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夜の庭  作者: 葉嶋ナノハ
2/3

2 密やかな捧げもの




 ランバート家に新しく雇われた庭師グレンは、日の差す日中その姿を現すことはない。


 手元を見なくとも進めることのできるタディングレースは、暗闇の部屋で真夜中を待つアマベルにとって良い退屈しのぎとなった。

 誰もが眠りに落ちた屋敷を出たナイトガウン姿のアマベルは、花の灯火を頼りに広い庭のどこかにいる青年の元へと足を速めた。大きく欠けた月は青く光り、アマベルの背中へグレンの居場所を優しく囁きかける。


 庭の奥で一つだけ、ぼんやりと頼りなく灯った明かりへ近付いていく。アマベルの気配に気付いたグレンは作業を中断し、頭を下げた。彼の履く、足首周りが細い造りのラバーブーツの側に灯りは置かれていた。

「たくさん道具があるのね」

 グレンの腰周りに巻かれた革の道具入れに、いくつも収められている大きさの異なる剪定鋏やスコップなどを、少女は興味深げに見詰めた。

「お寒くはありませんか?」

 艶のあるベルベットに刺繍とリボンが施された白い足を包み込んでいる室内履きへ顔を向ける。ゆったりとした布に身を包むアマベルは、その視線へ言い訳するように慌てて口を開いた。

「はしたない格好をしているのはわかっているわ。それに、足音が響くんですもの。裸足でも良かったのだけれど」

「それはなりません。お風邪を召してしまわれます」

「この庭全部、一人でお仕事しているの?」

 胸の前で手を組んだアマベルは、構わず仕事を続けなさいとひとこと添え、自分へ向ける心配げな視線から逃れようと話題を変えた。

「ええ」

「おかしいわ。だって前はニックが庭師の長で、あと二人庭師がいたのよ?」

「そうですか」

「それに、グレンの腕は細いと思うのだけど」

「力仕事が出来ないように見えますか?」

「……見えるわ」

 上目遣いで正直に答える少女に、グレンの表情が和らいだ。

 ランバート家の一人娘、アマベル。大きな黒い瞳と艶のある鳶色の髪を持ち、品のある小さな口元からは、媚びている訳ではない人懐こい言葉が次々と放たれていく。グレンは手を動かしながら、不思議な魅力を持つ目の前の少女の言葉を漏らすまいとしていた。大きな声にならないよう、吐息と共に吐き出されるその声を。

「他の者は必要ないと、旦那様が判断されたのでしょう」

「あなたが夜にしか庭にいないのはなぜ?」

「旦那様が、私の能力をお買いになったからです」

「眠らない花のこと?」

「夜に世話をしてやらなければ、いつも通り身を縮ませ花弁を閉じてしまう花がたくさんあります。ですからこうして、花が眠る直前から明け方まで仕事をさせていただいています」

 地面に置いてある道具を担いだグレンは、手に灯りを持ってその場から薔薇の咲く一角へ移動した。そこは花の中でもより一層、月の輝きをその身に受け、光り輝いていた。清楚な残酷さを持ち合わせた贅沢な数の、白薔薇。


「グレンの髪はお父様似?」

「父も母も私と同じ髪の色でした。瞳も肌の色も。……妹も」

「羨ましいわ。私も姉妹が欲しかった」

 アマベルは小さく溜息を吐いた。

「私、お父様と似ていないでしょう? 髪の色も瞳も」

 振り返ると、月の光を反射した瞳は自分を見上げていた。

「お父様の本当の娘ではないの。父は小さい頃に他界して、お母様は私を連れてここでお父様と再婚なさった。そのお母様も亡くなって……それだけ」

 白薔薇の花びらを指先でなぞるアマベルの呟きは寂しげだった。同じ花弁に手を寄せたグレンは、その茎にそっと鋏を入れ処理をし、再びアマベルの手に白薔薇を乗せた。

「どうぞお持ち下さい。棘は除きました」

「綺麗。真っ白で、どこも汚れてはいない」

「すぐに部屋へお戻りになって水を与えて下さい。暫くはお側に置いておけるでしょう」

「もう戻らなくては駄目?」

「お嬢様がいらっしゃらないとわかれば、大変な騒ぎになります」

「グレンが外にいることで執事も安心しているのだわ。夜の見回りが減ったもの。お父様もお忙しそうだし、それにもし私がいないとわかっても……」

 口を閉ざした少女へ耳を傾ける。しかしその続きが語られることはなかった。

「グレンを困らせるのはいいことではないわね。お休みなさい」

「お屋敷の入り口までお送りします」

「でも」

「他の方に気付かれないようにいたしますので」

 庭師は手袋を外し、明かりを消した。揺れる度に金属の音がする腰に携えた道具も全て取り外し、その場に置いていく。不思議な関係がここに生まれたのを、隣を歩く互いの気配の中に感じていた。これ以上近付いてはいけない。けれど離れがたい思いに抗う術も二人にはない。




