龍神の電話番号
私は神さまの電話番号を知っている。
大学二年になるときに引っ越した。親戚から車を譲り受けたものの住んでいるアパートに駐車場がなかったのがきっかけだ。引越しを考えているんだと友達の香奈に相談すると、じゃあ一緒にシェアハウスしようよ、五万くらいでいい部屋たくさんあるし二人で折半したらいろいろお得になるし、と言われたので二人で暮らすことにした。
いろいろ見て回って決めた部屋は、部屋というか小さな一軒家。安いだけあってあまりきれいではなかったけれど、春休み中の一週間で遊びに来た弟も動員して頑張って掃除したり家具を持ってきたりしたら住みやすそうな部屋になったし、何より家に対して愛着が湧いた。
香奈も近いうちに車を買いたいというので、大家さんに相談したら庭を改造して駐車場にしてもいいと言ってくれた。柵を外して枯れ草や枯れ枝を集めて砂利を撒いて、よく頑張ったものだ。腐った落ち葉やゴミが地面から何十センチと積もっていたけれど、業者に頼むとお金がかかって大変だからというので自分たちで全部処理した。
ある程度庭がきれいになると、ちょうど車を置こうとしていたところに大きな石が見つかった。なんだかよくわからないけれど、倒れた石碑のようにも見える。ちょっと気持ち悪かったので大家さんに相談しようと電話をかけると、大家さんも知らないという。私が電話をしている間に香奈が石を洗ったらしく、庭に戻るときれいになった石には羽が生えたウーパールーパーのような絵が彫られていた。「なにこれ、変なの」困ったような顔のウーパールーパーが妙にかわいらしい。
「この石、見た目より軽いから頑張れば動かせそう。なんか可愛いし、うちのマスコットにしようよ」裕子、軍手はいてきてよ、という香奈に言われるがままに軍手を履いて石を玄関先まで運んだその日から、ウーパールーパーはこの家のマスコットになった。朝学校に行くときには「おはよう、いってきます」、帰ってきたら「ただいま」と挨拶したし、ときどき埃を拭いてやった。不思議なことが起こるようになったのは、五月ころだった。
火曜日、香奈は講義がないので私は一人で学校へ行く。庭の隅にタンポポが咲いていたので玄関の石の上に飾ってみると、ちょっとウーパールーパーが誇らしげに見えた。天気が良かったので、ガソリン代を節約するため自転車で登校する。学生証の入っている財布を忘れたことに気付いたのは講義室に入るときだった。この講義は点呼で出席をとるから問題ないけれど、次の講義はカードリーダーで出席をとる講義だから問題だ。香奈に届けてもらおうと、急いで電話をかけた。
「はい」電話越しの声を聞いて固まる。「あー……雅人くん?」香奈の彼氏が遊びに来て代わりに出ているようだった。「何か香奈に用事があるなら伝えておくよ」というので、机にかけているポシェットに財布が入っているはずだから三限までに届けてほしいのと言うと、「わかった。伝えておくね」と電話が切れた。
講義が終わって携帯を見ると、香奈から電話とメールが入っていた。留守電とメールの文面を見るに、携帯を家に置いたままコンビニに行って帰ってきたらリビングのテーブルに「裕子に財布を届けるように」という書き置きがあったのだという。折り返し電話すると、今度はすぐに香奈が出た。「そうそう、二限の前に電話したら雅人くんが出て」「雅人が来たのはわたしが書き置きを見つけたあと。怖くて呼んだ」「香奈に用事があるなら伝えるって言うから財布届けてって言ったんだけど……」もしかして泥棒でも入ったのかと疑ったが、先にそれを疑った香奈曰く家から無くなったものは特に見当たらないそうだ。ただ香奈の部屋のペン立てからボールペンがなくなって、リビングに移動していただけだという。
「とりあえず財布届ければいい? 車借りるね」一刻も早く家を出たそうだったので、私はそれを承諾して電話を切った。
食事をする気にもなれなかったので図書館の前で携帯を弄って待っていると、十五分もせずに香奈が来て青い顔を突き合わせることになった。とりあえず財布をもらって、このあとのことについて話す。帰るのは怖いけれど帰らないわけにはいかないので、私の三限が終わり次第一緒に帰ることになった。でも女二人ではやっぱり心細いので、雅人くんを呼ぶことにした。三人で同じ部屋にいれば、まあなんとかなるだろう。彼は文句を言いながらも応じ、私の自転車に乗ってうちに来ることになった。
家に帰ってリビングに入ると、香奈が悲鳴を上げた。テーブルにお菓子とお花が置いてあった。「家出るときは何も置いてなかったのに」誰かが隠れていたりしないかと二人で家中のドアや戸を開けて回ったけれど、何もいない。おそるおそるテーブルに近づくと、菓子盆のキットカットのコメント欄に何か書かれているのがわかった。一つを手に取って見てみると、「びっくりさせてごめんね」。別の一つは「いつもかまってくれてありがとう」。他にも、「ときどきおてつだいしたいです」「おはなありがとう」「たまにおさけがのみたいです」などと一貫性のないことばかり小学生男子のような字で書いてある。キットカットを見て、リポビタンDの瓶にささったタンポポを見て、ふと玄関の石を思い出した。はだしのまま玄関に出ると、朝置いたタンポポがなくなっていた。馬鹿みたいだとは思いながらも、全部ウーパールーパーの仕業なのではないかという気になる。半信半疑の香奈と遅れて到着した雅人くんも巻き込んで、私は酒を飲みたがる小学生男子の正体を確かめるためにいくつかの実験をした。
