鎮魂香
【一】 魔女アウリーニエ
かの魔術師皇帝ルードルフが、モルダウ河の岸辺、プラークに帝都を移して二百年。
皇帝の死とともに帝都は旧都へと戻されたが、全欧最大の魔術の都として、この町はその筋の者達を引きつけ続ける。
とある夕べ、その東岸ユダヤ街のはずれにある怪老窟に足を運ぶ一人の紳士があった。
フランツ・ゼッペ男爵。彼はある人物との接触を試みようとしていた。
窓から漏れる光も淡いその薄暗い小径をさまよう内に、目的地たる魔窟の場所がわからなくなってくる。
苦労して手に入れた地図を眺め右往左往するうちに、彼に問いかける声があった。
「魔女の住処をお尋ねかえ?」
ぎょっとして振り向くと、薄暗がりの中にぼんやりとした影が浮かぶ。
小さな影はこどものように見えた。
すっぽりと頭巾をかぶり、薄闇に溶け込むような灰色の粗末な服に身を包んだ影。
頭巾の間から爛々と輝く瞳だけが、闇の中に浮き上がるように男爵をとらえた。
「きみは・・・アウリーニエの使者か?」
こどもはそれに応えず、ついてくるように身振りで示した。
事前に知り合いの錬金術師から連絡をとっておいたことが功を奏したのかも知れない、と思いつつ、フランツは、曲がりくねった道をついていく。
とある壁の前に着くと、その小さな姿が壁をなで回す。
すると壁のように見えていた一面が開き、さらにその中からさらに深い闇が覗いていた。
真闇と言ってもいいその暗がりに招き入れられ、手探りで進む内に、もう一つのドアにたどり着く。
明かり取りからぼんやりと漏れる燈火によって、ようやく自分が住処の中にいること、短い廊下を通ってきたことがわかった。
「ゲルダかい?」
ドアの向こう側から、しわがれた、ぞっとするような不気味な声が漏れ聞こえる。
こどもはドアを開け、フランツを中へ通した。
続いて部屋に入る男爵。
灯りと見えたのは乱雑に散らかった部屋の卓上に置いてあるランプと、みすぼらしい暖炉からもれる小さな光。
だが最初、中に人の気配を感じず、しばらく目をこらしていると暖炉の隅の黒い影が動き出す。
そこにアウリーニエと思しき人物がいることがわかった。
黒い影はゆっくと木卓に移動して腰を下ろし、来客に席を勧める。
ギシギシ鳴る名ばかりの椅子に腰を下ろすや、案内役のこどもに目配せをして、下がらせる。
ゲルダと呼ばれた少女同様、この老婆もすっぽりと黒い頭巾と灰色の衣類に身を包んでおり、かろうじて老人である、ということくらいしかわからない。
だが、その異様に輝く目だけは、なにか人間離れした深淵をのぞかせているよう。
しわがれた声が問う。
「クルーゲルから話を聞いたときはあまり乗り気じゃなかったんだが、報酬を出す、ということだったのでね」
クルーゲルというのは、男爵の夜会に顔を出す錬金術師の一人。
「そんなやっかいな問題は魔女にでも頼むがいいさ」と言った軽口が発端だった。
「もちろん、用意してきた。なんなら前金としてでもかまわない」
初見の相手に前金というのも危険だったが、もうまっとうな手段では友人を救えそうにないこともわかっていたので、藁にもすがる気持ちだったのだ。
「それでけっこう」と老婆は切り出す。
「だがもう一つ、約束してほしい。私やこの住居のこと、今回の件等、一切他言せぬこと」
男爵が請け合うと、奇妙なことにその一件だけ誓約書を書かせ、血印を押させた。
書き終えると、若き男爵の胸に、なにか焔が燃え立つような、熱いものがゆらゆら揺れるような感覚に見舞われた。
だがそれも一瞬のこと。
それはこの異様な環境になにか神経が影響されてしまったのかもしれない。
「さて、男爵さまは何をお望みかえ?」
「恋占いか、ホレ薬か、それとも競争相手の呪殺かえ」
最後のことばにいささかギョッとする男爵。
身元を探らぬ誓約をとらせたのは、そういう仕事を請け負っているからか?
