8月の憂鬱
※はじめに、このお話しの中にでてくる聖書の解釈は、あくまでもこのお話しの中の宗教の解釈です。
それで合っていることもあるかもしれませんが、そうでないこともあると思います。
「今日も暑いですね。」
やっとのことで喫茶店の椅子に座り、ほっとして僕は、テーブルの正面にいる老人に半ば、言わなくてはならないお世辞かのように話しかけた。
「そうだね。今日は何を飲もうか。」
いつもの調子で老人は答えた。
「私はブルーベリーティーで。兄弟は何にされます?あと、私のはティータイムセットにしますか?」
これまたいつものように僕は言った。こういう時だけ、僕は目に気を遣う。
窓の外に目をやると、日差しがシャワーのように降り注いでいる。店内は寒くもなく暑くもない。 外から入ってきたときには、物足りない涼しさだが、ハーブティーを待っている間に、汗が引いて丁度よくなる。
この喫茶店は珍しくハーブティーに力を入れている。午後3時からはティータイムセットを注文できるようになる。ティータイムセットとは一杯のハーブティーに小さなケーキとお菓子がいくつかついてくるお得なセットだ。このティータイムセットと単品のハーブティーを頼み、二人で分け合うのがいつもの水曜日の午後の休憩だった。
そうそう、老人のことを僕は兄弟と呼んだが、それは僕たちの所属する宗教では当たり前のことだった。きっと英語のbrother、sisterを直訳しているのだろう。
社交辞令的な会話のあと、ティータイムセットとアールグレイが運ばれてくる。あとはそれぞれ無口になり、30分ほどお茶を愉しむ。この老人、長谷川兄弟は一緒にいて気負わなくてよい人だった。そうは言っても集会では長老という立場なので、偉い人なのだが。でも、なぜかこの人の前だと無口でいることができる。それが僕には大変ありがたかった。
今、この集会の成員になって1年ほどになる。
田舎だからか、ここの若い兄弟たちは元々一緒にいた兄弟たちと接することを好み、よそ者である僕とはあまり関わろうとしない。それで水曜日の午後の伝道活動を一緒にする人を探していたのだが見つからず、ダメもとで長谷川兄弟に声をかけたところ、快諾してくださったのだ。まあ、一人で伝道活動ができないわけでもない。一緒にする人がいないと一人ですることもちょくちょくある。しかし、一人でずっと回っていると結構、精神にくる。それで、一週間の内予定が立つものは一緒にする人を決めておくのだ。
もう30分が経ってしまった。代金を割り勘し、外に出た。日差しのシャワーもすごいがクマゼミの鳴き声の方がやりのように降ってくる。9月までもう2週間しかない。今日はあと1時間は頑張らないと。
折角引いた汗も5分もたたない内にまた噴き出してきた。
この宗教では9月から年度が始まる。ということは8月で年度が終わる。長谷川兄弟も僕も1年で840時間伝道活動をすると神に誓いを立てている。僕はあと36時間。順調に行ってギリギリ。
集会内では1年で840時間伝道活動をする人のことを開拓者と呼んでいる。僕と長谷川兄弟はその開拓者なのだ。開拓者になっても何かがもらえるわけでもなく、信仰がなければ集会内のみんなから褒められること以外は何の得もない。開拓者を続けていたら長老や奉仕の僕に推薦してもらえるかもしれないけど、結構開拓者じゃない人も長老や奉仕の僕に任命されているし、関係ないのかもしれない。よくよく見ると集会内でも、うまく長老に取り入って偉くなっている人もいるようにみえる。
この長老、奉仕の僕というのは集会の中の立場であって、長老が教える人、奉仕の僕がそれを補佐する人という位置づけである。これらを特権と呼び、教会からの資料では特権は神からの賜物で別に人を高めるものではないのだが、集会内の皆から尊敬され、敬われるということで実際には特別扱いである。聖書でもテトスへの手紙やテモテへの第二の手紙などで、長老や奉仕の僕になる基準が示されており、聖書の基準に適っている人というイメージからも多くの人が目指している。僕も目指しているが、28歳にしてまだ奉仕の僕でもなく、開拓者になって5年になる。早い人は20代前半で奉仕の僕になったり、開拓者にならなくても奉仕の僕、長老になったりするので僕はちょっと遅い方かな、と思う。
ちなみに長老、奉仕の僕は、集会内の長老たちが推薦し、教会が承認することによって任命される。
なので、長老に好かれることは近道かもしれないし、うまくやっている人を見るとそうしたくもなるが、神が見ているのだから人間的な方法でなっても意味がない、とこんな暑い日も伝道活動を行っているのである。伝道活動といっても、教会が発行する機関誌を紹介するのが精いっぱいで、聖句から会話をすることなどほとんどない。
今日も4時半まで頑張った。水曜日は6時から集会の取り決めで伝道活動がある。それまで、家で少し休もう。