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デューアとニオンとバーチとノートゥンとエルト

「もう、デューアの奴、本当に嫌になっちゃうわ!」

 ニオンは自室で森の賢者と呼ばれる大樹の精霊の一人、バーチとお菓子をほおばっていた。

 家庭教師のデューアの授業が終わり、十時の休憩の時間にニオンの部屋にお茶とお菓子が運ばれてきた。

今日のお菓子は山ブドウと木の実のクッキーに、プラム酒のケーキ。紅茶はバラの花びらの入ったローズヒップティー。

お菓子がテーブルの上に山と盛られ、細かい金の模様の描かれた白磁のティーカップの中に湯気の立ち上る紅茶が入っている。

窓辺のテーブルには森の賢者であり、ツタの精霊である少年、バーチが座っている。

「デューアったら、あたしに教師面であれはするな、これはするなとお小言ばかり言うのよ? あたしは幼馴染のデューアのことを心配しているだけなのに、余計なお世話とばかりに聞く耳を持とうともしない。ひどいと思わない?」

 一方の向かいに座るバーチは、見た目は五歳の人間の少年の姿をしているが、中身は大樹に巻きつく年降るツタの精霊だった。

 それでも森の賢者としては一番若く、精霊の仲間入りをした日もまだ浅い。

 精霊としての力は一番弱く、森の賢者たちの長老であるトネリコの精霊、ノートゥンの精霊力と比べれば天と地との差だった。

 バーチ本人もそれを気にしているらしく、こうして妖精たちの元へ下りて来ては、王国に伝わる太古からの知恵を学んでいる。

 その謙虚な姿勢は精霊としては珍しく、とても森の賢者の一員らしい振る舞いではなかったのだが、妖精たちからは親しみを持たれ、好かれている。

 特に年若い王女ニオンとは仲が良く、何かと一緒にいることが多かった。

 そうは言っても見かけは少年でも、年を経て大樹の精霊になるほどであるから、ニオンなどよりもずっと長く生きている。

「おれは若いからよくわからないけど、人間とはそういうものなのか? 妖精に対して何かと口うるさいものなのか?」

 ツタの精霊のバーチは、ニオンとこうして日常的にお茶を一緒にすることも珍しくなかった。

 バーチは深緑色の髪に明るい金色の瞳、若葉色のフードつきの長いマントをまとっている。

手にはツタの絡みついた杖を持ち、背もたれのある子ども用の椅子に座っているのは、どこからどう見てもこの世界の秩序を保つ精霊の一人とは思えなかった。

 クッキーを口いっぱいにほおばり、ニオンの話に相槌を打っている姿は、どこからどう見てもただの人間の子どもだった。

 ニオンは勢い込んでうなずく。

「そうなのよ! デューアの奴は口うるさいことで有名なのよ! でも、デューアの場合は、色々と事情があって。人間だから、っていうのは関係ないと思うわ。あいつの場合は、元々のここに来た過去が複雑だから」

