第三十話
「はぁはぁ……間に合った」
時刻は朝の九時五分前。
アドルフと二人で話をしていたら遅くなってしまった。
アレンは息を整えながら、ミーティアの玄関へと足を進めていく。
彼が扉を開けると既に、フェリクスは書類の山を積み重ねて整理整頓を行なっていた。
「おはよう、アレン君」
いつもと同じく温和に包まれた爽やかな笑顔で彼を出迎える。
「あの、遅くなってすみません……」
「大丈夫。まだ九時にはなってないからね。それより今日は少し頼みがあるのだけれど――」
「何ですか?」
「実は会議に出なくてはならなくなってね……。お昼ごろまでには帰ってこれるとは思うけれど……」
ちょっと待ってください、とアレンは彼の話を遮った。
何故、話を止められたのか分からなかったのか、フェリクスは怪訝そうな表情を浮かべるがアレンは構わず話を続ける。
「僕も一緒に行きますよ。じゃないと、フェリクスさんの護衛を務める意味が無くなってしまいます」
彼が話を止めた意味が理解できたようだ。
フェリクスは、ああ、いや別にいいんだよ、と言って、積まれている書類を倒さないように整頓しながらも彼に向かって話しだす。
「今回はアドルフと一緒に行くことになっているんだ。確かにアレン君の護衛力は買っているけれど――今日は君にそこまでしてもらう必要は無いと思ってね。そこでなんだが……。今日はこの部屋の留守番を頼めるかな?」
「えっ、留守番……ですか?」
「私もこのような職務にいる以上、緊急時の各部署の連絡役と出動役は必ずいるのでね。アレン君のような多数の実践経験者なら私が居なくても的確に指示ができると思うのだが――頼めるかな?」
温和な表情を浮かべているフェリクスに対して、アレンはまだ納得が行かない表情を浮かべながらも、分かりました、と答えた。
本当に済まないね、早めに帰れるようにこちらで手配するから、とフェリクスは言って、設置してあるロッカーから荷物を取り出し、支度をするとそのままアレンに背を向けるとドアを開けて出て行ってしまった。
一人残されたアレンはため息をつくと、テーブルを挟んで、応接間のようになっている上品なソファーへと腰を下ろす。
(――僕、待ってるのが一番苦手なんだけどな……)
◇◆◇
フェリクスが出て行ってから二時間が経過した。
彼が出かける前に机で整理整頓していた書類を見てみたが、既にサインが入っており、これ以外に部屋で出来る仕事はアレンにはなさそうだった。
(此処はソルド本部じゃないから、指示されている物以外、触っちゃいけないだろうしな……)
彼に頼まれた役目は留守番役。
街で何かあったら対応をしてくれ、ということで飲み物を取ってくる事とトイレに行く事以外はこの部屋にずっといるが、流石にいくらアレシアの都市的な街並みを眺めていても退屈なばかりだ。
アレンは窓に広がる風景を眺めながら、自ら沸かした紅茶を啜っては何度もため息を付いている。
机の置いてある小型の無線機を取り上げ、耳を傾けてみるが、特に異変もなく、各警備隊のチームの通常の業務連絡しか聞こえてこない。
彼は無線機を元に戻し、何気なく、壁にかけてあるシンプルな時計を見やると時刻は午前十一時を回ろうとしていた。
(仮にお昼を十二時までとしても、後一時間か……。案外、上司の仕事も楽じゃないんだな……)
いつもこのような業務を行なっているアドルフに些か感謝を覚えつつ、ソファーに座っていた体を起こし背伸びをしようとしたその時。
彼の内ポケットに入れている携帯電話が震え始めた。
「誰だ……?」
鳴っていたのは仕事用で利用している黒い携帯電話だった。
見覚えのない番号からだったが、相手の市外局番から見る限りフィオナからの電話のようだ。
職務上、仕事先で名刺を渡したりすることが多い上に、殆どのケースでは数回の連絡で仕事が終了してしまうので、アレンは頻繁に連絡する人以外登録していない。
その為、覚えていない人から掛かってくるという事はよくあり、彼は気にせずにいつも通り電話に出る。
「もしもし?」
「アレン・ハロルドさんでしょうか?」
電話口に出たのは若い男の声だった。
仕事関係の連絡、ましてや知らない人からの電話ならば、向こうが先に名前を名乗ってから聞くのがマナーだ。
不快に思ったアレンは、どちら様ですか?と聞き直すと、男は何かに気がついたように一言謝る。
「申し訳ありません。突然の無礼をお許しください。私はフィオナ警備隊第二副隊長のティル・ジルヴェスターと申します。今回、特殊な用件についてお話がありまして――」
「特殊な用件とは?」
「実は……。ノエル隊長が誘拐されてしまって」
「んな……!?」
電話口で声を潜めて言う男の突然の衝撃的な事実の告白によりアレンは動揺するしか無い。
彼が動揺するのも構わずに、電話口の男は言葉を続ける。
