暗藻色の水槽で
夏休みに入る少し前だった。
古い空調にも縋りたくなる密室の大教室で、地獄の鮨詰め講義の後だった。
僕はさっさと教室から出ようとしてるところで、肩を叩かれた。
「ねぇ、大滝君。ミナト君見なかった?」
友人の七飯 ミナトの彼女、星置 翔子が、僕に不安気に聞いてきた。
ゆるくパーマのかかった薄茶色の髪に、美人というより可愛らしい感じの同級生。彼女は何故か、右側の額に正方形の絆創膏を一枚貼っている。
「七飯?しばらく見てないけど、どうしたの?」
「やっぱり来てないのね。もう、本当にどうしたのかしら?」
翔子は困ったように絆創膏の辺りを抑えて目を閉じる。
「何かあったの?」
「それが最近、ミナト君、変なの」
「変?」
「うん。なんか部屋でずっと……水槽を見てる」
「あぁ、いつものやつか」
それを聞いて、僕は特に驚かなかった。
七飯は、昔から熱帯魚の飼育を趣味にしていて、部屋にもいくつか水槽があった。飼育の為に食費を削ったり、バイトを掛け持ちしたり、珍しい種類のものを見つけると、遠くからでもその魚を取り寄せると言う話は、もう何度も聞いていた。大方、今回もその少し行き過ぎた趣味の延長なのだろうと思った。
「それが、いつもと違うの。見ているのは同じ水槽でね、寝ることも、食べることも忘れて、それを見てるのよ」
翔子は困った顔で、ため息をついた。
「苦労して手に入れた熱帯魚とかだったとか?」
「それにしたって、ほかの熱帯魚の世話をおろそかにしてまでそれを見ているなんておかしくないかな?」
「そうなの?」
「この前家に行ったんだけど、なんだかひどい匂いがしたわ。その水槽以外は全然手入れをしていないみたいだった。といっても、その水槽も汚くて、中は全然見えなかったけど」
うーん。
学校にも来ないで、食事も就寝も取らずに水槽を見つめている。しかも趣味の熱帯魚の世話をおろそかにしてまで、一つの水槽に執着してるなんて……。それが本当なら、流石に七飯の行動はいつも以上に常軌を逸していた。
「その水槽の中身はどんな魚なの?」
「熱帯魚とは、少し違うかも。観賞用って感じじゃなくて、なんというか、小さな魚をいっぱいじゃなくて、大きな魚を一匹だけなの」
「どんな魚?」
「体が海みたいに真っ青で、鱗が親指の爪ぐらいあったわ」
「……イラブチャー?」
「え?なんて?」
「あぁ、ごめん。青い魚大きな魚って聞いたから、沖縄で見たアオブダイって魚かと思って。ちょっと待って」
僕は、ポケットに入っていたスマホを取り出し、ネットで検索する。すぐに画像が出て来たので、それを祥子に見せた。
「これだよ。沖縄の方言で、イラブチャーって呼ばれてるんだ」
イラブチャーは、沖縄の魚市場などに並ぶ、コバルトブルーの魚だ。飼うような魚ではないが、青い魚と言われ、ふと頭に浮かんだ。
「へぇ、こんなのがいるんだ。綺麗ね」
翔子は興味深く僕が見せた写真を見た。
「こんな感じだった?」
「……いいえ、違うわ。なんて言うか、もっと不気味だったの。体がもっと大きくて、目が黄色いの」
「青い体に、目の黄色い魚か……」
「それに……」
「それに?」
「なんと言うか、私がいるとね、その魚……私を睨むの。こっちを見て、目をギラギラって光らせるの」
「それは……」
僕は、少し顔をしかめてしまった。
それに対し、翔子は我に返ったように、慌てた。
「……なんて、さすがに気のせいよね!ごめんなさいっ、忘れて!」
しまった。流石にそれはあり得ないだろうと思った感情が、顔に出てしまったらしい。
それにしても、その魚、あまり可愛いものではなさそうだな。
でも、僕は魚について知識が明るいわけではないので、そう言う魚もいるのかもしれないとぐらいしかわからない。ただ、七飯はなんだってそんな魚に執着するのだろうか?
