小説竜~実現~
竜はペタリと尻尾をフローリングに付けて足を投げ出し、のんびりとくつろぎながら大きな四角い箱を眺めていた。
≪あーっと、斎藤選手が大きく前に躍り出た! その後ろから田萩選手が追いかける!≫
その箱の中では人間たちが似たような服を着て自分の限界に挑んでいた。場所は「はこね」という場所らしい。竜には全く理解できなかった。なんで、わざわざ大変なことをしたがるのか。人間って変な生き物…。
そう思いながら竜は退屈そうに大きな欠伸をすると紙の前に座り込んだ。昨日からある程度書き進めた文字の羅列にうっとりと頬を緩ませる。
あぁ…なんて素晴らしいんだろう、竜はそう叫びたくなった。
人間って分からないこと多いけど、この文字だけは素晴らしい。物語を書かないなんてみんな損してる!
興奮して手に持った紙を鼻息で吹き飛ばしそうになって慌てた。少し手から離れた紙を急いで掴み、フローリングの床に置き直す。いつもなら竜は今の時間、人間の小説を読んでいる時間だった。でも今日と明日は出来そうもない。竜は尻尾を大きく振り、鉛筆を持った。
あの人間はバイトだとか何とかで朝からこの部屋にいない。これ幸いと竜は朝からずっと物語を書くのに躍起になっていた。さっきのように煮詰まったときはテレビを点けて何かネタになるようなものはないかと探したりして着実に物語のゴールに向かって書き進めていた。
鉛筆で頭を軽く叩き今日は気兼ねなく集中できると竜は張り切ってもう一度尻尾を振った。物語はヘッドホンお化けを倒してから少し進んでもう一人仲間が出来ていた。そう、書いている途中で女の子がいないことに竜は気づき、急きょ登場させることにした(ただ書いているのは竜なのでもちろん女の子は竜なのだが)名前はスージーと名付けた。
もちろん僕の好みの異性にするつもり。端正な顔立ちで藍色の鱗が素敵で、気高くて、賢くて、戦略的で、笑うととっても可愛くて、でもお化けとかが苦手な女の子にしよう。と竜は彼女を登場させるときに考えた。
そして、今書いているのはスージーが暗い森の中で竜たちと逸れて寂しくなってるとこだった。スージーが淋しさに押しつぶされそうなところを書いていて竜の心のほうが押しつぶされそうになっていた。
あぁ、なんてかわいそうなスージー。まってね、もう少ししたら助かるから!
スージーがオドオドしながら暗い森を歩いていると草むらがごそりと揺れた。
「ひっ!」
悲鳴に近い上ずり声を上げるとスージーは膝から崩れ落ちた。
もうやだ、なんでこんなところにいるのよ。あの人間と竜はいったいどうしたのよ?
スンと鼻をすするといよいよ泣き出しそうになった。ブンブンと頭を振るとあの竜に貰った薄黄色のリボンが頭から落ちた。
「何なのよあの竜、君を守るって言っておきながら私のこと迎えに来ないじゃない!」
あのヘタレッ!と叫ぶと周りから鳥がギャアギャアけたたましく飛び上がった。スージーは声も上げる間もなく腰が抜け尻餅を付く。瞳孔が開いたままボー然としていると地面に落ちた薄黄色のリボンが目に入った。そろそろとリボンを手に取り、きつく抱きしめる。
「早く来なさいよ…」
そしていよいよ泣き出してしまった。
暫くしてひとしきり泣いた彼女は身を隠せる場所を探して歩き出した。
彼女が苦しんでいると竜の心も苦しくなった。それが辛くて竜は鉛筆を手放した。鉛筆がフローリングに当たって音をたてる。ぼーっと何もない宙を見つめていると天井の木目が動いているような気がした。ブンブンと頭を振って気分転換しようと大きな黒い箱に視線を飛ばした。「えきでん」なんて見たって竜には何の面白味も感じないので一番興味の惹かれることをいつもやっている教育番組に変えた。今日のこの時間はいつも日本の自然の素晴らしさについて紹介している。竜のグレーの瞳はあっという間にキラキラと輝き、画面の向こうに釘付けになった。
≪今日紹介するのは富士山です! いやー、壮大ですねぇ~。でもここって自殺スポットってよく聞きますよね?≫
竜は自分を抱きしめ、ぶるっと震えた。
自分で望んで死ぬ? 考えたくもない!
