家族
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これはとある田舎の、とある家族の話。
魔獣の影響によって土が荒れ、水が涸れ、日に日に家族の食事の回数も減り、机の上に並ぶ料理も少なくなっていきました。
ある日、お腹を空かせた弟を見て祖父が言いました。
「おやお腹が空いたのかい? ならこのパンをお食べなさい」
「うん、だけどそれはおじいちゃんのでしょ?」
「みんなには内緒だよ? 実はワシはこっそり先に自分の分を食べてしまったのさ」
それならばと、弟は祖父から貰ったパンを口にして餓えを乗り越えました。
暫くして、祖父はベッドの上で寝たきり起きてくることはなくなりました。
ある日、喉を渇かせた妹を見て祖母が言いました。
「なんだ喉が渇いてるのかい? それならこのお水を飲みなさい」
「だけどそれはおあばあちゃんのでしょ?」
「ふん、他の人には言うんじゃないよ。私はついさっきもこっそり飲んだばかりなのさ」
そうなのかと、妹は祖母から与えられ水を口にして渇きを癒やしました。
暫くして、祖母は寝たきりの祖父の近くに座ったまま動かなくなりました。
ある日の朝、兄が家を出て行きました。
突然いなくなった兄の姿を探して、弟が尋ねます。
「お兄ちゃんはどこに行ったの?」
「少し遠くにね。観光に行ったんだよ」
母が言いました。
「いつ頃帰ってくるの?」
寂しく思った妹が声を震わせると、父がぎゅっと抱きしめて言いました。
「良い子に待ってれば、すぐに帰ってくるよ」
弟と妹は両親の言葉を信用して、出来る限り良い子をして待ちました。
日が経ち、月が変わり、季節が移って。
それでも兄は家族の元へと帰っては来ませんでした。
これはとある田舎の、とある家族の話。
仲の良い家族の日常が消え去っていった、とある家族の話。
1
「今日の予定は全て中止だ」
ある早朝の時分、そう告げられた。
連日の気候はその日も変わらず、白陽から降り注ぐ強い日照りが工房の建物に深い影を作らせている。その日陰に隠れながら汗を滲ませ薄着になっている女性職員達を目を細めて眺めていたセルジュは、唐突に告げられたその言葉に眉根を動かした。
「それはつまり、休みって事か?」
「そういうことになるね……」
対するフォルスは困ったような表情を滲ませながら、溜息交じりに頷く。そこからは現状に対する不満と疲労が色濃く出ている。相貌の整ったこの優男がこういった顔をするのは珍しいことではない。まだ二十そこそこの年齢のはずだが、随分と老け込んでいるように見えるのは目の錯覚だろうか。
「こないだ君とエナが作成してくれた例の装備案。その意見を反映して〈アルテナ〉の大改修を本日中に突貫で行う……ということをまあ、僕もついさっき本人から聞かされたばかりなんだけどさ……」
「ああ、随分と急な話だと思ったらそういうことか……」
そう言うフォルスの視線の先をセルジュも追いかけると、そこには表層の装甲を剥がされ基礎骨子を剥き出しにした〈アルテナ〉と、その前で気色悪い笑みを浮かべながら作業を続けるジストロンの姿がある。
セルジュとエナーシアが作成した〈アルテナ〉の装備案の資料をジストロンに提出したのが、昨日の昼ことである。限られた時間の中で作られたそれは内容の粗い出来映えだったが、あの偏屈老人を動かすだけの効力は持っていたようだ。
聞くところによるとジストロンは昨晩の間には〈アルテナ〉の装甲を取っ払ってしまい、改修作業を始めていたとのこと。精霊機の装甲を一部とはいえ除外するのは相当な手間であるはずだが、いったいあの老人は一人でどうやってその作業を済ませたのだろうか。そう疑問に思う反面で、まああの老人ならばどうとでもするだろうという諦観にも似た思いもあった。
「以前も似たようなことがあったよな。予定は大丈夫なのか?」
