6 正義について
最悪な出来事なのに変わりはないが、次の日が休みなので全部許せる。
しかも四連休だ。その程度の暴力沙汰で俺のテンションに水を差すことは不可能なのだ。
お風呂に入ったとき、蹴られた傷がしみたが、それだけだ。
深夜まで漫画を一気読みし、残りの連休の予定をベッドでたてて、健やかな眠りつく。幸福だった。学校がないときが一番の幸せだ。
次の日の昼頃、インターフォンのチャイムの音で無理やり起こされるまでは。
「迎えに来た」
玄関口に戸部小梅が立っていた。私服を見るのは初めてだが、薄手のワンピースがよく似合っていた。
少しだけ、どきり、としたが、先日はこいつのカレシのせいで酷い目にあったばかりなので、ときめきよりも苛立ちが先行した。
「やっぱり君の家はデカいね。お手伝いさんとかもいるの?」
玄関をキョロキョロと見渡しながら戸部が聞いてきた。不躾なやつだ。
「……何しに来た?」
「だから迎えに来たって」
玄関先のやりとりで家族に戸部が見られると誤解される恐れがあるので、仕方なく外出し、歩きながら彼女の話を聞くことにした。
これはただの散歩だ。
木の葉曇る薄暗い道を彼女はスタスタと歩いていく。
「なんか女子会するとか言ってなかったか?」
「うん。したよ。さっき解散したの。楽しかった」
お友達が多くて羨ましい限りだ。
「それでね、みんなでパジャマパーティーをして、映画を何本か見たんだけど、すっごく面白かったの。だから、そういうストーリーにしようと思ってさ。えーと、つまりね、明確なオチを決めたの」
「ほほー。それで?」
「詳細については私の家で話すわ。これから缶詰する予定だし」
いっぱしの作家めいたことを言っているが、ようは引きこもって創作活動に没頭するってだけである。
鼻息荒く彼女は言ってのけたが、非常に不味い流れである。いまさらながら、この道が彼女の自宅に通じていることに気がついた。
「落ち着けよ。それより俺と一緒に歩いてていいのか? 誤解されるぞ」
「……誤解? なにが」
どうやら俺が鬼頭に呼び出されてボコボコにされたことを彼女は知らないらしい。
陰口みたいになるので少し迷ったが、暴力シーンはカットして俺の身に振りかかった不幸を伝えることにした。
全部を聞き届けた彼女は、
「……ごめん、迷惑かけて」
と珍しく殊勝に頭を下げた。
「付き合ってる人がいるんなら誤解を招くような軽率な振る舞いはやめろ」
「別れたと思ってたんだけどね。ちゃんと言わないとわかんないのかな。好いた惚れたって面倒くさい」
「なんでもいいけど、巻き込まないでくれ。お前の家に上がるってことは俺は鬼頭に喧嘩を売るってことになるんだ。それは避けたい」
ひらりと手をあげて踵を返そうとしたら、素早く回り込まれてしまった。
「迷惑をかけたのなら謝る。だけど、私の承認欲求を満たすために必要なのは青村明音なのよ」
「一人で頑張って満たしてください」
「待って」
その場を去ろうとする俺の手を強くギュッと握りじっと見つめてきた。
「あなたには本当にお世話になったから、これ以上は迷惑をかけない。だけど最後に一つだけ意見をちょうだい」
「意見?」
「フィロソフィアの主人公は自らを死に追いやった元クラスメートに復讐を誓う。以前あなたはそんなクズみたいな精神してる奴に女は惚れないと言ったよね」
初めて彼女の家に上がったときの話だ。あまり覚えていない。
「でもね女の子って、少しくらい不良で影ある男の子にひかれるものなの。私にはわからないけど、周りを見る限り間違い無さそうよ」
「そういうもんなのか?」
色恋沙汰には疎いのでよくわからない。
「女が男にひかれるのは信念があるかどうかなの。私はそうだと思う。信念がなければ、その愛は紛い物だって」
「信念?」
「だから、彼の復讐に正義の信念を持たせたい」
「は?」
「これから正義の話をしよう」
燃えるような強い目をしていた。
正義。
言葉でいうのは簡単だが、定義付けるのはなかなか難しいと思う。
