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デューアとニオン

 人間の住む世とは世界を隔する世界、黄界トゥグデイカ。

そこには世界の秩序を保つ力を持つ精霊と、その加護を受ける妖精たちが住んでいる。

その世界の中央にある大樹は世界を支え、それを守る妖精たちの国を治める森の妖精の女王レヴィアは、その美しさと聡明さで、他の数多くの妖精族を束ね、彼らと争わない長き平和な治世を続けている。

森の妖精国の第三王女ニオンは王族の中で最も精霊と語らう力が強く、精霊たちの加護を受けながらも、未だに精霊たちの力の扱い方を知らない。

そして人間の世界からやって来た少年デューアも、この世界の力とは違う強大な魔力を宿しながら、精霊や妖精たちに恐れられ、疎まれて日々を過ごしていた。

これは妖精の少女と人間の少年、それを取り巻く人々のお話。




デューアは午後の授業で使う本を整理しつつ、一息ついた。

「こんなものか」

 テーブルの上には動物や植物、鉱石の本や精霊たちの生態について書かれた本が並んでいる。

 その中からそれぞれの授業の進み方に合わせ、午後の授業で使うつもりだ。

 本を手に取り、内容を確認する。

「ニオン様には、これは少し難しいだろうか」

 精霊術の扱い方の書かれた本に目を通し、デューアは元あった本棚に戻す。

 それから五、六冊の本を見て、選り分けていく。

 本を選び終えると、挿絵の多い三冊の本だけが残る。

 デューアはポケットから金色の懐中時計を取り出し、時間を確認する。

 金の懐中時計は十時少し前。

 そろそろお茶の時間だろうか。

 デューアが仕える王女ニオンの部屋に、勉強の合間のお茶とお菓子を持っていくよう使用人に指示するのも家庭教師のデューアの役目だった。

本を選び終えたデューアは図書室を出る。

水晶で出来た建物の長い廊下を、厨房に向かって歩く。

 デューアが厨房に向かった廊下を歩いていた時だった。

 向かいから息せき切って走ってくる妖精族の使用人が見える。

「で、デューア様、た、大変です。ニオン様が!」

 ニオンに仕える年上の使用人だった。

 デューアを前まで来ると、赤い顔で息を整える。

「どうしたのですか?」

 デューアは使用人が息を整えるのを待って話しかける。

「そ、それが、ニオン様がまた癇癪を起して、お部屋から飛び出してしまいまして」

「またですか?」

 デューアは形の良い眉を寄せる。青い瞳を呆れたように細める。

「は、はあ、申し訳ありません」

 使用人は深く頭を下げる。

 その様子を見て、デューアはやんわりと諭す。

「あなたが謝る必要はありませんよ。癇癪を起してニオン様が部屋を飛び出すのは、これが初めてではありませんから」

 人間であるデューアを低く見て、辛く当たる妖精たちこそ多いが、こうして対等に口をきいてくれる妖精は、妖精国の女王や王女ニオンをはじめ、ごく少数だ。

 特に精霊の加護を強く受けている高貴な妖精ほど、異種族の人間を蔑むのが普通だった。

「い、いかがいたしましょう?」

 使用人は困った顔で尋ねる。

 デューアは額に手を当てて溜息を吐く。

「わかりました。私がニオン様の行方を捜します。後は私に任せてください」

 デューアの返事に、使用人の顔に明らかな安堵な表情が広がる。

「そ、それは良かった。デューア様がニオン様を捜して下さるのなら心強い。で、では、私は万一お部屋にニオン様が戻って来た時のために、部屋を見張っておりますので」

 使用人はにこにこと笑って、デューアに頭を下げる。