でもそのあと樹海でコンパスが効かないというのは嘘だとか、洞窟の中で氷筍を見ていたり地球の神秘について紹介されていた。そこは素晴らしいと思う。でもまさか霊峰、富士山の麓で自殺なんて…というショックのほうが大きかった。
富士山を実際に見たことはないけどきっと雄々しい姿を裾野から見ることができるのだろう。
前から竜は富士山を見てみたいと思っていた。でも今回の自殺という言葉で富士山への考え方が変わってしまった。目を閉じると苔に覆われた森が見えた。その苔をめくると朽ち果てた木の洞があって、その洞の中にいくつかの食料とペットボトルとそして頭蓋骨が…。
考えるんじゃなかったと体を震わせ、鉛筆の先端を噛み尖らせた。そして自分の書いた文章と向き合いスージーを助けるんだと息巻いて鉛筆を握る手に力を込めた。
スージーはリボンを抱きしめながら勇気を振り絞って歩き出した。藍色に染まった鱗をカタカタ鳴らしながら足音を立てないように静かに歩いていた。まるで、自分の出した音がそのまま化け物として出てくるとでも思っているかのように。飛ぶことも考えたが浮かぼうとすると翼が震えて動かすことも出来なかったので仕方なく地面を歩いていた。もともとスージーは飛ぶことが苦手だった。もちろん、翼をさっと一振りすれば体が浮かぶということはわかる。でもそこから前に行ったり、宙返りをしたりと忙しなく動く動作はスージーにはどうしても出来なかった。そんなスージーがこの集中力の欠く薄暗い森の中で飛ぶなんて出来るはずもなかった。
「ひっ…って何よ、ただの枝じゃない!」
横から飛び出た木の枝に驚いた自分に腹が立ってその枝を噛んで圧し折った。相変わらず空は薄暗い木々の葉で覆われており、いったい自分がどこに向かって歩いているのかわからなくなった。ギャアギャアと引っ切り無しに空を鳥が飛び、円を描いていた。近くから音がする度にびくりと尻尾を伸ばして怯える。飛べたらこんな場所すぐに出て行ってやるのに、と空を仰ぎながら嘆いた。
思えばあの竜は難なくこなしていた。ビュンビュンと空を切って飛び回っていた。どうしてそんなに自由に飛べるのか、どうやったらそんな風に飛べるのかと聞いてみたがあの竜はなんとなくとしか言わなかった。苛立ってお腹の下から伸びた尻尾を引っ張ってみようかと考えたがあいにく相手は紙粘土で出来た偽物の竜。そんなことして尻尾が折れたりしたらどうしよう、と掴みかけた手を止め緑色の鱗を引っ掻く程度で腹の虫を抑えた。竜は痛い、と軽く笑ってスージーの手を払いのけた。
しかし、今、この場所にその飛ぶことが得意な竜はいない。その軽い笑顔も見られない。
もう一度、ぎゅっとリボンを抱きしめた。いったん休憩しようと腰を下ろす。朽ち果て、苔に覆われた大きな木の根の傍で寄りかかるようにして体を預ける。仮眠を取ろうと瞼を下ろしたとき足元が蠢いたような気がした。ひゃっと短く叫び、軽く預けていた体重を仰け反るように思いきり木に掛けた。メリッと嫌な音が響いて大きな穴が開いた。穴はスージーの小さな体を引きずり込んでいった。そしてスージーの体は闇の中に消えた。
竜はまた鉛筆を手放してしまいたい衝動に駆られた。しかし、鉛筆を握った右手は竜の意思とは関係なしに動き続ける。竜がいくら右手に力を込めても鉛筆は止まらない。僕が書きたい物語はこれじゃない!と叫び、右手を左手で押さえつけようとしたが今度は左手も言うことを聞かなくなってしまう。足も尻尾も口でさえも総動員して右手を止めようとあらゆる力を加えたがついに右手は止まらなかった。物語を書き終えてやっと右手は力を失ったように鉛筆を離した。右手に自分の歯型と足で引っ掻いた跡が痛々しく残っただけだった。傷口から毛羽立った繊維がむき出しになっている。痛む腕を庇いながらさっきまで鉛筆が滑っていた紙に近寄って殴り書きのような文字の羅列を無気力に眺めた。
