戦線(前)
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グランダナ樹林。
王国西部に存在する隣国との国境線付近に広がる森林地帯の名だ。付近の村からは『化け物森』とも呼ばれ恐れられており、その忌み名の由来は他の地域では見られないほどに巨大に成長を果たした樹木の群にある。
手をつないだ大の大人十人でやっと囲めるほどの怪物的な樹木。その鱗のような樹皮は鉄にも見劣らない硬度と独特の柔軟性を備えており、その軽さと強度から古から現在に渡って戦士たちの装備に用いられるほどの代物だった。
グランダナ樹林ではそんな異常発達した樹木が天蓋の如く広げた枝葉に新緑を宿し、空を隠さんばかりに伸びていっているのだ。
それもその数は一本や二本ではない。無数とも言える巨木が列柱のごとく立ち並んでいるのである。現代でこそその異常発達の原因のおおよそが解明出来ているが、その理を知らぬ人々が畏怖の念を抱いて『化け物森』と呼び称してしまったのも無理ないことだろう。
この樹林にいると大小の感覚がズレて、自分が御伽話の小人にでもなった気分になる。
地面から隆起した巨樹の根の上に腰を下ろしたセルジュは森に漂う青臭い空気で肺を満たしながら、しみじみと感じ入った。
王都の学者たちの研究報告によれば、ここに根付いた樹木の殆どは樹齢千年を超える古代樹であるらしい。千年といえばセルジュの祖国、エストランジュ王国の建国以前にまで遡る膨大な月日である。想像するだけで目眩がしてきそうな話だった。
試しに腰掛けている根をそっと撫でてみると、まるで金属にでも触れたかのような感触が伝わってくる。だがそこからは無機質な冷たさではなく、この地に含まれる養分を吸い上げる生命の鼓動が伝わってくる。
生命の、命あるものの営み。
この樹木は千年もの間――或いはそれ以上の年月をこうして静寂の中で繰り返してきたのだろう。そんな彼らからすれば、たかだか百年余りしか世に滞在できない人間のなんと矮小なことか。ましてやその中でも未だ二十年程度しか生きていないセルジュなど、刹那の存在に過ぎないに違いない。
「あーあ。だっていうのに、そんな中で俺達がやることといったら全く」
首元から下げた鎖で結ばれた首飾りを手持ちぶさたに弄りながら、独りごちる。
白鷹を模した精緻な細工を施された白銀色の飾り。
セルジュの手の中にあるそれは希少金属であるミスリルで形作られた、エストランジュ王国によって認められた精霊司の証でもある。
精霊鋼程ではないにしろこのミスリルも採掘地域の限られた稀少金属の一種であり、手のひらに収まるこの程度の大きさでもそれなりの価値にはなる代物だった。
ましてや王国由来のものともなれば、その純度は極めて高い。このペンダントを狙って精霊司が盗賊や野盗に狙われるというのは有名な話だ。実際、セルジュもこれまでにその手の無頼者に襲われた回数は一度や二度ではない。
「きゅい」
「お、来たか」
鼻をひっかくような小さな動物の鳴き声が耳に届く。
清涼な空気に身を浸して森林浴と洒落込んでいたセルジュの傍らに、いつの間にか一匹の子狐が出現していた。
燃えるような真っ赤な毛並みをしたそれは、くりくりと黒真珠のような瞳を動かしてセルジュを見上げると、すんすんと鼻をひくつかせてみせる。
その姿は愛くるしいの一言、かつて王都の市民街で年齢を問わずに数多の女性を魅了して一騒動を起こしたというのも理解のいく話だ。
「おまえは相変わらずかわいいなーリュリュー。ご主人様はどうした、うりうり」
「きゅう」
目と目の間を指でこすりつけてやると、リュリュという名の赤毛子狐がか細い声を漏らしながら悶える。しっぽはぱたぱたと振られていて、ご満悦といった様子だ。
