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大陸の精霊司の軌跡  作者: ドアノブ
一話 前線
4/26

異動命令

  2


 クラウシュト侯爵の大規模精霊行使により敵主力防衛部隊を撃破しグランダナ樹林を掌握したエストランジュ王国軍は、進軍を止めて新たな結界塔の建築へと取りかかり始めた。

 相手の主力を撃破したとなれば追撃したくなるのが人の性であるが、今の時代においてはその法則は通用しない。


 現代の戦争は陣取り合戦にも似た様相を呈している。

 相手の結界塔を破壊し、こちらが新たに結界塔を築いて徐々に支配領域を拡大していく。それが基本だ。

 最高位の精霊司と精霊機を依り代にした大規模範囲攻撃。

 結界塔が無くなった陣営の末路は、先の戦いでクラウシュト侯爵が実戦して見せたばかりである。あれ程の規模の攻撃を可能とする特級精霊司は数少ないが、それでも複数人存在している。エストランジュ王国内にも――そして敵国にも。


 数の差を一瞬にして無に帰すあの一撃に晒されないためには、大陸の竜脈を利用した防護機構――結界塔の構築が必須だった。


 エストランジュ王国西部前線駐屯地。

 大陸中央へ進軍のための拠点となっているこの場所には、動員されてきた多数の兵士及び精霊機を収容するための簡易建設された施設が建ち並んでいる。今回の戦闘に於いて前線に用意された精霊機の数は二百以上、動員された合計人員は万を優に超す。それらを抱え込むこの駐屯地は、エストランジュ王国内でも大陸中央部に最も近い一大拠点と言える規模になりつつある。


 中央山脈が消えたことにより発生した大陸中央部の空白地帯には、超規模の精霊鉱が埋蔵されていると言われている。このまま恒常的にこの地域を支配下に治めることが可能となれば、この駐屯地は将来的は採掘拠点として機能する可能性もある。

 兵達の間では王国はそのうちここを軍のただの軍駐屯地ではなく正式な名称を与えて、一つの都市として発展させていく心積みだという噂も立つくらいであった。


 その内の一角。

 軍の上位階級者用に用意された居住建築の中に、セルジュは身体を休めるための個室を与えられていた。

 個室とは言っても多少上等な寝具以外には特に見るべき点の無い場所であるが、本来であればここは高官、或いは一等精霊司以上に与えられるべき場所である。平民出身であり、一部隊を率いるだけの二等精霊司でしかないセルジュへ与えられるものとしては破格であった。 


「髪が湿ってるな。洗ってきたのか?」


 時分は日が沈み深い夜が訪れた頃。

 簡素なその部屋の中で、セルジュは傍らの人物に訊ねた。


「あ、は、はい。知り合いの青の精霊司に頼んで水を貰ってきて……」


 そう緊張した声音で返事をするのは、メメントである。

 炎のような赤色の髪を持った少女は今、その身に一切の衣類を身に着けていない。ベッドの上に仰向けになりながら、小柄ながらもよく鍛え上げられた肢体を仄かな明かりの下に晒している。

 発言や約束事に律儀な彼女はセルジュの目論見通り、作戦終了後のその日の夜にこの部屋へとやってきた。

 セルジュの自室にはベッドの他には椅子すら用意されていないので――無論、故意にである――必然的にお互いにベッドに腰を下ろすことになる。


 最初は今日の作戦のことや世間話などをお互いにしていたが、下心を隠しもしない男の部屋に来ている時点で結果は分かりきっているようなもの。二人分は離れていた距離はいつの間にか肩が触れあう程になり、次第にセルジュの接触を伴うスキンシップを増えていき、気がつけばこの状態になっていた。

 幾多もの経験を積み重ねて身につけてきた男の熟練の手管である。

 メメントの隣に寝転ぶセルジュは、彼女の真っ赤な髪を手の中に掬い上げると、鼻先へと近づけた。


「柑橘の匂いがする」


 それは、どこか懐かしい気持ちを思い起こさせる香りだった。

 セルジュの故郷は人口が百人そこそこの小さな村であったが、クルカという赤い果実の栽培が盛んで特産品として知られていた。実りの季節が近づくと村中に甘酸っぱい香りが漂い始め、それが丁度こんな感じだった気がする。


「ううー……、は、恥ずかし過ぎる……」


 顔と言わず全身を真っ赤にしたメメントが呻くような声を漏らす。

 だが口ではそう良いながらも、逃げ出すようなそぶりは見せない。ここに来ている時点である程度予測はしていたのだろうし、何よりも本当に嫌がっていたら香り付きの整髪剤など事前に使っては来ないだろう。

 整髪剤などの嗜好品に近いものは、前線においては貴重品である。女性兵の間では裏で高値で取引されることもあるという。そんな希少なものを使ってくれるという気遣いを知ってしまうと、目の前の存在がどうしようも無く愛おしくて仕方が無くなってくる。