スージーの体は言いようのない浮遊感で満たされていた。もしかしたら永遠に落ち続けているのかもしれないとスージーは考えた。落ち続けているならいつか地面にぶつかるのだからいいけど、闇の中で浮いているだけだったらやだなと思っていた。このまま、闇の中で死ぬのかな、と考えて体の芯から震えた。
きっと死んでも誰にも死んだことに気付かれずここで腐っていくんだ…。
しばらく言いようのない恐怖に怯えていると前なのか後ろなのかさっぱりわからなかったが光が遠くに見えた。翼に喝を入れてパタパタとその光に近づいていく。薄い膜のようなもので覆われた光に近づくにつれその中に一匹の竜が鉛筆を握って何かを一生懸命書いているのが見えた。スージーはあの自由に飛び回っていた竜に似ていると感じた。
でもどこか違う。自分の知っている竜は鉛筆なんて握っていなかったしあんなにくすんだグレーの瞳じゃなかった。金色に光っていてとてもきれいだった。
もっとよく見ようと薄い膜に手を伸ばした。
パチン。
薄い膜が手の鉤爪で弾けた。すると内側の空気が一気に光の向こう側に流れ出す。スージーは気流を掴みきれず、ぐるぐると回りながら外の世界に放り出された。しばらく宙を舞っていると芝生の生えた地面に落ちた。
あぁ!と竜は嘆いた。ごめんよ、スージー。僕の世界に君を連れてくるつもりはなかったのに!
竜は泣きたくなった。書いた紙を破こうとしたときに鍵が開く音がした。
「ただいま~…うわっ、なんだその腕!」
しまったと竜が思うよりも先に体が硬くなった。人間は霧吹きと紙やすり、そして竜を作るときに使った紙粘土の余りを机の引き出しから取り出した。
紙やすりで腕についた防水ニスと絵具を剥がすと傷口に霧吹きを吹きかけた。毛羽立った繊維が整っていく。その上から十分に濡らした紙粘土を親指の腹で押し付けた。すると傷なんて無かったかのようにきれいにもとに戻っていく。
「とりあえず、これでいいか。まだ乾いてないからそんなに強く動かすなよ?」
竜は動揺して人間の顔を覗き込んだ。まさか、僕が動けることを知ってる?それともジョーク?
「……なんてね、動かない相手に言っても意味ないか」
それにしてもいったい何にやられたんだろう、と人間は呟きながら窓のほうを見やった。竜はほっと胸をなで下ろし、鉛筆を持っていないことに気が付いた。慌てて鉛筆を取りに飛ぶと紙の束がそのまま床に散らばっているのも見えた。このままでは気づかれる、そう考えた竜は紙の束に思いっきり鼻息を吹きかけてベッドの下に吹き飛ばし、急いで鉛筆を拾い上げた。
息を切らしていつもの定位置に戻るとちょうど人間がこっちを見た。ミッションコンプリートと竜は安堵して自分の腕を見つめるとさっき直してもらった腕の粘土が剥がれていた。
「あ……水分足んなかったかな?」
そういうと霧吹きでシュッと水を吹き付け、もう一度親指の腹で白い紙粘土を押し付けた。竜はごめんなさいと自分に背中を向けた瞬間に謝った。面と向かって謝りたいけどそうしたらサプライズができなくなってしまう。そして人間はいつものようにパソコンの画面の前に座ると立ち上がるまで指でトントンと机を叩いた。それは人間の癖だった。何か暇な時間ができると指でリズミカルに何かを叩いてしまうのだった。十数秒後にトラジマ模様の猫の写真が画面に映し出される。ジーとロムの回る音がした後、人間がマウスを動かし始めた。小説作成というフォルダを開き、キーボードの上を滑るように指が動いた。
カタタン、カタタタン。
今日はなんだか穏やかに打ち込むなと竜は感じた。いつもならカタタというよりガタガタとまるで地震で揺れているみたいに音を立ててるのに。それに珍しくヘッドホンをつけてない。何かあったのかと横顔を見るといつも通りの表情で何も変わらなかった。ふと外を見るとコウモリが空を飛んでいた。この辺では別段珍しくもないけどなんとなく気になった。