 上機嫌で足取り軽く廊下を戻っていく。

 これで肩の荷が下りた、といった様子だった。

 デューアは金色の短い髪を指でくしゃりとかき回す。

「やれやれ、あのわがままなお姫様には困ったものだ」

 溜息一つ、使用人の行った方向とは逆の方向へ歩いて行った。




 その日は空は青く晴れ渡り、太陽は温かく照って気持ちのいい日だった。

 そこは大樹の幹に支えられるようにして作られた妖精国の宮殿。

 色とりどりの水晶で組み上げられた壁が、太陽の光を受けて虹色に輝いている。

 妖精国の第六王女ニオンは、建築途中の宮殿の一番高い尖塔の屋根の上で、水色の長い髪と白い服を広げてのんびりと昼寝をしていた。

 傍から見たら、一つの芸術作品のように整った容貌のニオンだ。

 けれど精霊力も身分も容貌も申し分のないニオンにとって、その唯一の欠点は激しい気性だった。

 癇癪を起こせば、母親である女王でさえ手を焼くほどだ。

 姉たちが若くして嫁いで行く中、年頃になっても相手がいないのはニオンだけだった。

 外見は非が打ちどころがなかったし、ニオン本人もそのことを大して気にしている様子もなかった。

 水色の長い髪が日の光を受けてきらきらと輝き、白い服が風を受けてふんわりと広がっている。

 金糸の細かな刺繍をした濃紺の靴を履いた足をめいいっぱい伸ばし、ニオンは温かい日差しの下まどろんでいた。

「こんな気持ちの良い天気の日に勉強をさせるなんて、眠くなるに決まってるじゃないの。それがわからないなんて、妖精族のみんなも勤勉になったものだわ」

 先ほど癇癪を起して部屋を飛び出したものの、こんなに天気の良い日に怒っているのもしゃくだった。

 ふて寝をしようと横になったら、思いのほか気持ちが良くなって、怒りもどこかに吹き飛んでしまった。

 ニオンは白く長い足をぷらぷらと揺らす。

「後はおいしいお菓子とお茶があれば、最高よね。使用人たちに屋根の上まで運ばせようかしら」

 エメラルド色の瞳をまたたかせ、青い澄み渡った空を見上げていると、不意に顔に影が落ちる。

 頭上から不機嫌な少年の声が降ってくる。

「ニオン様、こんなところにいらしたのですね。どうかお部屋にお戻りください」

「げっ、出たわね。デューア」

 気持ちよく寝転がっていたニオンは、露骨に嫌な顔をする。

屋根の上に体を起こし、振り返ると、無表情の金の髪の少年、デューアがそこに立っている。

「私はニオン様の家庭教師として、もう何年もお仕えしていますが、幼少の頃よりの癇癪が未だに治らないとは、嘆かわしい限りです。そんなことではいつまで経っても、殿方に好かれるということがありませんよ? それとも本当に森の賢者たちに巫女としてお仕えするのですか?」

 森の賢者たちとは、この妖精国の中央にある一本の大樹を形作っている多くの木の精霊のことだった。

 一本の木に見える大樹は多くの木々が絡み合い、支え合って天にそびえる巨大な大樹となっているのだった。

「なによ、デューア。あんたまでそんなことを言うの?」

 デューアの言葉に軽く傷ついたニオンだった。

屋根を蹴ってデューアから距離を取る。

 反対側の尖塔の屋根に飛び移る。

「あたしのことは、放っといてよ。幼馴染で家庭教師のあんたに、あたしの性格をとやかく言われたくはないわ。あんたこそ根暗のくせにさ」

 デューアはニオンの悪態をものともせず、青色の瞳を細める。

「それを言われても、私はあなたの家庭教師を務めているのですから、仕方がないでしょう。偉大なる女王様には、ニオン王女の勉強や礼儀作法を教えるように仰せつかっているのですから」

