一章二 焼却炉の前で
翌朝。
誰かに会うのを避けたくて、僕はいつもより早く登校した。昨日のことがあったからだ。
ほぼ誰もいない通学路を自転車で駆け抜けて校門を通過すると、サッカー部と野球部がグラウンドでランニングをしていた。
梅雨の蒸し暑い中、よくやるなぁと感心してしまう。
がら空きの自転車置き場に自転車を止め、下駄箱に向かっている時だった。
……教室にいるのも嫌だなぁ……と考えていると、ゴミ箱を抱えた女子の姿が目に入った。
それが彼女以外の生徒なら、僕は完全にスルーしていただろう。
でも、思わず首筋に手をやった僕は、彼女の名をつぶやいていた。
「沙霧廓」
彼女は日直なのだろう。教室の大きなごみ箱を手に焼却炉の前で立ち止まった。
どうしよう? あらためて昨日のお礼を言いに行くべきだろうか?
校舎の陰で僕が思案していると、ドタッという音が耳朶に届いた。
顔を上げると、焼却炉の前で沙霧さんが倒れている。
「沙霧さん!」
反射的に飛び出して、僕は彼女の下へと急いだ。
横倒しになったゴミ箱の横で、制服姿の沙霧さんが倒れている。
僕はしゃがみ込むと、彼女の肩に手を伸ばした。
「大丈夫、沙霧さんッ!」
「うっ、うう……」
よかった! 反応はある。
ぱっと見、……ケガもなさそうだ。
僕は、この時になって沙霧さんが手にしているものに気が付いた。
ラッピングされた花束?
教室のゴミを捨てに来た沙霧さんが、なぜアジサイの花束を持っているのだろうか? 捨てに来た? すこし萼がとれているところもあるけれど、まだ十分に飾れそうだ……。
捨てるには、もったいなくないか?
僕が疑問に思っていると、背後から声がかかった。
「おい、大丈夫か!?」
駆け寄ってきたのは、野球部顧問の浅居先生と野球部員たちだった。
「……だ、大丈夫です。……ちょっと………………貧血で……」
沙霧さんが少しだけ上体を起こして答えた。
とてもつらそうだ。
彼女の長い髪が、肩からぱらりと落ちて胸元へと落ちてゆく。
「だれか保健室まで運んでやれ!」
野球部顧問の言葉に、僕は小さく手を上げた。
「保健室には僕が連れていきます。彼女と同じクラスの保健委員ですし」
「そうか。じゃあ、野球部はみんなで散らかったゴミを片付けるぞ!」
言うや否や、野球部顧問は手近にあったゴミクズを手に取った。野球部員もそれに続く。
「沙霧さん立てる?」
僕が手を差し出すと、彼女は僕の手を取って頷いた。そのまま彼女の身体をゆっくりと引き起こす。なんとか立ち上がった沙霧さんだが、力が入らない状態だったのだろう。彼女は僕の方へ寄りかかってきた。不意を突かれた僕は、二、三歩たたらを踏んでしまう。
「おい。よろめいているぞ、大丈夫か?」
浅居先生の手で背中を支えられなければ、僕は沙霧さんともども倒れていたかもしれない。
「だ、大丈夫です!」
「そうか、頑張れよっ」
バンっ! と僕の背中を叩くと、浅居先生はゴミ拾いに戻った。
「先生―。これはどうしたらいいですか?」
野球部の誰かが、ラッピングされたままのアジサイを手に質問した。
たぶん捨てる判断に迷ったのだろう。花がしおれていないから。
「君が持ってきたのか?」
浅居先生の問いに、沙霧さんは力なく首を振った。
「じゃあ、ここにあるということは捨ててもいい物なんだろう。焼却炉に入れておけばいいんじゃないか?」
「わかりましたーー」
野球部員は、ためらわずに花束を焼却炉へと投げ込んだ。
僕はそれを横目に保健室を目指した。
意識が定まらない沙霧さんからは、ずっといい香りがしていて、僕の鼓動はどうにかなりそうなくらいだ。
女の子はいい匂いがする。誰が言ったか知らないけれど、それは本当のことだった。
保健室の扉を開けると、保険医の幸村みなえ先生がいた。
幸村先生は通称、うまるちゃんと呼ばれている若い先生だ。
身長が低く、生徒の中に入ると埋もれてしまうところから、『うもれる』から『うまる』になって、『うまるちゃん』と命名されたらしい。すくなくとも幸村先生は、僕が入学した時すでに『うまるちゃん』だった。
僕は、先生自体の可愛さも手伝って、先輩の誰かが『うまるちゃん』と名付けたのだと考えている。
……いや、『うまるちゃん』説は、新聞部の記事で見たんだったか?
