セルジュ対フォルス
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これはとある田舎の、とある家族の話。
ある時、家族が住む地方に凶暴な炎の魔獣が住み着いてしまいました。
その魔獣はただそこにいるだけで空気を乾かし、雨雲を喰らいます。豊かだった大地は渇き、植物は枯れていきました。家族が育てていた畑も枯れ、果樹園は色を失いました。
日ごとに食べ物がなくっていき、家族はみんな困ってしまいます。
これはとある田舎の、とある家族の話。
魔獣の被害に晒された、とある家族の話。
1
うーうー。
どうしようどうしようどうしようどうしよう。
穴があったら入りたい。
これは東にある国の格言だが、まさに今、私はそんな気持ちだった。
残念ながら私の部屋に穴なんて無いから――当たり前だけど――その代わりに布団に潜って、ついでに頭の上には枕をのせて光を遮断する。こうして真っ暗闇に包まれると世界で自分一人だけになってる気がして、自分がしたことすること全部些細なものに感じてくるので、少し落ち着く。
まあ、現実逃避というやつなんだけどね。
でもしょうがいないじゃん!? セルジュって名前自体、王国ではありふれたものなんだから、まさかそれが本人だなんて思わないじゃない!?
しかもずっと前線での活躍話ばっかり耳にしてたから、まさか王都に来てるなんて思わなかったし!
クルカの実を顔面からぶつけられて汁塗れになり、何とも言えない表情を浮かべた彼の顔を思い浮かべて、私は呻くことしか出来なかった。
二等精霊司のセルジュ。
精霊機を扱えない二等分類された精霊司でありながら、訓練校卒業者の中で優秀と認められた者のみに与えられる銀章を手にした人物。その活躍は前線に出てからも途切れることなく、今では二桁に届く精霊機撃墜記録を持つという王国内の二等精霊司の間で屈指の有名人物であり、そして羨望の的だった。
それは私も例外ではなく、彼は憧れだったのだ。
きっかけは三校合同訓練。
まだ私が訓練校に所属していた頃の出来事である。
毎年初夏、丁度今の時期くらいにエストランジュ王国では、国内に全部で三校ある訓練校合同による大規模共同訓練が行われる。そしてこの合同訓練の締めに行われる大規模演習では、三つの訓練校の間で実戦さながらの激しい演習が交わされることになる。
その時の光景がまだ、私の瞼には焼き付いているのだ。
その年の演習は平地での戦いだった。
平地での決戦となれば、その主役は騎兵と精霊機である。精霊のマナの恩恵を受けた精霊司と言えども流石に馬よりも早く駆けることは出来ないし、個人の優れた資質など数の前では無いも同然だ。
多くの訓練校生徒は、この合同演習を通して初めて戦いの恐ろしさというものの片鱗を感じることになる。
大量の騎兵が駆け抜ければ地響きのように大地は揺れ、戦場を闊歩する精霊機の威容は戦意を挫けさせる。
私は汗と土に塗れながら、その戦場の主役達に恐怖した。
大多数の者達と同じように自分は戦場に転がる小石の一粒なのだと理解するしかなかった。
だがあの人だけは。
たった一人の二等精霊司だけは違っていた。
今でもあの時の衝撃は覚えている。
一人の精霊司が巨人を相手に真っ正面から切り結んでいたのだ。
ミスリルを鎧のように纏い、精霊のマナによって稼働する化け物を相手に生身の人間が剣を振り回して立ち向かっていたのである。
私はその時、時も場も全てを忘れてただ身体を震わせていた。それは決して恐怖によるものじゃない。
それは私だけじゃない。
きっと同じ光を見た精霊司は他にも大勢いたはずだ。
二等精霊司。
この格付けは、与えられた者達にとってはあまりにも絶望的だ。
精霊は生まれたときから人の体内に宿っており、その力の強さは最初から決まっている。それ以降、精霊が後天的に強くなったという例は存在しない。
つまり二等精霊司という格付けが王国から与えられたとき、もう一生一等精霊司には届かないのだという絶望を突きつけられるのである。