 セルジュがそっと手を伸ばして彼女の身体に触れると、電流でも奔ったように彼女は身体を震わせた。


「あ、あの、私こういうのは初めてなので……その、出来れば優しくしてください……」


 様々な感情が入り混ぜになった声でそう言ってくるメメントに、子供をあやすような仕草でセルジュは優しく頭を撫でた。


「そんなに緊張するな。大丈夫だ、すぐに夢中になる」

「……隊長はずいぶんと経験豊富そうですもんね」


 薄暗闇の中でも分かるほどに顔を上気させながらも、どこか拗ねるような仕草でメメントはセルジュを睨み付けた。 


「……ミシャ、アステ、ユーリア、テスィ――、うちの隊だともう私以外はみんなお手つきですもんねー。ユーリアは故郷に恋人がいるし、アステなんて訓練校から研修で配属されたばかりで、まだ学生身分なんですよ……ほんとにもう、なに考えてるんで……ひゃぅ」


 前振りもなくセルジュが少女の胸の上で手を滑らすと、メメントが呼吸を跳ねさせた。その反応にセルジュは笑いを堪えながら、そのままゆっくりとした動作で彼女の暖かな感触を確かめつつ、


「何言ってるんだ。それも全部、今こうしてメメントを喜ばせるためにあった出来事だ」

「うー……どうせ明日には別の人と寝てるくせに……」

「明日もお前が来てくれよ。そうすればそんなことにはならないから」


 そうセルジュがメメントの耳元で囁くと、彼女は顔の赤さを一層濃くして、ふるふると首を揺らした。


「あーあー! 騙されてる、絶対私騙さされてるよぉ。絶対に良いように言われてるだけって分かってるのにぃ……」


 そんな子供っぽい仕草にセルジュは苦笑しつつ、手の平で彼女の身体の感触を楽しむ。豊満とは言えない肉付きをした身体ではあるが、柔らかくて暖かい。何よりも抱き込めば覆い込めてしまう小柄な身体は、自分が彼女の全てを手中に収めているという独占欲にも似た健全では無い充足感をセルジュに与えてくれた。


「あ、う。なんか、変な感じ……」


 メメントは基本的になされるがままである。セルジュの指が敏感な部分に触れるとか細い声を漏らすが、それが恥ずかしいのか顔を真っ赤にしてすぐに口を閉じてしまう。彼女自身は何も考えていない行動なのだろうが、その初々しい仕草はセルジュの男心を大いに擽るものがあった。

 それからしばらく彼女の反応や身体を堪能しつつ、彼女の吐息が十分に艶があるものに変化しているのを確認して、セルジュは姿勢を変えて仰向けに寝転ぶメメントの上に覆い被さった。

 セルジュの真っ正面に、上気した彼女の顔がある。


「メメント」


 そう囁きかけると、少女は熱に浮かされたような瞳でセルジュを見返して、そっと自分の両腕を伸ばしてセルジュの首に回してくる。


「大丈夫です、私はもういつでも……………………セ、セルジュ」


 はにかみながら、最後に照れるように付け足された言葉。

 その様子に得も知れぬ幸福感を覚えながら、彼女に促されるようにしてセルジュがゆっくりと身体を重ね――……、


 ドンドンドンドン!


「セルジュ隊隊長セルジュ二等精霊司、いますか! 伝令です! 伝令です!」

「……」


 扉の外から聞こえてきた無粋な声に動きを止められて、セルジュは石像のような表情を浮かべた。

 不意に聞こえてきた野太い野郎の声に、一気に心の温度が下がっていく。


「セルジュ二等精霊司! いないのですか!? いるんでしょう!?」


 一瞬居留守を使ってしまおうかとも思ったが、ふと、すぐそばにあるメメントの表情を見て諦める。軍令の雰囲気を感じ取ってしまったのか、そこにあるのは男と一夜を共にする女ではなく、生真面目な女性軍人の顔だった。

 訓練校を優秀な成績で卒業してきたメメントは基本的に遊びが少ない。今ふざけた態度を見せてしまったら、リュリュを召喚されて丸焼きにされかねない。


「――……」


 セルジュはなけなしの精神力でため息をつくのをどうにか堪えて、部屋に一つしか無い扉を忌々しげに見やって返事をする。


「なんだ! 扉越しで良いから内容を言ってくれ!」

「――はっ、内容を伝達します」


 一瞬の間の後に、声が聞こえてくる。

 本来ならば直接本人確認をしなければならないのだが、そこはそれ。セルジュの女癖は知っているだろうし、恐らく向こうもセルジュの今の状態を薄々は察しているのだろう。

 後方でお高く纏まったエリートの王国近衛軍と違い、前線の人員はこういうところで気が利いてくれる。決して褒められたことでは無いのだが、妙な連帯感を覚える瞬間でもある。


「伝令! セルジュ二等精霊司は至急司令所本部まで来いとのこと。クラウシュト侯爵がお呼びです!」

「…………はあ?」


 その内容にセルジュは思わずといった風にぽかんとした声を漏らした。

 そうしてからつい視線を下にやってしまうと、セルジュの裸身を触れ合わせながらもすっかりと艶色を無くしてしまったメメントと視線が合った。

 その睨み付けるような険のある瞳には爛々とした赤い光が灯されており、雄弁に「今度はいったい何をしたんですか!」と叫んでいた。

 いや知らんよ。



   3



 駐屯地司令所。

 伝令で至急と言われた以上、一兵であるセルジュは出来る限り急いで行く義務がある。血涙を流しながらメメントとの逢瀬を中断し、彼女に手伝って貰いながら服を着て身だしなみを整えると、与えられた命令通りに司令所へと向かった。