セルジュは決してこの子狐の主人などではないが、仲は良い。リュリュを連れて行くとそれだけで女性受けするため、セルジュがしょっちゅう餌付けして夜の街に連れ回しているせいだった。
「こらっリュリュ、主人の私を置いていくなあっ! それに隊長も、何遊んでるんですかっ! 今は作戦行動中ですよ!」
「おう、メメント。おかえりさん」
突然、声を跳ねさせながら現れた人影にセルジュは驚く様子も見せず、軽く手を上げて出迎える。
リュリュの体毛と同じ、燃えるような赤髪の少女。
身体に張り付くような戦闘服の上に、心臓や手首等の部分部分を覆った軽装鎧。腰には王国軍支給の二本の短小剣が納められている。
「ふむ」
彼女のそれは身体の輪郭線がはっきりと浮き出る格好ではあるのだが、如何せん身体の起伏に乏しく、男好きされる肉付きではない。引き締まった肢体から彼女が日頃からよく鍛練を重ねていることが察せられるが、色気というものは余り感じられなかった。
不躾に上から下へと移動するセルジュの視線に気がついた赤毛の少女――メメントがナイフの切っ先にように鋭く目尻を逆立てた。
「ちょっと隊長っ、自分の部下をいやらしい目で見ないでください!」
「いつものことだろ、気にするなよ。……それで首尾はどうだ?」
「せめて言い訳くらいしてくださいよ、もう……。状況は上々です。本隊から外れた敵精霊機が一、先天色は黄色。随伴兵は全て排除し、現在こちらに誘導中です。友軍への連絡も既に回してあります」
不満顔を浮かべはしたものの、それを引きずることもなくすぐに姿勢を正して報告をしてくるメメント。前線に駐留する隊員にしては珍しく、彼女は妙に規律というものに律儀だった。
隙あらば異性にちょっかいをかけ、あわよくば寝床へ連れ込もうとするセルジュとは大違いである。
「事前の予定通り色は黄、ねぇ。……あいつら堅いから嫌なんだよなあ」
「ですがその分機動性は他に劣り、私達にとっては最も与しやすい相手でもあります。功を重ねる良い機会です」
「まあ、そうなんだけどさ。……一応聞いておくけど、もちろん一等だろうな?」
「当たり前です。上級だったらさっさと逃げ出してますよ」
「よしよし、俺の部下はほんと優秀だ」
打てば響くとばかりに返ってくるメメントの報告の内容に満足して、セルジュは太い木の根の上から立ち上がる。いつの間にかセルジュの膝の上で丸くなっていたリュリュが「きゅ」と声を出してひっくり返って落ちた。
「よおし、連絡役ご苦労さん。今回の作戦が終わったらたっぷりと可愛がってやるよ。もちろん寝床の中でな」
「い、いりませんよっ!」
さりげなくメメントのおしりに手を回して撫でると、赤毛の少女は顔も真っ赤にしてその手をはたき落とした。肉付きが薄くも柔らかで心地のよい感触が手の中から消えてしまい、セルジュが不満な顔をする。
「相変わらずつれないなあ。お前、俺の一個下だろ? そんな調子じゃ売れ残っちまうぞ」
「う、うるさいですねっ! 隊長は軽薄すぎなんですよ! 女性と見ればところ構わずに! ……あ、そういえばネアンさんから聞きましたよ!? 以前には貴族にまで手を出したことがあるらしいじゃないですか! 何考えてるんですか!? アホなんですか!?」
「んん? ネアンが知ってるって貴族の件となると……ロザリーのことかな? うんうん、寝所での彼女は情熱的だった。こう最初は恥ずかしがるだけだった彼女をゆっくりと焦らすように指で……」
「わー! わー! 詳細を言わないでください! そんな報告いりません! それ以上続けるとセクハラで訴えますからね!? というかっ、隊長! その口ぶり、まさか複数の貴族に手を出してるんですか!?」
顔真っ赤にしてメメントは耳を塞ぎながら、声を上げる。
完全に生娘の反応に、セルジュはつい笑ってしまった。