「……大丈夫なわけないだろう。こっちの予定はもう組んであってそれに則って進めてたっていうのに……。これから各部署に連絡してズレた予定を再調整して……ああ、ただでさえ日程が押しているっていうのに……なんであの人は唐突に思いついたように動き始めるんだ……頭が痛くなってくる……」
そう魚の死んだような目をして呻く貴族の青年を、セルジュは憐れみのこもった目で見つめた。
なまじ無茶な要求に応えられるだけの能力が彼にあるのが原因なのだろうが、フォルスはもう少し息を抜かなければいつかパンクしてしまうのではないだろうか。
「……まあだから急な話ではあるけど、これで君とエナは今日は完全休日だ。外出も自由だし、好きに過ごすといいよ。王都の外にまで行かれるのは流石に困るけど」
そう伝えると、フォルスは疲労を滲ませた顔を顰めながら去っていた。
雑談をする素振りも見せない辺り、やらなければならないことが大量にあるのだろう。気の毒に思うのだが、フォルスの端正な顔が歪むあの姿も大分見慣れてしまってあまり悲壮感が感じられない。損な役回りである。
「………あいつ、いつか失踪するんじゃなかろうか」
これまでに脱走兵となった知り合いや部下達の顔を思い浮かべ見比べながら、後でなにか差し入れでも買ってきてやろうとセルジュは決心した。
***
まあだが。
それはそれ、これはこれである。
工房に残ってジストロンの助手兼面倒係をするフォルスには申し訳なさがあったものの、正直に言ってしまえば降って沸いて出た丸一日の自由時間という事実にセルジュは喜びを隠すことが出来ない。
王都に戻ってきてからは経験のない精霊機の習熟に掛かりっきりであり、工房の外を出歩く時間は殆ど無かった。だが今回生じた休日によって久しぶりに家族に会うことが出来るのである。
フォルスと分かれて身支度を調えたセルジュは――といっても、大したことはしていないが――軽い足取りで第二中央工房の敷地外へと出る。第二工房は王都の外れに存在しているのでそれなりに歩くことになる。夏の訪れを感じさせる青空と白い雲は、外出する日和としては申し分なかった。
ただし――問題というか、素朴な疑問が一つだけ存在していた。
都市郊外から住宅区へと侵入した辺りで、セルジュはついに溜息を吐き出した。
「……で、なんでお前がいるんだ?」
セルジュは半眼で、自分の隣を歩く小柄な少女を見やる。思わず漏れ出た声は呻きにも近く、セルジュの隣を行く少女――エナーシアはふいっと気まずそうに視線を逸らした。
「な、なんでもないわよ。時間が空いたのは私も同じなんだから、別に街に出てきたって何もおかしくはないでしょう?」
確かに、ジストロンの突発的な行動のお陰で暇が出来たのはエナーシアも同じだ。そんな彼女が街に繰り出したとしてもおかしくはないが……、
「だとして、なんで俺の後を付けてくるんだ」
「べ、別に偶然よ、偶然っ! たまたま私の行く方向とあんたの行く方向が一緒なだけなんだから! 何よ、文句でもあるって言うの!?」
「いやいや、絶対に嘘だろ」
いまセルジュ達が歩いているのは、商店などが並ぶ大通りからは若干外れた位置にある住居区画である。この辺りはほどほどに生活に余裕のある中層市民達の一戸建て建築が立ち並んでおり、人に会う用事でもない限りは来る必要のない場所であった。
「あのなあ……俺はただ家に帰るだけで、お前がついてきても何も面白い事なんてないぞ?」
「い、いいのよ別にっ! あなたの両親と面識を持っておくことが重要なんだから」
「まあ……、別に良いんだけどさ」
小柄な身体に似合わぬ行動力を持ち合わせたエナーシアを眺めながら、セルジュは静かに息を吐き出す。
セルジュの両親は共に大らかというか、穏やかでのんきな人柄なので、突然の帰宅にエナーシアが付いてきたところで追い出したりするようなことは絶対にしない。セルジュとしても家族の様子を確認したいだけで、水入らずを味わいたわけでもなかった。むしろ同僚を連れて行けば、職場でも上手くやっていけてると安心させることが出来るだろう。
セルジュとエナーシアは二人並んで王都の街並みの中を歩いて行く。すれ違った人たちがちらちらと視線を向けてきていたが、それも仕方がないことだ。