 ニオンはエメラルド色の瞳で向かいの尖塔に立つデューアを睨む。

「家庭教師だろうと何だろうと、あたしの行動にケチを付けられる筋合いはないわ。この大樹の化身、森の賢者たちにだって、あたしは従わないからね」

 デューアは肩をすくめる。

「やれやれ。わがままなお姫様ですね。これではお付きの人が可哀想です」

 憐れみさえ向けるデューアに、ニオンは逆上する。

「な、何よ! あたしがわがままだって言うの? 幼馴染だからって、言っていいことと悪いことがあるわよ。あんたにそんなこと言われるとは思ってもなかったわ!」

 ニオンは風の精霊の力をまとって、空に舞い上がる。

 青い靴が屋根から離れ、水色の長い髪と白い服が風をまとってふくらむ。

「風の精霊さん、風の精霊さん。融通の利かないあいつの頭を、木枯らしを吹かせて少し冷やしてやってちょうだい!」

 ニオンは片手を天高く伸ばす。

 その手の先に風の精霊の力が集まる。

 風が渦を巻き、ごうごうと音を立てる大風となる。

 その風は向かいの尖塔の屋根の上に立っているデューアの金色の髪と長いマントの裾をなぶる。

 デューアは冷たい風の渦巻く中、大きな溜息を吐く。

「わかりました。ニオン様がお部屋に戻らないと言うのでしたら、致し方ありません。力づくでわかっていただくまでです」

空に浮いたニオンを真っ直ぐに見つめるデューアの瞳が青みを増す。

デューアがさっと手を一閃させると、足元に白く光る魔方陣が現れる。

そしてその白い魔方陣に重なるように、闇のような黒い魔方陣が現れる。

「光と闇の狭間に住まう者。形無き者、目に見えない者。微小ながら大いなる力を秘めし者。我の願いに応えて、今ここに姿を現せ」

 デューアの足元の白い光と黒い光が混じり合い、鈍色の光となる。

 それが着ていた灰色のマントにまとわりつき、デューアはそのマントを足元に脱ぎ捨てる。

そこから鈍色の光をまとった人の背丈ほどもある一匹の獣が姿を現す。

 鈍色の獣は、巨大なオオカミのような姿をして、デューアの足元で体を縮こませている。

 血のように赤い瞳に、耳元まで裂けた口には鋭い歯が並び、がっちりした体躯は獲物をやすやすと引き裂いてしまうほどに頑丈だった。

 デューアは鈍色の長い毛に覆われた獣の首元を撫で、もう片方の手でニオンを指さす。

「ニオン王女を取り押さえなさい、ポチ」

「わん!」

 獰猛な容姿と似合わず、かわいらしい声で応じる。

 尖塔の屋根を蹴り、弾丸のように一直線にニオンに向かって駆けていく。

 そのオオカミのような獣は尻尾を振りきれんばかりに振り、宙に浮かぶニオンに突進していく。

「え? ちょ、ちょっと」

 驚いたニオンは、風の術をデューアに使うのも忘れて慌てる。

「風の精霊さん、あの獣からあたしを守って!」

混乱しつつも、風の術でとっさに防御結界を張る。

 向かって来たオオカミを風の結界で弾き飛ばす。

「ぎゃん!」

 吹き飛ばされたオオカミは、尻尾を巻いて主人の元へ駆け戻る。

 デューアは怯えているオオカミの頭を優しく撫でる。

「よしよし、怖かったですね。もう大丈夫ですよ?」

 顔を上げ、空に浮かんでいるニオンを睨む。

「こんな可愛いポチをいじめるなんて、ひどいと思わないんですか? あなたは血も涙もない人ですね」

「な、何よ? あたしが悪いって言うの? そいつをけしかけてきたのはあんたじゃないの!」

 ニオンはかっとなって怒鳴り返す。

 デューアは小さく息を吐き出し、オオカミを元の灰色のマントへと戻す。

「では、仕方がありませんね。ニオン様には異空間で少しの間反省してもらいましょう」

 デューアが軽く手を振ると、目の前の景色が歪む。

 それはこの世界の妖精族が扱う精霊術とも、デューアが普段使う魔術とも違っていた。

 それはデューアがこの世界にやって来る時に使った空間術だった。

 彼は生まれながらに持っていたこの力で、人の世界からこの世界に渡って来たのだった。

「な、何? 何よ」

 ニオンは歪む周囲の景色を見て怯える。