「なあに恥ずかしがってるんだ、お前は。そんな調子じゃいざっていうときに苦労するぞ。だから、な? 一回だけでも男は経験しておけって。これは隊長からの優しい気遣いなんだぞ?」
「な、なんでそんなにぐいぐい来るんですかっ!? そんなに私を口説き落としたいなら一途になってくださいよ! そうすれば私だってもう少しは考えなくも……」
小さく付け加えられたメメントの後半の言葉にセルジュは少しだけ目を丸くして、それからそっと肩を抱き寄せる。
「ほほう、意外と可能性はあり?」
「ふぇ? ……え、あっ! ――――――っっっっっっ! ち、違う違う違うっ! い、今のなしっ! め、メメント二等精霊司、連絡報告終了! せ、精霊機の誘導援護に復帰します! ほら行くわよ、リュリュ!」
熟れた林檎のような顔をしたメメントはそう叫ぶと、自分の肩に回されたセルジュの腕を勢いよく振り払って、俊敏な動作で逃げるように走り去っていった。その後を追うにしてリュリュが飛び跳ねるように駆け出す。
小柄なメメントの肢体はあっという間に木々に紛れて見えなくなった。その獣のような身のこなしから、彼女が普段から真面目に鍛錬に勤しんでいることがよく分かる。
「うむ。これは押しの一手でいけば陥落できそうだな」
セルジュはメメントの逃げ出すような後ろ姿を見送った後、先程見せた彼女の様子を思い出してうむうむと頷いた。
彼女と隊長と部下という関係で同じ隊になってから一年余り。
幾らアプローチを仕掛けてもその鉄壁で撥ね除けてきたメメントであったが、遂にその牙城にヒビを入れることに成功したようである。日々の反応から嫌われているとは思っていなかったが、あそこまで明け透けな反応を引き出せるとも思ってはいなかった。
「やはり日々の積み重ねというのは重要なんだよな、うん。継続は力なりとは、東国も良いことを言うもんだ」
セルジュも毎日諦めること無く努力してきた甲斐があったというものである。
あの生真面目で初心な部下が暗がりの中でどのような姿を見せてくれるのか、想像するだけで心が躍るというものだ。
「さあて、その為にもちゃっちゃっとお仕事をしないとね」
準備運動をするように腕を伸ばして筋肉を解きほぐす。
今回のセルジュの率いる小隊の任務は防衛線の形成の一助。中央の主力が敵の結界塔を破壊するまでの間、迂回して奇襲を狙ってくる別働隊の警戒、その足止めおよび撃破が目的である。
暫しセルジュはここでのんびり腰を下ろしていたが、その間にも恐らく主戦場となっている中央地帯では無数の命が散っていっていることだろう。時々鳴り響いてくる轟音はその災禍の破片のようなものだ。
森の奥からやってくる戦場の気配を鋭敏に感じ取って、セルジュは刃物の切れ目の様に目を細めた。
「隊長ッ」
太い幹の間を俊敏な動作で駆け抜けて来る無数の人影。敵の誘導に当たっていたセルジュの部下たちである。その出で立ちに多少の差異はあれども、基本的な格好は似たり寄ったりな、動きやすさを重視して設計された黒い戦闘服だ。その中にはメメントの姿もあった。
「来ます!」
その声を発したのは誰か。
強い精霊の力を行使した証明となるマナの光が周囲の大地から発せられる。
次の瞬間には、ゴッ! という空気が破裂するような音とともに、地面が捲り上がっていた。間欠泉のように土砂が吹き上がるその場から、セルジュの部下たちは巻き込まれるよりも早く一斉に散る。
常人離れした獣の如き俊敏な動作だったが、セルジュの隊員は全て先天色が赤の人員で構成されている。先天色が赤の人間は強靱な身体能力を備えているので、さして驚くべき光景ではない。
この程度ならば自分の部下たちには問題ないと知っているセルジュは彼らの安否を気にする様子もなく、本命の敵を見やった。
地を割った轟音に紛れるようにして、古代樹の隙間を抜けて巨大な影が姿を表す。
「相変わらず厳つい姿だこって……!」