「いや、友人に取り憑いているあるもののことなんだ・・・」
男爵はポツリポツリと語り始める。
【二】 富豪アルトゥール・シュトニケ
石橋の西側、貴族や富豪の居並ぶ住居の片隅に、シュトニケが一家を構えていた。
その書斎で帳簿を眺めながらしかめっつらをしているのが、当家の主、アルトゥール・シュトニケ氏。
見るからに有能そうな広い額。
精悍な野性味あふれる瞳、だが決して粗暴な印象を与えるものではなく、機知に富み、マナーを熟知する社交の人でもある。
掘りの深い顔立ちに整えられた顎髭。
だが、本来は陽気で明るい性格だったものが、ここ最近悩ましい出来事に見舞われて、憂鬱な影が浮かんでいた。
ここ数週、商会の取引が芳しくなかったこともあったのだが、それ以上に何か辛いことを自分からも隠しているような憂鬱さだった。
そこに従僕バルドゥインがいくつかの書簡を持ってくる。
「旦那さま、こういった方面もあるようです」
彼の持ってきた書簡はこの事態を好転させるもので、これを見てアルトゥールは少し表情が和らいだ。
だがなにかひとつ、大事なことを忘れているような気分になる。
それがなんだったか思い出せないのだが、この有能な忠僕がいれば乗り越えて行けそうな、そんな気持ちになってくる。
「お前がいてくれると悲観的にならなくてすむ」
しばしの休憩に入った彼は、私室の方へ退き、そこで妻子のようすをうかがう。
愛妻マリアンネからは二人の間の愛息ヴィリが眠っているため、あまり大きな音はたてないで、と優しい微笑みをもらう。
彼は順調に発育する幼子の寝顔を眺めつつ、
「そうだ、私の後ろには愛する家族がある、少々のことではへこんではいられない」と思い直す。
バルドゥインから午後の支度が出来たと伝えられ、ささやかな昼食を取るアルトゥールとマリアンネ。
「橋向こうの貧民窟でまた流行病が出たということだ」
それを聞いてバルドゥインは主を落ち着かせようと
「当面は向こうでの仕事もございませんし、気に病まれることもないでしょう」
そうだったな、と軽く返して、アルトゥールはかつて川向こうで行なわれていた危険な夜会に想いをはせる。
あれはいつのことだったか、学友タールマンやゼッペに誘われて顔を出してみたのが、まだ昨日のような感覚になる。
だがあそこでカード遊びをしたり、小さなコンサートを楽しんだりしたのはまだ独身だった頃のこと、はるか昔のはずだ。
あの夜会に行くまでは実務畑一筋だった自分が、あそこでは違う世界の人間とも出会えた。
中には危険な香りのする男もいたが、返ってそれが新鮮だったりもした。
しばしの夢想に身を委ねていたとき、メイドが来客を告げた。
その名前を聞いたとき、アルトゥールの眉根が曇る。
【三】 使い魔ゲルダ
フランツがどうやって魔女の住処から帰ってきたのかは、さっぱり覚えていなかった。
気がつくと自室のベッドの上で、既に太陽は高く登っていた。
まるで夢のようだった昨夜の一幕、いや、ほんとうにあれは夢だったのかもしれない。
そんなことを思いつつ身支度をしていると、小間使いが、みすぼらしいこどもが来ている、と告げた。
「物乞いだろ、追い返せ」と言いかけて、思い当たることがあり、すぐに通すように伝える。
小間使いは露骨にいやそうな顔をして立ち去り、やがてそのみすぼらしいこどもを通してきた。
予想通り、そのこどもは昨夜、魔女の住処へ案内してくれたあの少女だった。
「夢じゃなかったんだな」と男爵がもらすと、ゲルダは
「約束を守ってくれていただいているようで、なによりです」
・・・とこちらも聞き取れぬほどの小さな声でボソボソつぶやくように話す。
陽の光の下で見るその子は、昨夜と同じ襤褸のような衣服に身を包んでいたが、頭巾はなく、はっきりと顔を観察できた。
体格の小柄さゆえに、昨夜は性別のわからぬこどものように見えたが、まぎれもなく少女の顔。
年の頃はまだ十代前半であろうか。
黒い髪の下にある大きな瞳。
同じように黒く、黒曜石のような輝きを持つその瞳は、陽の光の下で見ても輝きを喪っていない。
見かけのみすぼらしさ、貧しさに反して目鼻立ちはよく整い、きれいな顔だった。
おそらく媚びた笑みを作れば、一目で落ちてしまう者も出るかもしれない。
