時代
5
「……ふう」
真鍮製のペン先が動きを止めて、最後の文字を書き綴った。
テルージオ=ノヴァリスは羽根筆のインクを布で拭き取ると、そっと筆立ての上に置く。作業の終わりと同時に自然と深い息を吐き出してしまったのは、衰えの証拠だろう。ここ数年の間に随分と白髪も増えていた。
領主の役目を息子に譲った後は自分の役目も一段落したと肩の荷が下りた気がしたが、とんだ勘違いであった。中央山脈消失によって生まれた戦乱に、それによって得られる武功と利権の争い、そして上下する貴族間のパワーバランス。むしろ王都に常駐するようになってから疲労が増した気さえもしてくる。
「この国は年寄りに優しくなくていかんな」
やれやれとテルージオは肩を回して筋をほぐしていると、
コンコン。
小さく、耳に通るほどのドアをその叩く音が、来人の存在を知らせてきた。
「テルージオ様、お客様がお見えになりました」
扉を隔てた向こう側から聞こえてきたのは長年自分に仕える執事、リーガンのものだった。
年齢は自分より二年ほど多く取っており、幼少の頃は兄弟同然に、貴族としての教育が始まってからは主従として、半生を共にしてきた生涯の腹心である。
テルージオとしては領主を務める息子の補佐をして欲しかったのだが「自分の仕える主人は一人のみでございます」と生意気を言ってきたので、仕方が無くここ王都にも連れてきている。まあ、あらゆる事柄を平均以上に熟す執事の存在は王都の生活でも非常に助かっているので、あまり強く文句も言えない。
「ああ、入れ」
テルージオがそう声をかけてから一拍置いて、頑丈な木製の扉が開かれる。執事に促されて廊下から部屋の中へ入ってきたのは、赤みの混じった黒毛の青年だった。
懐かしい顔だ。その人物が身に纏っている王国軍の制服を見て、テルージオは僅かに目を細めた。
テルージオにとって目の前の青年の印象は、王国軍訓練校の制服を着ている姿だった。それが今や正式な王国軍服を身に纏って、しかも多数の戦果を上げているというのだから時間の流れを感じずにはいられない。
「……ここ仕事部屋だろ? 普通は応接室とかに呼ぶものなんじゃないのか」
「ふん、今更お前にそんな気を遣う必要があるものか……ん?」
そこでふと、若干の幼さが混じったその青年の表情が不機嫌さと疲労が混じったものになっていることに気がついた。その顔をまじまじと見て、堪えられなかったようにテルージオは「くっ」と笑った。
「なんだ。いい面構えをしているじゃないか、小僧」
その明け透けな態度に室内に入ってきた青年――セルジュは嫌そうに顔を顰めた。それは拗ねた子供の表情そのもので、テルージオはより一層大きく口の端を釣り上げた。
「その分だと、リーガン達に随分と歓迎されたようだな」
「この屋敷の接待教育はどうなってるんだよ。昔も大概だったけど、今回は輪にかけて酷くなってるんだが……」
「我が一族の大事な姫を拐かしたのだ、それぐらいの苦労は背負って然るべきだろう?」
「姫、ねえ……、アイツがそんな器で収まると思ってるのか?」
セルジュが思わずそう言うと、テルージオは再度笑った。
「まさか。確かにエリナーゼは蝶よ花よと愛でて育てられてはきたが、それは一族でも珍しい女児だったからというだけのこと。あれは芯も我も強い。その本質は勇猛な獅子よ」
その言葉には思うところがあったのか、セルジュもつい嬉しそうに笑みを浮かべた。
「エリナは今も変わらないか」
「ふん。それどころか、ますます頑なになった。周囲の言葉などろくに聞かずに、今では訓練校の教官なんぞしておる。そのうち前線に行くなどと言い出しかねなくて、家の者は戦々恐々としておるわ」
テルージオはそう言って「無論わしもな」と付け足し、セルジュを軽く睨みつける。
暗にお前のせいだろうという言葉を受け取って、セルジュは小さく首を振った。
「俺は何もしてないぞ。彼女が自分で選んだ道だ」
「その口でよく言うわ。訓練校でどこぞの平民と関わる前は、もっと貴族としての分別を持った性格をしていたのだがな」
「良い出会いがあったみたいだな」
「ぬかせ、平民」