 デューアのその力を見るのは、ニオンは初めてではなかった。

けれど肌が泡立つような異質な気配には、慣れないものがあった。

 ガラスの割れるような音がして、目の前が突然暗闇に覆われる。

「きゃあ!」

 ニオンは体を縮め、とっさに目を閉じる。

 目の前に暗闇が落ちてくる。

 辺りが静かになって、ニオンは恐る恐る目を開ける。

 気が付けば銀色の柱が目の前にあった。

「な、何よ、これ」

 銀の柱が鳥かごのように組み合わされ、ニオンがそこから出られないような作りになっている。

 ニオンは銀色の柱に近寄り、それに触れてみる。

「幻、じゃないのよね?」

 金属の硬質な手ごたえに、ニオンは辺りを見回す。

 少し離れた場所には無表情のデューアが立っている。

 非難めいた青い瞳でこちらをじっと見つめている。

「ニオン様、どうしてその鳥かごに自分が閉じ込められているのかわかりますか? もしご自分のしたことを反省して、これから二度とお部屋から勝手に飛び出さないと誓うのでしたら、そこから出して差し上げましょう」

 ニオンは銀色の柱をつかみ、怒鳴る。

「だ、誰が反省するものですか! あ、あたしは何も間違ったことはしていないわ」

 デューアは青い目を細める。

 小さな溜息を吐く。

「そうですか。では、しばらくその鳥かごの中で反省していて下さい」

 デューアはそう言って、ニオンから少し離れた場所に座り、本を開く。

 ニオンが反省するまで、意地でもここから出さないつもりらしい。

「ふん、別に出してくれなくていいわよ。あたしはこの鳥かごの中にだって一生いてもいいくらいよ」

 ニオンはそっぽを向いて、デューアに背を向ける。

 ぶつぶつと文句を言う。

「あたしは、何も間違ったことはしていないんだから。デューアの方こそ、何も知らないで、勝手なこと言ってさ」

 ニオンは銀色の鳥かごの中でじっとしている。

 精霊たちの力を借りようと心の中で呼びかけているのだが、一向に彼らの声が返ってこないのだ。

 この鳥かごから逃げ出そうにも、精霊の力なくしてはニオンの力では無理そうだった。

 それもそのはず、ここはデューアの作った異空間だった。

その異空間の中のためか、精霊たちの力が届かないのだった。

普段の空間とは切り離されたこの場所では、それを作り出したデューアこそ万能だが、そこに囚われたニオンには何もできなかった。

それがぼんやりとわかったのか、ニオンは精霊の力を借りるのを諦める。

ちらりとデューアの様子をうかがう。

デューアは黙々と本を読み続けているのが、ニオンにはしゃくだった。

――何よ、あたしの気持ちも知らないで。

ニオンはエメラルドの目にうっすらと涙を浮かべる。

隠してはいるが、ニオンは幼馴染の人間のデューアのことが好きだった。

本当は人間のデューアともっと仲良くなりたいと思っていた。

けれど妖精国の王女という立場上、周囲の目もあって人間と仲良くなるのははばかられた。

この世界では、様々な精霊と妖精族が住んでいるが、人間がこの世界にやって来るのは稀だった。

デューアの他に何人かの人間がこの国で暮らしているが、皆人間と言うだけで妖精たちに嫌われ、蔑まれていた。

 今日だって、妖精族の家庭教師に「人間とは、とても野蛮な生き物です。母なる自然を破壊し、自然に感謝することもなく、我が物顔で暮らしているのですから」と普段から言われ続けていた。

 それは暗に人間のデューアとあまり仲良くするな、と妖精族の家庭教師は言っているのだった。

あまり毎日言われ続けるので、ついには堪忍袋の緒が切れてニオンはその家庭教師の授業の時、部屋を飛び出したのだ。

その家庭教師だけではない。

他の使用人や妖精族の家臣たちだって、デューアと関わり合いにならないようにさかんに忠告している。

いくらニオンがデューアは悪い人間ではないと訴えても、彼らは聞く耳を持たなかった。

――どうしてわかってくれないの? 人間だって、妖精だって、同じ生き物だと森の賢者たちは言っているじゃないの? どうしてデューアが人間だと言うだけで、そんなに辛く当たるの?

