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大陸の精霊司の軌跡  作者: ドアノブ
三話 第二工房の日常
10/26

最初の一歩

   3


 朝の自主訓練を終えたセルジュは、フォルスと共に工房へと戻る。

 王都郊外に設置された第二中央工房は広い敷地面積を持っている。精霊機の試運転などを行う広場のことも考えれば当然のことであるが、ここはちょっとした基地のようなものだろう。兵舎代わりになる宿泊施設も存在しているし、精霊機を整備する設備もある。緊急時にはそういった用途も見据えた作りに違いなかった。


「もっともそうなったらそれは王都直前まで敵が迫ってるって事だから、そんな日は来ないと僕は信じてるけどね」

「だな」


 第二工房の敷地内をフォルスと並び歩いていたセルジュは、頷く。

 王国成立以来、王都にまで敵勢力が迫ったという記録は存在しない。千年に近い長い歴史は内外の脅威による争いを幾つも抱えてはいるが、王都にまでその脅威が迫ったことはないのである。王都の外周を囲う白く巨大な外壁は一度として血を色を吸ったことはなく、まさしくこの王国の安定と平穏の象徴と言えるだろう。

 今現在も大陸中央の国境線では稀少鉱石の採掘地を奪い合う戦いが続いているはずだが、王都までその不穏の影が伸びることはない。

 王国に暮らす民達の平穏。

 その為にセルジュや王国軍の兵士達は戦っているのである。


「さてと、今日の予定だけどね」


 そうフォルスが切り出したのは、第二中央工房の中でももっとも大きな建築物の中に足を踏み入れたときのことだった。

 精霊機を扱うこの第二中央工房の中枢であり〈アルテナ〉を格納している巨大な倉庫でもある。そこはどこか、前線の駐屯地でも見かけた精霊機の格納庫と通じる特別な雰囲気があった。


「早々だけど君には今日から〈アルテナ〉に乗って貰うことになるよ。機体はあるんだ。あと必要なのはデータだけ。君には期待してる」

「任せとけ。……って言っても、俺は精霊機の扱い方なんか欠片も知らないけど大丈夫なのか?」


 これまでにも噂程度に聞いたことはあるが、それらは全て曖昧な知識だ。

 二等精霊司として生身で戦場に出ていたセルジュが精霊機の操作知識など持っているはずもなく、ほぼ一からの出発と言っても過言では無い。


「それも含めて、だよ。現状の二等精霊司達が〈アルテナ〉を操ったとして、果たしてどれくらいで使い物になるのか。それが知りたいんだから」


 欲しいデータは多い。

 実戦に通用出来るほど習熟するにはどれくらいの時間がかかるのか、〈アルテナ〉という同じ精霊機でも扱う精霊司によってどれくらい性能に差異が出るのか。先天色による変化は予測の想定内か。

 なにせ大陸史上初の二等精霊司用精霊機だ。調べること、するべきことは幾らでもあった。きっとこの場所でのセルジュの生活は、前線にも劣らぬ忙しさに見舞われることだろう。


「……なあ、ところでさっきから気になってるんだが」


 セルジュはふとそこで一旦言葉を区切って、ついっと視線を隅へと向けた。

 それと同時に物陰で動く人影。顔は見えないが、ちらりちらりと見え隠れする特徴的なその髪を見間違えるわけがない。ちらりとフォルスを見やってみるが、彼は無言で肩を竦めただけだった。


「……」


 一体何をしているのだろうか、あの少女は。

 セルジュは何とも言えない気分になりながら物の影に隠れるているエナーシアに声をかけた。


「おーいエナ、そこでなにしてるんだ?」

「ひう!」


 短い悲鳴のようなものが聞こえてきて、セルジュは困惑する。セルジュの知る限り、あの少女が今のような声を漏らすような性格だとは思えないのだが。一体何があったのだろうか。

 少しして、物陰からひょこりと小さな頭が生えくる。

 端整な顔立ちの持ち主は予想通り、エナーシアだ。彼女は暫し逡巡したような様子を見せた後に、てててて、と小動物のような仕草で寄ってきた。その美貌とのイメージ差がまた独特の魅力となっていて、要するにこのエナーシアという少女は何をするにしても人の目を引いてしまうのだろう。