とにかく、白衣姿の小さな先生は、「どうしたんだい? 大丈夫?」と訊いてきた。
「僕と同じクラスの沙霧廓さんです。貧血で倒れたみたいです」
「そう。それはいけないね! 彼女をベッドに寝かせてくれるかい、月見里くん」
「わかりました」
僕は沙霧さんを、窓から遠い方のベッドに導いた。
保健室の常連としては、窓際のベッドよりも窓から遠い方がベターだと考えている。
第一に、校舎の外から姿が見られないということ。
第二に、日光が差し込んでこないということ。
第三に、窓際のベッドより涼しいということ。
以上の理由から、廊下に近い方のベッドが空いていたら、僕は迷わずそちらを選ぶことにしている。もっとも、冬はその限りではない。太陽が当たっていた方が温かいから……。
肩を貸して沙霧さんをベッドの脇まで連れてゆくと、彼女は倒れ込むようにベッドに横たわった。
うまるちゃんは、沙霧さんの足の下に枕をひとつかませた後、僕の横を通り、ひざを折って沙霧さんの顔の位置に自分の顔をよせた。
「沙霧さん、いいかい。ちょっと胸元ゆるめちゃうよー」
幸村先生は沙霧さんの胸元の赤いリボンをゆるめると、そのままブラウスのボタンをふたつ外した。
すると沙霧さんの白い肌が露になった。僕はあわてて、視線を窓の外へと泳がせた。
「どう。気持ち悪くないかい?」
「大丈夫です」
「昨日はちゃんと眠れたのかな?」
「……はい」
「朝ご飯はちゃんと食べてきた?」
「いいえ……」
「ひょっとしてダイエットしているのかな?」
「そういうわけじゃ……」
「うん。わかったよ。大丈夫。しばらく安静にしていたら落ち着くと思うから、なにかあったら先生を呼ぶんだよ。先生はそばにいるからね。いいかな?」
か細い声で、沙霧さんは「わかりました」と答えた。
その直後だった。
勢いよく保健室の扉が開け放たれ、教頭先生が入ってきた。
僕たちは、扉が上げた音に思わず顔をしかめたほどだ。
「幸村先生ッ!」
「教頭先生? どうしたんですか、そんなに慌てて?」
教頭先生は、ずんぐりした体形で、生徒からは『どんぐり先生』なんて呼ばれているが、けっして悪い先生ではない。普段はおっとりしていて、優しい印象の教頭先生だが、この時の様子はだいぶ違った。
教頭先生の顔には血の気がなく、ひょっとしたら倒れた沙霧さんよりも青い顔をしていたかもしれない。そう、顔面蒼白と言う言葉があるが、僕はそれを初めて見た気がする。それほど教頭先生の顔はヤバかった。
「こ、幸村先生! は、はやく来てください! はやく!」
歯の根が合わないのか、教頭先生はときおり歯をカチカチと鳴らしている。
「気分がすぐれず倒れた生徒がいるんですよ。もうちょっと静かにしてください教頭先生」
「そ、それどころじゃないんですよ、幸村先生!」
「「それどころじゃないって!?」」
僕と幸村先生の声が重なった。
「も、もうしわけない。いや、本当にすまない」
僕たちの抗議に気が付き、教頭先生はすこしだけ普段の教頭先生に戻った。
「でも、急いできてほしいんですよ、幸村先生。一大事なんです」
たしかに教頭先生の様子を見ていると、なにか尋常じゃないことが起こったのだと思われる。
幸村先生は沙霧さんの方を見て逡巡した。
「沙霧さん、先生ここを離れちゃうけど、月見里くんにいてもらうからね。なにかあったら彼に言うんだよ」
「えっ!?」
「というわけ、月見里くんお願いするよ。……たのむよ、若人!」
「あっ、いや、ちょっと先生!」と言っているうちに、幸村先生は急かす教頭先生に引っ張られて保健室を出て行ってしまった。
ふたりを見送った僕は、虚空に伸ばした手を力なく下げた。
「なにか用事があるのなら行ってしまってもいいわよ、月見里くん」
いや、僕の苗字は「やまなし」っていうんだけどね……。
けど、このまま彼女の言葉に従って保健室を後にするのもためらわれた。
昨日の恩もある。
あのまま花菱さんが追及の手を緩めなければ、僕は仰木さんの体操服を盗んだ犯人という濡れ衣を着せられていたに違いない。
僕は近くにあった丸椅子に腰かけると、沙霧さんに頭を下げた。
「昨日はありがとう。助かったよ」
「たいしたことはしていないわ。私は貴方が犯人でないと確信したから、それを主張しただけ」
「でも、おかげで僕は濡れ衣を着せられずにすんだよ」
僕は感謝を表すためにもう一度頭を下げた。
「ありがとう。沙霧さん」
「そう……」
「でも。沙霧さん、僕が犯人じゃないってどうしてわかったの?」
「……べつに。昨日も説明した通りよ。目撃者を探しもしないで貴方を犯人扱いしようとした流れが好きじゃなかったの。とっても不味かったから……」
不味かった?