外出に際して、セルジュは深い青を基調にした王国軍の制服を、エナーシアは黒と赤を組み合わせたリゼンシュタールの領軍の制服を、それぞれ身につけている。色の違う騎士団服を着た二人が並んでいれば目立つし、そこに加えてエナーシアの抜群の容姿である。注目するなと言うのが無理な話だ。
これでお互い私服であったならば周囲からはデートにでも見えたのかもしれないが、流石にそれは無理だろうか。
「それにしても、あんたの家族は田舎で果実園を世話してるんじゃなかったわけ? なんで王都にいるのよ?」
道すがらにそう口を開いたのはエナーシアだった。
そういえばそこら辺の説明はしていなかったなとセルジュは思い出す。
「実家は南部の田舎。王都にあるのは、正確には別宅だな」
端的にそう言うと、エナーシアは驚いた表情を浮かべた。
「……なにそれ? 果樹園持ちで王都に別宅って、まるで貴族か豪商じゃないの。セルジュのお家ってそんなに裕福なわけ?」
「まあそれなりにってところか。それに俺も貰った報奨金の殆どは全部家に送ってるしなあ」
元々小さいとはいえ一つの果樹園を営んでいたクルスの実家は貧しくはなかったし、二等精霊司として国に雇われて前線にいたセルジュの給金も決して少なくはない。
それに加えて、セルジュがこれまで戦場で手にした功労賞金も結構な額に昇っている。二等精霊司であるセルジュに多すぎる程の賞金を与えたのは、士気が下がりがちな二等精霊司達に対する餌の側面もあるのだろうが、貰える立場としてはありがたい限りだ。
さらにそこに、平民出身でありながら特級精霊司認定された妹と、平民出身の二等精霊司であるセルジュが軍で働いていることによる減税特権諸々が追加される。
元々町でも大きめの果樹園を管理していたセルジュの実家であったが、いつの間にやら人を雇って果樹園を経営する立場になっており、その合計収入は平均的な市民を大きく超えている。豪遊とまでは言わないまでも、日常生活に余裕が出てくるのも当然の話であった。
「そっか……そういえば、セルジュには妹さんがいたのよね。すっかり忘れてたわ」
「なんだ知ってたのか?」
「それはそうよ。平民出でありながら特級認定された精霊司よ? 領地の軍にいた頃から噂で何度も耳にしたことがあるわ」
セルジュは「へえ」と反応薄く頷いたが、内心では大きく驚いていた。自分の妹が特別なことは理解していたつもりだが、まさか遠く離れた大領地であるリゼンシュタールの領軍にまで伝わっているとは思ってもいなかったのだ。
「彼女の噂には王国中に広がってるとは思うけど……あれ? ということは、今日はその妹さんにも会う予定なの?」
「まさか。妹は今は訓練校の寄宿舎暮らしだから家にはいないよ。それに今は大規模共同訓練の時期だろ。王都にはいないさ」
二年に一度、王国に三つ存在する訓練校合同で行われる大規模演習。開催地は年によって違うのだが、今年は王国東部――大陸の東端付近で行われているらしい。王国西部である大陸中央部は今最前線であるのだから、万が一が無いようにという学校側の配慮だろう。
「合同訓練か……」
エナーシアはその言葉にどこか懐かしそうな響きを持たせながら、ちらりとセルジュの顔を見てくる。
「セルジュは自分が経験した大規模演習のこと……覚えてる?」
「そりゃな」
セルジュは肩を竦めて頷く。
セルジュは訓練校に在学中に三度の大規模共同演習を経験していたが、そのどれもが一筋縄ではいかない内容で、鮮烈に記憶に焼き付いている。特に初めての共同演習は戦場で精霊機と向き合うということがどういうことか、その意味を教えられたのである。忘れようと思っても忘れられるものではない。
「演習って銘打ってるが、ありゃもう実戦みたいなもんだからなあ。怪我人なんて馬鹿みたいにいたし、死人も出てたって噂も聞いたぞ」
「そ、そっかー……そうよねー、覚えてるわよね。うん、覚えてる、覚えてる。私も結構覚えてるしなー」