 ニオンはクッキーを持つ手を見下し、首を垂れる。

 自分のデューアに対する行動を思い出し、申し訳ない気持ちになる。

「あたしに対しては、心配性で、おせっかいのくせにさ。自分のこととなると、投げやりで、どうでもいいと考えているところがあるの。あたしは、それが心配で」

 うなだれるニオンを見て、バーチは大きくうなずく。

「よし、それならおれがニオンの代わりに、そのデューアって人間に、がつんと言ってやる。もうこれ以上、ニオンを悲しませるのはやめろ、って。それならいいだろう?」

 バーチは屈託のない笑みを浮かべる。

 ニオンはその笑顔に励まされるようだった。

 一通り愚痴を言い終えたニオンはバーチに笑いかける。

「ありがとうございます、バーチ様」

 バーチは得意そうに精一杯胸を張る。

 話し続ける。

「それで、将来はおれがニオンをおれの巫女にしてやるからな。もうこれ以上ニオンが誰かに何か言われることはないから、安心しろよ?」

「え?」

 ニオンは涙の溜まったエメラルドの瞳を数度瞬きし、まじまじと目の前に座ったバーチを見る。

 五歳ほどの小さなツタの精霊の少年を見る。

「ええと」

 ニオンは戸惑いつつも、バーチの失礼にならないように言葉を探す。

 いくら子どものように見えても、彼はれっきとした森の賢者の一員で、ツタの精霊だった。

 普段から仲の良いニオンでも、妖精国の王女である以上は、精霊たちに何かと気を遣わなければならない。

 こういった子どもの冗談でも、相手に失礼の無いように応対しなければならない。

「そ、そうですね。考えときます」

 ニオンは努めて平静を装うように、紅茶のカップに口を付ける。

 バーチはその反応が不満だったのか、ニオンの方に身を乗り出す。

「何だ、ニオン。おれの巫女では不満なのか?」

 バーチは明るい金色の瞳で真っ直ぐにニオンを見つめてくる。

「そ、そういう訳では」

 精霊の巫女とは、俗に高貴な妖精族の女性がその精霊と一生を共にすることだった。

 妖精同士の結婚、と同じ意味を持つそれは、妖精国ではとても名誉なことだった。

 精霊の伴侶となる男性や女性は、それほど多いわけではない。

 精霊の巫女になれば、精霊と同じ寿命が与えられ、永遠に近い時を共に過ごすことになる。

 そんな一生の決断を、こんな茶飲み話の合間に軽々しく答えて良いものではないとニオンは考えた。

「ば、バーチ様がもっと大きくなったら、お返事しますね?」

 かろうじてそう答えるのが精一杯だった。

 それがいけなかった。

「大きくなったらって、おれは今でも十分大きいぞ! この姿は精霊力を抑えるために、こんな幼い姿をしているのであって。本当のおれはもっと大きくて、格好良いんだぞ?」

 この幼い姿のことは、バーチにとっては禁句だった。

 バーチは憤慨して答える。

 ニオンは自分の失態に頭を抱えたい気持ちになる。

「い、いえ、バーチ様。そうではなくてですね? バーチ様は今でも十分格好いいですよ」

 ニオンは何とかバーチを説得しようとしたが、もはや取り付く島もなかった。

「ようし、ニオンにおれの格好良い本当の姿を見せてやる。そうすれば、ニオンもおれに惚れ直すだろう」

 何やら話が変な方向に行ってしまった。

「あ、あの、バーチ様。そうではなくてですね」

 慌てて話を元に戻そうとしたが、無駄だった。

 部屋の中に強い精霊力が満ちる。

 大樹の精霊であるバーチの周囲に、緑の光となって集まる。

 子ども用の小さな椅子に座ったバーチは無邪気に笑う。

「おれの本当の力は、これくらいじゃないんだぞ?」

 どこから現れたのか、バーチの周囲に緑のツタが現れ、物凄い速さで枝を伸ばしていく。

 あっという間に、部屋中を覆い尽くした。


 *


「――と言う訳なんです」

 デューアは森の賢者の長老で、大樹トネリコの精霊であるノートゥンのところに来ていた。

 ニオンとの一連のやり取りを説明する。

 ノートゥンはデューアと丸い木のテーブルを挟んで座っている。

 焦げ茶色のローブをまとい、緑の帽子をかぶった白髪の老人だった。

 実質、この世界で一番精霊力の強く、この世界で一番長く生きている精霊だった。

 白く長いあごひげを撫でながら、考え込んでいる。

「ニオン王女は、人間であるお主のことを心配しておるのじゃよ」

 ノートゥンは小さく息を吐き出すと、テーブルの上にある熱いお茶をすすりながらつぶやく。

「お主は人間でありながら、この妖精国にやって来た。いくらこの森の妖精国の女王がお主にここに住むことを許したからと言っても、他の妖精たちもお主を受け入れた訳ではない。いくら女王の命令でも、ほとんど人間と会ったことの無い妖精達が、いきなり人間であるお主を受け入れることは難しい。種族の違いから生まれる軋轢や差別。それはお主も身を持ってわかっているはずじゃ」

