寂しい
酔っ払いの賑やかな声が喧伝する飲み屋街の隅にぽつりとある小さな100円寿司屋。そのテーブルでちびちびと卵焼きをつつきながら、安酒をすするみっともない男がいる。 中肉中背で丸顔、上唇は薄く、人相を端的に言えば、ボブとブーブズという幼児向けアニメの主人公、ボブにそっくりである。 本作は彼を取り巻く底をつかない喜劇の断片的な記録譚だ。
「店長………俺よお………花火打ち上げられなかったよ………」
泥酔した男が真っ赤に火照りきった顔でぼやきはじめた。
「…」 店長は寡黙だった。
「今日さあ……女の子と……ふふっ、花火大会に行ったんだよ………」
「…………」
店長は少しだけ視線を男に向けたが、 それはすぐに寿司を握る手元へ戻った。 しばらく何かを思った後、店長が聞き返す。
「…………へえ、それで?」
男は饒舌に語り始めた。
「ふふっ、それがさあ、…………………」
男の語りは1時間に及んだ。
話の内容は「今日、デートまでした女の子に告白してフられた事に関してだけだったが男はそれをあれこれと言葉を並べたてて語った。そのトークはお世辞にも褒められた物ではなかったが、なんとなく勢いを感じさせた。 店長は最初の一言以外喋らなかった。 …それは、男が壁に向かって喋っていたからである。男は1時間、壁に向かって話していた。1人で。 店長は店員を呼ぶと、その男の席に皿をひとつ持っていかせた。
「サービスです」 皿に乗った卵焼きのシワに「哀れ」の文字が見いだせるくらい哀れな光景だった。 店員に介護されながら会計を済ませ、店を出た男はご自慢の自転車にまたがった。
「ぶお〜ー〜ー↑ーー↓ーーおお〜↑↑」
奇声を上げながら、元は先程の男と自転車をしていた風が駅前を半狂乱で吹き抜けた。 本能寺の変しかり。 往々にして変革とは、傍目にはその予兆が見てとれるが、当の本人にとっては突如して避けようもなく起こるものだ。今回この男を襲うのも彼にとっては間合い0、急転直下の展開であった。 それはさながら、波に飲まれる砂城の中で、その城と運命を共にした間抜けな城主のようである。
僅か10秒前。 風は下り坂に差し掛かる。風はそのハンドルへ左右対象に取り付けられているブレーキを握らない。風は風のままでいたかったから。
7秒前。 風は空を見上げて、今日は散々だった。 明日から頑張ろう。と、ぼやけた頭で思う。
4秒前。 やはり女なんて。と思う。
3秒前。 帰ったら寝よう。と思っている。
2秒前。
1秒前。 ほんの一瞬の出来事であった 現在。風が吹き抜けるハズだったそこには前の凹んだトラックと凄惨がある。 肉片と鉄塊。 風は風で無くなり、人間で無くなり、自転車の後輪だけがかろうじてその姿を残した。ーfin というテロップが、モザイクで埋め尽くされた画面の下に流れた。それを確認すると、白衣を纏った白髭の老人は腰掛けているソファに手を這わせ、尻の後ろあたりでリモコンを見つけると「暗転!」とほざいて テレビの電源を切った。 男は、…俺は、事務所のような部屋の椅子に座り、必至の形相で頭を抱えていた。
「以上が事の始終だねえ」
「…………」 俺はかろうじて見開いた目でクソジジイと暗転した画面を交互に見つめる事しかできなかった。
「とりあえず飲み物はベタに緑茶でいいよね?、よしよし、大丈夫だから。しばらく落ち着いててね。テレビ見る?」
「………ジジイ」
「ん?」
「クソジジイ!!!」
俺は目の前の老人に殴りかかった。この暴力に合理などはもちろんなく、俺の行き場のない憤りが辿り着いた部位が拳だった。 こういう時も脳のどこか隅っこは冷静だったりして、この後、ジジイが俊敏に動いて、 俺は小慣れた感じで拘束されるのだなと自身に起こる事のある程度の予想をしていたのだが。しかし、 「なにカマしやがるクソボケ野郎!!!」 突如、甲高い声と共にジジイでは無いだれかの小さな足裏が俺の顔面に物凄い重量と速度でたたきつけられる、事務所の壁を突き破って 俺は数十メートルふっとぶ。そこは何もない白い空間だった。 俺はしばらく平坦な地面を転がり、適当なとこで止まった。死ぬ程の痛みがあったが、俺の体は原型を留めている。
「あ……ああああお…ぎ……!?」 仰向けに悶えていると途方も無く広がっている天井がぼやけながらも際限無く網膜に流れ込んできて、ここはもう地球のどこかではないのだな実感し、俺は全てが苦痛で余計に悶え、 そして泣いた。
「げほっ、うっ、」 数年ぶりに泣いた気がする。 みっともなく声を上げて泣いていると、俺を蹴った小さな影が近づいてくるのをチカチカする視界が不規則に捉えた。