だが笑みを作ることもなく、淡々と男爵に語りかける。
「アウリーニエのことばを伝えます」
ふところからごそごそと何かを取り出して、続ける。
「振り香炉をお持ちしました」
そういえば、解決法として昨晩呈示されたのは、ある香を焚く、というものだった。
「しかし、この香はたいへん貴重なもので、かつ扱いも難しいため、あなたに売るのではなくお貸しするだけに留めます」
そう言って彼女はその香炉を卓の上に置く。
かつては象眼が施されていたのであろう、朱や金色の痕跡を残す筋がうっすらと残る古びた手提げの炉。
全体は黒ずんでいたが、かつては赤銅色だったのかもしれない。
その香炉を指し示しながら、
「操作はわたくしが行ないます」とゲルダ。
「あなたが、そのやっかいなものの前に出るとき、わたくしに合図してください、香はそれまでに焚いておきます」
その操作を少し聞いて、たしかに扱いが難しそうだ、と思いながら、フランツはその手提げ香炉をながめつつ思った。
「いつ行いますか?」・・・と尋ねる少女に、男爵は
「君さえよければ、今すぐにでも」と応える。
フランツは小間使いに今日の予定を全てキャンセルして出かける旨を伝え、少女とともに外に出た。
馬車に乗り込み、友人の家へと向かう男爵と少女。
そのわずかな時間の中で、フランツはいくつかの会話を試みる。
「君は・・・アウリーニエの娘さんなのかい?」
「わたくしのことはゲルダとお呼びください。でもあまり詮索はされたくありません」
フランツは契約のことを思いだして謝罪し、会話を断念しようかと思ったが、ゲルダが少しだけ続けてくれた。
「そうですね・・・孫娘、ということにしておいていただいてかまいせん」
【四】 鎮魂香
シュトニケ家のメイド、マルガレーテがアルトゥールに来客を伝えにいくのを、ハルドゥインは聞いていた。
先ほどまでの、老齢にさしかかってはいたが、人の良さを感じさせる穏やかな表情が少し曇り始める。
足早に来客室へ向かい、来客の準備を始める。
来客の報を受けたアルトゥールは、従僕が準備してくれた来客室で待つことにした。
そこへ愛妻マリアンネもヴィリを抱えて現われる。
マナーに反するその行為にいささかとまどっていると、マルガレーテが来客を伴って現われる。
「アルトゥール!」
「君か・・・フランツ・ゼッペ男爵!」
表向きは旧友を迎える顔をしつつ、その瞳の奥に苛立ちとも焦燥ともとれる微妙な表情を隠せないシュトニケ商会の主。
だがすぐに彼は、男爵の後ろについてきた、薄汚いこどもに目を止める。
「フランツ、そいつは何だ?」
綺麗に仕上げられた来客室の趣味の良い調度を眺めつつ、同時にいるはずのない人々の姿に驚きつつ、フランツはゲルダに目配せする。
ゲルダが脇に抱えた香炉をぐい、と前に差し出し、何かの操作をしたかと思うと、炉の中に火が灯る。
それを見てバルドゥインの表情がみるみる変わっていき、蛙のようにぴょんと跳ねて、部屋の片隅に退く。
香炉の中からうっすらと煙が立ちこめ、甘辛い匂いがフランツとアルトゥールの鼻孔をくすぐる。
パリパリと、何かが剥がれるような音がして、まずメイドが陽に焼けた古紙片のようになっていき、空間からはがれおちるように散っていく。
くぐもった叫びともうなりとも聞こえぬ音がメイドから発せられ、散り散りになったものが消えていく。
きらびやかな部屋の調度もまた、箔がはがれるように落ちていき、メイドと同じように古びた紙片が砕かれ、散っていくように消えていく。
同様に、何かのうなり声を伴いつつ。
ゲルダが前に進み出るに従って、部屋の調度が次々と崩れ落ちていき、やがて平凡な壁紙の部屋に戻っていく。
香りがアルトゥールを越えてマリアンネの元に届くや、マリアンネが、そしてその腕に抱かれたヴィリが、古紙片のように凹凸を喪い、砕け散っていく。
扉付近に後退していたバルドゥインが、あの穏やかな表情とは似ても似つかぬ悪鬼の顔になり、火かき棒を振り上げながらゲルダに迫る。
だが、ゲルダを守るように、香炉の香がこの老いた忠僕を取り囲むや、彼もまたパリパリと剥がれ落ちるように古紙の紙くずになっていく。
それまでとは違う、一番いやな響を、うなり声立ててバルドゥインが、古紙が燃え散るように消えていく。