 その間、折角の機会を潰されてセルジュの顔が渋面になってしまったのは仕方が無いことだろう。メメントがセルジュの元に預けられてきて早一年、ようやく積み重ねた努力が実る瞬間だったのである。これで憤りを感じぬならば男ではない。


 建物の外に出ると夕暮れの冷えた空気が風に吹かれていた。大陸中央に近いとは言え気候が温暖な大陸東部では珍しい。ましてからこれからは気温の上がる夏の時期を控えている。にも関わらず体感出来るほどに気温が冷え込んでいるのは、間違いなく先刻の戦闘で行われたクラウシュト侯爵による大規模精霊行使が原因だ。蒼の特級精霊司である彼女のマナの影響は戦場のみならず、気温にまで影響を与えているのだ。どこまでも規格外で、ここまで来るともうどう反応して良いのかすら分からない。

 そんな人物にこれから会いに行かなくてはならないという事実に憂鬱になりながら敷地内を進むセルジュだったが、そんな憮然とした表情も司令所の入り口まで辿り着くまでのことだった。


 一人の女性が立っていた。

 軍服や戦闘服に身を包んだものが行き交う駐屯地の中で、明らかに一人だけ浮いた衣装。背筋に一本の芯でも刺さっているかのようなその佇まいは、山頂に咲く一輪の華。いっそ見とれてしまいそうな凜然とした雰囲気がある。


 だが冷静に考えてみて、おかしい。

 今自分の視界に写っているような人物は、決して前線近くの駐屯地にいるような存在では無いはずだった。

 しかもあろう事かその人物はセルジュの姿を認めると、小さな歩幅で近寄ってくる。そして深く腰を折って、見事なお辞儀を披露した。


「セルジュ様、お待ちしておりました」


 動きに洗練さを感じさせる見事な所作であった。だが、それも現在の場所を考えればただ異彩を放つ存在でしか無い。


 ――……なんで前線にメイドがいるんだよ。 


 黒と白の給仕服を身に纏った女性に出迎えられて、トンカチで頭を叩かれたような気分になりながらセルジュは額を手で押さえた。


「ジークリンデ様がお待ちです。案内いたしますので着いてきてください」

「ジークリンデ……?」


 疑問に思ってから、クラウシュト侯爵の名だということに気がつく。クラウシュトというのは家名なのだから、名があって当然だ。


「ええと、あんたは……? 王国軍の人間……では無いよな」

「失礼いたしました。私はジークリンデ様の身の回りのお手伝いをさせて貰うためにこの地にお邪魔させていただいています、名も無きメイドでございます。以後お見知りおきを」

「いや、名も無きって……」


 まさか本当に名前が無いわけもないだろうし、要するにお前に名乗る名前なんてねえ、という遠回しな意思表示だろうか。相手の表情を観察してみるも時が止まったかのように無表情なので、全く察することが出来ない。


「どうぞこちらへ」


 セルジュの困惑に気がついているのかいないのか、何食わぬ顔で案内を始めるメイドの後ろ姿を眺めて――セルジュは一つ溜息を吐くと、諦めたようにその後を追いかけた。


 司令所には人の行き来も多い。

 周囲の人たちはメイドの存在を見慣れているのか、特別関心を示す様子は無かった。ただ他にメイドが大量に彷徨いているということも無いので、彼女のような存在が当たり前というわけでもないようだ。少し安心する。セルジュの知らない間にメイド信仰が幅を利かせていたわけではないらしい。

 自称名無しのメイドさんに案内されて施設内を歩く傍ら、目の前で揺れる形の良いお尻を眺めながら、頭の片隅でいったいなぜ呼ばれたのかと考えてみる。

 まず最初に思いついたのは自分の女癖の悪さがとうとうお偉いさんの目にまでついてしまったのかということだったが、もしそうだとしても今回の作戦の最高位であるクラウシュト侯爵にわざわざ呼びつけられることは無いだろう。一兵士の女癖の悪さを直接叱っていられるほど侯爵も暇ではあるまい。


 そうなると、原因となりそうなのは一つしか思い浮かばない。

 先の作戦でのことだ。

 セルジュとクラウシュト侯爵の関わりなど、あの時を於いて他には無い。

 だがセルジュは命令に従ったのみで、取り立てて何かをした記憶も無い。怒られることも無ければ褒められることも無いと思うのだが。


 ただ相手は貴族だ。

 いったい何が原因で逆鱗に触れてしまうか分からない。

 エストランジュ王国では貴族の腐敗はさほど進んではいないが、理不尽に強権を振り回す輩もやはりいる。クラウシュト侯爵がそうなのかは分からないが、可能性が全くないとは言い切れない。そしてもしそうだった場合、セルジュの未来は真っ暗だといえる。

 貴族は何代にも渡って良質な血脈配合を繰り返し、精霊司としての能力を高めてきた生粋の化物だ。政治的にはもちろん、物理的にでもセルジュを排除することなど容易いだろう。