そこに立つのは、手と足を持つ人型。
化け物森と呼ばれる異常成長したこの樹林の木々にも見劣らない大きさを持つ、巨人だ。
ただし、それは生物ではない。
高いマナ伝導効率を持つミスリルを主にした混合物質によって精製された血肉と、精霊が持つマナの力を動力にした、人造の巨人。
精霊機。精霊の器。機甲式。ゴウレム。
人や土地によっていくつかの呼び名を持つそれであるが、その存在が持つ役割には大差ない。祖国エストランジュ王国においては精霊機と呼称されているそれは、今の時代における戦場の覇者である。
「お前ら、手柄を立てる! 増援が来る前に俺達だけで仕留めるぞ!」
散開する己の部下に激励を掛けながら、セルジュが大地を蹴り、巨人に向かって真っ直ぐに駆ける。部隊の者達と同じく、セルジュの先天色もまた赤に分類されている。精霊司特有のマナの恩恵と合わさりその動作は俊敏、疾風の如き早さだった。
無論、だからといって相手がただ見ているだけのはずもない。
黄土色の装甲を纏った敵精霊機は、その手に持つ身の丈と同等の巨大な戦斧槍を振り上げた。生身であれば持つことすら叶わない圧倒的な質量を木の棒のように扱うその姿は、セルジュに重装騎士を思い起こさせる。
もしあの獲物が振り落とされれば爆発と見間違うような衝撃波が発生し、直撃はしなくともセルジュの身体は木っ端の如く宙を舞うことになるだろう。精霊機というのはそれだけの圧倒的な力を秘めている。
それを阻止するのはセルジュの号令を受けた隊の者達である。
敵機を取り囲むように布陣した彼の部下達が雄叫びと共に攻撃を仕掛ける。
先陣を切ったのは無数の火球。
その身に宿した精霊の力を行使した、マナによる遠距離攻撃。
巨大な重装騎士目掛けて紅蓮の炎が波頭の如く次々と押し寄せ、その動きを鈍らせた。その隙を突くようにして、セルジュに先駆けて部隊の前衛達が己の得物を手に持ち突進していく。
長剣、両手剣、小短剣、戦斧、戦槌、鞭、手甲――その姿は同じ国の、同じ軍の、同じ隊に所属しているとは思えない程に多種多様、炎を思わせるその色以外に共通点は少ない。
だがそれも当然だろうか。それらは武器の姿をしていても、武器ではない。
女性精霊司と違い、男性精霊司の精霊は物体として顕現する。そして多くの場合、その姿は武器である。彼らが皆手にしているそれはただの錬磨した金属の塊などではなく、各々が身体に宿した精霊なのである。
獣のような雄叫びとともに、その恵まれた身体能力を生かして精霊司達が襲いかかる。遠距離の攻撃による支援も未だ止んではいない。
集る羽虫を鬱陶しがるように精霊機がその巨大な戦斧槍を振るうが、大味なその攻撃は空を切る。四方八方からの攻撃に動きが攪乱され、精霊機の動きは明らかに鈍っていた。
本来ならばこういった事態を防ぐために、精霊機は精霊機同士で隊列を組むか、あるいは随伴の歩兵を伴うのが常である。
だが今回は事前に先行させていたセルジュの部下達によって随伴兵は排除済みだ。その時点で感情に引きずられ退くという選択を出来なかったのが、相手の過ちだ。
とはいえ、雨のごとく叩き付けられる攻撃は動きを鈍らせる以上の効果は発揮していない。単純な話で、精霊機を傷つけるだけの破壊力がないのだ。
敵が冷静さを取り戻せば、その時点でこの優位は失われてしまうだろう。
それを証明するように、敵精霊機は戦斧槍を振り回すのを一端止める。それと同時に、機体全体から黄色のマナの燐光が溢れ出る。
それはセルジュの部隊にいる誰よりも力強い、精霊の顕現。
その光が戦斧槍の穂先まで行き渡ると同時に、人影のない大地へと突き刺した。その刃を通してマナが地下に浸透する。
最初と同じく、地面を破裂させて周囲諸共薙ぎ払うつもりか。
だが、甘い。
「読みやすいんだよなあ」
――ゴッ!
