第3話
冴子から電話があったとき、俺は桂の中村軒の店先の縁台に座ってきんつばを食っていた。
ここの粒あんはほんとうに旨いのだ。
「碧、今日仕事?」
「いや、今日はロケやったからな。雨で中止や。」
今日は現代もののドラマの撮影日だった。俺は桂川の中州で発見される死体役だったのだが、
俺の出番までに雨が強くなってしまい、結局中止になってしまった。
せっかく桂まできたので、こうして中村軒にいるというわけだ。
「ちょっとお使い頼める?」
麦代餅を手みやげに冴子のうちに行くと、そう頼まれた。
「寺ノ内の堀川にお茶道具のお店があるんよ。田代さんっていう。」
ああ、あのあたりはそういう店がいくつかあったな。
「どっち?西?」
「ううん。東。堀川から東。頼んであった品物が届いたらしくて。電話しとくし受け取って来てほしいねん。」
「ええよ。」
「あたしも行く。」
ナツメが部屋からひょこっと顔をだした。
二人で傘をさして、ぶらぶらと歩き出した。子供連れで歩いても、そんなに遠い場所ではない。
冴子が自分で行かないのはなぜだろう、と思ったが、主婦はいろいろ忙しいのだろうな、と納得した。
隣のナツメを見下ろすと、胸に例のナンテンのペンダントが揺れていた。
「なあ、ミドリ。」
「ん?」
「おかあさんのこと好き?」
「ぶっ」
なんだ、いきなり。
「えっ、えーと。それは。」
「なんや。はっきりしいひんな。」
じろりと俺を睨む。
「どっちなん。」
「いや、どっちって・・・いわれてもやな。」
「やっぱりコブ付きはあかんか。」
「コブ付きって・・・おまえどこでそんな言葉覚えてくるんや。」
ああ、へんな汗が出て来た。
「いや、それはない。それは関係ないけどな。」
「ないけどなんや。」
「いや・・・。」
サエコニハ、チュウガクノトキニ、イッカイフラレテル・・・。
「まあ、大人にはいろいろあるんや・・・。」
「ふん。」
ナツメはつまらなそうに鼻をならして、ぷいと前を向いた。
俺はナツメの半歩後ろを動悸を押さえながら歩いた。
ああ、びっくりした。そんな普段、気がつかないふりをして棚上げにしてることを、
いきなり目の前に突き出してこられたら、びびるっちゅうねん。
「あ。」
ナツメが急に立ち止まった。もうそこに堀川通りが見えている。
それを横断すれば、目指す茶道具屋はすぐだ。
「どうした?」
「・・・わからん。渡ってみてから。」
ナツメは眉間に皺を寄せて堀川通りの向こうがわを見つめていた。
俺はなんとなく、不吉なものを感じた。
信号が青にかわり、横断歩道を渡る。
ナツメの足が徐々に速まっていく。
田代茶道具店の看板が見えたとき、ナツメの視線はその向かい、雨の中に黒々とそびえる大きな門のほうを向いていた。
「宝鏡寺・・・」
俺がつぶやき、しばらくしてふたり同時に叫んだ。
「人形寺?!」
門のなかに入って行こうとするナツメを、俺はあわてて止めた。
「ちょっと待て!まず、説明してくれ!」
「ミドリの着物に残ってた匂い、病院で嗅いだ匂い。おんなじ匂いがする。」
「え・・・。」
「ここや。」また門をくぐろうとするのを押しとどめる。
「あの人形は大丈夫なんやろ。それに、ここの人形かて、みんな供養されてる・・・。」
「せやから気になんねん。なんでこんな匂いすんのか。」
「危険が・・・あるかもしれんのか。」
「わからん。でも。」
ナツメがじっと俺の目を見た。
「ミドリがおってくれたら、大丈夫やと思う。」
・・・俺はつくづくアホやったと思う。小娘のこのひとことに、コロッとやられてしもたんやな。
「ちょっと見るだけやで。危ない思たらすぐやめるで。」
そういいながら結局、俺たちは門の中へと入っていってしまった。
とはいっても、ここは春と秋の2回、一般公開の期間があって、そのとき以外はなかには入れなかったはず・・・。
右手に人形の供養塔が立っている。だがナツメはちらっとそちらを見ただけで、
「あれはちゃう。まだ新しい。」と言った。
緑青のふいた、胴葺きの屋根が見える。あれが本堂だろうか。
「!!」
建物の入り口に、どんな修羅場をくぐってきたのか、と思えるような煤けた福助人形がちん、と座っていた。
けっこうでかい。ひとかかえはありそうだ。
に、と笑ったような顔をしているが、目は全然笑っていない。
ナツメが福助のうしろに回った。俺もあわてて続く。
闇が。福助の背面は闇だった。
そのとき、俺の鼻にも感じるものがあった。
生臭いような、獣の濡れた毛のような、それでいて煙いような、神経に障る匂い。
「この匂いか。」
「うん。ここやな。」
めっちゃ危険な匂いやんか。俺の中の警報装置が、ようやく作動した。
近づいてはいけない・・・!
「あ、やば・・・。」ナツメの体がぐいっと前に傾いだ。
「引かれる!」
すぐに上半身が闇に溶けた。
かろうじて、ナツメの足首を捉えた俺の腕が、すごい勢いで引っ張られる。
「くそっ・・・・!」
自分の軽卒さに腹がたった。
ナツメになにかあったら俺のせいだ。
冴子にどう詫びればいいのか。渾身の力を込めてナツメを引き戻そうとしたが、
逆に自分がどんどん引きずられているのに気づいていた。
冷たい闇が体を包む。
足まで引きずられたとき、ついに踏ん張る拠り所を失った。
ナツメの足首の感触だけが救いだった。
俺は眼を閉じて、歯をくいしばった。
手のひらに、全神経を集中させる。
この手だけは、なにがあっても離さない。
俺たちはそのまま、闇の中を落ちていった。