無論、精霊を持っていない人間の方が大多数という事を考えれば、二等精霊司も十分に選ばれた存在だといえるだろう。
しかし、だからこそ。
なまじ半端に力を持つ者だからこそ、二等精霊司達は上位精霊司達に対して手の届かぬ憧れを覚え、それと同時に押さえることの出来ない劣等感を抱えることになるのである。
特に貴族達にとっては、強大な精霊を持つことはステータスである。建国時から戦の絶えないエストランジュ王国は古くから精霊を戦に利用し、その力に頼って歩みを続けてきた。連々と血脈を重ねてきたこの国の古き貴族達は、精霊の力を増すために配合を重ねてきた怪物と言って良い。
現クラウシュト侯爵などが良い例だ。
王国内でも数える程しかいない特級精霊司の中でも最強と謳われる彼女は、一度の精霊行使でどんな戦況をも一変させる生ける伝説だった。
対して、精霊機も扱えず、己の肉体を使って戦う二等精霊司のなんと虚しいものか。
同じ精霊司といえどもこうまで差があれば、卑屈になるのが当然である。
だが、それを根底から覆す光景があそこにはあった。
二等精霊司。
下級や劣等というレッテルを貼られながら、精霊機を相手に互角に立ち回ったという事実。
それは失意に沈んでいた二等精霊司の光となったのだ。
もちろん、二等精霊司の中でも上と下は存在する。セルジュは二等精霊司としては強い力を持っていたのだろう。
けれども。
それでも。
王国によって二等の位階を与えられた下級精霊司が上位精霊司にも劣らない働きをして見せたという事実は、大きな影響を与えた。
それも一過性などではない。
彼は訓練校卒業後前線に送られ、実戦でもかつて無い程の戦果を上げていった。
その聞こえてくる活躍の噂に心躍らせた者達は決して少なくない。
彼は王国内の二等精霊司達の憧れであり、希望であり――そして、光明なのだ。
本来だったら、同じ職場でそんな彼と働けるなんて最高の出来事だ。それこそ今にもステップを踏み始めてもおかしくないくらいの興奮がある。
――――だというのに。
それを顔面に思いっきりクルカの実をぶつけるなんて……私は馬鹿なんじゃないの!?
幸い投げつけたクルカの実は熟したものだったから怪我をさせるようなことはなかったけど、柔らかな実は衝撃で潰れて、彼の顔を果汁と果実でベトベトにしてしまった。
新しい勤め先としては最悪な始まり方だろう。
言うまでもなく、向こうからしたら私の印象は最悪に違いない。
「……………………」
あうああああああああああああ――――――――!!!
馬鹿あああっ、私の馬鹿ああぁぁっ!
何してるのよおおおお!? もう少し何かあったでしょ!? いきなり相手の顔面に果物投げつけるとか、どんだけよ!?
――――落ち着け、落ち着け。
布団に潜り込んだままだけど、大きく深呼吸。
冷静に考えて、ここでは私の方が先輩なわけだし?
それにあの人は農民の出身だって聞いてるし、なら私の方が、た、立場は上よね……?
だ、だいたいっ!
不必要に挑発してきたのは向こうなんだから、因果応報っていうものでしょう、あれは!? ……そりゃ、私も見栄を張ってちょっとは悪かったかもしれないけど、先に手を出したのも私だし……ごにょごにょ。
――そう。
つまりは、痛み分けだ。
どっちも悪いのだ。
なら、色々と分からないところとかをさり気なくフォローしてあげて、そ、それでちょっと様子を伺ってタイミングが良いときにでもごめんなさいって言えば……許してくれるよね?
ああ、でも怒ってたらどうしよう……・。
結構女好きぽかったし、もし謝罪を受け入れる代わりに身体とか求めてきたら……ど、どど、どうしよう!? 身体とか洗っといたほうがいいのかな!?
そうしてからふと、自分の胸元に手をやってみて……溜息をつく。
私、胸は絶望的に無いのよね……。お母様とかお姉様は凄いのに。それどころか、五歳下の妹にすら……そんな私に手を出すはずなんてないか。私みたいに口悪くて、すぐに手が出ちゃう女なんて、セルジュも興味ないに決まってる。はあ。
――……って、違う! 違くて! そうじゃないっての!