 アマベルがグレンの元を訪れるようになり、数回目の真夜中。質素な造りの狭い小屋の中、幅の広い軋む床板の上を興味深げに少女は歩き回っている。その姿を、机の前で椅子に座り道具の手入れをしている碧の瞳が時折追いかけていた。

「鏡が、ないのね」

「必要ありませんから」

 首を傾げたアマベルは、そのまま棚へ視線を移す。ぎっしりと並んだ本は、ここの庭師が受け継いでいくものだ。ただ、屋敷内のものとは違い、本の傷みは激しく表紙が無いものまである。

「庭に関する本がたくさん。ねえ、これは外国の本?」

「ええ。東洋のものです」

「グレンは東洋の文字が読めるの?」

「少しですが……」

 驚く少女をよそに、グレンは不思議な文字が綴られている厚みのある本に手をかけた。いつも手袋をはめているその手は、思っていた以上に青白い。まるで陶器のような冷たさを感じた。

 視線を上げると、自分を見詰める青年のそれとが交わり絡み合った。身を隠した草陰と同じに再びアマベルの鼓動は速まり、呼吸が掻き乱される。顔を逸らしたアマベルの頬は薄薔薇色に染まっていた。

「……読んでみて。聞きたいわ」

「よろしいのですか?」

「もちろんよ。早く読んでちょうだい」

 急かすアマベルを見詰めたまま、グレンは無言で躊躇っている。

「どうしたの?」

「では」

 咳払いをした青年は、ページをめくり、かしこまって朗読を始めた。

「一、ネズミを生け捕りにするには、まず」

「ネ、ネズミ?」

「最後までお聞き下さい。ネズミを生け捕りにするにはまず、餌を準備する」

 大きな目をさらに丸くし、眉を寄せて真剣に耳を傾けるアマベルに、グレンは笑いを堪えながらもう一つ咳払いをした。

「二、キッチンに現れることが多々あるが、ベッドルームへも出没し、時にはシーツを這い上がって」

「きゃ! もうやめてやめて!」

「お嬢様が読めとおっしゃったのですよ」

「グレンの意地悪!」

 彼女の声と小さな拳を胸に受け止め、笑いながらグレンは思う。いつの間にか、この少女が自分の元へ訪れるのを心待ちにしていたのだと。そうして、捕らえられ痛めつけられ、壊れかけた誇りと心へ、慰めという恩恵を受けているのは自分の方なのだと。


「随分手が冷たいわ。寒いの?」

「いえ。お嬢様の手が汚れます」

 偶然触れた柔らかな手から、逃れるようにグレンは身体ごと離れた。

「ねえ、グレンは踊れる? 上手じゃなくていいの。ほんの少しだけでいいから」

「ワルツ程度でしたら」

「じゃあ私の相手をしてちょうだい」

「ここで、でしょうか?」

「そうよ。いい? 頭の中でイメージするの。この曲よ」

 アマベルが口ずさむと、頷いたグレンの口元から同じ曲が流れ出した。今度は躊躇うことなく触れ合う手が、暗くて狭いこの場所を小さな幸せで満たしてくれる。

「あなたが庭師だなんて、嘘みたい」

 ステップを踏みながらアマベルが呟いた。

「言葉遣いも、立ち居振る舞いも、その姿も、お屋敷に出入りするどんな紳士よりも優雅で美しいわ」

 アマベルは青年の袖口から覗く手首に見える、そしてシャツの襟元にもある鎖骨に乗った新しい痣に視線を滑らせた。きっとそれは、まだ見ぬ場所にいくつも存在するのだろう。

「グレン」

「はい」

「私のことを、憎んでもいいのよ」

「……」

「でなければつらいでしょう? とても」

「何のお話でしょう」

「あなたもお父様に、」

 アマベルの言葉を遮るように、二人のワルツは突然止んだ。離した右手で、グレンはかき集めるように自分のシャツの胸元を掴み肌を隠す。

「お嬢様を憎むなど、この私にできるとお思いですか?」

 困ったように微笑むグレンの表情は、アマベルの小さな胸を締め付けた。この感情の名を、少女はまだ知らない。




+




 晩餐会が終わりに近付く時間、アマベルの部屋には必ず四角い小瓶が用意された。昨晩も行なわれた儀式の様子を、グレンの部屋へ訪れたアマベルは思い出していた。

 満たされた小瓶の行方。この数ヶ月の間、夜だけではなく枯れることなく咲き続ける花たちの不思議。屋敷まで自分を送るグレンの足音は響かない。以前よりもずっと忙しくなった父の仕事。グレンの身体に残る悲しい痣。ここへ通うことを誰かしらは知っているはずなのに、何も問われることのない日々。

