい冬の町を一人歩いていく。