これじゃ私がそうういう男女の関係になりたがっているみたいじゃないの!
あくまであの人は目指すべき目標というか、光をくれた恩人というか、強い憧れの対象であって、つまりは別にそういうんじゃないから。うん。
今の私はただちょっと、有名人に会って舞い上がってるだけだ。
平常心、平常心。
普通に。普通に接すればいいのよ。
貴族とか先輩とか関係なくて、私が悪いんだから、昼の時みたいな調子で話しかけて、素直にごめんなさいをすればいいんだ。
うん、簡単簡単。
それくらいは私にだって出来るはず。
……でも、明日は一応、朝一で身体を念入りに洗っておこう。
2
まだ夏前の、穏やかな風が草木を揺らして吹き抜けていく。
第二中央工房敷地内にある一角。
別段何かに使われているでも無いその空白の地帯の真ん中で、セルジュは手に剣を握って立っていた。
両刃のそれは大した装飾もなされていない、鋳型に鉄を流し込んで量産された粗末な代物である。手入れだけはされているのでそれなりの切れ味は保っているが、どう取り繕っても名剣と呼ばれる類いのものではない。必然、セルジュに宿る赤剣の精霊とは比べるべくもない粗悪品である。
「ふっ」
小さな呼気と同時に一歩を踏み出し、剣を振るう。
セルジュが鍛錬にこの粗末な剣を用いているのには当然理由がある。
この質よりも量を体現したかのような得物は十把一絡げ、王都の武具屋にでも行けば乱雑に積み重ねられているようなものであるが、刀身の長さと、重量、そして柄を握ったときの感触が、よく似ているのである。セルジュの精霊に。
剣を振るというのは気分が良い。
故郷の村を出て訓練校に行く前から習慣づけていた簡単な動作であるが、ただ額から汗を流して無心に剣を振っていると次第に周囲の音が消えていき、世界に自分だけが存在しているような錯覚を覚える。
剣は自分が握っているのでは無く、腕の延長。
刃の切っ先にまで神経を張り巡らせながら、ひたすらに剣舞を踊る。
最初は変哲の無い打ち下ろしを繰り返し、そこから次は横凪へと切り替え、そして突きへ。自分の身体に溜まった淀みを探すように動かしていき、基礎から順々に洗い出していく。
これは謂わば、手入れだ。
兵士が剣や鎧に気を遣うように、騎兵が己の愛馬を労るように、自分の身体という器にも気を遣っているだけの話である。
人間が血肉の通う生物である以上、毎日が同じ調子であることは有り得ない。常に好調であるように思えても実際には些細な調子の波は存在しており、その僅かな落差が剣に影響を及ぼし、時には戦場で大きな分かれ目となることもある。
故に、セルジュはその微細な調整を鍛錬の中で行い、日々の間に存在する落差を均一に均すことを半ば習慣にしていた。
腕を振り、足を動かし、身体の動き、体内のマナの流れを仔細に感じ取っていく。どこか動作に違和感を感じる部分があれば何度でも同じ動作を繰り返して、徐々に修正していく。
そうすることによって日々の調子の落差を限りなく薄め、調子を均等に均していく。
「――――――!」
呼気を整えて、上から下へ一刀両断。
振り抜いた剣をピタリと止めて、セルジュの剣舞はそこで停止した。
粗末な剣を鞘に仕舞い込むと同時に、ぱちぱちという乾いた音が聞こえてくる。セルジュが用意しておいた白布で汗を拭いながら見やると、両手を叩きながら歩いてくるフォルスの姿が目に入った。
「やあ、人の気配がしたから来てみたんだけど。朝から精が出るね」
清潔感のある短い金髪に、人好きのされそうな整った容姿と、柔らかな表情。
一見して嫌味が全く見当たらない成り立ちで、街中などですれ違ったならば異性は思わず振り返ってしまうだろう存在感の持ち主である。
フォルス=ディ=テイラー。
テイラー家は例の〈アルテナ〉の開発支援を行っている王国貴族のうちの一つであり、フォルスは人材支援の一環としてここ第二中央工房へとやって来ているらしい。