「はい」

 デューアは小さくうなずく。

 ノートゥンに指摘される以前から、それは承知の上だった。

「差別は、同じ人間同士にもあります」

 デューアは青い目を伏せる。

 かつて人間の世界にいた頃の、辛い記憶を思い出す。

 あの頃の経験に比べれば、まだ妖精国での経験は優しい方だった。

「そうじゃのう。ニオン王女は母親の現女王に似て、本来は優しい性質のお方じゃ。妖精達に受け入れられていないお主を心配して、わざとあんな問題行動を取っておる、という考え方も出来るかのう」

「わざと、ですか?」

 その言葉にデューアの方が戸惑う。

「そうじゃ。お主はニオン王女の行動をきっかけに、妖精達と話す機会が増えたのではないかな?」

 デューアは考え込む。

 ニオンの問題行動をきっかけに、今まで話さなかった妖精達とも、その話題で話す機会が増えた。

 そう考えれば、ニオンの行動もまんざら悪いことばかりではない。

「確かに、そうです」

「じゃろう? ニオン王女は、お主が妖精達と打ち解けていないのを見て、わざとあんな突拍子もない行動を起こして、周囲の者たちとお主との距離を縮めようとしたのじゃよ」

 デューアはうつむく。

「そうだったのですか。それなのに僕は、ニオン王女のお気持ちも知らずに」

 本気でしょげ返るデューアを眺めながら、ノートゥンはお茶をすする。

「まあ、あれはニオン王女の素の性格で、そんな深い意味はなく、ただ単に周囲を引っ掻き回しているだけ、とも考えられるがのう」

 ひっそりと小声でつぶやく。

 デューアは顔を上げ、首を傾げる。

「ノートゥン先生、何かおっしゃいましたか?」

「いや、なんでもない」

 デューアの金色の髪が日差しを受けて輝く。

 ましてや、青い瞳、金色の髪、その整った容貌で、妖精国の女性たちから人気があり、密かにニオンがそれに焼きもちを焼いているなど、本人には全くあずかり知らぬことだった。

「お主はいつも深く考え込んでしまう癖があるようじゃが、ニオン王女のことはあまり気にしない方がいい。大事なのは、お主の気持ちじゃ」

 色んな意味でのう、とノートゥンは心の中でつぶやく。

 もちろんデューアは小指の爪の先程も気付かない。

「そうですね。ありがとうございます、ノートゥン先生。ニオン王女のことは、僕なりに考えて、対応してみます。ニオン王女が僕のことを心配して、僕と妖精達との距離を縮めようとしているのだと考えれば、もう少し広い心で受け止めることが出来そうです」

 ノートゥンは満足そうにうなずく。

「うむうむ。頑張れよ」

「はい!」

 デューアは明るい顔で答える。

 その表情は、年相応の少年のあどけなさが残る。

 年降る大樹の精霊であるノートゥンも、この世界に来るまでのデューアの詳しい過去は知らないが、出会ったばかりの最初の頃を思えば、ずいぶんと明るい表情が出来るようになったと思う。

 ――人間の世界でどんな目に合ったのかは知らぬが、こんな少年にむごい仕打ちをするものじゃ。

 普段は金色の髪で隠しているが、デューアの背中に火傷の跡があった。

 どんな理由でその跡がついたのかは知らないが、辛い経験をしたに違いなかった。

 そんな時、ごおっと強い風が吹きすさぶ。

 大樹の葉を揺らし、枯葉が空に舞い上がる。

「どうしたんじゃ?」

 ノートゥンは椅子から立ち上がり、手を伸ばし、風の精霊をつかまえる。

「どうしたと言うんじゃ? 王宮で何かあったというのか?」

 デューアには精霊の姿は見えず、声も聞こえなかったが、大樹の精霊であるノートゥンには他の精霊の姿を見、言葉を交わすことが出来る。

 力のある精霊でないと、デューアには姿さえ見えないのが普通だった。

 ノートゥンは緊張した面持ちで話し続ける。

「うむ、バーチが? どうしてそんなことを」

「どうかしたのですか?」

 ノートゥンの緊張した声に、デューアも立ち上がる。

「王宮で何かあったのですか?」

 緊迫した声でノートゥンに尋ねる。

 ノートゥンは白いあごひげを撫で、考える素振りをする。

「森の賢者の一人、ツタの精霊のバーチが、ニオン王女の部屋で精霊の力を使ったようじゃ。理由はわからぬが、一緒にいたニオン王女も巻き込まれ、現在王宮中はツタで覆われていると」