部屋に香が立ちこめ、以前の姿に戻って行く。
流行病で妻子を喪い、自暴自棄になって商会の業務から身を引き、日々やせ衰えていくばかりとなった頃のアルトゥールの部屋に。
そしてフランツがその異変に気付いた頃の部屋に。
がっくりとひざをつくアルトゥール。
その香の効能を驚嘆の色を隠せないフランツを後目に、膝をつき、呆然とするアルトゥールの傍らにゲルダが近付く。
すると今度は違う匂いの香が、アルトゥールを包んでいるのに気付いたフランツが
「おい、いったい何をしている」と思わず語気荒く気色ばむ。
「これが鎮魂香でございます」
「そうじゃない!アルトゥールに何をしたか聞いているんだ」
するとゲルダはすっと立ち上がって振り返り、
「ご心配には及びません。わたくしのことだけお忘れいただいたのです」
二の句が継げず、口をパクパクさせるだけの男爵の傍らを過ぎ、部屋を出るゲルダ。
「この後の事をご説明します、どうか別室に」と誘導した。
【五】 魔女との誓約
人気の絶えたシュトニケの家、その客室に面する一室で、ゲルダが男爵に語る。
昨夜もお話ししました通り、わたくしたちは人目につくことを畏れます。
それは過去の歴史、わたくしたちは権力や、市民や、教会の手の者から幾多の数えきれぬ迫害を受けてまいりました。
生きるためにいくばくかの金目の物は必要ですが、それゆえに殺されかけたこともございました。
それゆえに、わたくしどもの姿、情報は極力消しておきたいのです。
男爵さま、あなたさまの記憶も消そうと思えば消せるのですが、あなたさまは金払いも良く、誓約もいたしてくださいました。
それゆえ、アウリーニエからのささやかな友情の証として、そこまではしないことを決断されました。
そうそう、あなたさまにとってはもっと重要なこと、あのご友人のことでございましたね。
あのお方にとりついて、あのお方の資産や地位を利用しようとした悪霊は浄化されました。
あのお方の御心が、あなたさまの知るようなかつての快活なご友人の頃にまで戻られたかどうかははかりかねますし、わたくしどもの力もそこまでは及びません。
でも、何かに蝕まれ、命をすり減らしていくような事態からは回復されました。
あのお方に悪霊がとりつくきっかけとなったのは、あなた様のご推察通り、愛する方々を流行病で亡くされたことだったのでしょう。
その事実をかみしめ、乗り越えていくこと、それはあのお方の今後のことかと思われますが「人の力」でなんとかなるところまでは回復した、とは言えるかと思います。
語り終えたゲルダが、馬車で橋向こうまで送ってもらうことを希望したため、フランツは彼女を伴い石橋のたもとまで来た。
「私から記憶を奪わない、というのは感謝することなのだろうな・・・」と、ポツリとつぶやいた。
「お怒りにならないのですね」
「君たちの理屈もわかるからね」と言って少女を馬車からおろす。
陽は既にそうとう傾いていた。
「昨日、どうやって家に帰ったか、そして君たちの住処がどこだったのか、まったく覚えていない・・・これも」
「ご想像におまかせいたします」とゲルダ。
「くれぐれも魔女の誓約をお忘れなきよう・・・誓約は一生続くものです」
そう言って少女は、石橋の向こうへと消えていった。
馬車に乗って帰りながら、フランツはまたいづれ、あの魔女と少女に会うような予感を感じていた。
だがそれは決して嫌な予感ではなかった。
【六】 魔女と使い魔
「おばあさまは甘すぎるのではありませんか」
魔女の傍らで少女は尋ねる。
「あの男は大丈夫さ」
消え入るような声で魔女が応える。
「誓約が骨の髄まで染みこんでいる、あれくらい術がしみこむ体質もそうはあるまいて」
それに、生きて行くには金子も必要じゃからのう、と語る魔女に、少女は深いため息をつく。
「あの男とはまた会うような気がいたします」
「心配ない、心配ない」
こう言って魔女は使い魔から受け取った香炉をしまい始める。
魔術の都、その片隅で起こった最初の小さな事件はこうして人知れず幕を閉じた。
魔女の使い魔たる少女が、自らの出自に関わるのはもう少し先の話となる。
短篇ですが、できれば連作短篇にしていきたいです。
一話ずつの独立性を上げたいので、月一回くらいの頻度で投稿できたらな、と考えています。