初撃と同じように地面が破裂するが、行使したマナの量に対してその規模は格段に小さい。土石混じりの爆風は大した戦果を上げることは無かった。
相手の精霊機の動きから、中にいる精霊司の困惑が容易に見て取れる。
「こっちは生身なんだ。小細工くらいは想定しておけ」
敵の足下に到達したセルジュが、にぃっと口の端を吊り上げる。
赤なら炎、青なら水。先天色には扱いを得意とする分野がある。黄色の先天色が相手ならば、地面を介した攻撃を真っ先に警戒しておくのは当然であった。
巨大な古代樹が育ち並ぶグランダナ樹林。太い幹を支えるその根は広く地中で広がっており、現在の戦場として選ばれたなこの場所はその密度が特に高い。目に見えぬ地下では太い木の根が編み目のように広がっていることだろう。
先天色黄のお家芸。地面を爆発なり、隆起させて槍にするなりしようとしても、ここでは千年を支えてきた古代樹の根が押さえとなってしまい効果を十全に発揮できないのだ。
セルジュ達の隊はそれを狙って、その為にわざわざここまで誘い込んだのだのである。どこまで効果があるかはその時になるまで分からなかったが、結果として想定以上の効果を発揮してくれた。ここは最早、セルジュ達の狩り場だ。
「来い、エゼルファルトッ!」
咆哮。
そう言い表すに値する叫び声とともに、セルジュは腕を振りかぶる。
セルジュの呼びかけに応じるようにして、赤いマナが収束、手の中で形を作って顕現する。
姿を見せたのは赤熱した鉄を思わせる、黄昏色をした片手の小剣。
エゼルファルトという名を持つそれが、生まれついたときからセルジュの身体に宿っていた精霊の姿であった。
――ギャァッ!
火花が散る。
剣線が奔ると同時に金属で金属を引っ掻いたような、耳の奥を痺れさせるような甲高い音が鳴り響く。
「ちぃ! 流石に硬いッ……!」
精霊を通して伝わってくるその感触に、セルジュは思わず舌打ちを漏らした。
刃を振り抜きはしたものの、その傷は浅い。精霊機の動力となっている精霊司のマナによって強化されたその装甲を前に押し負けたのだ。その刀身は切っ先を差し込めた程度に過ぎず、装甲の表層を傷つけた程度に過ぎない。
だがそれだけでも偉業ではある。
隊の者達の殆どが分厚い装甲の前に攻撃を弾かれてしまっている中、セルジュのように損傷らしい損傷を与えられている者の方が希だ。
セルジュの隊員達は全員が赤の先天色を持つ精霊司であるが、その全てが歩兵戦力。王国から振り分けられた位階は二等精霊司であり――つまりは、精霊機を動かせるだけの力を持つことが出来なかった下級精霊司達だ。
ましてや今の相手の先天色は黄色。
赤を持つ人間が身体能力に恵まれるように、先天色には各々の特徴がある。黄色の先天色を持つものは頑強さと耐久性に優れる傾向を持っており、そのマナを浸透させた精霊機を相手に、まともな損傷を与えるのは至難の技である。例え相手が中位精霊司用に調整された汎用精霊機とはいえ、生身のセルジュたちにとっては計り知れない驚異なのだ。
「――当てやすい場所を狙うな! 装甲の隙間を狙え!」
通常、セルジュ達のような二等精霊司たちの部隊が精霊機相手に求められるのは攪乱および、友軍の精霊機が辿り着くまでの時間稼ぎであり、その目的は決して敵の撃破ではない。
そういう意味では、セルジュの隊はすでに十分に足止めというその役割を全うしているといえるが――、
『――天に平伏し永久の欠片――』
声が、聞こえた。
それは人成らざる者の、精霊が生み出す唄だった。
そこには静謐さも、神秘性もない。ただ人間が本能に備える恐怖を呼び覚ませる、悪魔の囁き。
「やば……ッ」
敵精霊機からこれまでにない莫大な量のマナが生み出されるのを見て感じ取ったセルジュが、口元を引きつらせた。