昨日のやり取りでも分かるとおり、一等精霊司でありながら二等精霊司に対する蔑視はまるでなさそうである。その原因がテイラー家が然程位階の高くない貴族だからなのか、或いはフォルス自身の人柄によるものなのかは分からないが、ここに来たばかりのセルジュにとってはある程度気軽に話せる貴重な相手であった。これで美女だったならば言うことはないのだが。
「慣れた様子の剣筋だった。長いのかい?」
「子供のころからの習慣だからな、する暇があるときにはしとかないと落ち着かないんだ」
「ああ、なるほど。その気持ちは僕も分かる気がするな」
セルジュの言葉にフォルスは同意した。
「例え面倒に感じていたりしたことでも、毎日習慣として続けているとそれが当たり前になってしまうから、いざ止めるとすごい違和感というか物足りなさを覚えてしまうんだ」
「そうそれ」
セルジュは頷き返す。
訓練校時代、担当教官の言いなりになって毎日馬鹿みたいに走って動いて胃の中身を逆流させていたというのに、学年が上がってそういった理不尽なしごきが減ってくると妙に物足りなさを感じてしまったものである。体力も時間も持て余してしまい、結局する必要も無いはずなのに似たようなことを始めてしまうのだ。
あれも一種の麻薬のようではないかとセルジュは昔を思い出しながら、ふと、今日この場所で鍛錬を始める前の疑問を思い出した。
「そういえば、無断でこの場所使ってたけど、問題はなかったか?」
「ああ、そこは気にしないでいいよ。こんな工房の端っこなんて誰も使いはしないんだから、多少五月蝿くしても誰も怒りはしない……ああ、ただ同じような空き地でも、資材保管所の裏側は止めた方が良い」
「うん、なんでだ?」
「工房で働いてる女性技術者達が野良猫を餌付けして飼っているんだよ。もし騒がしくして居着かなくなったりしてしまうと可哀想だ」
「なるほど」
セルジュはもっともらしく頷きながら、今聞いた言葉を深く心に刻み込んだ。
女性職員達が集まっているということは、つまりそこに出会いがあるということである。
明るい未来を想像してセルジュが目を細めていると、その様子を見ていたフォルスが呆れた様子で息を吐き出した。
「どうやら僕は余計なことを言ってしまったようだね……。お願いだから変な問題は起こさないでくれよ」
「安心しろ。俺は合意の上でしか手を出さない主義だ」
「……」
フォルスは何とも言えない微妙な表情を浮かべたが、セルジュは見て見ぬフリをした。魅力的な女性と近づける機会を見つけたというのに、それを無かったことにするなどセルジュには不可能なことだ。
「うん、まあ、いいや」
フォルスは諦めたのか、或いは無駄だと悟ったのか、疲れたように頭を振ってから、
「……――それはそうと」
そう呟いて、顔を上げた。
途端、空き地に流れていた穏やかな空気が変質した。
鋭敏にそれを感じ取ったセルジュは「うん?」と小さく首を捻って、見やる。そこには悪童のように不敵な表情を作ったフォルスがいる。
「さっきまでの素振り。察するに調子を整えていたみたいだけれど……どうかな? 相手を用意して実践的な最終調整をしてみるつもりはないかい?」
「……へえ」
その予想外の言葉に、セルジュは口の端を釣り上げた。
「あんた、一等精霊司だろう? 身体を動かすのは専門外じゃないのか」
一等精霊司は戦場において精霊機を操り、圧倒的な力を持って相手を蹂躙する。
それに対して二等精霊司であるセルジュは、常にその身一つで戦場を駆け抜けてきたのだ。自分の身体を用いた武芸はセルジュの十八番である。フォルスの実力がどれほどのものかは知らないが、生身での経験は間違いなくセルジュの方が多いだろう。
不敵に笑むセルジュに対して、フォルスもまたその端麗な顔に笑みを浮かべる。
「是非とも見せて貰いたいね。王国最高の二等精霊司の実力ってものを――我が手に在れ、シュハール」
