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13 クオリア


 水煙を上げて、車道を軽自動車が走っていく。空気は冷たく、側溝を流れる雨水が落ち葉をさらっていく。

「ねぇ、いま空は何色でしょう?」

 少女は俺に尋ねてきた。

「色って、……灰色だろ」

 空は分厚い雲に覆われ、涙のような雨を落とし続けている。

「そうね。灰色だわ。でも私が思っている灰色とあなたが見ている灰色は同じものではないのかもしれない」

 戸部は屋根から右腕を出した。袖をまくり、白い少女の肌が露になる。そこにポツリポツリとたくさんの雨粒が滴る。

「黒を白で薄めた色。雨雲が覆う空の色。頭でわかっていても灰色を見たことがない人に説明するのは不可能だし、私と同じ光景をキミが見ているとは限らない」

 滴が彼女の腕を滴って落ちていく。

「だけど空を覆う灰色を全部この目で見て、雨音を聞いて、ひんやりとした冷気を肌で感じて、雨と灰色を意識している」

 戸部は深呼吸した。

「こういう感じをクオリアと呼ぶそうよ。明確な定義付けは難しいけど、生きていると感じる気持ちを、私はそう呼ぶのだと思う」

「クオリア……」

 雨が止むまでに時間はかからなかった。

 草とアスファルトの匂いが香る。空はみる間に晴れ、曇天から光が射し込んでいた。

「そういえば雨上がりの匂いのことをペトリコールと呼ぶそうよ」

 雨粒が世界を輝かせる。

「綺麗な景色」

 傘を閉じて歩き出した俺と戸部は同じ感覚を持っていた。


 戸部が出したバイオリン奏者について、少し気になったので家に帰ってからインターネットで調べてみた。

 明確な答えは記されていなかったが、出題した哲学者によると、中絶についての比喩的問題らしい。適合者が妊婦、バイオリストが胎児を表し、接続を外すことが中絶を示唆している、とのことだ。


 時計の針が進むように、カレンダーは一枚捲れ、梅雨が明け、夏が来た。

 季節は移ろい、蝉が鳴き始める頃、風の噂で戸部と鬼頭が別れたことを知った。ろくに知りもしない他人が「よかったな」と俺に教えてくれたが、元より俺には関係のない話だった。


 七月の上旬、少女は綴っていた小説「フィロソフィア」を完成させ、賞に応募した。赤いポストの前で柏手をうつ様子は滑稽の一言だったが、彼女の真剣な目付きを冷やかすことは出来ず、俺も一緒に手を叩いた。

 憧れの小説家、蟹チャーハン先生がデビューした賞と同じものらしい。商業作家レベルの才覚が戸部にあるとは思えなかったが、楽しそうに賞金の使い道を試算している少女にかける言葉は「応援している」ぐらいしかなかった。


 期末テストの返却も全部済み、憂い事が無くなり、うきうきと心が弾む放課後、当番の廊下掃除をしていたら、戸部が担任に呼び止められる場面に出くわした。

「なんでしょうか」

 品行方正な女生徒といった風に戸部は先生は見上げた。

「本当にいいのか? お前ぐらい成績が良ければ推薦を取り付けることもできるんだぞ」

「お話はありがたいですが……」

 少女は申し訳なさそうにうつむいた。どうやら高校の話をしているらしい。

「そうか。戸部は本当に頑張り屋さんだから、その努力が報われないのは勿体ない思うんだ。夏休みの間にじっくり考え直せ。一旦これは返しておくから」

「……わかりました」

 一枚のプリントを担任に渡され受け取る。笑顔の担任と違い、戸部は無表情だった。

 廊下は喧騒に満ちている。初夏の日差しが窓ガラスを透過して、間接証明のように床を光らせていた。

 職員会議に向かった担任の背中を見送り、廊下に一人立ち尽くす戸部は少し悲しげな表情を浮かべて、手に持ったプリントをくしゃくしゃに丸めた。



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