百円の微笑み
〈その日〉がやって来た。
通勤時間は路線バスで乗り換えておよそ一時間。今までどんなに早起きを心掛けても、7時に目覚まし時計をセットして、寝ぼけ状態でかつての職場に出勤していた。
それを上抜く起床時間。そうでもしなければ完全に遅刻が待ち受けている。
初日からそんな赤っ恥なことはしたくない。私は、目覚まし時計より真っ先に起きて、まだ夢の中でうつつ抜かしている〈家族〉の寝床を跨ぎ、洗面台で洗顔を済ませて台所に向かった。
私は県外に就職をしていた。順風満帆と、充実感に浸り始めた矢先、其処で〈退職〉を言い渡されてしまった。
――キミには、この企業で、これ以上の実績を上げるの無理だ。
当時、直属の上司にそんな言葉を投げつけられた。
ぷっつりと糸が切れるように、私は体調を崩してしまった。
――会社に訴訟をしろ!
――そんな勝手な事を言わないで!
会社の寮を三日後に出る。その荷造りしてる真っ只中で、電話越しでの父とのやり取りだった。
『次は……〔木目塚〕〕お降りの際は、お忘れ物にご注意してください』
車内アナウンスにはっと、なり、慌てて降車ボタンを押した。
携帯を開き時刻を確認すると始業開始時刻迄、一時間もある。
それでもと、私は〈新しい職場〉に靴を鳴らしていった。
「お、随分と早かったな?」と、水色の作業着を身に纏う男の人が、笑みを湛え、私に声をかける。
「おはようございます」と、一礼しながら挨拶をしてその人の顔をじっと、見つめる。
あの時私に面接した人。そう思った途端にばっと、頬が熱くなってしまった。
「時間潰しに、コーヒーを……と、思ったけど相手がいるな?」
その言葉に舞い上がり「ちょっと、おいで」と、言われるがまま、後を追っていった。
――あ、岡村さん!
――今日から、おまえの部署に配属になった、浅田さんだ。頼むぞ、マナ。
「お姉さんちょっと待っててね!急いで終わらせるから」
その人……岡村さんが案内してくれた其処に、少し赤毛の女の子が作業場の機材を清掃していた。
やり取りがまるで兄と妹。その光景が微笑ましかった。
岡村さんはスラックスのポケットから小銭入れを取りだし、其処からマナ……ちゃんの掌の中にキラリとひかる個体を押し込んでいった。
マナちゃんの顔から笑みが溢れていた。そして、私を食堂まで連れて、其処に設置されてる自販機に岡村さんから貰った其れを、入れる。私もつられるように、なけなしの百円を押し込めてアイスコーヒーのボタンを押した。
「お姉さん、これは?」と、マナちゃんは口元に指を二本乗せる仕草をして見せる。
私は即、首を横に振る。
「よかった!私ね、岡村さんからそれ、やめろと言われて、その我慢の最中だったんだ」
「と、いうことは?」と、私は、アイスコーヒーを啜りながら、マナちゃんに促した。
「あ、お姉さん目がいやらしい」
「違う違う!この会社は其れは駄目なんだと、訊きたかっただけ」
この子いくつなんだろうと、思考を膨らませていると
「私、竹岡麻奈。お姉さん、アサダなんていうの?」と訊くマナちゃんは、ひとつ縛りの毛先に指を巻き付けた。
「志帆……志すに、帆かけと、書いて、シホ……」
トシは?
に、にじゅう……ご――。
「私と二つ違い?」
「私より上かしら?」
「残念! 下だよ」
そう言う麻奈ちゃんの笑みは、大人っぽい化粧顔が引き立っていて羨ましく思えた。
「岡村さん、ああ見えても〈彼女〉いっぱいいるよ」
その言葉の意味が解ったのは、昼休みに麻奈ちゃんと一緒に居たこの場所で見た光景だった。