「ひとまず、僕が七飯のところに行ってみようか」
「え?本当に?」
「やっぱり、少し心配だし、流石にあまり欠席が続くと単位にも関わるからね」
「そうだよね……」
「まぁ、彼女の星置さんがどうにもできなかったような奴を、僕がどうこうできるとも思えないけど、女の子に暴力を振るうような奴には一発入れてやった方がよさそうでしょ?」
「え?」
「そのおでこの怪我、七飯にやられたんでしょう?」
「……どうしてわかるの?」
「アイツ、左利きだから」
僕がそう言うと、彼女は少し気まずそうに、額の絆創膏をおさえた。
そして、少しうつむき気味で「ミナトをお願いね」と小さな声で僕に言った。僕は静かにうなづいた。
また、安請け合いをしてしまった。昔から、どうもこの手のことがあると、放っておけないのは、損な性格だ。ただ、今回は身近な友人のことであるので、流石に無視をするわけにもいかないだろう。
正直、七飯が翔子を傷つけたのは驚いた。アイツは、確かに熱帯魚の飼育にも執着していたが、彼女である翔子のことも大切にしていた。
大学に入って出来た、始めての彼女。その上、七飯の方から何度もデートに誘ってようやくこぎつけた関係だったから、絶対に長続きするものだろうと、周囲は信じて疑わなかった。
スッキリとした今時の爽やかで、精悍な顔つきの七飯と、おっとりしたお嬢様という感じの可愛らしい翔子は、悔しいが、お似合いであった。
僕は、七飯の家の前に着いて、インターホンを鳴らす。
よくある学生用のアパートの二階。角部屋。立派ではないが、しかし、自分の住むところよりは幾分か小綺麗だ。
中から人の出てくる様子はない。数回ノックして、名前を呼んでみるが、反応はない。
どうしたものか。
流石に少し気が引けたが、ドアノブを回してみる。ガチャリと音がして、ノブを半周させると、鍵があいているとわかる。
友人とはいえ、家に勝手に入るのはどうだろう?頭にそんなこともよぎったが、翔子の話を思い出して、そんな場合でもないかと思った。
僕は、ドアを開け、その部屋に入る。
「うっ……」
カーテンの締め切られた部屋は、まだ夕方にも関わらず、薄暗い。そして、入った瞬間、むわっと熱気が部屋から逃げてくる。
むせかえるような魚臭さだった。
息をするたびに体に入ってくる堪え難い香りは、不快感どころか吐き気を催すほどで、思わず扉を閉めたくなる。ただ、魚を飼っているだけではこのような臭いにはならない。なかには何かが腐って放置されたような臭いまで混じっているようだった。
この家の中に七飯がずっといるだなんて、とても信じられない。
「……誰だ!!」
僕が扉を開けるなり、部屋のなかに怒号が響く。荒々しいその声に、僕は聞き覚えがあった。ただ、僕の知っているものと比べると、声は乾いていて、威圧感のある低音だった。
「七飯か?僕だ、大滝だよ」
部屋の奥から聞こえる声に向かって僕は声を張り上げた。
すると、薄暗い部屋の奥から、ぬっと人影が現れて、こちらへ寄ってくる。足取りはゆっくりで、言い知れないまるで別人のような雰囲気に包まれているが、それは七飯 ミナトに違いなかった。
「大滝か……。一体、どうしたんだ?」
長身の猫背の男が暗闇から顔を出す。無精髭を生やし、髪はぼさつき、体液の濃い臭いをさせた男は、僕の知る彼とは、随分雰囲気が違うように見えた。元々細身ではあったが、今は骨と皮のような不健康な痩せ方をしていて、それに比例して頬がこけている。さらに寝不足のせいなのか、眼窩は窪み、その血走った目は、ギラついており、その容貌を凶悪に見せていた。また、足取りも力なく、今すぐここから出した方が良さそうだと思った。