 まあ、それはいいのだが。


「……」


 何故だか妙にその距離が近い。

 印象的な輝きを持つ黄昏色の長髪に、精巧な人形のような顔立ち。整髪剤の香りか、淡い花の様な香りがセルジュの鼻腔を擽った。

 一晩が経った後に見てみても改めて見惚れるほどの、相変わらず容姿の整った美しい少女である。これからは毎朝この顔を眠気覚ましに出来るかと思うと、もしかしてこの職場はとても素晴らしい労働環境なのではないかとセルジュは密かに思った。

 エナは暫く視線を彷徨わせた後に、意を決したように顔を上げた。


「あ、あにょっ!」

「にょ?」


 聞き慣れない語尾にセルジュが首を傾げる。

 かあっとエナーシアの頬が赤く染まった。


「ち、違うの! 今のは無しで!」

「お、おう?」

「落ち着け……、落ち着くのよ、私。大丈夫、練習通りにすれば何の問題も無いんだから。しっかりと気を落ち着かせて……」

「何を言ってるんだお前は……」


 本人は声を抑えているつもりなのかも知れないが、真ん前でそんなことをされれば嫌でも聞こえるに決まっている。すぐ横にいるフォルスはというと、笑いを堪えるような表情で傍観者に徹していた。

 エナーシアは深呼吸をした後に決戦に挑むかのような目つきでセルジュを見て、


「は、初めてなので出来れば優しくしてください……」

「……何の話をしてるんだ?」


 エナが何を言っているのか分からずにセルジュは困惑し、解説を頼むとばかりに視線をフォルスに移す。だが金髪の優男は先程と同じように「さあ?」と言わんばかりに小さく首を振って傍観者を気取って見せた。付き合いはお前の方が長いだろうがと視線で抗議を送るが、受け流されるばかり。

 セルジュは仕方が無しに目の前の少女に視線をやって、


「えーと、エナ?」

「ひゃ、ひゃい」

「……」


 引き攣ったその返事にセルジュは口元を引き攣らせる。その様子は何かに脅えているようでもあり、なんだか何もしていないのにガリガリと心を削られていく気がした。

 その様子を面白そうに眺めていたのはフォルスだったが、流石に見かねるものがあったのか言葉を挟んできた。


「そう言えば昨日はあまり話を詳しく聞かなかったけれど……、君たちはいったいどういう関係なんだい?」

「どうって……」


 道端で偶然顔を合わせて知り合った程度で、関係と言えるほどの接点も無いのが実情である。昨日クルカの実を投げつけられたことに関しては、つい面白い種を見つけてしまって調子に乗りすぎた自分の落ち度だろうと、セルジュは思っている。

 要するに限りなく他人に近い顔見知りである。

 セルジュはそう説明しようとしたが、それよりも先にエナが口を開いた。


「セルジュ様には先日大変お世話になりまして、どうか私の無礼を許していただきたく……」

「様!?」


 予期せぬ尊称にセルジュは愕然とする。


「なんだその仰々しい呼び方!?」

「いえいえ私などがセルジュ様に対して気軽に口を利くなど恐れ多くて……」

「誰だお前は!? 偽物か!? 双子か!? 昨日のエナとは別人だろ絶対! 俺に果物ぶん投げてきたエナはどこにいった!?」

「昨日は大変申し訳ありません。全ての非礼は私の不徳が致したところ。つきましては私の全身全霊を持って償う所存で……」

「重いわっ! 取りあえずお前はその口調を元に戻せ!」


 一体どういうことなのか状況は掴めないが、同僚がこれでは話しづらくて仕方が無い。よく分からない事態に若干焦りながらセルジュがそう言うと、エナーシアは神妙な顔つきで頷いた。


「分かったわ……あなたがどうしてもと言うなら、私はそれに従うしかないものね」

「おいちょっと待て! なんで俺が脅してるみたいになってるんだ!?」

「セルジュ……、君、彼女に一体何をしたんだい?」

「待て待て、なんだその犯罪者を見るような目は!? 俺はまだ何もしてねえよ!?」


 その言葉にフォルスは胡乱げな目つきを作る。


「まだ、ね……」

「違う、それは言葉のあやだ! 大体俺は合意も無しに事は進めないからな!? ……あ、ちょっとそこを通りかかったお嬢さん達!? 勘違いしないで! ああ、そんなゴミを見る目をしたまま逃げないでくれ!」