その言葉を聞いて思い浮かんだのは、沙霧さんが僕の首筋を舐めたことだ。
僕の首筋が不味かったってこと!?
そ、そ、そ、それは聞けないっ、聞きたくないっ!?
僕は話題を変えようと、赤面しながら頭をフル回転させた。
「それにしてもなにが起こったんだろうね。教頭先生、だいぶ慌てていたみたいだけど……」
「たぶん、――殺人――」
「えっ!?」
沙霧さんが口にした言葉があまりにも非日常的だったから、僕は間の抜けた顔をしていたに違いない。
ベッドの上で上体を起こすと、彼女は僕の方へと向きなおった。
青みがかった双眸に僕を映して彼女は唇を動かす。
「だから。校内で誰かが殺されたってことよ」
ハンマーで殴られたような衝撃を伴う言葉だった。
だって、学校内で殺人なんて……。
「どうしてわかるの?」
僕の問いに、沙霧さんは長い睫毛を伏せる。
彼女の顔に、すこしだけ後悔が滲んだようにみえた。
「私にはわかるのよ……」
沙霧さんは、スカートの上に置いた両手を握りしめていた。まるで、目に見えないなにかを握りつぶそうとでもするみたいに。
かける言葉が見つからなくて、僕はただただ沙霧さんを見つめていた。
なんとかしてあげたい。ふと、そんな感情が沸き上がってきた。
でも、なにをどうすればいいのかわからない。いたずらに時間だけが経過してゆく。
壁に掛けられた丸時計だけが保健室の住人であるかのように、秒針の音を刻んでいる。
一、二、三……。秒数を数えても意味がないと分かっているのに、僕は頭の中で秒数をカウントしていた。
そして、ざわざわと廊下が騒がしくなるのには、それほど数を数えなかったと思う。
「どうしましょう校長先生? やはり生徒は校舎に入れない方がいいのでは?」
教頭先生の切羽詰まった声が聞こえてきた。
「そうですね。警察も来ることですし、今日は生徒を帰宅させた方がいいかもしれませんね」
答えたのは、落ち着いた年配の女性の声だった。校長先生と思われる。
「では、登校してきた生徒はいったん体育館に集めますか?」
こんどは野球部顧問の浅居先生の声だ。
「ええ、そうですね。浅居先生のおっしゃるとおり、登校してきた生徒は随時体育館に誘導してください。そのまま一時限目に全校集会を開いて、一斉下校の形にしましょう。それまで詳細はここにいる者以外には他言無用でお願いします」
「わかりました。さっそく自分は校門に立って誘導を始めます」
「では、私は、すでに登校している生徒を探して体育館に行くように言いましょう」
「いや、教頭先生。それは野球部の連中にやらせましょう。その方が早く済みますよ、きっと」
「そうですね。教頭先生お一人で校舎を回るのは大変ですし、……浅居先生、野球部への指示もお願いします。もちろん、内情は伏せて。教頭先生は全校集会の用意の方をお願いします」
「わかりました、校長先生。私は体育館で全校集会の準備をしておきます」
「じゃあ、自分は部員に生徒を体育館に誘導するように言った後、校門に立ちます」
「よろしくお願いします」
先生たちの会話は終わり、バタバタと足音が聞こえた。
「どうやら今日は家に帰っていいみたいね」
沙霧さんは両足を折りたたむと、僕の方を見た。
「体の方は大丈夫なの?」
「ええ。というか学校にいる方が、気分が悪くなるから」
「ああ、そういうのあるよね。風邪をひいた時なんかも、学校に病欠の連絡をしたら急に体が楽になったりするし」
まぁ、それは飲んでいた風邪薬が効き始めたのかもしれないけれど、気分が楽になって体調が改善することも確かにあると思う。