 細い糸で少しずつ組み合わさっていく繊細なレースのように、アマベルの中でいくつもの疑問は答えを持ち、形を成していた。


 仕事を終えた庭師の顔は、普段よりも一層今夜は青白く見えた。ただ疲れているのでないことを容易に想像できるほどに。

「ねえグレン、きちんとお食事しているの?」

「ええ。いただいております」

 ろくに口へ運ばれてはいない様子のパンを、グレンは細かくちぎり皿の上に乗せ、明朝起き出す小鳥たちの為にドアの外にあるベンチへ置いた。

「優しいのね」

「いえ」

 部屋へ戻り、答えたグレンの瞳は椅子に座るアマベルの左手を凝視していた。自分でも気付かぬうちに、狂喜を帯びた妖しさを漂わせて。そこには昨夜の儀式でつけられた癒えない傷が、当ててある布を赤く染めていた。

「具合が悪そうだわ」

「何ともございません。お気遣いされることのないよう」

 息が上がり始め、別の場所へ移動しようとしたグレンをアマベルの手が引き留め、呟いた。

「昨夜……あれだけでは足りなかった?」

「!」

 目を見開いた青年の肩が小刻みに震え出す。同時に身体の奥から這い出そうとするおぞましい感覚に翻弄されそうになり、咄嗟に抑えつけた。それとは反対に冷静な少女の声が、薄暗い部屋中に響き渡る。

「グレン、私の前にひざまずいて」

「……」

 椅子から立ち上がった彼女の前で、言われた通り庭師は床へ膝を着いた。絶えず自分を締め付けている隠された足首が痛む。この屋敷に仕える身である自分は、彼女の下僕でしかない。たとえここへ来る前の自分が何者であったとしても。

「顔を上げて。口をひらいて」

「お嬢様……?」

 グレンの鼻先には、いくつものフリルがあしらわれた袖口から伸びるアマベルの左手がある。それはグレンにとって耐え難い甘美な匂いを撒き散らしていた。

「傷に直接でなければ、私に被害はないのでしょう?」

「お戯れを」

 顔を背けようとしたグレンの頬を、アマベルの右手が押さえつけた。振り切るように言葉を搾り出す。

「お止め下さい。許されません、このようなこと……!」

「それは私が決める事よ」

 青白い頬に添えられたままの少女の右手の親指は、彼の唇を優しくなぞった。逆らう事を許さない黒目がグレンへ問いかける。

「……お嬢、様」

 少女を見詰める灰色の瞳は碧へ戻らない。渇望の色を乗せた輝きは、ますます鋭く色濃くなってゆく。引きずり出された自分の中に宿る理性は、仮面を剥がされ苦しさにのた打ち回り、激しく悶えた。


 親指をグレンの唇から離したアマベルは、左手に巻いてある布を取り、床へ落とした。乾いた微かな音を合図に、グレンの鼻先へ両手を差出し、露になった左手小指の付け根を右手で力強く押す。傷口から赤く溢れ出した雫は、瞬く間に小指へ流れ零れ落ち、青年の唇を濡らした。溜息を洩らしたグレンは口を開き、舌先でそれを受け止める。

 小瓶に詰められた彼女の慈悲を受けなければ、生きながらえる事のできない、力を失った忌まわしい身体。鏡に映らないこの身を知っても尚、傍から離れようとはしない少女へ、グレンは次から次へと滴り落ちてくるアマベルの雫を啜り喉を鳴らしながら、胸の奥で一人誓いを立てた。

 美しく優しく、愛しいアマベルへ。逢う度に抑えていた焦がれる思いと共に、この身が朽ち果てるまで。

「もっと……大丈夫よ」

 囁く声と同時に自分の舌先に乗せられた、か細い指を口に含む。爪から、柔らかな指の間接まで舌を滑らせ、滴りで喉を潤していく。せき止めることの出来ない狂おしい程の欲望が、グレンの全てを支配していた。


 一心不乱に自分の小指へ吸い付き、水音を響かせながら恍惚に震えるグレンの金髪を、アマベルは右手でゆっくりと撫でた。

「私の匂いがするグレン。あなたが、大好きよ」

 温かく変化していく、動かし続ける唇と少女の左手を包み込む手、赤みを差し始めた美しい頬。零れる吐息も皆、熱を帯び喜悦の声を上げている。


 少女は瞳を潤ませ、自分を求めすがりつく青年を、長いこと愛しげに見詰め続けていた。













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