第84.7話 母の采配
「敵はあの村に陣を敷くようでござりますな」
望月信濃守殿が敵陣を睨みつけながら呟きます。
わたくし達は今、城下南口の切通――――そこから程近い山の中に潜んでいます。
眼下には五十戸ばかりの村。
夕日が山の端へと傾きつつある中、敵勢は夜営の準備を進めているのです。
「敵は切通の手前で止まってしまいましたな……」
少し残念そうな口ぶりですね。
わたくしも全く同じ気持ちでした。
「本当に何を愚図愚図していたのかしら? ネッカー川を渡り始めたのは夜明け頃でしょう? お昼には切通で一戦をと思っていたのに……!」
「無念なるは我らも同じ。ただ、少し気掛かりにござる」
「と申されると?」
「南の木戸口からこの村まで、敵勢迫るを聞いた百姓衆は素早く逃げ延び、村には猫の子一匹おりませぬ。敵にとっては無人の野を行くようなものにござりましょう?」
そうなのです。
わたくし達は敵が進むと思われる途上の村々に、いち早く敵勢の動きを知らせていたのです。
戦国乱世を生き抜いた百姓衆の動きに一切の迷いはありません。
敵がネッカー川を渡り切る遙か前に、村の衆全てが姿を消した村さえあったくらいです。
今頃は、山や森の中に備えた村の城に身を寄せ合っている事でしょう。
村の城は地元の者しか場所を知りません。
村の城へ至る道は巧妙に隠され、見た目は鬱蒼とした獣道や藪。
あるいは這いつくばる事すら難しそうな崖にしか見えないものもあります。
三野へ来たばかりの敵は、村の城に気付く事すらありませんね。
人の気配は徹底して皆無のはずなのですが…………。
「にもかかわらず、斯様に時を要したとなれば……こちらの出方を怪しんでおるのやもしれませぬ。あるいは、我らの策を気取っておるのか……」
「むう……。それは困りましたね……。夜討がやり辛くなってしまいます」
「ほっほっほ。まあまあお二方。事を判ずるには、ちと早うござりますぞ」
丹波様が涼しいお顔でお笑いになりました。
案じる様子は些かもありません。
「望月殿の懸念はごもっとも。なれど、敵勢の真の姿は日が落ちてから明らかとなりましょう」
「真の姿……ですか?」
「左様。日が暮れるまでしばしの時がござります。我らは忙しく立ち働く敵兵の姿を肴に夕餉と致しましょう。女房衆が用意した弁当もござりますれば」
余裕たっぷりの丹波様のご様子に、わたくしも望月殿もすっかりその気にさせられてしまいました。
その後は、強飯の握り飯を頬張りながら敵陣の様子に目を凝らしました。
付き従う女房衆や近習衆も今の内にと立ったままで夕餉を始めています。
火が使えれば湯漬けに出来たのですが、煙が立っては敵に見つかってしまいます。
贅沢は言えませんね。
焼き味噌があるから我慢するとしましょう。
それにして今日の強飯は固いですね。
やっぱりお湯が…………あら?
「おや? お方様、如何なさいましたかな?」
丹波様が楽しそうにお尋ねになりました。
促されるまま、思ったことを口にしておりました。
「敵勢を見ている内に思ったのですけど……何だか皆、慌てているような……」
わたくしが申すと、望月殿や近習衆が「慌てている?」と目を凝らしました。
「……確かにそうじゃ。お方様の申される通りにござるな。日が暮れようと言うのに陣幕すらほとんど張られておらぬ様子。火の数も少ない……。今になってようやく火を起こし始めておる。あれでは夕餉が何時になる事やら。篝火にも難儀しましょうぞ。それとも魔法とやらでどうとでもなるのか……」
「何故こんな事になっているのかしら?」
「ほっほっほ。仔細は分かりませぬが、この村に陣を敷く事、敵の頭には無かったのやもしれませぬな」
「頭に無かった? だから慌てているのですか?」
「恐らくは」
丹波様が「今の内に敵の陣取りを描き取っておきましょう」と、おもむろに筆と紙を取り出され、スラスラと敵陣の絵図を描き上げてしまわれました。
間もなく日が暮れました。
ただ、月明りのせいで薄っすらと明るく、火がなくとも進退に困る事はなさそうです。
夜討には向きませんが。
雲でも出てくれないかしら?
そんな事を思っていると、丹波様が皆を促しました。
「さあ、敵陣をご覧あれ」
あちこちに焚かれた篝火のお陰で、敵陣の大凡の様子が掴めました。
村の真中辺りと、北 南、東、西に陣が敷かれているようです。
望月殿が「成程成程……」と呟かれました。
「如何なさいました?」
「お方様、敵陣は隙だらけにござる」
「ええっ? 見ただけで分かるのですか?」
「はっ。あの篝火の位置をよくご覧下され」
「篝火……そう言われてみれば、なんだかてんでバラバラの位置にありますね」
日が暮れる前に丹波様が描かれた絵図を月明りに照らしてみます。
陣があると思しき場所には確かに篝火が見えるのですが、いくつも固まっている場所もあれば、まばらな場所もあります。
「小さな村なのに、陣と陣の間は思いの他に離れているようですね? 真っ暗な場所が広がっているから手に取るように分かります」
「左様。これ即ち、兵を置いておらぬと言う事に他なりませぬ。松明と思しき灯りも、動き回っておるのは陣の中のみ。陣と陣の間をほとんど行き来しておりません。陣の外へ出ておる松明なぞ、まったく見えませぬな」
「ほっほっほ。素人同然の布陣にござるな。夜営のやの字も分かっておらぬ」
「然り。夜の陣は危うき事に満ち溢れております。闇は人の心を惑わせ、脅かし、不安に陥れるもの。故に心得良き武者を選び出して篝奉行となし、火を絶やさず、見張りを巡らすのでござります」
「これを怠れば忽ちの内に忍びの者が陣中に忍び入りましょう。馬を解き放ち、兵糧に火を放ち、陣内が乱れた所で味方を引き入れ、散々に荒らし回るのでござります。時には全軍潰走の因ともなるのでござります」
「忍びを防ぐには陰を作らぬように篝火を配さねばなりませぬし、松明を手にした兵を頻りに見回りに出さねばなりませぬ。ところが此度の敵にはそれがない。まるで襲ってくれと言わんばかりにござりますな」
「ハッキリしましたな。敵は確かな心算あって、ここに陣を敷いたのではありませぬ。攻め時は正に今夜にござります」
「でも、わたくしでも気付くような隙を見せるなんて、罠ではないかと疑ってしまいます。異界にも魔法もあるのですよ?」
「魔法は厄介にござりますな。然り乍ら案ずる事はありませぬ。元の策通りに事を進めればよろしゅうござる。小さな組ならば進退は自在。危ういと思えば退いて良しとお命じ下され」
「確かに……」
「それにじゃ。人数が少なければ討死も少なくて済みまする」
左様に申された丹波様は、ゾッとするほど酷薄なお顔をなさっていました。
普段はおどけていても、このお方も乱世を生き抜いた武士。
戦を采配するからには、討死の多少は当然に慮るべき事なのです。
「……徒に敵の策を恐れ、味方の討死を厭うてははならないのですね?」
「御意にござります――――おお……、お誂え向きに雲が出て参りましたな」
皆が天を見上げます。
間もなく雲が月を多い、星明りも絶えました。
夜討せよとの、神仏の思し召しに他なりませんね――――。
その夜、我らは大した痛手を出すことなく夜討を成功させました。
敵陣に忍び入った者達は散々に敵勢を翻弄し、本意を遂げたのです。
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