 ノートゥンはぱっと手を広げ、つかんでいた風の精霊を放す。

 強い風が再び沸き起こり、梢を渡っていく。

 デューアは腕で顔をかばい、強い風が収まるのを待つ。

「ニオン様が? いえ、それよりも早くバーチ様を止めなくては」

 デューアの提案に、ノートゥンは乗り気ではないようだった。

「そうじゃのう」

 のんびりと白いあごひげを撫でている。

「わしら精霊たちの間では、妖精達の頼みもなしにお互いの行動に干渉してはならない。それが決まりなのじゃ。力のある精霊が無暗に動けば、世界の秩序が乱れる。だからわしらはよっぽどの理由がないと動けない。本当はわしが王宮に行ければいいのじゃが」

 ノートゥンはちらりとデューアを見る。

「そこで、お主がわしらに代わって、あのバーチを止めて来て欲しいのじゃが。バーチは若輩者だが、大樹の精霊の一員であるため、力も強いじゃろう。だが、お主とニオン王女ならば、きっとバーチを止められるはずじゃ。頼む、わしに代わって、あのバーチを止めてくれぬかのう?」

「わかりました」

 ノートゥンの頼みに、デューアは大きくうなずく。

 羽織っていた鈍色のマントを広げる。

「ポチ」

 マントが巨大な犬の形を取る。

 灰色の巨大な犬がデューアの傍らに現れる。

「ぽち、僕を背中に乗せて、ニオン様のいる王宮まで行ってくれないか?」

「わん!」

 犬は一声吠えると、その体をかがめる。

 デューアはその背中にまたがる。

「では、行ってまいります。ノートゥン先生」

 ノートゥンを振り返る。

「うむ、気を付けてのう。ニオン王女とバーチを頼んだぞ」

「はい」

 デューアはしっかりと返事をして、大樹の枝の下に見える王宮を見下ろす。

 灰色の犬の首を撫でる。

「ぽち、頼む」

「わおーん!」

 灰色の犬は太い前足で大樹の幹を蹴る。

 デューアを背中に乗せて、眼下の王宮を目指して風のように駆け出した。


 *


「ちょっと、バーチ様! こんなことをして、どうするつもりなんですか?」

 ニオンの部屋の壁一面はツタでびっしりと覆い尽くされている。

 そういうニオンもツタでぐるぐる巻きに縛られている。

 ニオンのエメラルドの瞳には、宙に浮かぶ小さな精霊たちが慌てふためいているのが見える。

「ほら、小さな精霊たちもびっくりしているじゃないですか。もうバーチ様のお力は十分にわかったので、さっさと元に戻してください!」

 目の前には緑の髪に金色の目をした二十歳ほどの青年が立っている。

 足元まで覆う深緑色のローブをまとい、その端正な顔立ちには人懐っこい笑みを浮かべている。

青年はニオンをじっと見つめている。

「おれだって、やればこれくらい出来るんだぞ。どうだニオン、見直したか? 格好良いか?」

 それは姿を変えたバーチだった。

 普段は小さな子どもの姿をしているバーチだが、力ある精霊はその姿も自由に変えることが出来る。

 ニオンはそんな青年にげんなりして答える。

「そうですね。まさかバーチ様がこのようなお力をお持ちだとは思ってもいませんでした。すごいですね。流石ですね。だからどうか部屋を早く元に戻してください」

 投げやりな答えに、バーチはむっとする。

「何だ、ニオン。その言い方だと、全然すごそうに聞こえないぞ? せっかくおれが大人の姿になったのにうれしくないのか? おれだって一人前の精霊だぞ。おれだって精霊の巫女を迎えることくらい出来るんだぞ」