そう言う老人の口調は粗暴ではあったが、決して苛立ちを含んだものではなかった。ともすれば、大声で笑い出しそうなほどに上機嫌にも見える。歴とした王国貴族である老人と平民を出自に持つ年若い兵士が粗暴に口を交わすその光景は、知らぬ者が目にすれば思わず二度見してしまう光景だっただろう。
テルージオ=ノヴァリス。
かつては――それこそ訓練校時代にセルジュとエリナーゼの関係が知れたときには烈火の如く激高し、私兵や傭兵、挙げ句は暗殺者まで嗾けてくる始末であったが、騒動を終えた後のテルージオは理性的であり、現在ではセルジュのことを蛇蝎の如く嫌っているノヴァリス家の中では数少ないまともな対話が出来る相手である。
訓練校を卒業し正式に王国軍へ所属して以降は殆ど顔を合わせる機会が無かったセルジュは、久方ぶりに会う老人の態度にほっとした。ここに来るまでの熱烈な歓迎ぶりに、もしテルージオまでもが憎悪の炎を再燃させていたらどうしようかと不安に感じていたのだ。
セルジュは自然と浮かび上がる笑みを一度引っ込めると、本来の役目を果たすべく丁寧に腰を折った。
「テルージオ伯爵。今回は第二中央工房の研究に大幅な増資をしてくださったようで、真に感謝いたします」
「一族の繁栄を思ってのことだ。礼を言われる筋合いもないな」
にべもない言葉にセルジュは顔を上げて苦笑した。
「仕事くらいさせてくれよ……、これは工房長からの感謝の言葉だってよ」
丁寧に封のされた便箋を受け取ったテルージオはそれを一瞥してから、無造作に机の上に重なった書類の上に放った。
「ふん……ジストロンめ。心にも思っていないくせに、最低限の仕事くらいはするようになったか。まあどうせ中身はあいつが用意したものでもないだろうが」
そう言ってテルージオがちらりと視線を向けてくれば、セルジュはそっと目を逸らすことしか出来ない。
テルージオの言うとおり、実は感謝の言葉が書かれたその手紙はジストロンに頼まれた――というよりは押しつけられた――フォルスが頭を痛めながら書いたものだからだ。
「伯爵はあの爺さんとは知り合いなのか?」
「まあ、な。……あれとは学院の同期生だったからな」
そう言ってから、苦々しい表情を作る。
「……ジストロンは勉学の成績こそよかったものの、直ぐにサボる、怠ける、逃げ出すと、教師も呆れるほどの大馬鹿者であった。昔から自分の興味あることにしか頭を働かさんかん性質を持っていたが……いや、まあ、それは今もだな。無駄に皺の数は増やしているみたいだが、中身は何も変わっていない」
そういうテルージオの顔は嫌な記憶を掘り出しているようであった。
口調からしても、恐らく何かしらの迷惑を被ったことがあるのだろう。然もありなん、ジストロンは研究者としては優秀なのかもしれないが、性格に難がありすぎる。フォルスの日頃の苦労を知っていれば、そのことは容易に予想がつく。
もしかしたらジストロンと関わりを持つ人間は皆こうなってしまうのだろうか。他人事ではいられないだけに、それはなんとも恐ろしい想像だった。
「……ごほん。まあ、そんなことはどうでもいい。それよりもだ、小僧。随分と活躍していると聞いているが、そこら辺はどうなんだ?」
「どうって……そりゃ順調だけど。なんだ、まさかそんなことを聞くためにわざわざ俺を指定して呼び出したのか?」
セルジュが少し意外そうに言うと、テルージオは眉尻を釣り上げた。
「昔色々と面倒を見てやったのに前線に行った途端に一切連絡をしてこない恩知らずがいるものでな。こういう機会でも作らんと永遠に来なさそうだったからな」
「う……」
心当たりがありすぎたので、セルジュは反論も出来ずに言葉に詰まる。ばつ悪そうに前髪を弄りながら視線を揺らした。
「まあ、順調だよ。噂くらいは聞いてるだろ? 苦労はあるけど、前線でもそれなりに戦果は上げてるさ」
「ふん。生身で精霊機の撃破記録は十を超えているのだったか。大したものだ」
全然褒めていない口調でテルージオが言うので、セルジュはつい苦笑を漏らしてしまう。