 樹林ごと展開していた敵部隊を排除したあの光景を見てしまえば、万が一にも敵うなどとは思えなかった。


(いやいやいや……、まだ怒られると決まったわけじゃない。もっと前向きに考えてみよう。たとえば、そう。これまでの積み重なった功績が認められて、軍本部から特別賞与がでたとか)


 二等精霊司にして十機以上の精霊機の撃墜および鹵獲記録を持つセルジュは、以前にも軍から特別報酬を貰ったことがあった。今回もそのケースなのかもしれない。

 しかしすぐに以前のことを思い出す。


(……って、あのときは上司から結構適当に渡されてだけで、貴族から呼ばれるなんて事は無かったな)


 中継ぎだった一等精霊司だか上級精霊司だかに略式と共に勲章を貰って、セルジュもそれをおざなりに受け取った記憶がある。庶民感覚としては勲章よりもそれに付随した賞金のほうがよっぽどありがたみがあったくらいだ。

 ということは、クラウシュト侯爵に呼ばれている今回は当て嵌まらない。


「つきました」


 悶々とセルジュが頭を悩ませている間も歩き続けてきたメイドは、そう言葉を漏らして足を止めた。案内されたのは、建物の中でも一番上の階にある部屋であった。なんでお偉いさんの部屋は決まって上にあるんだろうか、とセルジュが意味も無く考えていると、


「ジークリンデ様は身分高きお方、粗相の無いように――ですが、その前に」


 メイドは風に煽られた花びらのようにくるりと振り返って、セルジュへ歩み寄るとおもむろに顔を近づけてくると、すんすんと鼻を鳴らした。

 色白とも言える彼女の白い肌がすぐ近くにまで寄ってくる。緑色の瞳は近くで見ると暗く深みのある色合いをしていて、深い水底をのぞき込んでいるような錯覚に襲われた。


「……なにしてんだ、あんた?」


 セルジュが突然の奇行に唖然としている間にも、メイドは鼻を鳴らしながらセルジュの身体のあちこちへ顔を近づけている。そうしてひとしきりした後に一歩下がって元の位置に戻ると、


「女性方の匂いがしますね」

「犬か」


 無表情に言うメイドをセルジュは思わず半眼で見やる。

 確かに本番までたどり着けなかったとはいえ、つい先ほどまで情事に及んでいたのである。今のセルジュはなんと言うべきか、そういう匂いが染みついたままではあった。

 とはいえお相手であったメメントは別段香水の類いをつけていた様子も無く、目立った香りは整髪剤の柑橘系の匂いくらいのものだ。そうそう気がつかれるようなものでも無いと思っていたのだが。


「どうやら行為にまでは及んでいないようですが」

「なんでそこまで分かるんだよ!?」

「メイドですので」


 セルジュの悲鳴に、メイドは無表情にしれっと答える。

 セルジュの知識が正しければメイドは捜査犬のような能力を備えた職種では無かったはずだが、勘違いだっただろうか。


「あんた、絶対に緑だろ……」


 半ば確信して、セルジュは呻いた。

 この世の全てのものは先天色と呼ばれる色を備えて生まれてくる。

 赤、青、黄、緑の四つを指して基本色と呼ばれるのだが、その中でも緑の人間は他の色には無い独特の能力を持ち、基本色外である個有色を除けばエストランジュ王国内では最も数の少ない先天色だとされている。

 そうそうお目にかかることも無いのだが、緑の人間というのは大抵言葉を交わせばそうだと分かってしまう。

 いったいどのような理由かは知らないが、先天色に緑を持つ人間は総じて変人が多い傾向にあるのだ。


「まあ」


 メイドは驚いたように口元に手を当てて、


「セルジュ様がどうしてそう思ったのかは存じませんが、それは勘違いというもの。私の先天色は黄色でございますよ」

「……え、あれ。本当か?」


 予想が外れたと知ってセルジュは思わず惚けた声を漏らし、


「はい、嘘ですが」

「あんたは何がしたいんだ!?」

「特に意味はありません」


 しれっと悪気もなくそう言うメイドの姿にセルジュは頭痛のような感覚を覚えて「これだから緑は……」と、前髪をがしがしとかき混ぜる。

 このままでは話が進まないと思い、強引に話を推し進めた。


「要するにあれだな!? 女の匂いがするような人物を主人の前に出すわけにはいかないって言いたいんだよな!?」


 メイドは新緑の瞳を瞬かせた後に、かくりと首を傾げて、


「いえ別にそんなことは欠片も思っていませんが」

「これだから緑はさあぁぁっ! ならなんでっ、さっき人の匂いを嗅ぎ取ってたんだよ、あんたは!?」


 意味が分からんと憤慨するセルジュに対して、メイドは不思議そうに今度はちょこんと首を傾けて、


「ただ私が嗅ぎたかったからですが、なにか」

「――…………………あ、そう」


 セルジュは彼女と意思疎通することを放棄した。



   ***



「失礼します。セルジュ二等精霊司、参上しました」

「思ったよりも時間がかかったな」

「申し訳ありません」


 ――あんたが案内に寄越したメイドが原因だよ。


 そう喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込んで、セルジュは謝罪した。

 連れてこられた一室、その中に用意されたソファの上にクラウシュト侯爵は長い脚を組んで腰を下ろしていた。


 腰まで届く程の銀髪を持った、美しい女性である。

 美麗な容姿と長く細い四肢は理想的な均衡を生み出していて、一流の芸術家が生み出した彫刻のようでもある。白雪のような肌には一切の傷も無く、彼女が戦う立場の人間だといわれても信じられそうにない。だが、けっして美しいだけではない。彼女の身体には余分な要素が一切無く、その引き締まった肉付きは獣が持つしなやかな筋肉を思い起こさせた。