「そこ、どいてくれないかしら。月見里くん?」
「あっ、うん。そうだね。ここに僕がいたらベッドから降りられないよね」
僕が座っていた丸椅子ごと後退した時だった。
保健室の扉が開いて、『うまるちゃん』こと幸村先生が帰ってきた。
白衣をなびかせて僕たちのところまできた先生は、「ああ、よかった! もう起きても大丈夫なのかな?」と沙霧さんに確認した。
「はい。ありがとうございます。だいぶ良くなりました。今日のところは早退しようかと思うのですが……」
ふだんどおりの抑揚のない口調で沙霧さんは言った。
「そう? でも、このあと全校集会があって、そのあと一斉下校になるみたいなんだよ。たぶん一時間かからないくらいの辛抱だから、全校集会の後に帰ったらどうかな?」
幸村先生は腕時計を見て、「そしたら出席扱いになるし、その方が得じゃないかな?」と付けくわえた。
沙霧さんはすこし視線を落とした後、先生の顔を見た。
「そうですね。ではそうします」
「じゃあ、もう少しここにいるといいよ。全校集会は一時限目開始からみたいだから。月見里くんも付き合ってあげてほしいんだよ。保健委員だよね?」
僕は沙霧さんの顔を見て、彼女が特に嫌そうなそぶりを見せなかったので、先生の提案を受け入れた。
「でも。急に一斉下校だなんて、なにがあったんですか?」
沙霧さんからは『殺人』だなんて不穏な言葉を聞いていたけれど、今ひとつ実感のなかった僕は、さりげなく幸村先生に質問を向けてみた。
「ひょっとして廊下の会話聞こえていたのかな? そうだよね――、天窓が開いているし聞こえちゃうよね。でも、詳しいことは全校集会で校長先生が話されるみたいだから……」
うまるちゃんが口を濁すなんてめずらしい。
この小さな保険医の先生は、生徒との壁を作らないスタンスで人気を得ている。
自分が隠し事をしないかわりに、生徒にも隠し事をしないで。というのがうまるちゃんなのだ。
僕も、うまるちゃんは生徒寄りで、話が分かる先生だと思っている。
そんな先生がお茶を濁したのだ。
じゃあ、沙霧さんの言ったことは本当なのだろうか?
どのみち全校集会が始まればわかることだ。
僕は、うまるちゃんを追求することはしなかった。ただ今度は、なぜ沙霧さんが『殺人』があったことが分かったのだろうか? ということが気になった。
『事故死』ではなく、彼女は『殺人』と言い切った。
ふたたびベッドに上がって横になる沙霧さんを目で追いながら、この人は本当に不思議な人だと考えていた。
高校三年生の四月に転校してきた沙霧さん。
家庭の都合かもしれないけれど、三年生の春に転校してきた人は他にいない。
どうして彼女は転校してきたのだろう?
転校当初、彼女の美貌に引かれてお近づきになろうとした男子も何人かいたらしいが、彼女は誰とも親しくなろうとしなかった。それは女子に対しても同じで、二週間もすると彼女に近づく者はいなくなった。沙霧さんも沙霧さんで、それを気にした風もない。
周囲と壁があるのは同じだけど、僕と彼女では壁の種類が違うような気がする。
他者を寄せ付けない壁と、他者が寄ってこない壁だ。
ベッドに横たわった彼女は瞳を閉じて、まるで眠り姫みたいに寝息を立て始めた。
綺麗だ……。
僕はふと、自分の鼓動が早くなっていることに気づいた。思わず息を飲んだ。
沙霧さんの寝顔を見て高鳴った鼓動を誤魔化すように、僕はポケットからスマホを取りだした。
指先を動かし、動物を狩猟するアプリゲームを立ち上げる。
視線をなるべくスマホの画面に固定して、僕はゲームに没頭するフリをした。