セルジュ達のような二等精霊司には実現不可能な、精霊の生み出す破壊の力。もし生身であれだけのマナを発生させるようなことがあれば、その負荷に耐えられずに精霊司は間違いなく死んでしまう。
だが、精霊機ならば可能だ。多量のミスリルや精霊鉱を用いて生み出された精霊機は最強の鎧であると同時に、人間の身体では耐えきれない程の精霊の力を発動するための媒体であり祭壇なのだ。
『――最果てに散りゆくは汝が生み出す萌芽の――』
「させるかッ、よッ!」
その効果がどのようなものかは知らないが、精霊機を依り代に行使される精霊の力は強大だ。いかに黄色が攻撃に秀でた先天色ではないとはいえ、セルジュたちのような生身の人間が耐えられるわけがない。
何をしてくるか分からない以上、回避は難しい。ならばするべきは詠唱の中断。
精霊機に挑む以上、その備えも当然してある。
「――焼き切れ、エゼルファルト!」
『――――――――』
唄は無い。
だがその瞬間、セルジュの呼びかけに確かに精霊は応えた。
手の内に収まる短剣が鳴動、活性化。炎の如き赤色のマナに包まれ、その刀身が何倍にも延長される。
終焉を告げる黄昏色の短剣が、紅蓮の業火を纏う長大剣へとその姿を変貌させた。
大きさは変われども重さは変化無く、その柄はよく手に馴染む。自身の分身とも言うべき感触に満足しつつ、セルジュは間合いを踏み込み、手の中に握られた灼熱剣を全力で薙ぐ。
抵抗は一瞬。
次の瞬間には赤熱した刀身は装甲の表層を切り裂いてその内部へ侵入。ミスリルをふんだんに使って構成された人造筋肉や疑似骨格を尽く焼き尽くし、両断した。
『――――――――!!!!!!!!』
声なき悲鳴が、マナを通して響き渡った。
融点を超えた金属が緋色の液体となって周囲に飛び散っていく。
巨大な身体を支えていた二つの巨足の片方が失われて、黄土色の精霊機が姿勢を崩し、膝をつく。地響きのような轟音が深い森の中に鳴り渡った。
立ちこめる砂煙に紛れて、敵機に巻き込まれないようにセルジュも慌ててその場を立ち退く。媒体としていた精霊機が不完全となり、循環していた精霊の力が崩れ去る。精霊の唄はすでに中断していた。
「さすが隊長! 装甲の厚い黄色を一撃で切り裂きやがったっ!」
「これで二等とか詐欺だろうがよ!」
膝をつく鎧の巨人。
その光景を目にした隊の部下達の間から、一斉に歓声が上がった。
二等精霊司。
この時代の最強の兵器である精霊機を操るだけのマナを持てなかった精霊司に与えられる劣等の烙印。それを持つ人間が、精霊機を降す。その夢物語的な現実の光景に、この場にいる精霊司達は沸いているのだ。
傲ることなく、さらに一刀。
膝をついていた巨人の片腕をも断つ。
杖のように身体の支えにしていた戦斧槍が失われて、黄土色の鎧を身に纏った精霊機はついに俯せに倒れ伏した。
「ふう」
もうもうと立ちこめる砂埃の中に沈黙する影に、大きく息を吐き出す。もはや立つことすらままならない精霊機に、戦闘継続は不可能である。
「やりましたね、隊長!」
エゼルファルトを握りしめたまま小さく息を吐き出すセルジュの傍らに、メメントが駆け寄ってくる。額に汗を浮かべ小さく揺れるその肩の上には、彼女の精霊である赤子狐のリュリュが乗っていた。
前髪を張り付かせて頬を桜色に上気させつつ息を吐き出すその姿に密かな色っぽさを見いだしながら、セルジュは問う。
「被害状況は?」
「軽傷者多数、死亡者ゼロ。誘導の際にクローテルとテシシアが重傷を負いましたが、既に戦線を離れて後方へ移送済みです。護衛にはシュノが」
「二人の様態は?」
「私は医者では無いので何とも。ただ意識はしっかりしていたので、命に別状は無いかと」