「それで、こちらに脅迫状のような物が届きまして……。差出人は不明で、内容はノエル・イザベラは預かった。彼女を返して欲しければ、フィオナ郊外の二十四番街の倉庫に来いと……。そして、アレン・ハロルドさんが一人で来る事が条件となっており、他の者を連れてくると彼女の命はないと書かれています。以前、隊長が連絡先としてアレンさんの番号が書かれた紙が机の上に置いてあったので、こちらに電話を掛けたのですが――」
「分かった。そういう用件ならすぐに向かう。他の人達にもそう伝えておいてくれ」
「了解しました。では、お待ちしております――」
そう言って、男は電話を切った。
アレンは焦りと混乱の表情を浮かべて、電話を直ぐに内ポケットへしまうと荷物を纏める。
その時、自らが付いている業務に関しての考えがよぎった。
(そうだ……、留守番……)
現在はフェリクスの留守番役を頼まれている。
勝手に職務を放り出すわけには行かない。だが、彼の仕事の優先順位は必然的に決まっていた。
アレンは直ぐにドアを開けて部屋を飛び出すと、近場にいたミーティア職員に、済まない、出かけてくる、と一時的な留守番役を頼み、フィオナに向かうために駅へと走りだす。
(今は、ノエルの方が心配だ。恐らく、あいつを襲った奴らは――)
◇◆◇
「了解しました。では、お待ちしております――」
メガネを掛けた些か神経質そうな男は電話口で笑みを零して、電話を切った。
此処は、彼らがいつも組織が使っている研究室。
男の目の前には、金髪碧眼の女性が退屈そうに椅子に座っている。
そして、彼女の隣には、手足と口を塞がれ、何らかの大きな透明の入れ物に入れられた赤髪の少女がこちらを睨みつけて見据えている姿が目に映り、縛られた足を使って蹴っているが防音になっている為全く聞こえない。
「あんた、声帯模写の趣味でもあったの?」
アマリエがそう言うのには理由があった。
先ほど、どのタイプの人物で彼に電話をかけようか、とメガネを掛けた神経質な男は何度も声を変えて練習していたからだ。
もっとも、彼が決めた声音は、心地が良いぐらいよく声が透き通る人物の物であったが――。
男の変幻自在の声音を見せられて、金髪碧眼の女性はただ驚嘆するしか無かったのだ。
しかし、対する男は、別にこんなものは慣れれば直ぐに出来ますよ、と素っ気なく返して、言葉を続ける。
「面白いぐらい完璧に信じきっていましたね。まあ、名前は偽名でしたが……。フィオナの市外局番、ましてや、本物の警備隊に繋がる番号が表示されていたら誰だってそう信じるでしょうね。いや、組織の中で唯一の別名を持っているほどの実力の持ち主と聞いていたが、こんなにも呆気ないものだとは、少々詰まらないですな」
エルザは余りの手応えのなさに不満なのか、持っていた携帯を弄ぶ。
アマリエは彼のその姿を黙って見据えていたが、直ぐに言葉を紡ぎ始めた。
「こうして見る限り、機械を弄らせたら、エルザに勝てるものは居ないと思うわ」
「ふふ――。同僚ですら冷たく見下ろし、天下の女王様気取りのアマリエがそう褒めるとは……。いやはや意外ですな」
彼は毒舌を交えているが、まんざらでもないのか、エルザは少し機嫌の良さそうな表情を浮かべてそう言った。
それより、とアマリエは回転式の椅子を少し回し、彼に向かって一つ問いただした。
「先ほどの番号表示の偽造はどうやってやったのかしら?」
「何、簡単なことですよ。少し回線を弄って、偽の番号を上乗せしてしまえば、直ぐに表示が変えられます。着信場所も同じように変えられますから、こちらから発信した事にはなっていません。この国の電話回線の仕組みは単純すぎる。ただ単に暗号化して盗聴対策をすればいいってもんじゃない」
まあ、そんな事はどうでもいいでしょう、とエルザは使ったアトランティックブルーの携帯を懐にしまうと、白い携帯電話を取り出し、何処かへ電話をかけ始めた。
何度かの呼び出し音が鳴った後、一人の男性が電話口に出る。
彼は男に対して、現在の状況を話すと、電話口の男はそうか、と一言答えた。
「計画は順調です。貴方の野望ももうすぐそこですよ……。ええ、舞台は全て整いました。後は役者を待つのみです。――えっ?はい、分かりました」
彼はそう答えると、目の前に居たアマリエに電話を渡した。
「アマリエ、レクシメンス様から大事な用件があるそうです」
訝しげに顔を歪ませる彼女は、電話を受け取ると通話相手の男――レクシメンスと通話をし始める。
そして、彼女は最後に了解しました、と一言言うと、電話を切った。
使った電話をエルザに渡すと、彼女は置いてあった大剣を取り出して、背中に背負う。
「悪いわね、エルザ。上司から直属の命令が出ちゃったわ。まあ、私としても同じ考えだったから丁度良かったけどね――」
「そうですか……。早めに戻ってきてくださいよ。これから忙しくなるんですから」
分かったわよ、とアマリエは大剣を背負い、エルザに背を向けると、ドアを開けて外へ出ていった――。