 偶然通りかかった二人の女性技術者達がセルジュを見ながら、ひそひそと小声で言葉を交わしている。セルジュが慌てて引き止めようとするも、その二人は「きゃあっ」と悲鳴をあげて逃げて行ってしまった。


「な、何の恨みがあるんだお前ら……!」


 新しい職場で広まろうとしている風評被害に、セルジュが歯噛みする。

 恨めしげな視線を受け取ってもフォルスは平然とした様子のまま、小さく肩を竦めた。


「うん、なんというか少しくらい釘を打っておかないと、君は節操無しに手を出しそうだったからね。この工房の平穏のためさ」

「だから無理矢理手は出さないと言ってるだろうに……」

「同意があれば良いって話でもないからね?」


 呆れたようにフォルスが半眼を作るが、セルジュは適当に視線を逸らして聞かなかったことにした。


「君ね……」

「待て待て。そこに可愛い女の子がいるんだぞ。それを愛でもせずに無視するのは失礼ってもんだろうが。男として最低の部類だ」

「そんな常識はちょっと聞いたことないかな……」


 セルジュとフォルスがそんな馬鹿なやり取りをしていると、それを見ていたエナーシアがショックを受けたように叫び声を上げた。


「あーっ! と、というか、なんであんた達もうそんなに仲よさそうなのよ!?」

「お、戻った」


 ずっとあの慇懃無礼な態度でいられると困るとセルジュも思っていたので、元の口調に戻ったエナーシアに一先ず安堵する。一応この工房では彼女のほうが先輩だというのに、あの調子でいられたのではやりづらくてしかたがない。

 エナーシアに恨みがましく睨みつけられたフォルスは小さく肩を竦めて、


「どういうことって言われてもね。ただ今日顔合わせついでに、少し手合わせをお願いしただけだよ」

「な!? ず、ずるいわ! どうして私を呼ばないのよ!?」

「どうしてと言われても……出会ったのは半分偶然のようなものだったしね。仕方が無いんじゃないかな」

「セルジュ! 今から外に行くわよ! 私も手合わせする!」

「いや、今から朝飯食いに行くんだからな?」

「じゃあその後っ!」

「いや、その後は流石に仕事したほうがいいんじゃないか……」


 淡い色の髪を揺らすエナーシアの必死さすら感じられる様子に「どんだけ仲間はずれにされるのが嫌だったんだよ」とセルジュは呆れる。それと同時に幼い頃の妹がこんな様子だったなとセルジュは思い出して、少し懐かしい気持ちになった。

 ここでの日程は今のところ全くの不透明だが、折角王都にいるのだから一度くらいは妹とも顔を合わせたいなと思う。


「エナ。君が舞い上がるのは分かるけど、取りあえず落ち着いてくれ」

「ま、まま、舞い上がってなんていないわよっ! だ、大体っ、私が何に舞い上がるって言うのよ!? 言いがかりもよして欲しいわよね!?」

「……はぁ」


 頬を紅潮させるエナーシアを見てフォルスは溜息を吐き出す。どうやら真面目な一等精霊司の青年を悩ませる種はジストロンだけではな無いらしい。そのうちこいつは胃に穴でも開けて倒れるんじゃないかとセルジュは哀れに思った。


「……他人事の様に見てるけど、君も憂鬱の種の一人だからね?」

「馬鹿な。俺が一体何をしたというつもりだ」

「気がついてないと思ってるのかい? 君、さっきから擦れ違う女性職員の顔を毎回毎回チェックしているだろう?」

「男の責務だ。俺にやましいことなど何も無い!」

「開き直らないでくれるか!?」


 どうやらフォルスの悩みは当分は尽きそうもないようである。



   4



 第二中央工房の敷地内には精霊機実験用の試験場が存在している。

 試験場などと最もらしく言ってはいるが、その実体は地面を真っ平らにしただけの広い空き地というだけだ。精霊機という巨大な質量が動き回っても荒れないよう地面は硬く均されているが、殊更語るようなことは何もに無いに等しい。精々が、広場の隅にここの工房長が半ばで飽きて放棄した作品もどきが野晒しで放置されていることくらいだろう。

