シチューの話
読んでくださってありがとうございます!
いつもより少し長いですが、最後までお付き合いいただけると幸いです。
丸々一話シチューについて書いただけのギャグ回(?)です。
そして、夕方。日はすっかり暮れている。俺とアレクお待ちかねの、いや、町中がお待ちかねのときがやって来た。シルバーベアのシチューの完成だ。
窓から外を見ると、銀熊亭の入り口には長蛇の列ができていた。小さな町のどこにこれだけの人がいたというのか。きっと、町中の人が集まっているのだろう。もしかすると、近くの村からも人が来ているかもしれない。
トービリの町近辺において、銀熊亭は最高級クラスのレストランであり宿である。微々たる収入で暮らす町民や周辺の村民では、到底手が届かない。そのため、銀熊亭の本来の主なターゲットは、ソーン砦から入って来る外国人である。
しかし、今日は町民と見受けられる人々がたくさん。これはなぜか。理由は簡単で、俺たちがシルバーベアを無料で卸す代わりに、格安でシチューを提供してもらうことになっているからだ。
冷たい外気を遮断する窓も、シルバーベアのシチューに沸く町民のざわめきを容易く通過させている。それを聞くと、俺の中でもどんどん期待が膨れ上がってくる。
「副長官!時間です!」
興奮した様子のアレクの声が聞こえてくる。シチューが完成したらしい。アレクは二時間も前から、階段でシチュー完成の合図を待ち続けていた。いち早く俺とフェイロンを呼び、シチューを食べに行くために。どんだけ気合入ってんだよ。
「よし、行くか!」
俺も大きな期待とともに部屋を出た。フェイロンもすでに廊下に出ていた。
「外がすごいことになっているぞ」
俺の顔を見るなり、フェイロンは驚きをたたえた表情で言った。驚きというよりは、困惑と言った方がいいかもしれない。
「それだけみんな楽しみにしてるんだよ」
「何度も美味いと聞かされているが、ここまでやられると、からかわれているのではないかと思えてくるな」
「誰もからかってないって。目の前のシチューに集中しすぎてて、誰もフェイロンをからかう余裕なんてないから」
「そ、そういうものか」
ますます困惑を深めていくフェイロンが新鮮で愉快だった。
「ちょっと、何やってるんですか!?早く来やがれください!」
階段の方からアレクの怒鳴り声。怒鳴ってるし、言葉遣いもおかしい。もう禁断症状も末期レベルに進行しているみたいだ。早く行って、落ち着かせてあげないと。
銀熊亭の食堂は小規模だ。四席のカウンター二つを直角に組み合わせた八席に、最大四人掛けのテーブル席が六卓で、計三十二卓しかない。俺たち三人用に一卓が予約されているから、空きは都合二十八席となる計算だ。現在、その全てが埋まっている。
席に着いている人々の半分ほどは、顔に若干の朱が差している。つまり、酒を飲んでいる。長時間の待機に待ちきれなくなり、酒を注文してしまったのだろう。実にもったいないことだ。あのシチューはシラフで食さねばならない。鮮明な記憶として、心と身体に刻み込む必要のある食事だからだ。酒を飲んでしまっては、それが薄れる可能性がある。もったいない、実に――
「ほら、ボーっとしてないで。こっちですよ!」
「おととととっ」
階段を降りて目に飛び込んできた残念な光景に目を奪われていると、アレクによって強引に席へ連れていかれる。俺たちの席には真っ白なテーブルクロスが敷かれているだけで、何の料理も酒も運ばれてきていない。水すらもない。あるのは食器の類のみ。
「この度は、どうもありがとうございます」
俺たちの席にやって来たオーナーは恭しくお辞儀をした。
「いえいえ、こちらこそありがとうございます。美味しいシチューが食べられるのが楽しみですよ」
「はい、今までで一番の出来でございます。生け捕りというのがよかったんでしょうね」
「ははは。まあ、たまたまなんですけどね」