そう言って、エナーシアのみょうにそわそわとしながら、ちらちらとセルジュを見やってくる。その揺れる瞳には何かを期待するような光が微かに潜んでいた。
「……」
あまりにもあからさまな仕草。
セルジュはその反応から、恐らく過去の大規模演習で自分とエナーシアは顔を合わせたことがあるのだろうと推測してみる。だが、思い返してもみるもそれらしい記憶が無いことに首を捻る。エナーシア程の容姿を持った相手だ。もし自分が一度でも目にしていれば、生涯忘れなさそうなものなのだが。
セルジュのその様子から察したのかエナーシアは僅かに落胆したように息を漏らしたが、すぐに気を取り直したようだ。前向きなのは彼女の美徳だった。
「でもそれなら、あんたの妹も今頃苦労してるでしょうねー。それまでの訓練がぬるま湯に感じられるくらい厳しいもんね、あれ」
過去の地獄の修練を思い出してエナーシアが同情するように呟くと、それを聞いたセルジュが「そうなんだよ!」と勢いよく声を上げた。それに驚いてエナーシアがびくりと肩を震わせる。
「あんな生徒を虐めることを目的にしてるとしか思えない内容にあいつを放り込むとか、何を考えてるんだよな!? かといって流石に訓練校の演習に乗り込んだら問題ってレベルの話じゃないしさあ……ああー心配だ……怪我とか、万が一重傷を負ったりしたらと考えるとどうしてやるべきか……………あ、そうだ。なあなあ? 〈アルテナ〉の性能試験とかの名目で乗り込むこと出来るんじゃないか? 実戦演習とかそんな感じで」
「出来るわけないでしょう、お馬鹿!」
何を言っているのだろうかこの男は、とエナーシアは半眼を作り、
「薄々思ってたけどさあ……あんたって、もしかしてシスコンなの?」
前線で活躍するセルジュという二等精霊司に憧れを抱いていたエナーシア。
その実物が自分が思い浮かべていた人物とはまるで違うことはもう十二分に理解していたが、それでもこれ以上持っていた幻想を壊さないでくれとも思ってしまう乙女心である。
だが明け透けなその言葉に対してセルジュは特に怒るでも恥じるでもなく、ただ与えられた言葉は正確ではないとでも言う風に小さく首を振って、
「シスコンというか、基本的に俺は家族全員を最上に大切に思ってるつもりだが?」
そう臆面も無く言い切った。
過剰とも言える家族への真っ直ぐな想いに対して、セルジュは何も恥じることを覚えていない。気負うわけでもなく、照れるわけでもなく、極自然体で言っているということは、つまりそういう意味だ。
不意に隣を歩いていたエナーシアが足を止める。セルジュが不思議に思って振り返ると、そこには呆然とした表情を浮かべた彼女の姿があった。
「エナ?」
「……なんでセルジュはそんなに家族に尽くしてるいられるわけ?」
そう問うエナーシアの表情は感情が薄い。無表情にも見える。だがセルジュには、今にも泣きそうになっている子供の顔のように映った。一体何が彼女の琴線に触れたのか、それがセルジュには分からなかった。
「どうだろう。家族を大切に思うのってそんなに不思議なことか?」
「ううん、変じゃない。家族なら変じゃないだよね。私もそう思うよ。だけどさ、そういうのってさ…………ああ、うん、違う。そうだよね……。ごめん、変なことを言っちゃったわね」
「いや、それは別に構わないが……」
エナーシアの反応にいまいち腑に落ちないものを覚えたセルジュだが、それが一体何を意味しているのかまでは推測できない。
そういえば、と。
エナーシアと知り合ってからそれなりの期間が経過したが、これまで彼女の事情に関して詳しく聞いたことがなかったことに気がついた。
王国有数の大領地リゼンシュタールの騎士団から派遣されてきたということはもちろん知っている。
だがそれがどのような目的や経緯によるものなのかは知らず、彼女がどうのような出自なのかも知らない。最初に出会ったときは妙に常識を知らないところがあったので貴族かとも思ったが、二等精霊司ということは貴族ではないのだろう。商売に成功した人物の箱入り娘だというのならば騎士団にいるのもおかしな話であるし、少し考えてみると意外と謎の多い女だった。