 精霊機というのはやはり巨大だ。

 セルジュは直立する〈アルテナ〉の胴体部の上に立ってみて、改めてそう思う。精霊機の全高は種類によって差異があるが、概ね十メル(約十メートル)といったところで、それは〈アルテナ〉も例外ではない。

 こうして〈アルテナ〉の上に立つと周囲を無駄なく見渡すことが出来る。とは言っても平地に均されたこの試験場ではいくら眺めが良くても見るものなど特にないが。遠目に工房の女性技術者達を観察して楽しむくらいだ。


「流石ですね。この高さ程度じゃ恐くありませんか?」


 セルジュが辺りを見渡していると横からそんな声がかけられた。〈アルテナ〉の頭部を挟んだ向かい側にいる精霊機の技師である。青銅色の髪を持つ童顔の女性技士は、これからセルジュが搭乗する〈アルテナ〉の最終チェックを請け負っている。


「私なんかはこの高さで作業することに慣れるのに結構時間が必要だったんですけど。なんだか地面に吸い込まれそうになって」


 それは精霊司とそうでないものの意識の差異というものだろうと、セルジュは思う。

 精霊のマナによって肉体の能力を飛躍的に高められた精霊司にとっては、この位の高さは大した脅威ではない。勿論無抵抗に叩きつけられたりすれば話は別だが、精霊司ならば特別な訓練をしていなくとも容易に受け身が取れるはずだ。


「グランダナ樹林だとこれよりも高い古樹も珍しくなかったからな。その上で何時間も待機なんて事も何回かあったよ」

「それはすごいですね……。ちょっと私には想像出来ません」


 手元の作業を止めることなく技師は言うが、それは当然。王都の中央工房でこうして技師をやっているということは、彼女は相当に優秀だと認められたということだ。そんな人物が命を盾に生身で精霊機と向かい合うような環境を体験しているわけがない。

 だがそれは彼女が戦いを知らないことを意味しているわけではない。それは全身から汗を垂らしながらも丁寧に〈アルテナ〉に向き合っている姿を見れば分かる。

 彼女の戦場は怨嗟と血飛沫の上がる地獄ではなく、ここなのだ。ただそれだけの違いでしかない。


「――よし。こちらの準備は終わりましたよ。これでいつでもいけます……どうしたんですか、じっと私の顔を見たりして?」


 不思議そうに首を傾げる女性技士の姿にセルジュは小さく笑った。


「いいや、なんでもない。ただ綺麗だなって思っただけ」

「き、綺麗って……もうっ。こんなところで口説かないでくださいよー」


 そう言いながらも満更ではなさそうな相手の様子にセルジュはもう一度笑ってから、やや前方に出っ張った〈アルテナ〉の胴体部がスライドして出現した入口を見やった。

 頭を出して軽く覗き込んでみるも、中は暗くて良くは見えない。だがその空間に鋭い光沢を持った液体が入っていることは辛うじて分かった。


「……これ、本当に大丈夫なんだよな?」


 精霊機の中にはミスリルを錬成して液状化した精水銀で満たされていて、精霊司はその中に入ってマナを伝達することにより精霊機を動かすことが出来る。

 事前に聞いていてはいたが、いざ目の当たりにすると流石のセルジュも躊躇した。


「呼吸とか平気なのんだろうな……。いざ入って溺れ死ぬとか冗談にもならないぞ」


 口元を引き攣らせて呻くセルジュに女性技師が苦笑した。


「ですよねえ。あ、でも実際入ってみるとむしろ温かくて結構気持ち良い……らしいですよ?」

「らしいって、随分と曖昧だなあ……」

「あはは、私の経験じゃないので。全部聞き囓りですから」


 そう朗らかに笑う女性技師を恨めしげに見やって、


「他人事だからって軽く言ってくれて。あんた、名前は?」

「ユミナ=アラトール二等技師です。主にこの〈アルテナ〉の整備を担当してます」

「よし、覚えた。今度食事にでも誘うよ」


 こうして入口でうろうろしていても仕方が無いと、セルジュは意を決して身を滑り込ませた。寸前に「がんばってくださいね」と技師の応援が聞こえてきたのが、せめてもの救いか。これで技師が男だったならば真逆の感情を抱いていたのだろうから、単純な話な性格であるが。


 ずるり、と呑み込まれるような感覚。

 最初に感じたのは液体の持つ硬さ、次いでその冷たさだった。

 ミスリルを錬成して生み出された精水銀はセルジュの知る水よりも重みがある。頭からし先まで、全身に纏わり付くその不自由さ、そして冷たさにセルジュは身を強ばらせる。瞼を開くも目の前に広がるのは闇。実感するのはただの孤独だ。


 ――しまった。そういえば飲んで大丈夫なのかこれ?