「それに当然知ってるだろうけど〈アルテナ〉の開発にも関わってるからな。前線から外れたのはちょっと不満だけど、将来を見越せば悪くないと思ってる」
セルジュの言葉に嘘はない。
最初こそ左遷でもされた気分であったが、今は〈アルテナ〉という存在に可能性を感じている。その思いは王都に来て〈アルテナ〉の訓練を通して深く関わってから、より一層強くなっていた。
「訓練校の問題児が今では部隊を率いて立派に戦果を上げ、王都に栄転か。小僧を見ていると時間の流れを感じずに入られん」
「……俺が〈アルテナ〉の試験操縦者に選ばれたのはてっきりあんたの後押しでもあったからかと思ってたんだけどな」
「ふっ、馬鹿を言うな。我が家は軍の人事に介入出来るほど発言力は強くない。貴様が王都に来ているのを知ったのもつい先日の会議のことだ」
「嘘つけ。俺の動向を知らない人間が、わざわざ会議の場に俺宛の蜜蝋付きの便箋を持ってくるかよ」
「ふん、それくらいは頭が働くか。なによりだ」
「馬鹿にしてるのかよ……」
老年の貴族はそこで一度言葉を切ると、何か深く物事を考えるように眉間に皺を寄せて見せた。その姿には僅かながらも年月の重なりによる疲れのようなものが見え隠れしていて、セルジュもまた時間の流れを感じずにはいられない。
テルージオは顔を上げると、セルジュの焦げ茶色の瞳を真っ直ぐに見据えて言った。
「小僧、うちの養子にくるつもりはあるか?」
「……あん?」
その突然の質問に、セルジュは体面を装うのも忘れてまぬけな声を漏らした。
テルージオはそんなことは一切気にせずに話を続ける。
「直接では無いがな。まずは分家の養子になって、そこで貴族がなんたるか、その在り方を学べ。そうした後ならば、エリナーゼとの結婚も許してやろう」
セルジュは暫し呆然としていた。まさかそんな言葉を聞かされるとは思いもよっていなかったので、驚いたのだ。
「……とても、初めて会った時に俺を殺しに来た人間の言葉だとは思えないな」
「ふん。だからこそよ。今こうしてお前が生きて立っている。それがわしが小僧を認めてやっている確かな証拠よ」
そう言いながらセルジュの顔を、テルージオはつまらなそうに眺めた。
「公的な立場で見れば、あれは本家筋からも外れた娘に過ぎん。政治的な価値は薄い。お前を囲い込めるならば充分だ」
どうやら冗談やその場の勢いで言っているのではないらしいと理解して、セルジュは顔を顰めた。
「ちょっと手柄を立てて有名になったところで、俺は二等精霊司だぞ? そんなことして一体あんたになんの得があるっていうんだ?」
「分からないか? 量産型精霊機。上級精霊司――謂わば貴族達の象徴的概念であった精霊機が広く普及すると言うことは、今後の王国に大きな意味があることよ」
「〈アルテナ〉のことを言ってるのか?」
「考えてみろ。これまで貴族の特権であり力の象徴であった精霊機が広まっていくのだ。今は既得権益にしがみつく亡者共が無駄な足掻きをしているが、時代という大流の前には人の足掻きなど路傍の小石も同然よな。二等精霊司に扱える精霊機の配備が進めば、否応なしにそれを扱う者達の価値も上がる。そう遠くないうちに貴族達の囲い込みが始まるだろう」
そうなったとき、一番に注目されるのは誰か。
それは言うまでもない。
訓練校を優秀な成績で卒業し、生身での精霊機撃破記録を持ち、更には〈アルテナ〉の開発にまで携わった二等精霊司。その価値に貴族達が気がつくのは時間の問題だった。テルージオはそうなる前に、先に手を付けておこうということなのだろう。
「あんた、開発費の大幅な増資をしてくれたって話だったよな」
「お前はそういうことをいちいち気にする性格だと記憶していたのでな」
「……本気かよ」
唖然としながらもセルジュは頭の中で考える。
貴族になる利点、今のままでいる問題点。
考えればそれは星の数ほど出てくるもので、迷わなかったと言えば嘘になる。でも幾ら考えてみても、セルジュにとってはそのどれもが天秤を傾けるに及ばないものだった。
「……俺を買ってくれて、〈アルテナ〉の件も含めて、そんな提案をしてくれるあんたには本当に感謝するよ。けど、その話は断らせてもらう」