 頬を膨らませている様子は、子どもの姿の時と同じだった。

 力の強い精霊は、その伴侶として精霊の巫女を迎えることが出来る。

 精霊の巫女を迎えることは、一人前の精霊として周囲から認められたということだ。

 中には好き好んで一人でいることを好む精霊もいるが、それは個人の自由だった。

 かく言う森の賢者の長老のノートゥンも、人間の娘オフィーリアを精霊の巫女に選んでいる。

 ニオンは溜息を吐く。諭すようにつぶやく。

「あのですねえ、バーチ様。確かにバーチ様は、一人前の精霊でしょうね。大樹の長老であるノートゥン様に認められて、森の賢者の仲間入りを果たしたのですから。それについてはあたしが反対する理由はありません。けれど、精霊だって最初から世界の秩序を変えるほどに強力な力を持っていた訳ではないと聞いています」

 それは家庭教師であるデューアの授業で教えてもらったことなのだが。

 ニオンはそれをあえてバーチに話すつもりはなかった。

「精霊も年を重ね、さまざまな経験を積んで、今のような思慮深さと強力な力を持つに至ったのですよ? バーチ様はまだ若く、森の賢者になった日も浅い。それなのにいきなり精霊の巫女を選ぶのは、あたしは少し早いような気がします。精霊の巫女を選ぶのは、これからゆっくりと色々なことを学んで、精霊の力を制御出来るようになったらでいいのではないでしょうか?」

 ニオンの言葉を黙って聞いていたバーチは、打ちのめされたような表情を浮かべる。

「ニオンも、ノートゥンさまと同じことを言うのか? おれの力が足りないと、経験が足りないと。大樹の精霊の皆と同じ理由で、おれを嘲笑うのか? ニオンまでそんなことを言うのか?」