そうフォルスが唱えると同時、彼の全身から明るい黄色のマナが流動、収束――その手の中には一つの精霊が現出していた。
フォルスは確認するように両手で数度その精霊を振るう。
鋭い風切り音が空き地に走り、フォルスはそのことに満足したかのように一つ頷くと、セルジュから僅かに距離を離して腰だめに構える。
その姿をじっくりと観察していたセルジュは「へえ」と息を吐いた。
「それがあんたの精霊か」
そう言って、フォルスの身長以上もある長い槍を興味深げに見やった。
頑強さとしなやかさを兼ね備えた美しい柄の先に、切れ味の良さそうな白く耀く刃。
一般的に普及している槍と違っているところは、矛先の逆、石突きの部分にも鋭い切っ先を持っていることだろう。
「……双頭槍っていうんだっけか、そういうの」
「よく知ってるね。あんまり王国では知名度が無い武器なのだけれど」
フォルスは手の中で精霊を遊ばせながら、苦笑する。
「僕の一族の精霊は代々槍に属する姿なんだ。僕のは少々変形だけど、前例が無いわけじゃあない」
「ああ、そういうのは貴族の利点だよなあ」
男性の精霊司が身に宿す精霊は武器の姿を持っているものだが、具体的にそれがどのような武器なのか、それを選ぶ余地は無い。精霊とは一種の先天的な才能であり、この世に生を受けたときにはもうその形状は決まってしまっている。
だがそれと同時に、精霊の力は血の影響を大きく受ける。
フォルスの言葉通り、何代持ちを重ねてきた貴族などはある程度精霊の系統も固まっていて、彼等は自分の一族に合わせた精霊の修練方法を継承し続けているのだ。
「俺みたいなぽっとでの精霊司だと、出来ること出来ないこと、何もかもが手探りだったからな」
人口も疎らな農村で生まれたセルジュの周囲には、精霊を扱えるものなど妹を除けば誰一人としていなかった。一体何が出来るのか、何をすれば良いのか、或いは何をしては駄目なのか。その全てを自分だけで模索する必要があった。精霊の知識を継承し、効率的な練方を幼少から行える貴族とは対称的であると言える。
「それで結果を残しているんだから、大したものだと思うよ」
「まあ、俺はまだ精霊が剣っていうオーソドックスな形だからよかったけどな。剣の戦い方なんて訓練校にいれば嫌でも身体に染みこませられるし、基礎は身につく」
一番悲惨なのは、セルジュと同じように精霊司の蓄積が一切無い環境で生まれ、なおかつその精霊が奇抜な形態をしていた場合である。
鞭や、身の丈以上の大鎌だったり、円月輪などいう実戦ではまず見ないような形をした精霊だと、訓練校に行ってもその扱いを教えられる人物が誰もおらず、多大な苦労を背負うことになる。そう考えると精霊とはつくづく不平等なものだ。
「来い、エゼルファルト!」
セルジュが己の精霊を呼び寄せる。全身のマナが手の中に集まっていき、歪な刀身を持った赤色の小剣を形作る。熱せられた鉄を連想させる色を持つ精霊の姿を、フォルスは興味深そうに見つめた。
「それが君の精霊か。勇ましいね、まるで猛る炎を形にしたかのようだ」
「ま、そこは赤の精霊だしな。……それよりも本当に大丈夫なんだな? 手加減なんてしてやれないぜ?」
セルジュは自分の手の中に収まった精霊の感触を確かめながら、フォルスに最終確認をした。
生身での戦闘力ならば、一等精霊司と二等精霊司の間に身体的な差は余り無い。
一等精霊司であろうが、二等精霊司であろうが、精霊が持つマナは強大だ。いずれにせよ生身の人間が耐えられる量ではない。王国が定めている精霊司の位階はあくまで身に宿した精霊を区分けするための指針であり、精霊司自身が許容出来るマナの量は大差無いのだ。つまりは一等精霊司であるフォルスであろうとも、セルジュに対しての能力的な優位は無いということである。
「あまり馬鹿にしないでくれよ。これで貴族の端くれ、物心つく幼い頃から厳しく躾けられるものなのさ」
「へえ」