 式典などで遠目に見たことは何度かあったが、彼女の美貌をこうして間近で目にするのは初めてのこと。流石は高位貴族と言うべきか、ただ座っているだけなのにその姿には何処か気品が漂っている。

 その完成された姿に魅了されて、セルジュは暫し意識を奪われた。

 その様子に気がついたクラウシュト侯爵は妖艶な笑みを浮かべて、セルジュを見やってくる。


「どうしたセルジュ二等精霊司。何か気になることでもあったか。なんなら口説いてくれても構わないのだぞ?」

「……いえ」


 これはからかわれているなと理解して、セルジュは意識を切り替えた。

 どんな用件かは知らないが、手早く済まして早く戻ろう。運が良ければメメントと再戦することも可能かもしれない。


「まずは、先の戦闘ではご苦労だった。これでグランダナ樹林一帯は我が国の勢力下に納めたと言っても良い。君達勇敢な兵士達の働きがあってこその結果だ」


 たかだか末端の遊撃隊の隊長に送るにしては大仰な言葉に疑問を覚えながらも、それを顔には出さずに返礼する。


「ありがとうございます。ですが、侯爵の御活躍と比べれば、自分達など海の中の一滴に過ぎません」

「なに謙遜するな。二等精霊司でありながら十数機にも及ぶ精霊機の撃墜記録は賞賛されるべき偉業だぞ。王都の訓練校でも噂になっていると聞いている」


 そんなことを言うクラウシュト侯爵であったが、セルジュとしては謙遜したつもりなど欠片も無い。確かにセルジュは規格外の成果を上げているのかも知れないが、それはあくまで二等精霊司という限定された枠組みの中での話だ。

 一等精霊司以上になればセルジュ以上の戦果を上げている者は少なくないし、一瞬で戦闘の趨勢を決めてしまったクラウシュト侯爵を前にすれば自分の戦果など口にするのも恥ずかしい事柄だ。


「それで、私がここに呼ばれた理由はなんなのでしょうか?」

「まあそう急くな。少し世間話でもしようじゃないか。何か他に聞きたいことはないのか? 労いの意味もある。今なら大抵のことには答えてやるぞ」


 ソファに腰掛けたままひらひらと手を振ってみせるクラウシュト侯爵。何の気まぐれか、世間話がご所望らしい。彼女にそう言われてしまえば、セルジュは応じるしかなかった。


「……では、この後、軍の動きはどのようになるのですか?」


 本来であれば大局など知らされずに命令されて動く立場だ。前線の一小隊の隊長でしかない自分がどこまで踏み込んで良いのかと疑問に思いつつも訊ねてみる。対するクラウシュト侯爵の反応はあっさりとしたものだった。


「我が国の目下の目的はグランダナ樹林を抜けた先にあるレストン高原。ここに結界塔を建設し、周囲の盆地を含め一帯を実質的な支配下に置くことだ。そう言う意味では目と鼻の先とも言えるが……」


 中央山脈消失から数年。その跡地となる盆地や高原は大陸最大の精霊鉱埋蔵地と目されている土地である。現在は西の国によって独占、押さえられているこの土地の制圧が王国の最大目的であった。


「だが、こちらも新たな結界塔を作るための時間が必要だ。グランダナ樹林における主導権は我々が握ったが、当然今後は妨害が行われてくるだろう。既に敵の残存戦力が後方で再編されているとの情報もある。こちらは暫くは結界塔の建築と防衛に専念することになる……まあつまりはなんてことはない。教科書通りの行動というわけだ」


 不満――というよりは退屈そうな色を滲ませながら侯爵は肩を竦める。

 散歩と称して護衛も付けずに戦場を闊歩するくらいだ。基本的に受け身というか、待つことが嫌いな性格なのだろう。

 大規模な精霊行使から身を守るためには、結界塔による大規模護法結界が必須だ。 

 結界塔が無ければどうなるか、それは昨日も目の当たりにしたばかりだ。特級精霊司の大規模精霊行使はたった一度で戦況を一変させる破壊の権化。あれが味方ならば頼もしいと言えるが――自分達にぶつけられるとなればぞっとする。


 現在、王国の結界塔の範囲はグランダナ森樹林一帯を覆い込む程度。

 樹林を抜けた先まで軍を進めるためには、護法結界の範囲を拡大するために新たな結界塔を築く必要がある。


「今回の戦で陥落させた敵の砦跡地を利用して結界塔とそれを守るための新しい砦を築き上げる……もっとも両軍の上位精霊司共が随分と暴れたようでな、ほぼ新造のようなものだ。時間がかかる。名称はフォーン砦。そこがこれからの戦いの最前線だ」