 ニオンはバーチの金色の瞳に宿る絶望を見て取って、慌てて言い添える。

「違います。バーチ様はまだ精霊になった日が浅く、もう少し時間を置いた方がいいのではないかと思って」

「うるさい、うるさい、うるさい!」

 青年のバーチの足元から何重ものツタが伸びてくる。

「おれは今がいいんだ! 今じゃないと駄目なんだ! 精霊の巫女を迎えて、もっと力をつけて、おれを馬鹿にしたあいつらを見返してやるんだ!」

 ニオンの体に絡みついているツタが締まる。

「ぐ、うっ」

 ニオンは苦しげな悲鳴を上げる。

 バーチの周囲に小さな怒りの精霊たちが取り巻いているのが見える。

 普段は害のない精霊だと思って見過ごしていたが、こういった時ははた迷惑である。

 怒りの感情に支配されたバーチは、その強い精霊の力の制御を失っている。

 ――もしこのままもっと強い怒りの精霊がやってきたら。

 小さな怒りの精霊だけならまだいいのだが、小さな精霊はもっと強力な精霊を呼び寄せる。

 このままバーチの怒りが収まらなければ、いずれは強力な怒りの精霊がやってくるだろう。

 かつて強力な精霊の加護を受けた偉大な妖精王が、強い狂気の精霊に取り付かれ、一夜で王国を滅ぼしたと文献にはある。

 それ以後、感情を司る精霊たちを極力王宮には入れない決まりが作られた。

 感情の精霊は時に人々に害を与える。

 それは森の妖精国の王家にも代々伝えられ、戒められる事柄だった。

 小さな怒りが楽しげに周囲を飛んでいるのを見て、ニオンまで頭に血が上る。

 ツタに締め上げられながら、ニオンはぐっと奥歯を噛みしめる。

「あんた達の親玉が、バーチ様に取り付いてでもみなさいよ。すぐに氷の精霊を呼んで、かちんこちんに凍らせてあげるから! 覚悟しなさい!」

 小さな怒りの精霊は宙を舞い、くすくすと声を立てて笑い合っている。

 ニオンはツタに絡め取られた体を動かそうと必死になったが、バーチの精霊力のせいか、辺りに他の精霊の姿はなく、精霊の力を借りることは出来ない。

「バーチ様、しっかりなさってください! あなたは怒りに我を忘れるほど、愚かではないはずです。だから怒りに我を忘れないで。怒りに囚われないで下さい!」

 ニオンは必至で叫ぶ。

 そんな時だった。

 辺りの景色が歪み、大きな灰色の犬にまたがったデューアが突如として部屋に現れる。

 空間術の使い手であるデューアは、空間転移の術も心得ている。

 デューアはツタがはびこった部屋を見回し叫ぶ。

「ニオン様、バーチ様。お二人ともご無事ですか?」

 ニオンはほっと息を吐き出す。

ツタにぐるぐる巻きの上、締め上げられてあまり無事ではない状況だった。

「な、何とかね」

 かろうじて答える。

「ポチ、ありがとう」

 デューアは灰色の犬の首を撫で、ツタの上に降り立つ。

 青年の姿をしたバーチを見て眉を寄せる。

「ノートゥン先生からここにいるのは森の賢者の一人、バーチ様だとお聞きしたのですが。バーチ様はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」

 辺りを見回す。

 それを見て、ツタに縛り上げられたニオンが怒鳴る。

「馬鹿、デューア! それがバーチ様よ。今は大人の姿になっているのよ!」

 デューアは部屋の中を見回していたが、青年の姿をしたバーチに目を留める。

「これがバーチ様?」

 デューアは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに表情を引き締める。

 バーチの前に立ち、顔を見上げる。

「お前が、ニオンの言っていた人間か?」

 デューアが口を開くよりも早く、バーチが不機嫌な声で言う。

「よくも人間の分際で、精霊であるおれの前にいられるな。精霊の姿も見えず、声も聞こえない人間が、よくもこの世界で生きていられるものだな? 無礼だとは思わないのか?」

 その声には明らかな嘲りが含まれている。

 デューアはバーチの敵意を受け流す。

「それはこの世界に来た時から、十分に承知しています。けれど森の賢者の長老であるノートゥン様も、森の妖精国の女王であるレヴィア様も、人間である僕にここに住んでいいと許して下さいましたから」

 青い目を細め、挑戦的な目でバーチを見上げる。

「だから僕はここにいます。ここにいてもいいと思っています」

 デューアの傍らには大きな灰色の犬が控えている。

「もちろんポチも、ここに住んでいいと許可をもらっていますよ?」

 犬の頭を撫でながら、穏やかに答える。

 バーチにはそれが気に入らなかったらしい。

 金色の瞳を怒りに染め、デューアを睨みつける。

「人間の分際で、生意気な口をきくな!」

 バーチの足元から何本もの太いツタが伸びる。そのツタは真っ直ぐにデューアに向かっていく。

 デューアは体をひねり、寸でのところで鞭のようにしなるツタを避ける。

しかし次々と伸びてくるツタに、徐々に避けるのが追いつかなくなる。

「流石は森の賢者の一員と言ったところか」

 デューアは口の中でつぶやく。

 空間を歪めてツタの軌道を逸らしているものの、次々と伸びてくる大量のツタに反撃する機会もない。

 一方のポチはツタの間を縫って、バーチに迫っていた。

「わんっ!」

 バーチに飛びかかる。

 その寸前、床から伸びたツタが槍のようにポチの体を突き刺す。

 同時に何本ものツタがデューア目がけて伸びていく。

「ポチ!」

「デューア!」

 デューアとニオンが叫ぶのは同時だった。

 ポチの体は灰色のマントに戻り、床に落ちる。

 一瞬気が削がれた隙に、ツタがデューアの頬をかすめる。

 頬から血が流しながら、デューアは呆然と立ちつくす。

「ポチ」

 デューアは灰色のマントを拾い上げる。

 ツタに絡め取られたニオンは足をばたつかせる。

「デューア、デューア。大丈夫?」

 呆然とするデューアには、ニオンの声も届かないようだった。

「たかが布に犬の姿を取らせていただけではないか。そんな子供だましの術は、精霊であるおれには効かんぞ」

 青年の姿をしているものの、得意そうに胸を張る姿は子どもっぽい。

 その姿にニオンはバーチの子ども姿を見る。

 ツタに巻かれながら、ぐっと奥歯をかみしめる。

 ぎりぎりと締まるツタを無視して、右手を振り上げる。

「バーチ様の馬鹿!」

 そばにいたバーチの頬を思い切りひっぱたく。

 それにはバーチだけでなく、そばを飛んでいた小さな怒りの精霊たちも目を丸くする。

「もしもデューアにこれ以上怪我させてみなさいよ。バーチ様なんてお茶にも呼んであげないし、図書室にも入れてあげないわよ。巫女にもなってあげないし、もう金輪際口もきいてあげないから!」