「そ、それでっ、あんたの別宅ってどこらへんにあるの? もう結構歩いてる気がするんだけど!」
漂っていた微妙な空気を流すようにエナシーアが意図して明るい声を出す。本人がそれを望んでいるならと、セルジュもこれ以上追求することはなかった。
「俺のじゃなくて、俺の両親の、な。……もうすぐそこだよ。ここの曲がり角を曲がれば……ほら見えた」
そう言って、セルジュは目に入ってきた一軒家を指さす。
目にまぶしい白い壁と空のように青い屋根が特徴的な、小さいながらも庭付きの家屋である。付け加えるならば二階もある多重構造であり、田舎の農夫が持つ別宅としては破格のものといえよう。
「へえ。可愛い家ね」
その見た目が気に入ったのか、エナーシアが感心の混じった息を吐き出す。
セルジュからすると見た目が少々ファンシーというか少女趣味のような気がしてしまうのだが、幸いというべきか女性受けは良いのである。
「母さんの趣味なんだよなあ。いい歳してるのに全く」
「あら、いいじゃない。歳を重ねてもそういう若さを忘れないことって、多分大切な事よ」
「俺としてはもういい加減、年齢相応に落ち着いて欲しいんだけどな。王都と果樹園を行き来してるのも微妙に不安だし。いくら近いといっても道中が絶対に安全ってわけじゃないんだぞ、まったく……」
セルジュの出身地の村と王都は馬車で片道二日くらいの距離関係にある。道中に特別険しい荒れ道があるわけでもないが、それでも運が悪ければ獣や盗賊と遭遇する可能性もあるのだ。セルジュとしてはいい加減一カ所に落ち着いていて欲しいというのが本音である。
「あんたってほんと、家族に関しては過保護なのね」
「愛に満ちてると言ってくれ」
何とも言えない表情を作るエナーシアに対して、セルジュはふふんと何故か自慢気にしてみせる。それを見てエナーシアはただ首を振った。この調子では、実際に家族と顔を合わせたセルジュはどうなってしまうのだろうかと、少々不安になってくる。
そのまま二人が並んで庭に立ち入る。広さ自体はそう大したものではない。ただ雑草は綺麗に刈り取られていて、煉瓦の花壇には違う色をした花が綺麗に並んで咲いている。派手さはないが人の手によって大事に管理されていることが分かる、暖かな庭だった。
これがセルジュの家族の手によるものだと察し、今更ながらにエナーシアは憧れの人物の親と顔を合わせるという事実に緊張を覚える。何か手土産でも用意するべきだったのではと後悔するが、流石にもう遅い。
素朴な庭を見慣れた様子で進むセルジュとは別に、緊張でエナーシアがぎこちなく視線を揺らす中、まるで見計らったかのようにがちゃりと音を立てて家の玄関の戸が開いた。
思わぬ不意打ちにエナーシアは叫び出しそうになるのを必死に堪え、咄嗟に首を上げて少しでも印象が良くなるよう笑顔を作ろうとしたのだが――そのような小狡い意識は、家の中から現れた者の姿によってすぐに消え去ってしまった。
「な……」
小柄で細身の、小さな影。
大人よりは子供寄りの年齢に位置するであろう少女。その硬質な青みが混じった影色の髪もさることながら、注目すべきは頭部に突き出た耳だ。
猫科の生物を思わせる三角形のそれは、見る者に人ではなく獣を連想させた。さらに注視すれば、その臀部からは短い毛に覆われた尾が長く伸びていることに気がつく。
「せ、獣人……!?」
その人成らざる者の姿を見てエナーシアが驚愕に目を見開いた。
しかも猫科を思わせるあの特徴はシル族と呼ばれる獣人達のものであり、その事実がエナーシアの危機感を殊更に煽る。
シル族と王国は五年前に土地の利権を巡って大きな紛争へと発展しており、その関係は最悪と言ってもいい。戦いは既に収束し結果として王国が勝利したのだが、その残党として各地に散ったシル族は野党等の犯罪者に身を堕とし、それが国内の治安悪化に繋がり問題となっていた。
――まさか、丁度こんな日に強盗だっていうの……!?