「ともきさん、こいつどうします?」 先程のジジイの名前らしき単語を話した声は幼い子供、恐らく性別は女だと憶測できるものだ。
「うーん、とりあえず起こして連れてきてくれる?」
「ういー」 幼い声は声不相応に中年っぽい返事をすると俺の横にしゃがみこみ、俺の顔を覗き込んで言った。俺はまだ視界がぶれていて、そいつの顔がよく見えない。
「おい、ボブ野郎?大丈夫?」 俺の口はなにかを皮肉めいて伝えるどころでは無く、嗚咽するので精一杯だった。
「おいおい、よくもまあ人前でそんなに泣けるな?」 そりゃ理不尽だが、女は続ける。
「根性をみせろ」「やる気をだせ」「厚顔無知」 無知はお前だと思ったが俺の口はやはり言葉を喋ってくれず、パクパク動くだけ。いい加減にしてくれ。 焦点の定まらない目で背景の空白を見つめるので、痺れをきらしたそいつが大きく息を吸い混む。 それに俺は台風の直前のような雰囲気と悪寒を同時に感じ取った。 「返事を!!!!!しろ!!!!!!」 鼓膜が発破された。 その大音量は何も無い空間を持ち上げて揺らした。しかし、振動しているのは自分の身体の方だと俺はすぐ気付く。 それから数秒。その発破に先程の衝撃が相殺されたのか嗚咽が止み、目眩が止み、視界が数分ぶりに定まった。その時、俺は初めてそいつの、その女の顔をみた。 フラッシュバック。
そいつの顔はまるで 「ああああああああ!!!」
「!?」 困惑する女を置いてけぼりに、唐突に体は動いた。
「てめえよくもフったなあ!!!!!!」 俺の右ストレートが女の顔面に炸裂し、女は 数百メートル吹き飛んだ。
「なんでこうなるかなあ」 白髭の老人が皺の寄った眉間をつまんだ。 俺と女は椅子に縛りつけられていた。
「今からこの子にささっと色々説明しちゃうから、ね、イナサクちゃん、あ、2人ともかな、ちょっとだけ我慢して聞いててね、ごめんね」
イナサクというのはこの女で、 この子とは俺の事を指すのだろう。俺とこの女はあの後、力尽きるまで殴りあって同じタイミングで気絶した所を捕縛され、お互いに満身創痍で椅子に座っている。反抗する元気などはもうなかった。
「じゃあ、まず君の素性について。」 ジジイが事務的な口調で述べ始めた。
「本名、田島帯人。大学3年生。 アルバイトはスーパーの裏方。埼玉住み………。」
それだけ言ってジジイは手元の資料を覗いていた顔を上げ、少し気の毒そうな顔をして言った。 「これだけ。」 それを聞いたイナサクが疑問を浮かべた顔でジジイに尋ねる。
「え?【個性】の項目は?」
「ないよ」 ジジイが気の毒そうに首を横に振った。
「え、【個性】ないんすかこいつ?【特徴】とか【アピールポイント】とか」 「………………」 俺は押し黙っていた。 イナサクは気の毒そうな顔をしながら口の端で少し笑っている。 そんな表情をすると俺が生前、大学3年間ずっと執心していた女に余計によく似たからむかついた。もちろん、言動から別人なのは分かるが、それにしても似ている。
「ん!」 寡黙な空間にジジイが咳払いをした。
「まあね、矢島君?もこれからしっかり自分をアピールできるような趣味とか見つければいいわけだし、うん、ほら、頑張ろうよ!ね!」
まるで就活生を励ますみたいなジジイの笑顔は俺の気持ちをよそに晴れやかだった。
「………そんで、ここはなんなんだ。俺はこれからどうなる」
「君は転生します。」
「……………」
「……………………」
「で?どういう風に転生すんだ?」
「ああ、君そういうのすぐ飲み込むタイプなんだね」
「期待するなよジジイ、俺は自分で物を考えるのが面倒なだけだ」
感心した様子のジジイを俺が遮ると、 横で久々にイナサクが口を開いた。
「それもまた期待のうちだよクソボブ」
「と言うと?」
「現時点で分かっているお前の人間性をまとめる。自分から行動しない、人任せで責任感が無い、短気、人前では弱気、顔が見えない相手には強気、モテない、死因はトラック、風呂に入らない」 「言い過ぎだろ」
「このほとんどが異世界で成功する人間の条件だ」
「そうなの?」
「ああ、間違いない。今まで数千人の人間を異世界に召喚するのを手伝った私が言うんだから間違い無い。」 そして、イナサクはひと呼吸置くと重々しく言い放った。
「お前は残念な男だ。だから成功するハズだ、異世界では残念ながら残念な男が成功する。」 それを聞いた俺は眉を額に寄せながら目と口を大きく開いて、黙った。
「…………」 イナサクとともきも黙っている。
「…………………」 俺は表情を平常に戻した。
「俺、残念な男だったんだ…」
『うん』 若干食い気味の返事が傷心に追い打ちをかけ、俺は完全に消沈するのであった。