はっきりと伝えた拒絶に対して、テルージオは然したる反応を見せなかった。その姿から老年の貴族は最初からその答えを予想していたのだとセルジュは察する。
「……ふむ。エリナーゼでは不満か」
「馬鹿言うなよ。あいつが不満なんて言う奴がいたら俺がぶっ飛ばしてやるよ」
本心では無いだろう言葉にセルジュは少し苛立ちを覚えつつ、
「理由は二つ。一つはこの場にいないエリナーゼを餌にしてることが気に入らない。男と女の関係になるっていうなら、当人が居ないで話すことじゃない。そもそも俺は昔にフラれてるしな」
「ふん、あれが今更にお前を拒むとは思わんが……まあ、それも道理か。二つ目は?」
先を促すテルージオを真っ直ぐに見返して、
「養子とかありえない」
きっぱりと言った。
「俺は今の家族が大好きだ。どんな理由があろうとも、俺がその家族を捨てて養子に行くなんてことは絶対に有り得ない」
「断ったら増資の件を無しにするとしたら?」
「あんたはそういうことする性格じゃねえよ。それに関しては貸しにしといてくれ」
どうせそんなつもりはないんだろうと、セルジュは肩を竦める。テルージオはしばしの静寂を挟んだ後に「ふっ」と息を漏らして笑った。それはどこか、満足気でもある。
「まあ面白い返事を聞かせて貰ったから、許してやるとするか。だがあまり情に頼った判断をすると痛い目を見る日が来るぞ」
「そりゃどうも。ただ、弛まぬ人間観察による適切な判断と言ってくれ」
「ふん、その自信過剰も相変わらずか」
空気を凍らせていた目に見えない圧迫感のような者が消えて、内心でセルジュは一息つく。年老いたとはいえ、未だ王都に残って貴族達と凌ぎを削る伯爵家の元締め。テルージオが発する重厚な雰囲気は、前線慣れしたセルジュにとっても充分に通用するものだった。
そんなセルジュを見透かしたようにテルージオはもう一度小さく笑うと、ふと窓の外を見て言った。
「これからは激動の時代になる。精々気張るのだな」
「え?」
テルージオは静かな口調で、未来に迫る脅威について警告をしていた。
実際、今のテルージオは窓の外から見える街並みを眺めているようでいて、景色では無い別の何かを見ているようでもある。
「時と共に技術は進む。人間が生物的に進化するよりも、遙かに早くな。二等精霊司にも扱える精霊機――あれは一つの切っ掛けになるだろう。マナを貯蔵する金属だったか。……いつかは精霊の力など特別なものではなくなり、人々の間でマナが当たり前のように使われる日も来る。そして、いつか、貴族と平民の垣根は消えて無くなる。……それはきっとそう遠い未来の話ではないぞ」
そう語るテルージオの瞳が移しているのはなんなのだろうか。少なくとも、今のセルジュにはそれが分からなかった。
「……」
セルジュが戦うのは家族のため、お金のため。精霊機はそのための便利な道具。セルジュにとって〈アルテナ〉とはその程度の認識であったのに対し、目の前にいるテルージオは全く別の要素を感じ取っている。
「流石にわしは生きてはいないだろうがな」
「……あんたなら百年後でも生きてそうだけどな」
老貴族の呟きに咄嗟に軽口を返しながらも、佇むその姿にセルジュは尊敬にも似た念を覚える。
与えられた材料は同じでも、人物によって見えるものがこうまで変わるのか。少なくともセルジュはこれまで真剣に時の流れや未来の姿を考えたことなどない。
「激動の時代ね……」
来るのだろうか。
きっと来るのだろう。
これからの歴史に記されるような、大きな流れが身近に迫っている。そして、王国の精霊司であり、まだ歳の若い自分はその時代の中で戦いながら生きることになるのだろうという確信がある。
だがそうだとしても、セルジュがするべきことは、目指すべき事はなにも変わらない。
「まあ、俺がすることは変わらないさ」
家族のために、少しでも妹が戦う可能性を減らすために。
大きな時の渦に流されるのではない。
自分の意思で、自分の選択で、その道を選ぶのだ。
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