 セルジュは自分の口から大量の気泡が吐き出されるのを感じながら、そんなことを思う。

 溺れ死ぬのではないかという懸念に反して、セルジュの思考は本人でも驚くほどに落ち着いていた。

 光も何も無い、静かな空間。耳元でさざめいているのは満たされた精水銀が揺れているからか。この中にはセルジュ以外の何者もいない。

 そのはずだが――何故だろうか、なにか目には見えない大きな腕に抱かれているような、セルジュはそんな印象を覚えた。


 冷風から身を暖めてくれる仄かな火の暖かさ。全ての命の渇き潤してくれる水滴の優しさ。常に生命の土台となり支えてくれる大地の力強さ。草花を揺らしながら耳元を撫でていく微風の愛しみ。

 精水銀を介して伝わってくるのは、何かの鼓動。

 生命が持つその脈動をセルジュは確かに感じとる。


 ――まさか、生きてるのか?


 咄嗟にそんな考えがセルジュの頭の中に浮かび上がってくるが――生きているとは、一体何が。

 それはセルジュ本人のことなのか、セルジュの身に宿る炎剣の精霊か、或いは――精霊機〈アルテナ〉そのもののことなのか。

 分からない。分からないが、セルジュは自然と理解した。理解することが出来た。

 理屈ではなく、生物としての本能に近い部分。

 セルジュの身の中から流れ出るマナが満たされた精水銀に浸透していく。赤色が他の幾つもの色と混ざり合いながら、巨大な四肢へと根を伸ばす。これで良い。これが正しい。


 ――本当に?


 僅かな濁り。一露ほどの些細な違和感を感じたが、マナプール鋼から供給される貯蔵マナがそれを押し流していく。

 深く、広く、セルジュは己の知覚が大樹の枝葉のように伸びていくのを確かに感じ感じ取っていった。



***



 試験場の隅に立つエナーシアの視界には今、一機の精霊機が聳え立っている。 

 ジストロン主導の下で第二中工房が開発した、大陸史上初の二等精霊司にも操縦可能な汎用型精霊機〈アルテナ〉。

 自分以外の二等精霊司が乗り込んでいる〈アルテナ〉を外から見るのは、開発初期から関わってきたエナーシアにとっても感慨深いものがある。ましてや今乗り込んでいるのはエナーシアにとって恋い焦がれにも近い尊敬を抱いていたセルジュだ。無関心でいろという方が無理な話だろう。


「さあて〈アルテナ〉の起動テスト。結果はどうなるかな」


 そうわくわくした調子で言ったのはエナーシアの横に立つフォルスだ。

 エナーシアとはこの工房に来て以来の付き合いであるが、彼は一等精霊司であるが二等精霊司であるエナーシアを見下すようなこともなく、付き合っていても気張る必要の無い好青年である。清涼感を感じさせる顔立ちと面倒見も良い性格で、工房内の女性職員たちからも人気である。もっとも彼は婚約者がいると公言しているので恋愛沙汰にまで発展するようなことはない。

 試験場に立つ〈アルテナ〉を見ながらどこか期待するような眼差しをするフォルスは、まるで子供のようでもある。エナーシアは少し呆れた様子を見せながら言った。


「結果なんて分かってていってるでしょ? 無反応か、良くて転倒じゃない?」

「……やっぱりそうなるかい?」

「そりゃあね。セルジュは確かに実戦経験が豊富で優れた精霊司でしょうけど、それとこれとは話が別」


 精霊機を動かすということは、謂わば第二の身体を操るに等しい。

 精霊機の全身に己のマナを浸透させ、靱帯を模した柔軟金属を収縮させて駆動させる。つまり、マナのみを用いて別の身体を動かすということになる。その難易度は決して容易くはない。

 そもそも血統的に優れた資質を持つ貴族の精霊司達と違い、二等精霊司達は別の物質にマナを浸透させるという動作を行うこと自体が殆ど無い。そこに加えて浸透させたマナを調整して自在に操るとなると、殆どの二等精霊司は苦労するだろう。

