水妖の都の怪異
「ど、どうして僕がここに呼ばれたのでしょうか」
体の奥から湧き上がる恐怖に耐えながら、アラタは隣に立つ男に尋ねた。
「目を逸らすな。それが生き残るための秘訣だぞ」
男は、そう言って、アラタの背を軽く押す。ガチガチに固まっていたアラタは殆ど力の入っていないその衝撃にも耐えることが出来ず、バランスを崩して数歩前に出た。
生暖かい獣の息遣いが、そしてその生臭いほどの獣臭がアラタの心臓を鷲掴みにする。恐ろしい、だが見ずにはいられなかった。
馬ほどもある狼、それが恐ろしいまでの現実感を伴ってアラタの前にいる。呼吸することすら忘れ、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
『お主が冗談を言うとは、これは天変地異の前触れか?お主にその方面の才能はない故、やめておいた方がよかろう』
目の前の狼が牙を見せる。その大きな口は、その気になればアラタの頭を一撃で噛み砕くことができよう。
「む、冗談のつもりではなかったのだが」
男……《神殺し》は真顔で返した。
「そもそも、お前がアラタを呼ぶよう言いつけたのだろうが。用がないなら帰るぞ」
《神殺し》の言葉に巨狼はつと目を逸らし、後ろ足で耳元を掻いたあと少々ばつが悪そうに首を傾けた。
『そうじゃったそうじゃった。じゃが我を前にして、正気のままとはなかなか見どころのある若人よの。さすがは【見通すもの】か』
恐怖に震えながらも巨狼から目を離せなかったアラタは、いつしか巨狼と妙齢の美しい女性のシルエットが重なっているように見えることに気付いた。
「順応が早いな。ふつうはそうそう神を直視などできんのだが」
『神官の素質が高いのかもしれんの。どうじゃ、我に仕えてみぬか』
いつの間にか、狼の姿の方がシルエットとなり、まさに銀の女神と呼ぶに相応しい荘厳さをまとった女性の姿が主と変わっている。
「むしろ逆だと思うがな。異世界には神は概念や神学の中にしか存在を確認されていない世界も多い。そういった世界から流れ着いたのなら、神を前にしても萎縮しないのかもしれん」
「あのー、僕はいったいなぜここに呼ばれたのでしょうか」
アラタのやや間抜けな声で、二柱の存在の掛け合いが止まった。
『ふむ、やはりお主の言う様に神という存在をあまり意識せぬようじゃな。神を祀らぬ存在によもや神が頼み事をすることになるとは、かくも世界は面白いということか』
言いたい放題だな、とアラタは思った。巨狼の恐怖が麻痺したと思ったら、美女とムッツリの掛け合い漫才である。間の抜けた声が漏れても仕方もないだろう。
『お主に頼み事があっての。お主も関係者じゃから心当たりがあると思うが、先日我が信徒である神官フェノメナが、迷宮第二階層に於いて消息を絶った。その者も仲間たちも10階層まで到達できる力を持っており、なまじっかなことでは消息を絶つことは考えにくいのじゃ。フェノメナからの最後の思念波がこれじゃ』
フェリシアが右手をかざすと、そこから氷の結晶が現れそれを核に球体が形成されていく。直径が15センチほどまで大きくなるとそれをゆっくりと台座に据える。いつの間にか、フェリシアの前に氷でできた台座が置かれていたのだ。いや、生成されたというべきか。
氷の球はフェリシアの神力を受けてその中にゆっくりと像を映し出した。
「なんだ、あれは!」
巨漢の女格闘家がその巨大なシルエットを指さしながら叫んだ。
それは霧の中から現れ、彼女たちが乗る小型船へと向かってくる。
「船、なのか?だが……なぜ風下からくるんだ!」
よく見れば、確かにそれは船のように見えた。だが、マストがない。ならばガレー船なのかとも考えたが、そもそも迷宮内に立ち入れる者は殆どが探索者である。大勢の漕ぎ手を必要とするガレー船があることは考えにくい。
次の瞬間、女格闘家が視点の持ち主を突き飛ばした。視点が激しく揺れ、そして泡に包まれる。どうやら海に落ちたらしい。
「何をするのです!」
水面に浮かび上がって叫ぶ視点の持ち主。だが、その視線が最後に捉えたのは、刺突剣に貫かれて倒れこむ格闘家の姿だった。
「行け!何としてもこの異変を上に知らせるんだ」
