三文芝居の幕開けは
かつて、世界には『国家』なるものが存在していた。
多種多様な民族が、それぞれ固有の文化や言語をもつ、独立した一つのコミュニティ。山に、谷に。沿岸部に、内陸部に。世界は広く、果てしなく、人はその好奇心と探究心を胸に抱き、まだ見ぬ世界へと進み、生きる。たとえ水もない、乾いた砂の大地だろうと、夏の日も寄せ付けぬ、凍てつく氷の大地だろうと、そこは必ず、誰かの王国。
人が願えばそこにはきっと神がおわし、大いなる神はその地に人を迎え入れた。
穏やかな時の流れは、ゆっくりと『国家』を変えていく。
少しでも住みよいように、少しでも楽しいように、少しでも効率的に。人はその歩みを止めることはなく、それに比例するかのように、人口はだんだんと増えていった。
緩やかに、けれど確実に増えてしまった人類は、互いに衝突を始めた。最初は、豊かな領土を手に入れる為。増えてしまった国民を養うため。
しかし時が経つにつれ、人は欲望というものを身につけた。自分の欲望を満たすことを考えるようになった。もっと美味しいものを、もっと綺麗な服を、もっと豪華な家を。もっともっともっと。人は奪う。
またある場所では、神が原因で争いをするようになった。人の拠り所たる神は戦いの大義名分と化し、その御手は人を救うためではなく、人を殺すために存在した。
そして約70年前、世界を巻き込んだ大きな戦争が起きた。今となってはもう、原因もわからない。領土か、欲望か、それとも神か。ただ、化学兵器や戦闘機など、これまでとは比べ物にならないほどの人を殺す道具が生まれた。
砂の大地も氷の大地も、例外なく血の色に染められ、辺りは爆煙が漂う。砂煙。絶え間ない警報。空腹。兵士のパレード。流れ弾。道に打ち捨てられた死体。
たった数年間という短い時間の中で、他国と争い、内部で分裂し、兵士や一般人を含めた、たくさんの人が戦争の業火に消えていった。残された人々は逝った者と未来を憂い、絶望のふちに佇んだ。
そしてあまりに呆気なく戦争は終わる。まるで神々の一瞬の遊戯だったかのように。病床に見る、無機質な悪夢のように。余韻もなく。はい、おしまい。
しかし、皆が皆、戦争を終わったものとして捉えることができたわけではなかった。当たり前だ。犠牲者の数はどれだけ願っても減ることはなく、そして人は、忘れることはできなかった。その犠牲を。
人々は戦争を憂いた。戦争がなければ息子は死ななかった。父は、母は、家族は、友人は、恋人は、死ぬことはなかったのにと。変わらずそばにいて、笑いあっていたのにと。
『国家』がなければ、戦争などというものはなかったはずだ。だれかがそう呟いた。ならば、『国家』をなくしてしまおう。戦争のない世界を作ろう。平等な世界を作ろう。みんなが笑いあえる世界を作ろうーー。
絶望のふち、涙も枯れ果てた人々は、未来を見るために歩み出した。
そして戦争から20年後、世界は統一された。
統一された世界には、戦争はなかった。人種差別もなかった。宗教を自由に選べる権利を与えられた。
誰もが感じたはずだ。ここは人類の理想郷。神々とて、この理想郷には一切の手出しはできまい。人々は希望に満ちた目に喜びの涙をたたえ、誇り高く胸を張り、戦争を振り払う第一歩を力強く踏みしめた。
それは、理想郷が出来てから、50年後の戦記。
✳︎
警報が鳴り響いた。
けたたましい音が最大音量で、スピーカーをぶち壊すように鳴り響く。間違っても、火災報知器の訓練ではない。そんな通達は一切無かったことは、だれだって教授の青ざめた顔を見ればわかってしまう。
教授の狼狽ぶりとは対象的に、講義を受けていた生徒たちはいたって冷静である。居眠りをしていた生徒は不服そうに起き上がり、近くの生徒に、なにこれ、と聞いている。あたしも知らなーい。ねー、何だろうねー。物騒だな。まじでうるさい。頭おかしくなりそうなんだけど。
耳障りなサイレン音が突然鳴り止む。サイレンが鳴っていたのはほんの一、二分だったけれど、あまりの音量に頭痛がする。生徒たちの囁き声が遠い。厚い壁を隔てて聞いているかのように、はっきりとしない。よくあの子達は喋れるな、と顔は知ってるが名は知らない生徒に呆れ半分尊敬半分の目を向ける。
ガチャガチャとマイクをつなぐ音がした。スピーカーに視線を移す。肩で切りそろえた黒髪が揺れた。
〈警報! 警報! 只今、『ユートピア』が侵入してきました。速やかに、講堂に避難するように。繰り返します・・・〉
どの教授だかは知らないが、ずいぶんと癖のある話し方だ。狂ったように、ただその言葉だけを繰り返す。ノイズも混じって、さながら出来の悪いホラー映画の小道具のようだ。気味が悪い。加えて、繰り返されるその言葉も含め、全体的に嘘臭い。纏めていえば興醒めである。
窓際に座っていた彼女はラクガキをしていた教材を閉じ、立ち上がった。髪と同じ漆黒の瞳を窓の外に向けるが、見えない。視力が低いわけではなく、いつの間にか窓際に群がった生徒たちが邪魔なのだ。彼女の前に立っている男の子は、同い年とは思えないほど背が高くて、彼女のことなど目に入らない様子だ。背伸びをしてみるが、それだけでは到底足らないことは明白である。