デューアの幼馴染として育ったニオンには、どうして人間をそんなに悪く言うのかわからなかった。

ニオンは怒りと共に、どうしようもない悲しみを感じ、部屋から飛び出した。

泣きたいような悲しい気持ちになった。

 今までの縁談だって、相手の王子が人間を蔑むような言葉を言わなければ、上手くいっていたのだ。

 ニオンだって怒りたくて怒っている訳ではない。

 他の妖精たちがデューアを悪く言うから、怒らないデューアに代わって怒っているのだ。

 ニオンは頬を膨らませ、唇を尖らせる。

 白い頬が赤みを帯び、尖った耳の先がほんのりと朱に染まる。

――あたしだって、デューアの前では素直でいたいわよ。デューアともっと仲良くなりたいと思ってるわよ。わがままを言ったりしない、可愛い女の子でいたいと思ってるわよ。でも、それが出来ないから、こうして悩んでいるのよ。どうせ鈍感なあんたなんて、あたしのこんな気持ち知りもしないでしょうけどね。あたしがどんな気持ちであんたと一緒に過ごしてきたか、あんたは何も知らないんでしょうね。

 ニオンは溜息を吐く。

 妖精と人間に恋が出来るのかどうかは、わからない。

 周囲に知られれば、間違いなく反対されることはわかり切っていることだった。

 そのためニオンは周囲に知られないように、デューアにさえ知られないように振る舞っているつもりだった。

 ――デューアの馬鹿! あたしの気持ちも知らないで!

 ニオンはこぼれ落ちそうになる涙を指でぬぐう。

 背を向けているデューアに、泣いているのを悟られないように振る舞う。

「あんたは、デューアは、どうしてこの世界に留まっているの? こんなすごい力があるのなら、人間たちの住む元の世界に戻ることも出来るんじゃないの? 人間たちの世界に戻れば、きっとそのすごい力で、何でも出来るんじゃないの?」

 心の中でデューアの悪口を散々並べながら尋ねる。

 デューアは本から視線を外し、顔を上げる。

 ぱたんと本を閉じる。

 青い瞳を伏せ、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

「僕が戻れる世界なんて、ありませんよ。僕は人間の親に捨てられたんです。あちこちの世界を彷徨っていた幼い僕を初めて受け入れて下さったのが、この国の女王様です。女王様は身寄りのない僕を温かく迎えて下さった。女王様に今まで受けた恩をお返しするために、僕はここにいるんです。僕に帰れる故郷や待っている人など、どこにもいないんですよ」

 普段ニオンが見たこともない優しげな笑みを浮かべながら、デューアは話す。

 同時にその微笑みは、どこか寂しげにも見える。

 何気なく聞いてしまったニオンは、激しく後悔する。

胸が締め付けられて声が出せなくなる。

 ニオンがデューアと初めて会った時だって、デューアはそんな話はしなかった。

 思い返してみると、昔のことも、自分の家族のことも、デューアの口からは何も聞いたことがなかった。

 ニオンが母や父、姉や兄のことをあれこれ話している時も、デューアは笑顔で黙って聞いていた。

 その時のデューアの気持ちを、ニオンは想像したこともなかった。

 ニオンのエメラルドの瞳から涙がこぼれ落ちる。

「ごめんなさい、デューア」

 ニオンは両手で顔を覆い、鳥かごの中で泣き出す。

「あ、あたし、今まで何も知らずに話していて、本当にごめんなさい。デューアがそんなだったなんて、あたし全然知らなくって」

 全身を震わせしゃくり上げる。

水色の長い髪が顔に落ちる。

――あたしの馬鹿。デューアの気持ちを、想像していなかったのは、あたしの方でしょ。あたしがデューアに何か言う資格なんて、何もないのに。

 背後からデューアの足音が近づいてくる。

 軋む音がして、鳥かごの扉が開かれる。

 涙越しに振り返ると、デューアの優しげに微笑む顔が見える。

「ニオン様は、女王様と同じ、お優しいお心をお持ちです。それは家庭教師の僕が一番よく知っていますよ。けれど、どうか周りの人たちに心配をかけるのはお止め下さい。ニオン様はこの国にとって必要な方なのですから。そのお優しいお心を僕ではなく、周囲の人たちに向けるべきです。そうすれば周囲の人たちも、ニオン様がわがままな性格ではなく、慈愛に満ちた方だときっとわかってくれるはずです」

 ニオンは涙で滲む目でデューアを見上げる。

 ――デューアは? デューアはこの国に必要じゃないの? どうしてそんな悲しいこと言うのよ。いつかあたしを置いて、どこか遠くに行ってしまうの?