「お前こそ、どうしたんだ?」
「別に、俺は平気だ。忙しいから、帰ってくれないか?」
「そんなこと言うなよ。星置さんが、お前のこと心配してたぞ」
「……あいつが?」
七飯は不快そうに眉をひそめた。信じられないという顔をしている。
正直いつもなら、星置さんの話をする時の七飯は、こんな表情はしなかっただろう。
「そうだ。お前がずっと水槽を眺めて、動こうとしないって不安そうにしてたんだぞ」
僕がそういうと、七飯はそれを鼻で笑った。
「ふん、あいつは蒼子の良さを分からないんだ。だから、そんなこと言ってるんだ」
「そうこ?」
まるで、人間の女性の名前だ。しかし、この家に籠りきりらしい七飯が、祥子以外の女に夢中になっているとは、どうにも思えない。
「そうだ。女には、蒼子の良さは分からないんだ。それどころか、気味が悪いだの、捨てろだの言ってくる。信じられるか?あんな美しくて素晴らしいものに、どうしてそんなことができるって言うんだ?」
七飯は何かに取り憑かれたかのように、うっとりとした顔をしている。
やつれきった容貌とは裏腹に、その表情は酷く幸せそうなのだ。
「なぁ、七飯。蒼子っていうのは、一体なんなんだ?」
「なんだ、大滝。蒼子に会いたいのか?」
「……まっまぁ」
僕は、正直に言えば、どうでもよかった。しかし興味があるフリでもしなければ、中には入れてもらえなそうな気がした。
翔子の話や、七飯のこの嬉々とした様子に、もう少し様子を確かめないわけにはいかなかった。
「まぁ、蒼子もお前相手には嫉妬したりしないか。いいぜ、見せてやるよ」
そう言って、七飯は、俺に部屋に入るように促した。僕は、恐る恐る七飯の家の玄関で靴を脱ぎ、促されるまま、歩き始めた。
1LDKの七飯の部屋は、足元がゴミやら何やらで埋まり、それを避けて歩かなければならない。この家の異臭の一端はこれらから出たものもあるらしい。
ゴミ置き場と化したリビングを抜けると、大滝はドアが半開きになった部屋へと僕を誘う。何度か遊びに来たことのある僕は、この先に七飯の趣味のスペースが広がっていることを知っていた。しかし、その部屋に近づけば近づくほど、臭いが一層酷くなり、僕は頭がクラクラした。
その部屋は、前に招かれた時とは様相が異なっていた。
以前僕が入れてもらった時は、ステンレス製の網棚に水槽がいくつかと、ベッドが一つ置いてある簡素な部屋だった。蛍光灯に照らされ、エアポンプの音が常にするような部屋で、さらに様々な機材から出る熱が部屋の温度を上げるものだから、よくこんな部屋で眠れるものだと感心したのだ。
しかし、今は静かなものだった。エアポンプの音も、機材の音も一切聞こえない。ただ、静かな中に、カサカサという小さな音がどこからともなく聞こえる。
また、水槽についた蛍光灯は消され、手入れがされていないのか、水槽には藻が張り付いて、水は濁っている。その水槽からも悪臭がすることから、中の魚が既にあの水槽の中を泳いでいないのかもしれないと予想できた。
そして、その部屋で最も異彩を放っていたのは、窓際のそれだった。カーテンの閉められた窓のそばに大きな水槽が一つ置かれている。子供一人ぐらいならすっぽり入ってしまえるほどの大きな水槽。そのあまりの大きさに置く場所がない為か、床に青いビニールシートを敷いて、その上に水槽が直接置かれていた。他の水槽同様、中の様子がわからないほど濁っていたが、何故か中の何かの存在を僕はしっかりと感じた。
「蒼子、出ておいで。俺の友人が君に会いたいんだって」
そう言って、七飯はその大きな水槽の淵に触れながら、それを優しい声で呼んだ。