 事実、エナーシアは初めて〈アルテナ〉に搭乗してからまともに歩けるようになるまで二ヶ月以上がかかった。歩くだけ、である。そこから走る、跳躍、そして実践的な戦闘機動を取れるようになるまでには 更に倍以上の時間を要したのだ。 


「どんな人間でも、自分以外の身体を動かせなんて言われてすぐに出来はしないわ」


 エナーシアの言葉にはフォルスも覚えがあるらしく、多少苦さの混ざった表情を浮かべていた。実際、周囲の人間達もすぐに成果が出ることは期待していないのだろう。転倒に巻き込まれないよう大きく距離を取っているし、その場合すぐに機体の確認が出来るよう技術者達が準備をしているのが窺える。

 それらを横目に確認した後にエナーシアは視線を正面に移す。そこには丁度、〈アルテナ〉から離れた位置に待機する職員が試験開始の合図である赤い旗を揚げる瞬間だった。


 静寂の間。

 誰もが固唾を呑んで見守る中、試験場に佇む巨人の鎧が大きく足を上げた。おお、とその光景を見ていた者の間で声が上がる。精霊機に初乗りする精霊司の殆どが一歩も踏み出せないことを考えれば、初回から動けただけでも御の字なのだ。

 だがそれまでだろう。後は上手く荷重移動が出来ずにバランスを崩して転倒してしまうに違いない。戦場での戦力として期待された〈アルテナ〉は転けたくらいで壊れたりはしないが、それでも周囲で作業員達が既に点検の準備を始めている。


「ふふん。私でもちゃんと思い通りに動かせるようになるまでに数ヶ月はかかったんだから。そんなすぐ、に……」


 だがそんなエナーシアの声は、目の前の光景によってすぐに聞こえなくなってしまった。フォルスが感嘆とも呆れとも言い切れない表情で呟く。


「……これは驚いたな」

「う、うそ……そんな」


 地響きと共に〈アルテナ〉が一歩を踏み出す。

 ズン、という身体の芯を震わせるような低い音と共に、その巨脚は確かに地面を捉えていた。そして、そのまま転倒すること無く二歩三歩と、大地を踏みしめ確実に歩みを進めていく。その光景を見て周囲からも驚きの声が広がった。転倒に備えて点検の用意をしていた作業員達も動きを止めて石像のように固まっている。


「いやはや……世の中には特別な人間ていうものがいるものだね。これは……彼を一般的な二等精霊司の記録として参考にするのは問題がありそうだ」

「……」


 フォルスが呟いた言葉もエナーシアの耳には届いていなかった。

 二ヶ月。それがエナーシアが歩けるようになるまでに要した時間である。この値は決して早いわけではないが、遅くもない。その事実はエナーシアにとっては密かな自信になっていた。例え二等精霊司であろうとも、動かせる精霊機さえあれば上位精霊司達にも劣ることはないのだという、そういう自信だ。


 当初一歩と歩けずに転倒するはずだった〈アルテナ〉は安定した足取りで前に進み続けている。十数歩先に設定されたゴールライン。 すぐ近くにありながら、決して届かないはずだった目標だ。そこに向かってセルジュの操る〈アルテナ〉は進む。その姿がエナーシアの瞳に映されている。

エナーシアにはセルジュに強い憧れと、尊敬の気持ちがある。そこに嘘、偽りは無い。今だって、自分には出来なかった彼の偉業には大きな興奮を覚えている。


 ――だが。


 その熱に浮かされた感情の中。そのどこかに、薄く黒い濁りのようなものを感じている自分がいるように感じるのは気のせいだろうか。

 この感覚をエナーシアは昔にも感じたことがあった。ここに来る前、まだ王都ではなく、己の領地にいた頃に。

 それは劣等感でもなく、嫉妬でもなく、猜疑心でもなく。

 この胸の内にこびりついた感情の名前は――……。


 暫くして、歩みを止めた〈アルテナ〉からどこか困惑したような声が聞こえてきた。当然だろうか。彼にとっては短い距離を精霊機で歩いただけ。

 ただそれだけなのだから。


『……ん、これで終わりなのか?』


 そんなセルジュの惚けた言葉が、今のエナーシアの胸内には氷のような冷たさを持って響き渡っていった。


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