4 水槽の脳について
彼女の綴る物語について、建設的な意見を客観的かつ常識的に述べていたら、いつの間にか日が暮れていた。
「ふぅ」
戸部は浅く息をついて、ペコリと頭を下げた。
「ありがとう。青村くん。すごくタメになったわ。これでもっと良い物語が作れる」
「ああ、まあ頑張ってくれ」
鞄を持って立ち上がると、電灯の紐が額にぶつかり、笑われてしまった。
スマホの液晶に表示された時刻は、十九時前を指している。長居しすぎた。
「またよろしくね」
「ああ、またな……は?」
「ん?」
「……」
次の予定を平然と取り付けた少女に、辛辣な言葉を投げ掛けることは出来なかった。
玄関から外に出ると、深い闇が広がっていた。この辺りは街灯も少なく、日が落ちると単純に恐怖に包まれる。
春の月が煌々と輝いていた。
夜風が俺の頬を撫でる。
「あ」
ふわりと目の前に桜の花びらが舞い落ちた。まだ少し冬が残っているような肌寒い風だった。
それから奇妙なことに俺と戸部は互いに時間を見つけては、架空の物語について相談を行うようになった。
はじめは放課後の教室だったが、周りからとやかく言われるの可能性があるので、出来るだけ人目を忍んで秘密の会合は行われた。
気をつけてはいたが、噂好きのバカはゴキブリのようにわく。
あまり誇れることではないが、学校に友達はいないので、俺は特段話しかけられることは無かったが、クラスの中心人物である戸部はけっこう質問攻めにあっているらしい。
「もー大変だよ。奈留江なんて根掘り葉掘り聞いてくるの、何でもないって言ってるのにさ」
と口を尖らせていたが、自分の巻いた種だ。知らんこっちゃない。
このIT社会で珍しいことに戸部は通信機器をまったく持っていなかったので、直接会うしか連絡手段が無かったのが、一つの失敗と言えるだろう。
いつものように自習室で戸部と落ち合い、授業中に渡された創作ノートの感想を伝える。
それが日課になっていた。
「事故で昏睡状態に陥った主人公の夢、ってのはないんじゃないか?」
この日の議題は物語の終わり方についてだった。
四月から一ヶ月間続けられた不毛な議論も終わりに差し掛かっているのだ。物語の着地点さえ見いだせれば俺の出番は終わり、ようやく戸部から解放されるわけだ。
「こんだけ壮大なドンパチしておいて、この終わり方は肩透かしもいいところだぜ」
「そう? 分かりやすい終わり方だと思うけど。今際に見ていた夢、目覚めた主人公は自分の人生と向き合って生きることを心に誓う、……すごくポジティブな終わり方じゃない?」
彼女はノートに綴られた最後の一文を指差して上目遣いに俺を見てきた。
「いいや。こういうのは夢オチといってあまり好かれるもんじゃないんだ。全部妄想かと思ったら拍子抜けするだろ?」
「夢オチじゃないわ。生きることを肯定的に捉えたエンディングよ。水槽の中の脳をモデルとしてるの」
「なんだそれ」
彼女は持っていたシャーペンを下唇に当ててから少し考えるように「んー」と唸った。
「説明すると難しいんだけど、そうだな。例えば、いま青村くんの前には私がいて」
戸部はそう言って、とん、と自分の胸を指差し、それから俺の手を自然な動作でギュッと握った。
「私と手を繋いでいる」
「……」
「手汗すごいね」
「黙れよ」
振りほどいてズボンで汗をふく。
「でも本当にそうかな」
「は?」
ここ一ヶ月、戸部と頻繁に会話を交わし、気づいたことがある。彼女はたまに哲学者のように変わった質問を投げ掛けてきた。
普段ならめんどくさいと相手にしないのだが、彼女の問いかけは絶妙に俺の好奇心を揺さぶった。
「もしかしたら青村くんの肉体は滅んでいて、培養液が満たされた水槽に浮かんでいる脳が見ていると仮想現実なのかもしれないよ」