ちょんちょんとアレクが肩をつついた。そして、そっと口を俺の耳元に寄せる。かかる息がくすぐったい。やめて、ちょっと恥ずかしいんですけど――
「シチュー、早く食べたいです!」
「バカ!なんで耳元で怒鳴るんだよ!いった、耳いった!」
てっきり何か耳打ちしてくるのかと思ったら、まさか怒鳴ってくるとは。最初のころのお堅いキャラはどこに行っちまったんだよ。ただ俺が部下に舐められているというだけという話かもしれないけど……
「ちょっと待ちきれなくて」
「それにしても、俺に言うことないだろ」
「申し訳ありません。ただ今持ってまいりますので……」
それまで陽気だったオーナーはいくらか肩を落として、厨房へと引き返していった。
「ほら、オーナーもしょんぼりしてるぞ」
俺がそう言うと、アレクは席を立ち、ペコペコとオーナーに謝っていた。耳痛かったんだから、俺にも謝ってくれよ。
アレクが席に戻って来てすぐ、厨房に引っ込んだオーナーと数人のウェイターが両手に皿を持って現れた。ついにこの時が来た。他の客たちからも喜びの声が噴き出す。
「お待たせしました、シルバーベアのシチューです」
俺たちのテーブルに、三皿のシチューが運ばれてくる。白い湯気が立ち昇り、その奥にゴロゴロとした具材、黄味の強い乳白色の液体が覗く。見た目はただのシチューだ。フェイロンが平然としていることからも、見た目には何の変哲もないことがわかる。
アレクがゴクリと喉を鳴らしたのが聞こえた。それが合図だったかのように――
「「「いただきます!」」」
三人の、いや、目の前にシチューを置かれた全員の食欲が解放された。
俺は二人が一匙を口に運ぶのを見届けた。この瞬間を楽しみにしていたアレク、初めてこれを味わうフェイロン。どちらのリアクションも見逃せないと思ったからだ。
アレクはシチューが運ばれてきたときから目に涙を溜めていたが、一口食べたあとにはそれがあっけなく解放された。涙で塩味が加わってしまいそうだ。
フェイロンは一口食べると、目を見開いた。その後一拍置き、魔纏を発動させているのではないかと思うほど高速で、スプーンを往復させていた。
二人とも無言である。他の客も無言だった。酒を飲んだ客は騒ぎそうなものだが、酔いが醒めてしまったかのように無言で食べていた。外に並んでいる人々にも、シチューが運ばれ始めているようである。
よし、俺もいただこうかな。黄金色とも形容できるようなシチューを口元に運ぶと、得も言われぬ複雑な匂いがした。身体がブルッと震え、掬ったシチューを溢しそうになる。
そして、口の中にそれを運び入れると、旨味が脳天を貫いたような錯覚に陥った。舌を素通りし、脳に直接味が届いているかのような、そんな感覚だ。美味いというこの世に存在する言葉で表現しては、料理に失礼なのではないかと思えるほど美味い。あ、美味いって言っちゃった。失礼、失礼。
二口目。今度は、このシチューの主役と言えるシルバーベアの肉だ。一思いに口へと放り込む。口の中入れたはいいが、これを噛んでしまえば自分がどうにかなってしまうのではないかという恐怖にも近い感情が湧き上がってくる。
噛む覚悟が整うまで、角切りにされた肉を口内で弄ぶ。マナー違反かもしれないが、そんなことは知らん。その間にも、柔らかな肉の組織が解れていく。このままでは、肉が溶けていなくなってしまうという焦りに駆られ、咀嚼。
とうとう、俺の頬にも涙が伝っていた。これが何の涙かはわからない。しかし、美味しさへの感動などという月並みな感情に由来するものではない気がした。むしろ、この美味しさを適切に表現できないことへの悔し涙かもしれない。
残り半分まで食べ進めるまで、涙は止まらなかった。ようやく脳がシチューに慣れてくると、気が済むまでその味を堪能することができた。何皿おかわりしたかわからない。自分の胃の容積の限界までシチューを詰め込み、その日はそのまま泥のように眠った。
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