セルジュが赤剣を身体の横に倒して地面と水平になるような変則的な構えをし、対するフォルスは待ち構えるかのように双頭槍の切っ先を向けた。
「ならばお手並み拝見っ!」
開始の合図は無い。
セルジュが脚に力を込め、疾駆した。
向かい合っていた二人の間にあった僅かな距離など、マナによって身体能力を強化した精霊司にとっては無いに等しい。ましてや先天色が赤であるセルジュにとっては、瞬きする間も挟まなかった。
小剣と双頭槍。
間合いに優れるのは後者である。
先を取ったのはフォルス。セルジュの精霊が振るわれるよりも早く、フォルスが両手で構えた切っ先が瞬閃となって駆け抜けた。
美しく、綺麗な軌跡。
幼くから躾けられてきたという言葉は虚言でも何でもない。王国の貴族達は精霊司であり、両の足で立つよりも早い時期からその扱い方を学び続けてきた練達者なのだ。
「ぜあっ!」
線、ではなく点。
突きという攻撃動作は相手を貫くために錬磨された、最速の一撃である。
こちらの身体目掛けて最短距離を突き進む切っ先に対して、セルジュは臆することなく深く踏み込んでいく。身体の軸をずらし、矛先とすれ違う。
風を切り裂く音が耳元を通り過ぎていく。
突きという速度の一撃に対して最も重要なのは、恐れずに踏み込む度胸。槍は間合いに優れた武器であるが、柄が長ければ懐での小回りが利きにくくなるのは必然。
流れていく柄の脇を滑るように駆け抜けて、セルジュは相手の身体へ向かって赤剣を振るおうとし、
「――ふッ」
「うお!?」
だが、潜り込んで優位を得たと感じたのは単なる幻想に過ぎなかった。
フォルスの手の中で握りが変化し、柄が踊る。ぐるりと双頭槍が回転を果たして石突き側の矛が先端へと入れ替わり、更には上からの打ち下ろしへと流れるような動作で繋がった。
横薙ぎへの変化は警戒していたセルジュも、その一撃は予想外であった。
受け止めるかどうか逡巡したのも一瞬、セルジュは地面を蹴って横へ転がる。鋭い切っ先を持った精霊がそこに打ち下ろされたのは、ほんの僅かに後のことだった。
精霊司のその一撃は地面を穿つ。
それと同時、激しい音を立てて地面が陥没した。
まるで上空から岩が落ちてきたかのような惨状に、セルジュは冷や汗を流す。
「まったく、これだから黄色の精霊司って奴は……」
先天色が黄色ということは、強靱で強固な性質を持っているということだ。
先天色赤の存在も身体能力などには大きな恩恵があるが、それでも流石に地面を陥没させるほどでは無い。速さの赤、力の黄とは精霊司の間に広まる至言であるが、よく言ったものである。
「僕から言わせて貰えば、間合い外からの刺突とそこからの変化技をあっさりと躱す赤の精霊司って奴は、ってところなんだけどね」
フォルスはそう言いながらも口元に笑みを浮かべていた。
その仕草の中にどことなく余裕のようなものが垣間見えて、セルジュはそうっと目を細める。
致命打を貰うことはお互いに無かったとはいえ、今の一連の切り結びに敢えて優劣の評を下すならば、最後に逃げの一手を選択したセルジュに敗北の印が押されることになるだろう。
しかし、当然セルジュにとってはその事実は面白くない。
お互いに全力を出していない流しのような模擬戦だとしても、セルジュにも実戦で鳴らしてきたプライドというものがある。安全な王都の後方勤務に笑われていては、前線で身を置いてきた者の沽券に関わるというものだ。
セルジュはゆっくりと息を吸い込んで五臓六腑に冷めた空気を染みこませると、じっくりとフォルスを見据えた。
剣と槍。
得物の有利不利で言えば間違いなくこちらが不利であろう。
だが生まれついて身に宿してきた精霊の差にいちいち文句など言うつもりはない。今自分の中に収まっている赤色の小剣――エゼルファルトとは今後とも生涯を共にしていくのである。この程度のことで一々嫌気などさしていられるはずがない。
先程フォルスが用いてきたのは槍術というよりは棒術に近いものだ。