「そっか」
その報告を聞いてセルジュは安堵の息を漏らした。
赤の先天色を持つ者は身体能力に恵まれている。身体は頑丈であるし、意識があったのならば滅多なことはないだろう。
歩兵戦力でしか無い二等精霊司達で精霊機を相手にした結果としては、最上の部類だといえるだろう。無論、被害が出ている以上最高では無いのだが。
部下の様態に一息つくそんなセルジュの横顔を、メメントは微笑みながら好ましそうに見つめていた。どことなく熱に浮かされているようにも見える。
その視線に目聡く気がついたセルジュはしばし考えた後、そうっと目を細めると、小さく口の端を釣り上げながら彼女との距離を音も無く距離を詰めた。
目の前に居ながらにして気配も無く動いて見せたその歩法術に、気がつけばメメントはセルジュに抱き寄せられることになった。
「……え? あれ?」
いったい何が起こったのか理解できていないという風に目を瞬かす赤毛の少女の耳元に、セルジュはそっと口を寄せて擽るように囁く。
「メメント。今日の夜、俺の部屋に来な。祝いだ」
「……ふぇ!? なななな」
「なぁに、深く考えなくて良いさ。お前はただ一度頷けばそれで良いんだ」
「は、ひゃいっ!」
電流でも奔ったかのようにメメントは身体をびくつかせて、跳ねるような声を漏らした。自分が何を言われているのかもよく分かっていないに違いない。彼女は真面目で腕も立つ優秀な人員であるが、突発的な事態に脆い傾向にあるのだった。
「よしよーし、言質は取ったぞ」
聞こえてきた返事にセルジュは満足げに頷くと、何事も無かったかのようにあっさりと距離を離した。
「……え? あれ?」
先ほどと同じ言葉を繰り返すメメント。
何があったのか分かっていないのかしばらく呆然としていた彼女だったが、暫しして自分がどういう返事を言ってしまったのかを理解して「あわわわ」と慌て始めた。
彼女は律儀だ。流されるようについ返事をしてしまったのだろうが、彼女の性格からして一度約束してしまった以上はそれを守るに違いない。周囲でも今の様子を眺めていた部下の何人かが「あーあ」という顔をしている。後は幾人の女性隊員からの刺すような視線。
セルジュが誤魔化すこともなくそれらを受け入れていると、一人の人影が近寄ってくる。
「お疲れ様です、隊長。相変わらずお見事でした」
そうセルジュの活躍を労ってくるのは、身長の高い禿頭の男だ。
ネアンという名の部隊の副隊長を務める人材で、セルジュよりも年上でありながらそれを気にした様子も見せずに、セルジュの至らない部分をフォローしてくれる逸材である。
ちなみに頭に一本の髪も無いのは禿げでは無く、剃っているかららしい。
「だろ。ようやくメメントも俺に心を開いてくれたみたいだ」
セルジュが満足げな様子を見せると、ネアンは呆れたように半眼を作った。
「誰が隊長の女性事情の話をしましたか……。精霊機ですよ、精霊機。これで十三機、流石です。二等精霊司でこれだけの精霊機撃破記録を持つのは隊長くらいのものです」
通常であれば二等精霊司が一機でも精霊機を撃破しただけでも王国から特別功労賞が与えられる偉業である。その事実から、セルジュの持つ記録がどれだけ規格外かが窺い知れる。
「それに今回はかなり上等なやり方が出来ましたね。殆ど原型が残っている」
ネアンが俯せに倒れ伏した精霊機を見やりながら呟き、セルジュもそれに同意して頷いた。
「だな。今回は相当な報酬が期待できるぞ。怪我をした二人にも面目が立ちそうだ」
通常、精霊機を破壊するのは精霊機の役割だ。