言葉につまる俺に淡々と語りかけるように少女は続けた。
「トロッコが暴走し、線路の先には五人の作業員がいる。キミは分岐路のスイッチの前に立っていて、それを切り替えれば五人は助けられるけど、別の線路の先の一人が死んでしまう。大声あげるなどの手段は一切とれず、切り替えスイッチがただ目の前にあるだけだとしたら、キミはそのスイッチを切り替える?」
どこかで聞いたことがある。たしかトロッコ問題というやつだ。
答える気が起きなかった。どんな返答も正しいものでは無いと思ったからだ。
「青山くんだったら、どうする?」
「……なにもしない」
「五人を見殺しにするのね」
「そうだな。結果的にはそうなるかも」
「傍観こそが正義だと?」
「違う。人の生き死にを俺が担うことなんてできないってことだ」
「なにもしなければ傍観者だけど、スイッチを切り替えば事故の当事者になってしまうから、かしら」
「……五人はもともと死ぬ運命に合ったんだ。それを変えるなんて大それたこと俺には出来ない」
「五人の命と一人の命、面識もない赤の他人なら、どちらが価値あるかなんて尋ねるまでもないとおもうけど」
「人の運命を操作なんてしたくない……」
「なるほど。それがあなたの正義ならそれでいいと思うわ。ちなみにこの問題の大多数がスイッチを切り替えて、一人を犠牲に五人を救うという選択をとるそうよ」
彼女は深く頷いた。俺は少数派らしい。
考え方が幼いのだろうか。
「もっとも状況を変えると多数派が入れ替わるのがこの問題の肝よ。まったく同じシチュエーションで切り替えスイッチではなく、橋の上の太った男を突き飛ばせば、トロッコが止まると仮定したとき、大多数は傍観者に変わるの。人殺しに強く関与するにつれ、抵抗感も増していく」
やっていることは同じなのに見方が変わっただけで、人は簡単に思考を変える。そう言いたいのだろうか。
「遠く離れた場所で太った男を突き落とすボタンを押すだけ、だとしたら、大多数はまたひっくり返る。肉体的接触が無ければ人は残酷な決断を容易く行うことができるの。無責任にね」
風が凪ぎ、無音が訪れる。
空は青く、澄んでいた。
こんないい日に、俺らはなんの話をしているのだろうか。
「話は変わるけど、心理学でミルグラムの実験と呼ばれるものがあるわ」
戸部は髪を耳にかけながら続けた。
「教師役と生徒役を用意し、部屋を二つに分ける。二人はインターフォン越しに会話ができるようにし、教師役が生徒役に問題を出していくの。ミスした場合、体罰として教師役は生徒役に電流を流す。この電気ショックは、間違えるほどに一段階づつレベルを上げていく。初めは余裕ぶっていた生徒役も、電圧が上がる度に悲痛の声を強くしていく。部屋が分かれてるから、インターフォンの音声だけなんだけどね」
「なんかすごい実験だな」
「ちなみに生徒役はサクラだから安心してね。ただ悲鳴を上げる演技をしてるだけなの」
「穏やかじゃないのは確かだろ」
「教師役の心理状況の変化を見るための実験よ。終盤、致死量に相当する電圧であろうと、係員がやれと言えば、大多数の教師役の人間が致死量の電流を生徒役に流すという選択をしたそうよ。苦痛に悲鳴を上げる生徒役の声を無視してね」
ゾッとした。
近くの幼稚園ではしゃぐ声子供たちの陽気な声が響いていた。
「肉体的な接触がなければ、人は悪魔にだってなれるの。ヒーローっていうのはなんなのかしら。それが役割だとしたらどんなものなの?」
「……」
「功利主義という考え方があるわ。最大多数の最大幸福。ざっくばらんにいうと最大人数が幸せになるなら少数は犠牲にしても構わないという考え方ね」
「なんでいきなり難しい話になってるんだよ」
「別に。あなたの正義は反功利主義というだけの話よ。正解なんてないんだから、自分がなにに属するかぐらいは知っておいた方がいんじゃないかなって思って」
「状況で変わるってさっきなら自分で言ってるじゃんか」
新緑が輝き五月の道が輝いていた。
「そうね」
少女は吐き出すように呟いた。