「トイレ」
そういって人間は立ち上がり、そろそろと用を足しに行く。それを見送ると窓を開けた。パタパタと音を立てて黒い影が空を舞っていた。でも一匹だけコウモリにしてはおかしい動きをしているものがいた。コウモリにしては少し大きいし、何よりホバリングして宙に浮いている。キィキィと高い周波数が辺りを飛び回る中、竜はぼんやりとその姿を眺めていた。ゆったりとカーブを描いたその翼、ずっしりとしていそうな重量感のある体、そして真っ白い蛇のようなお腹。まさしく竜の思い描いていた理想の竜だ。竜は自分の顔が熱くなるのを感じた。
「邪魔よ、この皮膜生物!」
そう彼女は叫ぶと鬱陶しそうに尻尾を振って追い払った。それでも逃げないコウモリには口をカッと開け火花を覗かせて追い払った。ぼぅっと竜がその鱗に覆われた生き物を眺めているとすっと窓のそばに降り立った。びくっと竜が尻尾を震わせて後ずさった
「へぇ、あいつそっくり。右手以外は。ねぇあんた名前なんて言うの?」
藍色の竜は真っ白な右手に視線を注ぎながら言った。名前?と竜は返した。
「そう名前、あんたにも名前くらいあるんでしょ?」
竜は首を傾げて記憶の隅を探してみた。人間が竜に呼びかけることはあっても名前らしきもので呼ばれたことはないなぁと竜は呟いた。
そもそも、あの人は何かを作る際に名前なんて付けないし、作品の登場人物でさえ、出来ることなら名前を付けないで済ませたいと思っているくらいだ。そんな人が僕に名前を付けるだろうか?
「もしかして名前無いの?」
竜は少し困りながら頷いた。彼女は口の端から空気を漏らすと手に握った薄黄色のリボンを頭に乗せた。彼女のサイズに合わせて作られたそのリボンは耳にクリップのようなもので挟むタイプのものだった。
「あいつは?」
彼女はいつの間にか戻ってきていた人間を指さした。いつものようにヘッドホンをつけて画面の世界にダイブしている。
竜は同居人と答えて彼女に見惚れた。キョロキョロと部屋の隅々を見渡す彼女の瞳は自分の瞳とは似つかない鮮やかで澄んだ水色をしている。竜の体が彼女の視界に入ったような気がすると繊維の一本一本がザワザワと騒いだ。
「まぁまぁね。住むには少し狭いけど問題ないわ」
その一言で竜はさっき直してもらった腕の繊維が逆立った。
今、彼女はなんて言った?ここに住む?僕が動けることも知らない人間に本物の竜を見せるってこと?
まってと声をかける前に彼女はその人間の方向に飛んでいく。竜はありったけの力を翼に入れて彼女の体を追い抜いた。そして彼女の前で止まると彼女を窓際に押し戻す。彼女は不服そうにそれに従い、説明を求めてきた。
竜は彼女の機嫌を損ねないように一つ一つ丁寧に話した。
明日が人間の誕生日だということ。今、自分がサプライズを考えていること。そのために小説を書いているということ。そこで、自分が動けるということも話そうとしていること。そして、ここには彼女のような竜はいないということ。
彼女はフンと鼻から強く息を吐き出すと目を吊り上げて竜を睨んだ。
「つまり、私に一日隠れてろっていうの⁉」
竜は気まずそうに頷き、頭を下げた。
「ハァ? 嘘でしょ、そんなの嫌よ! 私は自由に生きたいの!」
彼女が喉の奥から低いうなり声を出す。竜の中にある危機管理センサーが警報を鳴らす。そんな彼女の挙動に慄いていると背後から寒い…と人間が呟いた。そのたった一言が彼女のうなり声を止めた。
「ハァ…まぁいいわ。でもその替わり私のためにいろいろ働いてもらうわよ。それでもいいなら約束してあげる」
サプライズのためと竜は張り切って頷いた。
「そういえばまだ名乗ってなかったわ。私はスージー。見ての通りドラゴンよ」