 喉まで出かかった言葉は、声にならなかった。

 デューアは静かに笑っている。

「さあ、お部屋に帰りましょう」

 デューアはニオンに手を差し出す。

 ニオンはしばらくの間ためらっていたが、そっとその手をつかむ。

 闇が晴れ、明るい景色が目の前に広がる。

 二人は元の尖塔の屋根の上にいた。

 どこまでも晴れ渡った青い空と、明るい陽射しが降り注いでいる。

 ニオンは泣き腫らした顔で、まぶしさにエメラルドの瞳を細める。

 デューアの手を握りしめたまま、じっと黙って座り込んでいる。

「あんたは、それでいいかもしれないけど」

 すねたようにぽつりとつぶやく。

「え?」

 デューアは不思議そうに首を傾げる。

 ニオンはきっとデューアを睨みつける。

「あんたがあたしの元から勝手にいなくなったら、絶対に許さないんだから! あんたの帰る場所はこの国で、あんたはあたしの家庭教師なんだから。まだまだ教えてもらいたいことも沢山あるし、この国のことだって、人間のことだって、あたしは全然知らないんだからね!」

 ニオンはデューアの手を両手で握りしめ、勢いよく立ち上がる。

 手の甲でごしごしと涙をぬぐう。

「母様にだって、まだまだ恩を返さなきゃいけないだろうし、あんたの知識はこの国には必要なんだから。勝手にいなくなったら、あたしが地の果てまで追いかけていくんだからね。覚悟しなさい!」

 デューアには、どうして突然そんな話になったのか、さっぱりわからない様子だった。

 尖った耳の先まで真っ赤になっているニオンに、鈍感なデューアは気付かなかった。

「とにかく、あんたが人間であろうと、妖精であろうと、あたしは全然気にしないんだからね。あんたはあんたであって、あたしの幼馴染であることに変わりはないし、あんたの知識には妖精族の学者だって敵わないんだから。そこはもっと自信を持っていいのよ?」

「はあ」

 デューアは釈然としない表情で返事をする。

 やはり最後まで聞いても、ニオンが何を言っているのか、よくわからない様子だった。

「そう言えば、どうしてニオン様は癇癪を起してお部屋を飛び出されたのですか? まだ理由を聞いていないのですが」

「ぎくっ」

 ニオンは気まずくなって、デューアの手を離す。

「そ、それは、あんたには関係ないでしょう? 今となってはどうでもいいことじゃない」

 ニオンはエメラルドの瞳をデューアから逸らす。

 デューアは誤魔化そうとするニオンに真剣な顔で詰め寄る。

「どうでもいいことではありません。ニオン様の行動を女王様に報告するのが、私の家庭教師としての務めです。どんな些細な事でも、女王様にご報告しなければなりません」

 真面目に返すデューアに、ニオンは溜息を吐く。

 どうしてこの人間族の少年は変なところで融通が利かないのだろう。

 どうして自分の好意に気が付かないのだろう。

 ニオンとしては、一度この少年の胸倉をつかんでそれらを問いただしてみたいところだった。

 赤い顔でそっぽを向く。

「とにかく、どうでもいいったらどうでもいいのよ!」

 ニオンはデューアから逃げるように尖塔の上から飛び降りた。

 風の精霊の力を借りて、ふわりと空を駆ける。

 宮殿の別の屋根に飛び移り、自分の部屋を目指す。

「やれやれ」

 デューアは肩をすくめ、ニオンの遠ざかっていく後姿を見送る。

 小さな溜息を吐く。

 空を見上げると、大樹の枝が宮殿に影を落とし、木々の緑が日の光を受けて輝いている。

 どこまでも続く青い空に、デューアは青い目を細める。

「ノートゥン先生に、後日ニオン様のことをご相談してみようか」

 宮殿を覆う巨大な大樹を見上げ、一人つぶやいた。

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