槍の基本は『突き』と『薙ぎ』だが、『突き』から打ち下ろしの『打』へと変化するのは、意表を突かれた。切っ先の内側に潜り込んでそれで決着がつくほど、貴族が積み重ねてきた歴史は軽くないということだった。
「ほら、まだ終わっていないだろう!?」
フォルスがこちらの間合い外から槍撃を放ってくる。
突きの速度も見事だが、その引く戻しの動作も見事だ。基礎を蔑ろにせずに鍛練を重ねてきたのが一目で理解出来る、正道を行く美しい軌跡だった。
更には先程あっさりと踏み込まれた反省を踏まえてか、今度は柄のしなりを利用したことによって軌跡が変化する不規則な一撃でもあった。
槍と相対するとその鋭い穂先に目を奪われがちであるが、真に注目すべきはその攻撃を繰り出す土台となっている手元である。
セルジュはフォルスの放つ連撃を冷静に捌いていき、一瞬の隙を見計らって再度間合いの内側へと侵入する。
先程と違うのは自分の精霊である赤剣を、フォルスの精霊の柄に乗せていることだ。あの打ち下ろしへの不可思議な変化を防ぐために、押さえつけているのである。
「む!?」
こうするとセルジュも剣を構えることは出来ないが、それでいい。もう一歩間合いへ踏み込むことさえ出来れば、そこで押さえを取ったところでセルジュの剣の方が速い。
「やるね、だが!」
事態を悟ったフォルスが手首を返すと同時、押さえられていた双頭槍の柄がぐるりと小さな円を描いた。
遊びとも思えてしまうその仕草。セルジュはその意図を直ぐに悟る。
――巻き取るつもりか……器用な!
武器を奪い取って無力化する腹積もりなのだろう。
力ずくで押さえ込もうとも考えたが、単純な膂力では先天色が黄のフォルスの方が上だった。赤剣の切っ先を絡め取り、そのまま握りが甘くなるように柄が揺れる。
キン――と、甲高い音が鳴り響く。
灼熱色をした歪な小剣が陽光の光を反射しながら舞う。
呆気ないほど簡単に、セルジュの手の中から赤剣が上空に弾き飛ばされた。あまりの抵抗の無さにフォルスは一瞬だけ疑問を覚えたが、勝利の興奮がその違和感を押し流していく。無手になったセルジュを見据えると、うっすらと笑みを浮かべた。
そこ目掛けてセルジュは――全力で拳を突き出した。
「な!?」
弾かれたのではない。
フォルスの意図を悟ったセルジュはわざと指の握りを甘くして、掬い取らせたのである。そして先を見越した行動へと移行していたのだ。
その事実にフォルスはようやく気がついたが、遅い。
先天色赤のマナによって強化された精霊司が放つ拳打は、それそのものが最早凶器であると言っても過言ではない。黄色ほどの膂力は発揮出来なくとも、命を刈り取るには充分な威力を備えている。
迫る拳の影に焦りと驚愕の表情がフォルスの顔に浮かんだ。まさか精霊司が自分の精霊を手放して、素手で殴りかかってくるとは思っていなかったのだろう。
フォルスの大きく見開かれた両目の目前にまで握られた拳が差し迫り――その顔を陥没させる寸前で、ピタリと静止した。
起こった風圧が金色の髪を揺らす。
「……」
工房の敷地内の一角に、静けさが戻ってきた。
聞こえてくるのは朝鳥の囀りばかり。
フォルスの翠色の瞳はしばらくの間、目の前に突きつけられた拳を呆然と見つめていたが、
「…………参った」
暫くして、フォルスが悔しそうな表情と同時にそう漏らした。セルジュはその言葉を聞き届けてからほうっと息を吐き出して、静かに拳を下ろした。全身に張り巡らせていたマナの制御を開放して、姿勢を楽にする。
たった一度の模擬戦であるが、精霊司同士の戦いは一つ一つの動作に一切の妥協が許されない緊張の連続である。精神がごっそりと持って行かれるのだ。
「やっぱり君は強いな。……僕には何が足りなかっただろうか」
手に双頭槍の精霊を握りしめたまま悔しそうに訊ねてくるフォルスを眺めて、セルジュは先程の戦いの内容を思い返してみる。