悲痛な叫び声。視点の主が再び水中に沈んだのか大量の泡が周囲にあふれ、そしてブラックアウトする。
「熟練の探索者のパーティが消息を絶つほどの事件に、僕がいったい何の役に立つというんです?」
アラタはその映像が終わるなり二柱の存在へと尋ねた。ここ数日の訓練で自分が思っていたよりは強いことを知ったアラタではあるが、それでも熟練の探索者とは場数が違いすぎる。試合形式ならひょっとすれば大金星もあり得るかもしれない。この世界では対人格闘術はそこまで発展しているとは言い難いからだ。だが、実戦ならばほぼ間違いなく負けるだろうと思っているし、実際訓練を施してくれていたジョセフからもそう指摘されている。
『もちろん、お主の力を借りると言っても、この事件を解決せよというものではないわ。お主の持つ異能にて今回の異変が自然発生的に生まれたのか、或いは異なる世界の漂着した事変なのかを調べてきてほしいのじゃ。護衛には……そうじゃの、《神殺し》よ、お主が付けばよかろう』
「何を考えている、神狼。確かにお前には返しきれぬほどの借りがあるが、このような些事にまでかり出してよいものではないぞ」
言葉では拒絶を示しているが、その表情から拒絶の意思は見て取れない。
『こやつが今この時期に漂着したのは偶然ではあるまい。こやつの【鑑定】の眼はこれまでの異能者と一線を隔しておる。故にその限界を知ることも必要であり、そのために此度はその異能の負荷を我が受け持とう。我と此度の依頼に於ける契約を結び、その異能を限界まで揮うがよい』
フェリシアは、《神殺し》へ向き直り、さらに言葉を続ける。
『そして、こやつの異能を簡単に失うわけにはいかぬ。ここ数年に始まった異変への切り札となるやもしれぬからな。故に、最強の護衛を付けるだけのことじゃ』
「さて、フェノメナを逃がしたはよいのですが……困りましたね」
オルナの咄嗟の判断が正しかったかどうかは実に微妙なラインであった。肝心の治癒術師がいないため、オルナの傷を癒すことができないでいるためだ。
今、彼女たちがいるのは所属不明の船の中である。武装を解除され、船室に一まとめに放り込まれていた。
「脱出するだけなら、然程問題はないさ。この程度の武装解除なら、いくらでも隠しようがある」
アリアがにやりと笑った。冒険者登録をする時に足を洗ったとはいえ、元盗賊である。アリアは、一般的に七つ道具などという呼ばれ方をする様々な道具を隠している。たとえば髪留めのピンに偽装したピッキングツールやシャツの袖に縫い込んだ細い針金などだ。もっとも、それらはどちらかというと見つけやすいものなので本命を隠すためのダミーのようなものであるが。
「だが、腑に落ちない点もあります。髪留めなどは、簡易的な暗器にもなり得るのに、取り上げられていない。奴らが素人で気づかなかったとも考えられますが、探索者がそんな見落としをするのでしょうか」
カーラが疑問を口にする。それは、アリアも考えていた。こういう時のためにいくつものダミーを用意しているのにダミーさえ取り上げられないというのはあまりに杜撰すぎた。
「おそらくは……いえ、仮定で話すのはやめておきましょう」
エリザベスが途中まで言いかけたことをひっこめる。
「仮定で構いません。命に別条がないとはいえ、オルナの傷も心配です。私たちは何としてもここを脱出する必要があるのですから」
「そうね。彼らの行動は人間味が感じられない。こちらからの働きかけにも反応がなかったしね」
「そういわれてみればそうですね。私たちを襲った探索者も、この船が現れるまでは普通だったのに、突然豹変したように感じられました」
カーラは、これまでの出来事をじっくりと思い出しながら言葉を紡ぐ。
「この船はなんというか……場というか気というか、そういったものを感じるわ。魔術的なものというより、神気的な感じがする。それも、とてもよくないものだと直感するわ」
エリザベスは目を閉じて魔術言語での詠唱を行う。場の属性を調べる初歩の探知系の魔術ではあるが、応用性は高い。
「やはり弾かれるわね。この階層なら少々のジャミングがあっても水属性を感じなければおかしいわ」