わかったのは、私か香奈の携帯を残して家を無人にした状態で外から電話をかけると、三コール目くらいで誰かが出るけれど、雅人くんの携帯では何の反応もないこと。また、電話をかけるのも私と香奈のどちらかでないと誰も出ないこと。こちらから置手紙を残して家を出ると、戻ったときには返事が書いてあったり物の場所が変わっていたりすること。正体や名前を聞いても、まだ修行中の身だからとか何とか言って教えてくれないこと。好きなお酒は日本酒で、小魚をつまみにするのが好きだということ。
雅人くんはそれはそれは気持ち悪がった。私たちは最初のうちこそ怖かったけれど、途中からなんだか可笑しい気持ちになって、声の正体はあの石だとすっかり信じるようになってしまった。それからときどき、私たちはスーパーで清酒のワンカップや小魚のおつまみを買って、玄関に置いてやるようになった。
石はウーパールーパーみたいだからうーちゃんという安直な渾名をつけても怒らず、私たちが学校に行っている間に雨が降ると洗濯物を取り込んでおいてくれたり寝坊しそうになると窓を叩く音で起こしてくれるようなお人好しだった。二人とも帰省で家が無人になるとき、テレビとか見てくつろいでいいよと書き置きを残して冷蔵庫に晩酌セットを入れておいたら、帰省から戻ったときには家も駐車場もきれいになっていて、お酒とつまみと電気代だけはちゃんとなくなっていて、レコーダーの録画予約に日曜朝の子供向けアニメが入っているのだった。さらに冷蔵庫に入っていた油揚げとにんじんのきんぴらが美味しかったなんて置き手紙に書いてあるので、あんたは狐かと香奈と二人で大笑いしたものだ。
そんな不思議な暮らしを続けて四年生になった夏。香奈は雅人くんと別れ、私たちは就活や研究で家を空けることが多くなったけれど、うーちゃんは相変わらずお人好しでお酒好きだった。そして、なんだか成長しているようだった。ある日帰宅すると、石に彫られた生き物がウーパールーパーというよりも髭のついたトカゲのような、かわいいというよりはかっこいい見た目に変化していた。うーちゃんって龍なの? と問いかけると、少し彼の顔が自慢げになったように見えた。
香奈はまだ学校にいるらしく、誰もいないリビングの電気をつけるとテーブルには書き置き。「おかげさまで、かみさまになれました。11922104513」電話番号だ、と直感的にわかった。よかった、のかはわからないけれど、石は私たちが可愛がったり、逆に私たちの面倒を見ることで徳を積んで神さまになり、電話番号を手に入れたのだ。神さまになった石は饒舌だった。向こうから電話をかけてくることさえあった。「ぼくは神だぞ。祟ってやる」とよく言ったけれど、なんだかんだやっぱり私たちのいない間に家を掃除したり勝手に酒を飲んだり、今まで通りだった。ただ電話というのは便利なもので、それぞれ別のところにいる三人でグループ通話ができるようになったのは面白かった。古そうな石だし神さまとか言うので過去の文化を引きずった古臭い人格かと思ったのに、アニメが好きでレコーダーの録画予約機能や電話のグループ通話機能もらくらく使いこなす適応ぶりも面白い。それを言ったら、「神さまだからな。人間ができることができないわけがない」と自慢げに言うのだった。でも、置き手紙の字とワイシャツをたたむのだけは下手だった。
就職も決まり、卒論が佳境に入り、今後のことを考えないといけない時期になった。二人ともこの土地を離れることになったので、家を出なければいけない。甲斐甲斐しく世話したりされたりした石を置いて行くのは後ろめたいけれど、家の裏の小川を守る神さまを別の土地に連れて行くわけにもいかない。話し合って、この家に石を気に掛けてくれる新しい住人を連れてくることにした。駐車場二台分、家賃は二人で折半すれば大学周辺より三割くらい安くて家具付き、一軒家だから夜騒いでも怒られないし雨漏りも虫の侵入もない優良物件なので、すぐに後継者が見つかった。大学院に進学する友達が、来年入学してくる弟とシェアする部屋を探していたのだ。野郎二人かよとうーちゃんは文句を言ったけど、あの声の調子だと男の子たちも変わらず可愛がってもらえそうだ。
引越しの前夜、私たちは近所の酒屋で一番高価な日本酒を買い、質素になったリビングで飲んだ。一升瓶の三分の一も飲まない間にすっかり酔ってしまった私たちは意識があるうちに水を飲んで布団に入ったが、夜中ふと目が覚めてトイレに行こうと部屋を出ると、リビングのテーブルに顎を載せて龍が眠りこけていた。窓から入る月明かりに照らされた龍のあまりの大きさと神々しさに圧倒された、それが私が彼の姿を見た最初で最後の機会だった。時間を違えて、香奈も同じ体験をしたという。もちろん、テーブルの一升瓶は朝には空になっていた。
あれからずっと、あの家には常に誰かが入居しているそうだ。神さまは分け隔てなくみんなの面倒を見ているらしい。ワイシャツをたたむのも上達した。でも、電話番号を知っている人は誰もいない。友達の弟には教えてあげたことがあるけれど、つながらなかったと言っていた。電話するような仲なのは、私と香奈だけみたいだ。
五年後、香奈と私はほとんど同時期に結婚、妊娠した。電話で知らせると、大学からは遠く離れた県にいるのに、うーちゃんはお祝いを贈ってくれるという。出産後退院して家に戻ると、マンションの玄関先に花が置いてあった。リポビタンDの瓶にささった二月のたんぽぽは、それから三年たつ今も枯れる様子がない。
部屋や庭に害虫が入ってこないのはうーちゃんが追い払ってあげているからです。うちにも来て欲しい。