「そんなわけあるか」
「ほんとに言いきれる? 最近の技術発展はすごいから」
ぬふふー、と変わった笑い声をあげてから戸部はノートにトンとシャーペンを立てた。
「だからね、中途半端に異世界在住エンドにしてしまうと、仮想現実に囚われた人という可能性を提示してしまう、と私は考えたの」
「ま、まあ、言いたいことはわかったよ。あえて現実世界に戻すことによって、主人公の肉体は無事だってことを言いたいんだろ。でもさ、そんなこと言ったらキリないだろ。こないだお前が言ってた、ほら、アレ、五分前がどうたらってやつ」
「世界五分前仮説?」
「それそれ」
世界は五分前に始まった、とする仮説である。
全ての事象、記憶、記録が、ありのままの状態で五分前に構築されたとしたら、論理的不可能性はまったくない、とする仮説だ。
そんな馬鹿な、と思ったが、どうしても否定できないので、すごく印象に残っていた。
「あれとかの可能性を考えたらそんな配慮全て無意味だろ。だからこの終わり方は夢オチという一番やってはいけないやつになってるんだよ」
「だから違うって」
「もし俺が読者でいままで読んできた物語がそういう終わり方したらすごい興醒めするな」
「ううー」
がっくりと机に項垂れて少女は浅くため息をついた。
「そうよね。たとえ私が作品のテーマを据えていたとしてと、読み手に伝わらなければ意味はないもんね」
「そういうことだ」
「うー、創作活動って難しい」
「ま、うまくいかないことばかりだよな」
机に伏せたままの状態で戸部は消え入りそうな声で呟いた。
五月の一日目だ。自習室に人気はなく、多数の高校の受験ガイドブックに囲われた机に座るのは俺たちだけだった。
「ところで青村くんはゴールデンウィークどこかいくの?」
「ゴールデンウィーク?」
明後日は憲法記念日でそこから怒濤の四連休に入る。
「特に予定ないけど……。戸部は?」
「私は初日に女子会するよ。連休の予定はそれだけ」
戸部は顔をあげて俺をじっと見た。
「二日目に一つの計画があるの」
「計画?」
「……山ノ上ホテルって知ってる?」
ホテル?
「いや」
ホテル、なんでもないのに彼女が言うと少しだけ艶っぽく聞こえる。いや、気のせいだってわかってるけど。
「神田にある文豪が泊まっていたホテルよ。川端康成や三島由紀夫、池波正太郎なんかが缶詰をして、小説を綴ったという」
へぇ、と喉をならすと、少女は半目で俺を見た。
「状況は佳境。大詰めよ。だから私は缶詰にするの」
「ホテルに泊まるの?」
「母親もお客さんと旅行にいくから家には私だけになるの。集中できる環境なわけ」
お客さん。……気にはなったが、現状の関係性が崩れる可能性を微かに感じ、俺はあえて聞かなかったことにした。
「だけど、掃除洗濯食事の準備とかやらなきゃいけないことはたくさんある」
「……まあそうだろうな」
「その家事とか雑事とかを私の代わりにやってくれない? 集中したいの」
「断るに決まってるだろ。俺になんのメリットがあるんだよ」
「私が小説大賞とれたら賞金で焼き肉をおごってあげるわ」
彼女は小説の賞に応募し、賞金百万円を手に入れる計画を練っていた。とらぬ狸の皮算用、である。
「それに、いつものようにアイディアを出してほしいし。大分カタチになってきたと思わない? フィロソフィア」
フィロソフィアは彼女が綴っている小説のタイトルだ。
「プロットだけじゃねぇか。そういう偉そうなことは一作でも書き上げたことがあるやつが言うんだぜ」
「だから連休に肉付けしていくのよ。あなたが手伝ってくれたら大助かり」
「そうだとしても、俺がお前の家のお手伝いさんになる理由はない」
「まあいいわ。少し考えておいて」
そう言って戸部は鞄をもって立ち上がった。