「新しい砦の建設ですか……」


 そうなると、セルジュの部隊はこれからは哨戒任務が主になってくるはずだ。相手も様子を探るための斥候を放つだろうから、暫くは生身同士での対人戦が増えることになるかだろうか。


「ふむ」


 そんなセルジュの内心を読み取ったかのように、クラウシュト侯爵は感心したように息を漏らした。


「なんだ存外真面目なのだな。評判を聞くにもっと遊び呆けた奴かとも思っていたが」

「評判ですか」


 どうせ碌なものではないだろうとセルジュが苦笑すると、クラウシュト侯爵はその整った容姿で悪童のような笑みを浮かべた。


「うむそうだな……平民出身ながら訓練校では優秀な成績を収め、在籍時の実地研修では訓練生ながら敵精霊機の撃墜に成功した異例の精霊司。その勢いは部隊所属後も衰えず、今では二等精霊司の隊を束ねる優秀な兵士といったところか?」

「褒めていただけるのはありがたいですが、どうせ他にあるんでしょう?」


 セルジュがうんざりとそう言うと、クラウシュト侯爵はくつくつと声を漏らす。


「ああそうだ、ド忘れてしていた。優秀な精霊司であったセルジュ二等兵であったが、特筆するべき点として無類の女好きが上げられ――……同級生、上級生、下級生、あげくには教師、貴族とまで関係を持ち、訓練校時代には両方の意味でフェロンケとも言われていたとか……まあ、私が耳にしたのはこれくらいのものだ」


 そう何食わぬ顔で言う侯爵にセルジュは僅かに不審なものを覚えた。

 一兵士の訓練校時代の渾名など、ただ椅子に座っていただけで手に入る情報ではないだろう。つまり、クラウシュト侯爵はわざわざ人手を使ってセルジュのことを調べたことを意味している。彼女の立場を持ってすればセルジュの身辺や過去を漁ることなど造作も無いことだろうが、問題はそこではなく、その理由だった。


(なんでそんなことをした? 今まで侯爵家と接点を持った事なんて無かったはずだ) 


 これまでに関わりを持ってきた貴族は幾人かいるが、クラウシュト家と繋がるような事柄は見いだせない。怪訝に思うセルジュを知ってか知らずか、クラウシュト侯爵は口元に薄い笑みを浮かべたまま当たり障りの無い話を続ける。


「ちなみに心中自殺を計った同級生に精霊を使った襲撃を受けたという話も聞いたのだが、それは本当か?」

「……ええ、訓練校在籍最後の年のことですね。事実ですよ」

「呆れたものだ。よくこれまで生きてこられたな」

「日頃の行いが良いものですから」


 しれっと言うセルジュに対して、クラウシュト侯爵は何故か満足げに頷く。


「面白い奴だ。――しかしまあ、貴族に手を出すのはほどほどにしておけ。ノヴァリス伯爵が以前、どことも知らぬ馬の骨に姪が傷物にされたと顔を真っ赤にしていたぞ」

「失礼な。本人とは合意の上ですよ」


 セルジュは憮然とした表情で言う。

 積極的に口説いたり話しかけたりはするが、無理矢理事に及んだことは一度たりともない。そもそも貴族にそんなことをしていたら、命がいくつあっても足りない。今こうしてセルジュが五体満足でいられるのも、関係を持った者達から庇われているからという側面がある。


「ふむ……。どうやらその様子だと、ここでも相手に不自由はしていなそうだな?」

「そうでもないですよ。時には逢瀬の最中に伝令が来たりして、怒って帰られちゃいますからね」


 ここに来る前のことを思い出して肩を竦める。

 実際にはメメントは軍務が優先に決まっているとばかりにあっさりと身を引いたのだが、見栄を張ってそう言っておく。男の方が渋っていたなどと知られたら情けないことこの上ない。

 それを聞いたクラウシュト侯爵は部下の淫行報告に怒ることもなく、以外にもバツの悪そうな表情を浮かべて見せた。


「む、それは悪かったな。……何なら代わりの相手を用意してやってもいいぞ。そうだな……、お前をここまで連れてきたメイドなどはどうだ?」

「は?」


 その想像もしていなかった申し出にセルジュは思わず目を丸くするが、クラウシュト侯爵はまるで気がついていないように話を進める。


「あれはお前と同じく平民の出だし、軍には入っていないが並の精霊司以上の才覚は持っている。もし子供が出来たとしても問題はあるまい」


 なんの悪意も無しに子供に玩具を与えるような軽い感じでそう言われて、セルジュは思わず溜息を吐きそうになってしまったのを必死に堪えた。

 訓練校時代の関係で貴族の知り合いはセルジュにも何人かいる。やはり教育や環境などの育ちが平民とは根本から違うこともあって、感覚がズレていたり浮き世離れしていた者は多かったが――しかし、それでもここまでではない。

 貴族の中でも上位階級である侯爵となるとこうもなるのか、それとも単純に目の前の人物がおかしいのか。散歩と称して戦場に単身で現れる辺り、恐らくは後者だろう。

 そんなことを考えながら、セルジュは小さく首を振った。 


「……そのお気遣いだけ受け取っておきます」


 セルジュのその反応に、クラウシュト侯爵は意外そうな顔をする。


「うむ? 何故だ? あれは少し内気なところはあるが、容姿も整っているし、気立ても良い。主人となった相手には間違いなく尽くしてくれるぞ。それとも顔がお前の好みでは無かったか?」


 ……内気?