「……一つはやっぱ、油断だよな。こっちが精霊を手放したときに勝ったと思ったんだろうけど、ありゃ赤点だ。実戦なら相手が行動不能になるまで、模擬戦なら相手が降参するまで油断はしちゃいけない」
まあ、勝負の内容がどういうものだったのか事前にルールを決めていなかったので、正直なところセルジュが正しいともいえないのだが。人によっては卑怯臭く見られるだろう。
だが幸いにしてフォルスはそうは思っていないらしく、セルジュの言葉に耳を傾けてゆっくりと頷いた。
「うん、その点については深く反省するよ。君の言うとおり、僕の意識は完全に試合になってしまっていたからね」
正直なところ、総合的な実力に関してセルジュとフォルスに大差は無かっただろう。
結果を分けた最大の違いは、目の前の戦いに対する意識の差だ。或いは前線の空気を吸ってきたセルジュと王都勤務であるフォルスの間にある、認識の隔たりかも知れない。
「それとなんつーか……いちいち動作が綺麗すぎるんだよなあ」
「綺麗?」
「最初みたいな変化技はともかく、突きとか巻き取りみたいな基本的な動作は見てるだけでなんとなく先が分かっちゃうっていうか……汚れが足りないんだよ」
錬磨され無駄を省いた技術は効率的で美しいかもしれないが、それ故に実直で焦点を合わせやすい。幾ら攻撃が速くとも先を見られてしまえば容易く凌がれてしまう。実際一撃の重みや速度はフォルスの方が上であったが、セルジュはあっさりと対応して見せた。
「雑さが足りないか……それは盲点だったな」
「まあこれはお前の家の槍術に問題があるんじゃなくて、個人の話だと思うぜ。こういったものは案外使い手の性格が出てくるもんだからな」
セルジュとフォルスはまだ出会ったばかりであるが、それでもフォルスが誠実な人柄だというのはセルジュにも感じられる。それは間違いなく美徳であるが、こと武芸に於いては悪い方に出てしまっているのだろう。
セルジュは白布で汗を拭き取りながら「ふむ」と考え込むフォルスをちらりと見やり、
「――指摘しておいて何だけど、フォルスはあんまり小手先の技とかに頼らないほうがいいと思うぞ。多分変に取り入れようとすると崩れるだけだから」
実直な剣筋には実直な剣筋なりに、良いところもある。
フォルスは間違いなくそちらのほうが性格的に向いているだろうし、今のまま向上していった方が先に続くだろう。
その言葉を聞いてフォルスは暫く考え込むように口元に手を当てて黙っていたが、少しすると、真っ直ぐにセルジュを見据えて礼を言った。
「いや、ありがとう、良い経験になったよ。色々と参考にさせて貰う」
その言葉にセルジュはむず痒いものを感じながら、じとりと変な目で見返す。
「……あんたも結構変わり者だよな。一等精霊司のくせに年下の二等精霊司の意見を聞くなんて」
「そうかい? 精霊司とは言っても同じ人間である以上、マナの許容量に大差は無いんだ。精霊機の有無はともかく、生身での条件は一緒じゃないか。ましてや年齢なんて関係ない。君は生身に関しては王国屈指の実力者だ。耳を傾けるに決まっているさ」
見栄や世辞ではなく、何の躊躇いも無くそういう言葉を言ってくる辺りが流石である。そう柔軟に考えられる人間は中々数が多くないだろうし、もしそう思っていても臆面も無くそれを口に出来る人物は更に減るに違いない。
性格良し、器量よし、身分良し。
思わず欠陥を探したくなるほどに無欠な人物であった。
「あんた、モテるだろう」
セルジュが思わずといった感じに呟くと、フォルスは暫し目を丸くした後に笑った。
「ははは、惚れないでくれよ? 僕にその気は無いし、一応言っておくとこれで婚約者もいるからね」
「なに、そうなのか!?」
思わずして飛び出てきた情報にセルジュは驚いた。そうしてからにっと口の端を釣り上げる。
「これは詳しく話を聞く必要がありそうですなあ」
「……これはまた余計なことを言ってしまったかな?」
前線帰りが浮かべた不敵な笑みを前にして、フォルスは小さく苦笑した。