さらに追い打ちをかけるように、彼女は誰かに突き飛ばされた。つま先立ちの不安定なところに、思い切り体当たりされたのではたまらない。強かに腰を机に打ち付け、その拍子にノートやシャーペンが床に散らばる。
「ああ、もう」
何なんだよ、と少しふてくされて、彼女は机の上に唯一残っていたペンケースを鷲掴んだ。シャーペンを拾う気にもなれない。
もう少しだけ背伸びをして、少女は様子を伺った。
ちらりとしか見えなかったが、そこではたくさんの群衆がスピーカーを片手に、何やら喚いていた。火炎瓶らしきものを手にしている者もいる。人数にして100人くらい。どうやら、本当に『ユートピア』のお出ましであったようだ。
よくもまあ、暇人が集まったものだと内心嘯く。中心人物らしき腹の出た男が必死に声を張り上げているようだ。健闘むなしく、完全防音の校舎とうるさい警告放送のせいで何を言っているかは分からないが。
しかし、何を要求しているかは誰でも知っていた。
国家反逆団体『ユートピア』。
50年前に統一された世界を、またばらばらにすることをスローガンとして掲げている団体である。もちろん、今の世界の成り立ちを根本から揺るがすので、議会はこの団体を認めていない。しかし彼らも表現の自由を盾に好き勝手にやっている。議会もなかなか手を出せず、野放しの状態が依然として続いていた。
また、その独特の議論を展開するだけでは飽き足らず、時々彼らは、このように国立の施設に無断で立ち入り、好き勝手に喚き散らす。もちろん取り締まられるが、このようなことは日常茶飯事だ。一応避難勧告も出るのだが、それも事務的なもので、緊張感の欠片もない。議会と『ユートピア』のいたちごっこだ。
「カミラ、見えた?」
その声は気遣うというよりも、背の低い彼女を揶揄する響きがつよい。その証拠に、その声は笑いをこらえて震えている。
黒髪の少女ーーカミラはあえて彼女に目を向けなかった。確かめずとも、カミラに話しかけるような、酔狂で無遠慮極まりなく無礼講を地で行く人物など、この地球上には一人しかいない。現に今、シャーペンでカミラの耳の穴をくすぐるという、不快かつ不可解な行動は常識という言葉を知っている人なら絶対にやらない。彼女以外には。
カミラは耳の穴のシャーペンを引っこ抜き、彼女を射殺さんばかりに睨み付ける。ホールドアップしたのは視線の先の少女、ユリアナである。彼女は青色の猫目を悪戯っぽそうに細めて、ニヤニヤとしながら、頭の上に挙げた手をヒラヒラと振った。あわせて、彼女の薄茶色をした癖っ毛のポニーテールが、ゆらゆら揺れる。
「さっきから背伸びしてどうしたの? あ、もしかして、見えなかった? ごっめーん、カミラ、身長が……ごふっ」
問答無用で肘鉄である。あたしより図体のでかい生物など、滅びてしまえば良いのだ。
「ちょっと、なんにも言わずに肘鉄って……。カミラのシャーペン拾ったの私なのにぃ。だから彼氏ができないんだよぉー……うわっ!」
「ユリアナ、今から3分喋るな」
肘鉄から立ち直った彼女は、懲りもせずにカミラに頭を叩かれた。大袈裟に痛がる彼女もまた、落ち着いている。まるでこれが訓練であるかのように。
カミラはわざとユリアナと目を合わせないように窓の外を見たままだ。カミラの言いつけを守ってか、ユリアナは喋らないように口元を抑えているが、目元は気味の悪い笑みが張り付いている。そのままユリアナはカミラに抱きついて、カミラと同じように外を見た。口元はまだ笑みが消えていないが、彼女のつり目は普段よりも若干つり上がっている。挑戦的な表情に見えなくもないが、青色の瞳が若干不安そうに揺れていた。
「ユリアナ」
少し心配になったカミラが声をかける。
カミラの顔を覗き込んだユリアナは、いつも通りの生意気そうな笑顔だった。
「だいじょーぶだよ、カミラ。それよりもさぁ、これ、明日の朝刊に載るかな? ちょっとドキドキしない? 歴史の一ページ的な!」
ユリアナの不謹慎な発言に呆れた目をして、カミラはそれ以上なにも言わなかった。その代わり、丁度耳に入った警報に従って、ユリアナのポニーテールを引っ張って、講堂へと導く。
他の生徒はまだ窓際だった。先ほどまで注意していた教授は一体なにをしているのだろう。
カミラは窓の方をもう一度だけ振り返る。生徒たちの頭ごしに、『ユートピア』の様子が一瞬だけ見えた。
『ユートピア』の持っているプラカードには『人類に多様性を!』の文字が踊っている。彼らのスローガンだ。爆竹やロケット花火が舞い、美しい言葉を並べた御託が謳われる。
ああ、なんてつまらない。
カミラはユリアナのポニーテールを強く引っ張る。八つ当たりだ。
ーー何に対する?
「痛っ、ちょっと、痛いってば」
「大丈夫。死にはしない」
「カミラが言うことー?」
恨みがましい視線をスルーし、カミラはふと後ろを振り返った。
「どうかした?」
「いや、なにも」
そう、なにもなければいい。
避難勧告のサイレンが、耳鳴りのような音を立てて、足音を消した。
ーーその時のあたしたちはまだ、
ただ、つまらないことだとしか思っていなかったけど。