水槽の中からは何も反応はない。
ただ一度、こぷりと音を立てて、水面が波打ったような気がした。
「やれやれ。翔子が来た以来、妙に警戒心が強くなってな。俺の声にも、なかなか答えてくれないんだ。そうだ、今から餌をやるから、そしたら見えるかもしれないぞ」
そう言って、七飯は奥の方に何かを取りに行った。
もはや匂いと状況に僕が不快感を隠そうとしなくても、七飯は全く気付いている様子はなかった。
七飯は、奥から透明な箱を持ってくる。水槽とは違い、しっかりとメッシュのついた蓋が固定されており、水の張られていない軽そうな箱。それは、先ほどからしているカサカサという音の正体であった。透明なので中身が見え、底では、黒い塊が重なり合い、蠢いているのがわかる。
「うっ………」
僕は、すぐそこまで我慢していたものの波を抑える為に、とっさに自分の手で自分の口を塞いだ。こみ上げてくるものが止まらない。
なんとかして押し戻すが、不快感はまるで収まらなかった。気持ちが悪くなるのも無理はないと思う。
七飯が持って来たそれは、そこから逃げようと大量に蠢くゴキブリだったのだ。
しかし七飯は、持ってるそれにも、僕の様子にも全く気にならないらしく、続ける。
「蒼子は、生きている餌じゃないと満足しないんだ。こいつら、いくらでもいるし、簡単に増えるから便利なんだよ」
そう言って、七飯はフタのプラスチック部分を持ち上げ、なんの躊躇もなくそのカゴの中に手を入れた。
そして七飯は、二三匹のゴキブリを素手で一気につかみ取りにした。
僕はあまりに衝撃的なその様子に、もはや何も口にすることはできなかった。
「ほら、蒼子。ご飯の時間だよ……」
七飯はそう言って素手で持った二三匹のゴキブリを素手ごと水面に入れる。すると数秒して、中にいる何かはぬっと静かに浮かび上がってくる。
仄暗い水の中でもわかる、青く大きなウロコの表面、そして大きな体。そしてその目が見えた時、僕は背筋に、ぞくりと悪寒を感じた。
何故だろう。魚の黄色の目が、僕をみて笑ったように、目を細めた気がしたのだ。
刹那、水面が激しくしぶきを上げる。それは勢い良く、まさに貪ると言った様子で、七飯の手の中の物を食べ始める。巨大な魚の動きに合わせ、水槽から水が勢い良く飛び散って、シートの上に落ちた。
「フフッ、元気がいいなぁ。蒼子は」
七飯の表情が先ほどから変化する様子はない。終始甘える子供を見るようなそんな様子で、疲労した容貌で笑っている。
「くっ!!」
しかし、一瞬その顔は崩れ、顔をしかめると、水中に引っ込めていた手を、勢い良く取り出した。
「どうした、七飯!」
僕は異常を感じて、七飯のそばに駆け寄った。
七飯は片手をもう片方の手で抑えながら、暫く痛みに耐えている。
よく見ると、付近のビニールシートには、水しぶきとは明らかに異なる液体が滴っている。
薄暗い中では黒く見えるその液体。
けれど、僕はすぐにその正体を理解してしまった。
「…………フフッ……アハハハハッ!アハハハハハハッ!!」
「!?」
途端、痛みに耐えていたと思っていた七飯は、笑い始める。
あまりに突然のことすぎて、僕は駆け寄ったものの、七飯へと手を伸ばすのを躊躇した。
「そうか、蒼子……。そういうことなんだね……フフフフフッ」
一人で笑う七飯に僕は言い知れぬ不安を感じた。どう考えても、七飯の様子は普通じゃなかった。僕が入り込めるような隙間などない気がした。
「七飯……怪我はだい……!??」
それでも、僕は彼に声をかけた。しかし僕は、七飯のその指をみて、声がでなかった。