 ……気立てが良い?


 部屋に入る前に執拗に人の匂いを嗅いできた女の顔を思い出して、セルジュは口元を引き攣らせた。


 ――まさかあのメイド、主人の前では猫をかぶってるのか?


 クラウシュト侯爵とセルジュの間では、同じ人物に対する評価に大きな齟齬が発生しているようである。ただまあ、深くは考えないことにする。大して知りもしない人物の悪評を立てる必要も無い。


「合意も無く一晩に複数の女性を抱く気は無いんですよ」


 時分に関してはなにやら誤解がありそうだなと思いながら、セルジュは言う。

 別にセルジュは強姦をしたいわけでは無いのだ。女の子と仲良く楽しく一緒の時間を過ごしたいのである。寝室で女性と一夜を共にするのは勿論嬉しいのだが、そこに至るまでの過程も含めての楽しみだ。本人の意思確認も無く主の命令で宛がわれた人物を抱くつもりは全く無い。


 ……一瞬、あのメイドの整った顔立ちを思い浮かべて、心が全く揺れなかったかと言えばそれは嘘になるが。


 そんなセルジュの返答を聞いたクラウシュト侯爵は「ほう」と小さく息を漏らして、次には口の端を釣り上げて見せた。


「くく、セルジュ二等精霊司。お前はなかなかいい男だ。お前が青の特級精霊司だったのならば、私の純血をくれてやってもよかったところだぞ」

「それは残念です」


 そうか、この人は経験が無いのかもったいない。などとくだらないことを反射的に思いつつ肩を竦める。

 目前の人物は掛け値無しの美女である。もし彼女と一夜を共に出来るとするならば、それは天にも昇る一時になるに違いない。

 だがそれは叶わない夢だ。

 精霊司の能力は血統が大きな影響を与える。貴族は何代にも渡って上質な精霊司の血を取り込み配合することで、その能力を増してきたのである。ましてや王国建国時より血脈の続く名門貴族クラウシュト家ともなれば、平民、それも二等精霊司でしかないセルジュが紛れ込む余地など無い。

 まあ侯爵も本気で言っているわけではなく、世辞のようなものだろう。


「侯爵は結婚はなされないので?」


 世間話の延長で何となしに尋ねてみると、侯爵は眉根をほんの少しだけ下げて困ったように肩を竦めた。


「なに、生まれる前からの婚約者が以前はいたのだが、私の才能が知れるにつれて見合っていないという話が周囲から出てきてな。面倒事は色々と出たが、最終的には解約される運びとなった」


 どこか他人事のように語る侯爵。自身の婚姻話といえども、大して興味のあるものではないらしい。おそらくは精霊司としての能力、そして政治的な意味合いでしかなかったのだろう。

 そんな相手との婚約が消えてしまったことが幸か不幸なのかは、セルジュには全く持って分からないが。

 話を聞いてその婚約者は大したことがなかったのかと思ったが、すぐに違うなと思い直す。恐らくは、その人物も精霊司としての才能は相当に秘めていたに違いない。だがそんな相手でも見劣りしてしまうほどに、今代のクラウシュト当主の才能が傑出しているのだ。


「では、今は代わりの人物を?」

「一応探してはいるがな、我が家は先天色が青でなおかつ上位精霊司以上の者の血しか取り入れるつもりはない。条件に当て嵌まる者は一応国内に何人かいるが……、そういう奴らは大抵うちと同じく相応の身分の持ち主だ。政治的なやり取りが挟まってきて一向に決まらん」


 建国時より王家に仕える名門。その現当主の婿捜しとなれば、政治的な面倒ごとが押し寄せてくるのはセルジュにも容易に想像が出来た。実際はその十倍は面倒ごとが多いのだろう。


「私も今年で二十四だからな。すっかり行き遅れだ」


 そう、何を思って発言したのか分からないことを言うクラウシュト侯爵。

 王国の一般的な女性の結婚時期は十四辺りから遅くても二十二あたりだろう。未だに戦場の一線にいるとなると少し事情は変わってくるかもしれないが、それでも二十四というのは大分遅い。

 稀代の逸材だからそれに見合う相手を見つけたいというのは理解できる話だが、それで婚期を逃したりすれば本末転倒な話だ。


(せっかくの美人なのにもったいない。しがらみがなければ相手なんて選り取り見取りだろうに)