「だが、手をこまねいても仕方ねぇだろう。どこかで博打を打つ必要があらぁな」
アリアが宣言すると、他のメンバーも頷き車座になって計画を練るのだった。
それは、未知の言葉であった。声から考えると女性であろうが、そもそも統一言語が存在する【イル=レアナ】において、未知の言葉は異世界の言葉である可能性が高い。もちろん、独自の言語を有する種族も存在するが、殆どの場合宗教儀式や詩歌などに用いられるだけで、日常会話には共通語を用いるのが常識である。
敵か味方か判断するのは早計だろうが、友達にはなれないだろうなとフェノメナは思った。
今、彼女は拘束されていた。後ろ手で、親指同士を紐のようなもので結ばれている。それだけで完全に腕が使えないほどの拘束力を持っていた。そのこともまた相手を異世界の存在であることを裏付けているようにも感じられる。
女たちが、フェノメナの覚醒に気付いたらしく近づいてきて彼女を引き起こした。予想していたより丁寧な扱いで、少なくとも敵意はないようだ。できれば拘束も解いてほしいところだが、逆の立場ならどうするかと考えてその甘い考えを脇に置いた。
抱えおこされることで彼女たちを正面から見ることになり少なくとも彼女たち……二人の女性だった……が外見的にフェノメナたちと大差のない種族なのに安心した。しいて言えば、ぴったりと肌に吸い付くような奇怪な服装が目につくくらいだろうか。まあ、それはフェノメナが神狼への供儀の舞を奉納するときの姿も大差ないと言えるが。
そう思いつつも彼女たちの仲間が他にいないかを探る。そして、彼女たちの背後に控える存在を見て凍りついた。
巨人がいたのだ。分厚い騎士の鎧を着込み、二人の女性に対して跪いている。片膝を付き右手を胸に当て貴婦人への礼を尽くすような姿勢のまま全く動かない。
大抵の存在が粗野で暴力的と知られる巨人族。しかし巨人族の中には、極めて知能や社会性が高く神々に仕える高位の存在もいるというがそういった存在だろうか。だとしても、目の前の二人の女性……美しくはあるが、高貴な感じはしない。そんな二人があのような凛々しい巨人の騎士を従えることができるのだろうか。
あるいは、彼女たちもまた高位の存在に仕えるものなのかもしれない。
そんな風に考えを巡らせていると、彼女たちはおもむろにフェノメナの前に果物や魚などを並べ始めた。どれもこの階層で自生・繁殖しているものだ。
彼女たちの片方(フェノメナは内心で金髪さんと仮称した)が果物の一つ……だが、弱い毒性があり食べるとひどい下痢に悩まされることになる……を指さし、そのあと自分の腹を押さえた。相方(こちらをのっぽさんと呼ぶことにした)がげらげらと下品な笑い声をあげ、金髪さんは憮然とした表情でなにか言い返す。
どうやら、このリムルの実を食べたらしい。
「これらが食べられる品かどうか教えてほしいというわけ?」
金髪さんが、砂浜に書いた大きな×の上にリムルの実を置いたのを見てフェノメナが尋ねる。が、予測できたことだが二人は首をかしげただけだった。そういった動作は万国共通なのだろうか。ひょっとしたら違うのかもしれない。
が、しかし今はこの拘束を解いてもらうことが先決である。サバイバル知識を思い出しながら、いくつかの品を食べてもよいもの、食べられないものと足の指で○×をつけてみる。
彼女たちはそれを見て、何やら言い交した後腰からサバイバルナイフを抜き、食べてもよい方に分類した果物の一つを切り分けフェノメナの口元にもってきた。どうやら毒見をしろということらしい。迷わずそれを口に含み、咀嚼して飲み干す。
そういえば、《神殺し》がひろってきたあの少年も最初は身振り手振りで意思疎通を図っていたなと思い出す。いまでは流暢に共通語を話しているが、苦労したのだろうなと今更ながらに思う。
二人はフェノメナが迷わず口にしたのを見て、一度顔を見合わせた後、○に分類した果物を貪るように食べ始めた。よほど飢えていたのかあっという間に食べつくした後、足りないとばかりに補充に走って行ってしまった。
「せめて……これ、解いていって欲しかった」
呟きは、誰の耳にも届かなかった。