赤黒い液体が滴る場所。七飯の左の中指と人差し指が第1関節までなくなっていた。まるで、野犬に引きちぎられたような綺麗とは言えない傷跡。傷口からは、とめどなくなく体液が溢れ、左手首までを真っ赤に染め上げていた。
何故、この男は笑っていられるのだろう。
こんなのはおかしい。
普通じゃない。
「もう、こんな虫けらじゃ足りないらしい!!なぁ、大滝、お前もやってみろよ?フフッ……アハハハハハハハハハッ!!!」
七飯は、狂ったみたいに笑い続ける。僕にはとても、見ていられるようなものではなかった。
僕は、この状況が受け入れられなくて、思わずその場から逃げ出した。ゴミの山を抜け、異臭から逃げ、一刻も早く、この悪い夢から抜け出したかった。途中何か生ゴミのようなものを踏んだ気持ちの悪い感触があったが、関係ない。追われているわけでもないのに、ゴミを蹴散らし、どこかに体をぶつけても構わず部屋の出口を目指した。
異臭、ゴキブリ、笑う魚、食いちぎられた指。
それをぜんぶ繋げたみたいに、モノクロでノイズのかかった映像が、頭の中でフラッシュバックする。
これ以上は耐えられない。
僕は玄関で足に引っ掛けるように靴を履き、僕は外へ出て、逃げるように階段を下る。階段を踏み外さなかったのが奇跡と思うぐらい、焦っていた。
そして、七飯のアパートの裏手まで来ると、こみ上げてきた物を、今度は我慢せずに吐き出した。昼に食べたものどころか、胃液を吐き出してもまだおさまらないような酷い不快感に、涙を流してもなお、吐き続けた。おさまらない胸やけと、気持ち悪さが、これが現実であることを実感させられる。
なんでこんなこと。
指を引きちぎられてなお、笑っていた七飯の顔が、頭に焼き付いて離れない。俺の知ってる七飯が、彼女に怪我を負わせるはずがないと思っていたが、今あの部屋にいる狂気じみたあの男なら人を殺したっておかしくないとすら思えた。あの水槽の中身が、あの男をあんなにしてしまったのか?
餌を喰らうその瞬間、見えた何か。
あれはなんなんだ?
水槽から出てきて、瞬いていた黄色い目。笑ったような表情。あれは、もはや魚の持つそれではなかった。むしろ、あれは……。
その時、僕のポケットに入っていたスマホの着信音が鳴った。僕は聞き慣れたはずの着信音に、心臓がどくりと大きな音を立てた。
震える手で、なんとかズボンのポケットからスマホを取り出す。ディスプレイに表示されている名前は予想通り七飯だった。僕は逃げてしまった。けれど、その反面部屋に残して来たあいつのことが気になるのも事実だ。
あんな人間の指を食いちぎるようなもののいる場所に友人をおいてきた罪悪感もあった。
僕は、震える指でスマホのスピーカーを、耳に当てた。
「もしもし?」
「……ぁ……でた。……に……」
電話越しの声は、不自然なほどノイズだらけのひどいものだった。
かろうじて、七飯の声だと認識できる程度。
何を言っているのかは、まるで理解できない。
「七飯?七飯なんだな?一体何が……」
「フヒッ………ふヒヒッ……しいか?………うこ……」
ごとりと言う音が聞こえ、声が遠くなる。
どうやら携帯を落としたらしい。
わずかに聞こえる声はほとんど認識することはできず、それをかき消すかのように水の音が聞こえた。
バシャリと大きな音の後に、ぴちゃぴちゃという音。
そこで、通話は切れた。
これは……。
あの水槽に、七飯はスマホを落としたに違いない。あいつと……蒼子と何かがあったのだ。僕は電話越しに聞こえる音の数からそう判断した。
事は一刻を争う。七飯をなんとかして、あの部屋から出さなければ……。僕はそう思い立って、七飯の部屋へと戻ることにした。嫌な予感に、心臓が大きく鳴っていた。