 戦う者らしく鍛え上げられた肢体に、出るところは出つつも均等性を欠かない理想的な輪郭線。月の光を溶かし込んだと思わされるような艶を含んだ長い銀髪に、美麗な顔立ち。

 美という文字を体現したかのようなクラウシュト侯爵の姿は、誰もが目を奪われることだろう。才能と血統という隔たりが無ければ、世の男どもが放っておくはずがない。


「まあ私の話はいい。……それよりも少し気になったのだがな、セルジュ二等精霊司。お前はなんで軍に入った?」

「……と言いますと?」


 少々唐突気味に与えられた質問に、セルジュが首を捻る。


「平民出身の精霊司は訓練校への入学義務はあるが、その後の進路についてはそれなりに幅はあっただろう。お前の卒業時の成績ならば王都の研究職に進む道もあったはずだ。そちらのほうが軍人なんぞするよりもよっぽど給料も待遇も良いし、死ぬ心配も無い。お前の好きな女遊びとてこんな前線よりも王都の方がやりやすかろう」

「……ああ、なるほど」


 そういうことかとセルジュは理解した。

 侯爵の言葉通り、確かに軍人以外にも進路はあった。研究職の道も存在していたし、それこそ実家のある田舎に行って家業の農業を手伝うことだって出来ただろう。特に王都の研究所勤務は訓練校でも成績優秀者のみに許された進路であり、それを望んで努力している者は多い。

 安全な道も、楽な道もあった。

 それにも関わらず軍人になって、戦場で泥と血に塗れて戦っているセルジュがこの侯爵には不思議に見えたのかもしれない。

 別にそんな大した理由でも無いんだけどなと思いつつ、特段隠すような内容でもないので素直に返事を口にする。


「家族のためですよ」

「ふむ?」


 クラウシュト侯爵は紙芝居を前にした子供のような表情をして、話の続きを促してくる。


「……ご存じの通り、私は平民出身です。親はどちらとも精霊司としての能力は持っていませんでしたが、幸いにして私は持って生まれてきました。私が軍にいれば王国より助成金が入り、家族の暮らしは楽になります」


 精霊司の能力は血筋に大きく左右されるのは周知された事実だ。

 何の能力も無い平民から精霊を宿した子供が生まれる例は少数であり、セルジュはその希有な例の一人であった。平民出身の精霊司が王国軍へ入隊した場合、その一家へは領主を通して国からいくつもの特典が与えられる。減税であったり、給付金であったり。

 ――加えて、セルジュには妹のこともある。


「なるほど、家族か。そういえば、お前には妹もいたのだったな」


 まるでセルジュの心を読んだかのようなクラウシュト侯爵の言葉に、頷く。


「はい。……妹は半端物の自分とは違い、正真正銘、王国より特級認定を受けた高位精霊司。妹は軍に参加する義務があり、訓練校卒業後にはまず間違いなく前線に参加させられます」


 何の能力も持たない平民から特級精霊司が生まれるのは、王国の歴史の中でも殆ど無いことで、前例を探すとそれは初代エストランジュ国王の時代にまで遡ることになるらしい。

 国が特級精霊司に求めているのは強力な兵器としての役割だが、今現在の特級精霊司はその全てが貴族となっている。クラウシュト侯爵もそうだが、代々国に仕えてきた忠臣をただ兵器として無碍に扱うような真似はなかなか出来無い。


 だが、セルジュの妹は平民の出身。

 力はあり、雑な扱いをしたところで大したしがらみは発生しない。

 妹が教練を終えて前線に出てくれば、消耗品の道具として酷使されることは目に見えていた。


「自分の力で終戦などと大それたことは考えていませんが。それでも王国安寧の一助になれたらと考えていますよ」


 ――妹が前線に出てくるまでに少しでも戦況を良くし、危険から遠ざけたい。

 ――国から与えられる助成金によって両親の暮らしを楽にしてやりたい。


 それがセルジュが軍にいる目的であった。

 そういう意味では、訓練校卒業後に最前線へ配置されたのは僥倖だった。実戦ならば武勲を上げる機会は多くあるし、自分が活躍すればするだけ妹を危険から遠ざけられる。


「随分と家族思いなのだな」


 別に胸の内を全て語ったわけでもないが、クラウシュト侯爵は大体の事情を読み取ったらしい。細く綺麗な白指で、形の良い顎をなぞる。


「うむ……私にも可愛がってる妹達がいるのでな、お前の気持ちは分からんでもないが」


 そう言って、わずかに歯切れの悪そうな物言いをするクラウシュト侯爵。

 そんな彼女の態度にセルジュは怪訝そうな顔をする。そのもの問いたげな視線にクラウシュト侯爵は軽く肩を竦めると、懐から一枚の封筒を取り出した。


「お前にとってはこれはあまり好ましい話でも無いかもしれん。いっそお前が命を惜しんで前線配置を嫌がるような奴だったら良かったのだが」

「……どういう意味でしょうか?」


 何となく不吉な予感を覚えて、セルジュは声を漏らした。

 クラウシュト侯爵は封筒の中からたった一枚の紙を取り出して、セルジュに手渡してくる。そしてその内容を読むよりも早く、告げた。


「先日、王国軍中央司令所より届いた命令書だ。……移転命令。セルジュ二等精霊司は前線での任務を終え、王国直轄中央精霊機技術工房へ配属とする。以上」

「……」


 セルジュは目を丸くする。

 中央精霊機技術工房への配属命令。

 それはつまり、後方への異動を意味していた。


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