セルジュの実家から出てきた獣人の姿に、最悪の想像がエナーシアの脳内を過ぎった。
留守ならば物品を取られるだけで済むが、もしその場に家主達が居合わせたらどうだろうか。なんの訓練も受けていない一般市民が獣人と対峙して無事で済むはずがない。縛られるなどして身動き取れないよう囚われているだけならばまだ救いあるが、もし、そうでないとしたら――……。
エナーシアは驚きに身を固めたが、予想外の事態に目を見開いていたのは獣人も同じだった。だが獣人の少女は無駄な思考など必要ないとばかりに、決断。次の瞬間には地を蹴り獰猛な狩人の如く飛びかかってくる。
獣人の身体能力は人間のそれを大きく超え、精霊司にも迫る。突発的な事態に対応できなかったエナーシアは身体を強張らせて射竦められる。
だが次の瞬間、それを庇うようにしてエナーシアの横から影が飛び出ていた。
これが実戦経験の差か。セルジュは獣人の少女の上を行く初動で足下を蹴り飛ばし、真っ直ぐに突き進む。その後ろ姿に頼もしさを覚えると同時に、エナーシアは小さく息を飲む。
咄嗟で間に合わなかったのか、その手には炎剣の精霊は握られていなかった。
いくらセルジュでも、徒手空拳を生業とする獣人相手に無手では荷が重い。耳や尾だけではない。獣人の爪や牙は人のそれを遙かに超える強度を持つ、生来から備え持つ凶器なのだ。人の肉や骨など容易く断ち切る恐ろしい代物である。
さして広くない庭の距離である。二つの影にあった間が消えて、その身体が重なり合うのは一瞬のことだった。
セルジュと獣人は真っ正面から衝突し合い――、
「ミルフェルミア! 久しぶりだな! 大きくなったなあ、元気にしてたか!?」
「お兄ちゃん!」
セルジュがぎゅうっと、音が聞こえてきそうな程に力一杯にその身体を抱きしめた。
「……え?」
――思考停止。
エナーシアが時を止めたように硬直する。
そんな中で「わっわっ……」と獣人の少女がぱたぱたと力の籠もらない仕草で漏らす声が聞こえてきた。尖った耳がぴくぴくと揺れ、長く伸びた尻尾は機嫌良さそうに踊っている。
「……え?」
その光景を確認して、もう一度、エナーシアは声を出す。
もちろん、その程度で現実は変わらない。
彼女の視界に映るのは抱きしめ合うセルジュと獣人。
セルジュが力一杯に腕に力を込めているのに対して、獣人の少女のほうはどこか遠慮のようなものが見える気もする。実はこれは高度な戦略上の駆け引きであり、実際はお互いに鯖折りにしようと密かにせめぎ合っている――……わけではないだろう。
つまりは抱擁しているということだ。
だがいったい何故。
セルジュとこのシル族はどういう関係なのだ。
「あら、お客さんかしら。ごめんなさいね、気がつかなくて」
エナーシアが混乱の極致にいる最中、不意に穏やかな声が場に聞こえてきた。
エナーシアがゆっくりとその方向へ首を向けると、丁度家の裏手から一人の女性が姿を現すところだった。家の裏で土弄りでもしていたのか作業用の分厚い手袋をしていて、服装のあちこちが黒く汚れている。
「あらあら、すごい美人さんね。その服は軍人さんかしら?」
その女性はエナーシアを見てきょとんとした様子で目を瞬かせた後に、次いで二話の真ん中で獣人の少女を強く抱きしめているセルジュと、慌てふためきながらも嬉しそうに喉を鳴らす獣人の少女を見やって呆れたような顔を作り、
「で、あなた達は兄妹揃って一体何をしてるの?」
そんな言葉にエナーシアは遂に限界を超えて、
「……妹……え、え? …………ええええええええええええええええええ!?」
大きな叫び声を上げた。