 ニオンはツタに巻かれながら足をばたばたとさせて、癇癪を起す。

「ひどいことをするバーチ様なんて、大嫌い!」

 その一言がとどめとなった。

 バーチの周囲から怒りの精霊が飛び去り、はびこっていたツタがしゅるしゅると巻き戻されていく。

 ニオンはまだ癇癪が収まらない様子だった。

「だ、だいきらい、って。おれはニオンのためを思って」

 バーチの姿が青年から子どもへと縮んでいく。

 後には床で泣き崩れる子どもの姿があった。

「おれ、ニオンがデューアにいじめられてると聞いたから。巫女になればもういじめられる心配がないと思ったから」

 ニオンはようやくツタから解放されて、床に降り立つ。

 泣いている子どもの姿のバーチに、さすがのニオンもそれ以上言えなかった。

「うわあああぁぁぁん。ニオンのばかー!」

 バーチは泣きながら部屋を走って出ていく。

 ニオンはその姿を黙って見送る。

「バーチ様には悪いけど、少しは反省してもらわないと」

 ばつが悪そうにそっぽを向く。

 そもそも自分が原因で招いた事態なだけに、後ろめたかった。

 いつものようにデューアにお小言の一つや二つ、もらう覚悟だった。

「ねえ、デューア。そ、その、今回のことはわたしが悪かったわよ」

 デューアの方を見ると、彼は穴の開いたマントを持ったまま固まっていた。

「ポチ」

 デューアの目は虚ろで、灰色のマントに見入ったまま微動だにしない。

「デューア?」

 ニオンは怪訝な顔をして、デューアの顔を覗き込む。

 デューアの肩が小刻みに震え、顔から血の気が引いていく。

「ポチ、僕はポチだけが家族の中で唯一の心の支えだったのに。だから僕はあの家の中でも耐えられたのに」

 真っ白になっていくデューアの顔を見て、ニオンは慌てて肩を揺さぶる。

「ちょっとデューア、大丈夫?」

 デューアは灰色のマントを抱きしめ、うわ言のようにつぶやく。

「ぼくは、ぼくは」

 体が傾き、床に崩れ落ちる。

「デューア!」

 ニオンは駆け寄りデューアの肩を揺さぶったが、デューアは固く目を閉ざしたままだ。

 嫌な気配がニオンの背筋を震わせる。

「な、何?」

 ニオンは辺りを見回す。

 元通りになった部屋の中には、気が付けば小さな精霊たちが集まっていた。

「これは、怒りの精霊? ううん、悲しみの精霊だわ」

 さきほどまで部屋を飛び回っていた怒りの精霊はどこかへ姿を消し、代わりに悲しみの精霊たちが集まっている。

 ニオンにはどうして悲しみの精霊がこの部屋に集まって来るのか、さっぱりわからなかった。

 しかもその精霊たちは、さっきの時以上に多く集まっている。

「どうしてこれほどの数の精霊が集まっているの?」

 ニオンのエメラルドの瞳の片隅に、大きな影をとらえる。

 その精霊は人の姿をして、こちらにゆっくりと近付いてくる。

「そ、そんな、どうして悲しみの上位精霊がここに?」

 感情の精霊は王宮には招き入れてはいけないきまりがあるため、ニオンも悲しみの上位精霊を見るのはこれが初めてだった。

 かつてデューアの授業で習った知識があるだけだ。

 怒りの上位精霊は男の姿をし、悲しみの上位精霊は女の姿をしていると習った。

 仮面で顔を隠した精霊は、見る者すべてに悲しみの感情を植え付けるらしい。

 見ているニオンまで、悲しい気持ちになってくる。

 上位精霊はまるでニオンなどいないかのように、気にも留めない。

 床に倒れるデューアへと歩み寄ってくる。

「悲しみの上位精霊は、デューアの悲しみに引き寄せられたの?」

 上位精霊の目的がデューアだと気付いたニオンは、上位精霊の前に立ちふさがる。

「デューアをあんたなんかに渡さないんだから!」