七飯の部屋の前まで戻ってくると、部屋のドアがあいている。
僕が逃げるように出て来た時に閉め忘れたのだろう。ドアの開閉に構っている余裕など、なかったのだ。
近づけば、またあの嫌な臭いが鼻をつく。つい先ほど、どんな気持ちでここを出てきたことか。
僕は体が入るのを拒絶するのを押し切って、なんとか部屋に入った。
静かだ。
先ほどとほとんど変化のない部屋は異常に静かだった。
「七飯?おい、大丈夫か??」
返事はない。
僕はゴミの山を掻き分けて、先に進む。今更だが、靴下の先が何か粘着質なもので濡れて、不愉快だった。
ただ今は、その汚れが何によるものかを確かめるのすら、どこか恐ろしく感じていた。
足元には、1匹のゴキブリが這っていった。湿り気を帯びた体表を見せながら、長い触覚を動かし、見つかったと言わんばかりに、カサカサと物陰に隠れて行った。
あいつがどこから来たのかは大いに予想がつく。
くそ、ゴミだらけの上に、ゴキブリだらけかよ。思わず悪態を吐かずにはいられない。
とりあえず、これ以上はあの黒い塊が、自分の目に入るような場所に姿を現さないことを願うばかりだ。
僕はゆっくり、七飯のいるであろう、水槽のある部屋へ向かう。
そして、その前で思わず足を止めた。
「うっ……」
覚悟していたものとは全く異なる強い匂いが、部屋の奥からした。あの魚臭さに加わり、異なる性質の匂いがこの奥からしてくる。こんなのは嗅いだことがない、むせかえるような鉄の錆びたような匂いがした。
「なんなんだよ、これ……」
思わず、鼻や口を手で覆い、先に進むのすら躊躇する。こんなことができるのは、やはり現実的ではないが、あの水槽の何かだろう。
でもだとしたら、今あの魚は、まだ水槽の中にいるのだろうか。
僕はとっさに辺りを見回した。武器になりそうなものはない。ただ、熱帯魚の水槽用と思われる細長い蛍光灯の入った箱が壁に立てかけてあって、試しにそれを手に持ってみた。どう見ても強度はなさそうだが、手に何かを持つだけ、やや安心感があった。
……行くしかないんだ。
僕はなんとか自分を奮い立たせて、その部屋の中に入った。
部屋を見回しても、七飯の姿はない。
静かで、湿度に高い、悪臭の部屋。そして、その奥には相変わらず大きな水槽。水槽は、水の量が先ほどの半分ほどに減っていて、周りには、水と赤黒い液体が混じったものが派手に飛び散っている。ただ、飛び散った水よりも明らかに別液体の方が量が多く、さらには、緑がかって握っていた水槽を、その赤がさらに濃く濁らせていた。この血の量は、さっきの比ではない。
何より、七飯一人の姿が、まるで見当たらないのだ。
僕は恐る恐る、澱んだ水槽の中を覗いた。先ほどの、生き物の存在感が消えている。
すると、こぷりと音を立てて、何かが浮かび上がってきた。白いピンポン球ほどの球体が半分だけぷかぷかと浮いている。なにか、赤い糸のようなものが数本、球体に絡まっているようだ。どうもこの部屋は薄暗くてものが見えにくい。
僕は、その球体を確かめるために、水槽にゆっくりと顔を近づけた。すると、球体が絡まった糸の重さからか、急に反転する。柔らかそうな質感をした球体が、一気にこちらを向く。
「ひっ?!」
僕は思わず短い悲鳴をあげた。
球体は、黒い瞳を持った人間の眼球だった。眼球が、水槽に浮いている。よく見ると、水槽表面には、無数の髪の毛が、浮かんでいた。僕はこのぼさついた髪を、先ほど見たばかりだった。
「あっあぁぁっ……あぁぁ……」
僕は恐怖にその場にへたり込んだ。体にうまく力が入らない。
自分は、自分は何を見ているんだ??