そして精霊機同士がぶつかった場合、それはつまり一等精霊司以上の強大な力がぶつかり合うことを意味している。その戦いの決着がついたとき、敗者は圧倒的な力に蹂躙されているということだ。原型を留めていないどころか、存在が消滅してしまっていることも珍しくはない。
そんな中、殆ど原形を保ったまま敵国の精霊機を捕獲出来たのは大きな功績となる。
敵国が用いる精霊機がどれだけの性能を持っているのか精査できるということもあるし、希少鉱石であるミスリルを大量に使って構成される精霊機は単純に資材としてみた場合でも美味しい代物なのだ。
この成果があれば特別報酬がセルジュの隊には下りるのは間違いない。部下との関係も進展し、報酬もほくほく、今回は大量である。セルジュだけでなく、隊の人間達の表情は総じて明るいものだった。
「よし、友軍が来る前に中の精霊司を引きずり出して――」
だが、まだだ。
まだ戦いは終わっていなかった。
『――最果てに――……』
唄が。
「――なに?」
精霊の唄が聞こえた。
「こいつ、まだ動くのか――!?」
あり得ない事態に、セルジュは目を見張った。
精霊機が大きく欠損している以上、その力の行使は不完全なものになる。精霊機で支えきれなかったマナの負担は、精霊司本人が担うことになるのだ。これだけの莫大な量を生身の身体で耐えられるわけが無い。
自滅覚悟の精霊の行使。
いやそもそも、一度、唄の詠唱中に媒体となる精霊機を破壊されたのだから、その時に行き場を無くした莫大なマナは全て精霊司へと返ったはずである。それだけの負荷を心身に受けてまだ動けるという事態が、一種の異常事態ともいえた。
少なくともセルジュはこれまでに唄を途中で中断させられて、その後に動き出した精霊機を見たことがなかった。
『――最果てに散りゆくは、汝が生み出す――』
「来いっ、エゼルファルト!」
セルジュは一瞬にして精霊を召喚、手の中に現れた黄昏色の刃を握りしめて駆け出す。
――くそ、間に合うか!?
狙うのは精霊機の頭部下、精霊司が収まっている部分。機体を破壊しても無駄ならば、動力源となっている中の精霊司を破壊するしかない。
跳躍し、俯せの精霊機の背中に飛び乗って目的の場所へと最短に向かう。
だが同時に間に合わないと直感する。セルジュが装甲を貫き精霊司を焼き尽くすよりも、相手の精霊の唄が完成する方が早い。
破壊の規模は果たしてどれくらいか。いくら古代樹の根が張っているとはいえ、押さえられるものにも限度はある。相手は量産型とはいえ精霊機であり、それを操るのはエストランジュ王国の位階でいう一等精霊司だ。上級に劣るとしても、そのマナが生み出す破壊の威力は計り知れない。
このままでは隊の全滅もあり得るとセルジュの背筋に冷たいものが流れた、そのとき――、
『――凍てつけ』
声。
それは唄などと言う静謐なものではなく、ただ事象よ在れという、絶対的強者による命令行使。パリン、という脆弱な硝子が砕けるような細い音が反響する。
突然漂ってきたその冷気にその場にいた誰もが震えた。心理的な恐怖によるものだけでは無い。口から吐き出す吐息が白くなっている。現実として大気が凍てついているのだ。
何が起こったのか。
それは眼前を見れば一目瞭然だった。
セルジュは唖然とする
黄土色の装甲を持つ、巨大な人型機構。
力の象徴たる精霊機は今や真っ白な霜に覆われ停止している。冷気に浸食された精霊機の装甲が剥離し、冬桜の花弁のように宙へ舞い散っていく。
黄色の精霊機の肢体が氷結に襲われて、その質量を支えきれなくなり音を立てて瓦解する。無数の白片が割れた硝子のように飛び散った。
きらきらと白い光を放つ断片が周囲に巻き上がることによって生み出されるその光景は、幻想的と言ってもいい。
だがそれは錯覚であり、今セルジュの目に映るものはあらゆるものを蹂躙する強大な破壊の爪痕だった。