 両手を真っ直ぐに伸ばし、デューアを背後にかばう。

 上位精霊はニオンの姿に気付き、足を止める。

 仮面の下から悲痛の声を上げる。

「その者は、決して癒えぬ深い悲しみを抱えている。だから私が呼ばれた。ここに私を呼んだのは、まぎれもないその者だ」

 その声は甲高い悲鳴となってニオンの耳をつんざく。

 荒野を吹き渡る冷たい風のようにニオンの心の奥に眠った悲しみを揺さぶる。

 ニオンの胸に、大好きだった父王の姿が蘇る。

「お父様」

 父王が生きていた時、ニオンはよく王宮の庭を散歩した。

 まだ精霊術の扱い方がわかっていなかったニオンに、様々な精霊と仲良くなる方法を教えてくれたのは、他ならぬ父王だった。

 ニオンはその時の懐かしい記憶を思い出し、その場に泣き崩れる。

 上位精霊はニオンの横をすり抜ける。

 デューアのそばにかがみこみ、仮面をつけた顔でその顔を覗き込む。

 顔に掌を近付ける。

「悲しみに沈む者よ。その悲しみは私の力、私の糧。しばしお前の心に留まろう」

 上位精霊の姿がゆらぐ。

 その姿がぼやけ、やがて霞のように掻き消える。

 上位精霊の姿が消えると、ニオンの胸にわだかまっていた悲しみが晴れる。

「で、デューア?」

 ニオンはデューアを振り返る。

涙で濡れたエメラルドの瞳で床に倒れたままでいるデューアを見下ろす。

先程よりもさらに顔色が悪くなっているように思われる。

「デューア、デューア?」

 ニオンはデューアの体を揺さぶる。

 いくら揺さぶっても、デューアは固く目を閉ざしたままだ。

「そこまでだ」

 部屋に険しい男の声が響き渡る。

 扉が開かれ、部屋に王宮の近衛兵が槍を構えなだれ込んでくる。

 ニオンは驚いて振り返る。

 近衛兵の先頭に立っているのは、ニオンも知る人物だった。

「エルト公爵」

 この森の妖精国の大臣であり、女王が地域の視察に出ている現在、全権を任されている人物だった。

 エルト公爵はニオンの方へ真っ直ぐに歩いて来る。

 床に倒れているデューアを冷たい目で見下す。

「この人間の少年を、悲しみの上位精霊を王宮に招き入れた罪で逮捕する」

 目を覚まさないデューアの胸倉をつかみ、強引に近衛兵に引き渡す。

「こいつを地下の牢獄に放り込んで置け。こいつは悲しみの上位精霊に取り付かれている危険人物だ。目を覚まして暴れ出さないように、精霊封じの鎖で拘束し、厳重に監視しろ」

「はっ!」

 近衛兵はデューアの体を精霊封じの鎖で縛り上げる。

 猿ぐつわを噛まされ、近衛兵に連行される姿を見て、ニオンは抗議の声を上げる。

「エルト公爵、いくらデューアが悲しみの上位精霊に取り付かれているからって、その扱いはひどいのではないですか? デューアは何も悪いことをしたのではなくて、ただ悲しみの精霊に取り付かれてしまっただけなのに」

 エルト公爵は鋭い目をニオンに向ける。

 その眼差しに、流石のニオンもすくみ上る。

「事情は侍女たちから聞いておりますが、そもそもの発端はあなただと聞いています。いくら女王陛下のお留守だからと言って、問題を起こすようでは困ります。あなたにはもう少し王女らしい振る舞いをしていただかないと」

 小言をくどくどと連ねる。

 その間に、鎖で拘束されたデューアは近衛兵たちに運ばれていく。

 ニオンはエルト公爵越しにそれに気づく。

「デューア!」

 ニオンが大声で呼びかけても、デューアは目を覚まさなかった。

 悲しみの上位精霊に取り付かれたデューアは、暗い地下の牢獄へと連れて行かれた。

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