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15 ラトクリフの波止場の幽霊


 少し走っただけで息が切れた。じんわりとアスファルトから熱が昇っていきている。もうすっかり夏だった。

 見越坂についたのは、約束していた時刻より前だったが、戸部はガードレールに腰掛け、日陰で本を読んでいた。麦わら帽子をかぶり、水色のワンピースを着ている。

「蚊に食われないか?」

 声をかけると、薄く微笑んで本を閉じ、肩かけポシェットにソレをしまった。

「よかった。来てくれたんだ。すっぽかされたどうしよう、って思ってたの」

「約束したからな。それで打ち上げって具体的になにするんだ?」

「文字通りだよ。ついてきて」

 道路脇の林から蝉時雨が降り注いでいた。林をすり抜ける風が天然のクーラーのように熱気を遠ざけていく。

 良い天気だった。雲一つなく晴れ渡っている。日は確かに傾いているが、夜になるのが信じられないくらい太陽が輝いていた。

 少し歩くと、すぐに汗が吹き出してきた。汗臭くなっていないか、少し不安になった。

「見越し入道には会えた?」

 蜃気楼でも眺めるように目を細めた戸部が呟いた。

「ん? なんだっけそれ」

「ひどい。忘れたのね。せっかく教えてあげたのに。まあ、いいわ。前に言ったようにあの坂には妖怪がでると噂があったのよ」

「いるわけねぇだろ。そんなもん」

「夢がないのね。まあ、私も同意見だけど」

 いつも彼女が出題する側なので、たまには俺から仕掛けてやろうと思った。

「ラトクリフの波止場の幽霊って知ってるか?」

「居もしない幽霊の噂を流したら、目撃証言が相次いだってやつ?」

「なんだ。知ってるのか」

 ラトクリフとかいう学者が行った実験だ。変哲もない古い倉庫に人殺しの司祭の幽霊が出ると根も葉もない噂を流したところ、大多数がいるはずのない司祭の幽霊を見たと証言したのだ。

「有名だもの。見たいものを見るというトップダウン処理の実証と言われているわね。でも青村くんからそんな話が出るのは意外だったわ」

「俺だってやられっぱなしは嫌だからな」

「ふふふ、私に勝つには百年早いわ」

「なんの勝負だよ」

 しばらく進んでも彼女は立ち止まる気配がなかった。

 遠くの送電鉄塔が骸骨みたいなシルエットを夕焼けに浮き彫りにしていた。

 自宅に向かってるのかと思ったが、方向が違う。気になったので目的地を訊ねると少女は近くの河川の名前をあげた。

「なんの用があんだよ」

「呆れた。まだわからないのね。あれほど打ち上げをすると言っているのに」

「バーベキューでもするのか?」

 しばらく他愛のない話をしつつ歩く。散歩が遠出になりかける頃、ようやく目的地の川が見えてきた。

「えらい人だな……」

 川音が近付くほどに人も増えていった。なにかイベントがあるのだろうか。一様に珠川の河川敷を目指している。着物を着ている人もいる。

「そりゃそうよ」

 スッと少女が指差した橋の欄干に「第三十五回珠川花火大会」と立て看板がかけられていた。

「花火大会……」

「打ち上げと言ったでしょ?」

 クラスのチャラけた連中が声高々に花火大会に行くと言っていたのを思い出した。

 日差しはいつの間にか傾き、夜がすぐそこまで迫っていた。祭り囃子が聞こえる。盆踊りでもしているのだろうか。

 花火の開始まであと三十分ほどしかない。

「いいのか? こんなイベント、俺と一緒に歩いてるのを誰かに見られたりしたら困るだろ」

「私は別にどうでもいいけど」

 少女はそう言って鼻をスンと鳴らした。

「でもちゃんと考えて来てるわ。会場から離れたところで穴場を知ってるの。ついてきて」

「……待てよ」

「ん?」

 人混みの流れと違う方に歩き出した少女を呼び止める。

「せっかく花火大会に来たんだから、出店でなんか買っていこうぜ」

「いやよ。お祭りってボッタクリ価格なんだもん。それに私、夕御飯食べてきたし」

「なに食ったんだよ」

「ラーメン……」

 おそらくインスタントラーメンだろう。彼女の家にあった冷蔵庫の上に、袋面が並んでいたのを思い出した。イカ焼きや焼きそばの香りが彼女の見栄を塗りつぶしていく。

 俺はポケットの財布にいくら入っているかを考え、お小遣いをもらったばかりということを思い出した。親に啖呵を切ったところで自立なんてそうそうできるものではないが、お陰様で軍資金は十分だ。

「おごってやる」

「結構よ。施しは受けない」

 提灯の赤い明かりに照らされてもなお、少女は澄ました顔をしている。

「俺はただりんご飴が食べたいだけで、俺が食べてるのにお前がなにも持ってないと気になるだろ」

 渋面の少女を半ば強引に説き伏せ、俺たちは出店を見て回った。



 祭りは現状を忘れさせてくれる最高の機会だった。

 受験や親や将来や学校のこと、それら全部が花火大会の熱気に溶けて、後には戸部小梅の笑顔だけが残っていた。

 はじめは斜に構えていた戸部だったが、射的でキャラメルを落とした時はピョンピョンと楽しそうに跳び跳ねた。

 アメがついた紐くじにチャレンジして光る骸骨のキーホルダーを手にしたときは微妙な顔をしていたが、ヨーヨー掬いに成功したとき、今日一番の笑顔を振り撒いていた。

 戸部は綿菓子を、俺はりんご飴を食べながら会場を後にする。

「ありがとう」

 りんご飴よりも耳を赤くして戸部は謎のお礼を言ったが、返事をするのも気恥ずかしくて、聞こえないふりをした。


 空気を震わせる太鼓の音を感じながら、祭り会場を後にする。藍色になった空は花火開始まで、幾ばくもないことを知らせていた。提灯の灯りが視界に残り、暗闇に尾をひいて残っていた。

「どこ行くんだよ」

「あそこの建物」

 少女が指差した川沿いのビルは夕方だというのに、一切の明かりが灯っていなかった。壁面には蔦が這い、ヒビが入っている。

「廃ビルになってて、あそこの非常階段から川が一望できるのよ」

「不法侵入じゃねぇか。危なくないか? なんでそんなこと知ってるんだよ」

「……」

 辺りはすっかり薄暗い。すこし考えるように少女は無言になったが、すぐに続けた。

「今日のために調べたのよ」

「そりゃ、ご苦労なこって」

「いつか泊まる場所が無くてキミに迷惑かけたじゃない? そういうことが起こらないようたくさん調べてようやく見つけた、誰も知らない秘密の場所よ」

 誰も知らない。

 なんとなく、その言葉が頭に残った。



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