「なっなんだよこれっ………こんなのっ……」
僕は半狂乱になりながら、なんとか手の力だけで、ここを去ろうとする。しかし、手先すら震え始めてうまく力が入らない。
心臓の鼓動が痛いほど大きく脈打つ。底しれぬ不安が込み上げ、背筋が寒い。
助けて、たすけて、タスケテ。
まともに頭が働かず、手元の蛍光灯はとっくに手離していた。
その時だった。
突然、僕の頬に水滴が落ちてきた。
「え?」
一瞬、時間が止まったような心地がした。
僕は、自然と上を見上げる。大きな黒い塊が、天井に張り付きこちらを見ている。それには手があり、しかし半分は魚の体をしていた。
生え揃っていない髪の毛から、水分が滴っている。
あ、黄色い瞳…………。
それと目があった瞬間では、全てが遅かった。
塊は目を細める。まるで笑うように。
瞬間、黒い影が落ちてきて、僕に覆いかぶさる。子供ほどの重さの物体に、僕はそのままなす術なく、押し倒される。その肌はぬるついて、びっしりと大きな鱗に覆われていた。
「なっ……ああああああああああ」
疑問を投げかける暇すらなかった。
その黄色い瞳は、ギラリと光った。そして、息を吸う様に大きく口を開くと、それは容赦なく僕に噛み付いた。
首元で、柔らかな抵抗を見せていた肌が、鋭利な歯にようなものにぶちんと貫かれ、激痛が走る。傷ついてはならない血管を狙われたのか、驚くほど勢いよく血が噴き出る。そして、その黒い影は、今度は僕の喉元を狙って噛み付く
「っ!!」
ひゅうと喉がなった。空気の漏れる音がして、僕は自分の血をごぷりと吐き出した。
「ひっ………ふっ………」
まともに声が出ない。声を出そうとするたびに、関係のない場所から空気と血が漏れる。
自分は今一体どうなっているんだろう?
あまりに勢いよく噴き出る血。朦朧としていく意識。
そんな中、僕にまたがる黒い影は、僕をみて笑っているようだった。薄暗い部屋に、にやりとギザギザとした歯を見せて笑う化け物。視界がぼやけているせいなのか、それとも幻覚をみているのか、それは青い鱗のついた人間のような顔をしていた。しかし、灰色に近い肌をしていて、目が離れ、鼻らしきものがない。ただ、口が異常に大きく、開くとギザギザの尖った歯が無数に存在していた。
「フフフフフッ」
それは高い声で笑った。
しかし、幾つもの声を合わせて、不協和音にしたみたいな、この世のものとは思えない声だった。
そして、次の瞬間。それの拳が、僕の顔に捻じ込まれた。一度や二度ではない。何度も何度も容赦なく振り下ろされた。
力の加減には遠慮といったものがまるでない。
鼻の折れる音と、触られたことのないような場所を、掻き回されているような感覚。不快な水音は、僕にのしかかってたもの体から滴るものか、あるいは自分の血か……。わからない。ただ、もう、十分だろうと思った。
早く殺してくれと、心から願った。
すると、化け物は僕の額ありに口をつけて何かを吸い始める。
ちゅうちゅう。
ずずずずっ。
あれ……何を……。
ちゅうちゅう。
まるでゼリー状の栄養剤でもノむみたいニ。
ずずずっ。
あれ……これハ……。
ノウを……くわレて。
あああああああああああああああああああ。
あああああああああああああああああああ。
僕はそのまま、目を覚まさなかった。
静かな部屋に、カサカサと這い回る虫の音が響く。
むせかえるような悪臭に包まれた部屋には、大きな水槽。水槽は暗藻色の水で満たされ、透明度に乏しく、その中身をうかがい知ることが出来ない。ただ、その部屋の悪臭の大半は、そこから発生していた。
1LDKのアパートのドアは開いている。まもなく、悪臭を気にする近所の者が、警察に連絡をするだろう。空いているドアからは、薄赤色の引きずったような液体が残っていて、それが外へとしばらく続いている。
化け物の行方は、誰にもわからない。