イロハ二
男は微笑み、死んでいた。
私には、それですら狂気と評するに値するのに、あの男は自身のあの死に様ですら、狂気をまとえる少数の奇特な人間の真似事だと言って嘲るのだろうか。
死んでもなお、くせの強い髪の毛の奥で、暗闇を見据えているような瞳の奥に光が指すこともないんだろうか。
「ただ、恐ろしかったです」
目の前の女は終始うつむいて、自分の腕を撫でさすっていた。この仕草は、自分の身を守ろうと思っているときにとる無意識の行為であることを私は知っていた。時々、なにかを思い出すのか小刻みに震える肩や下に流れる瞳の動き。
少し薄暗いと感じる照明に照らされて陰る女の眉根を見て、私は彼女に質問する。
「なにが、恐ろしかったんですか」
「男の目です」
「なぜですか」
なんども繰り返した質問。しかし女は必ずここで間をあけた。
私の後ろで若い刑事が手帳にペンを走らせる音も、自然と遅くなる。
「男の、瞳があまりに暗かったから。それだけです」
考えている間にしては短い、いつも同じ応え。
「被害者の男の名前、わかりますか」
「いいえ。初対面でしたから」
これは正解だった。死んだ男と、目の前の女は過去、なんの接点もなかった。
現場で感じたのは、人気がやけに少ないことだった。
いや、違うな。厳密にいえば黄色いテープで隔離された現場を見ようと、通りすがりの老若男女は多数集まってはいた。それを静止させるために、数名の警察官が見張りをするくらいには人気はあった。
だが、そう言った野次馬らの気配の数ではない。
男が死んだのは二時前。チェーンのファーストフード店ならば、一番賑やかな時間帯の店内でのこと。
それなのに、男が死んだところを実際に目撃したのは男と同じテーブルについていた女性とそのテーブルから遥かに離れた隅のテーブルで屯っていたグループ一つとその他数人。この人数の少なさは異常だった。
駅からあまり離れていない商店街の並びの店舗。自分もよく通う場所だから、ここの繁盛ぶりは知っているからこそ、あまりに不自然。
従業員の話では、被害者の男と目撃者の女が店内に入ってからしばらくか。これから商売という時間にぞろぞろと人が出ていったという。
男の死因は青酸カリだった。口臭、死体の様子、女が話した内容からも間違いはなく、しかも事件性は極めて低い。公共の場を借りた悪趣味な自殺。
ほとんどそう断定されながらも、何となく嫌な気配が周囲にまとわりついていた。その証拠に、制服を着た警官たちの表情は一様に暗い。死体があるから、それだけが原因ではない、きっと。
「初対面なのに、あなたはどうして被害者について行ったのですか」
「ついて行ったんじゃないです。つれて行かれたんです」
「ファーストフード店に」
「そうです。今日、休みだったんです。だから駅前に買い物に。歩いてたら突然腕をつかまれて、いま暇、と聞かれて」
絶え間なく動いていた手が、肘あたりで止まる。おそらくそのあたりをつかまれたのだろうな、と推測した。
「どうして肘をつかまれたときに抵抗しなかったのですか」
「ナンパだと思ったんです。それで、まぁ、そこまで顔も悪くなかったし、いいかなぁって」
「なるほど」
何度聞いても、女の話に大きな違いはない。細かな記憶違いは、逆に女が語る話が真実であることを物語る。
自殺だと決まっている事件に、形だけとはいえ話を聞いて時間を多く使ってしまうのが私は嫌いだった。気味悪いところは何点かあるのだが、大きな収穫は見込めないと思った時点で、目撃者への聴取はやめたほうが、後の両者の関係と目撃者の心理のためにもなる。
男が死んで一日も過ぎ、一度帰ってもらって二度目の聴取になる女の顔にはかすかにだが隈が浮いている。硬い椅子に座ってもう二時間。私も腰が痛かった。
「では、最後にもういくつか、よろしいでしょうか」
「はい」
「男との話の内容を、教えてください。できれば、男が死ぬ直前の話がいいです」
「男は」
女はそこで話を切り、始めて顔を上げた。
私は、いや後ろの若い刑事もギョッとした。深く穿たれた深淵のような暗い瞳だった。瞳孔と黒目の堺がわからない、粘度の高い黒。
ハッとしたとき、私は腕を撫でさすり肌は粟立っていた。産毛が立ち上がっている感覚が気持ち悪い。
女が言った、男の瞳が恐かった、の意味を身をもって知った気がした。
「男は狂人の遺伝子の話をしていました。自分が唯一知っていた狂人の彼に憧れて、彼の真似事をしていたと。でも、男は彼になれないと知った。それなのにもどるべき自分の姿を見失ったと、言っていました。彼になりたかったのになれなかった、ならば、最初の目的は完遂しよう、と言って」
「そうですか。わかりました、では、男が死んだときの状況を、教えていただけますか」
「さっきの言葉を言って、男はテーブルの下に手を伸ばしたんです。私、何か持ち出されるのかと怯えて、腰を浮かせました。男が取り出したのは青い錠剤で、なんのためらいもなく、上をむいて、男は錠剤を飲みました。そして……」
「そこまでで結構です。お辛い話でしたでしょうが、全力で事件を完結させますので。ここで話していただいたことは外部に漏らすようなことはいたしません。では、ご協力ありがとうございました」
軽く頭を下げて立ち上がり、若い刑事をともない後を婦警に任せようとドアを開けたとき。
「待ってください」
呼び止められた。
ドアノブに手をかけたまま、背筋を滑るようなかすかな声に私は後ろを振り向きたくないと心から思った。斜め後ろに立つ、若い刑事も体を頑なにさせたのが気配でわかる。
「男は微笑んでいましたか」
「なんのことでしょう」
「男は、死ぬときに微笑んでいたんです」
そんなわけがなかった。被害者の男の顔は、とてもじゃないけれど微笑んでいるとは言えないひどいものだった。眼球は飛び出し、顔中の筋肉が中央に向かって収縮して、舌は青黒く蛇のように伸びきっていた。
「いいえ。とても、苦しそうな顔でしたよ」
「そうでしたか。でもあの男、私に向かって微笑んだんです。薬を飲んで、苦しんで、痙攣して、そのあとに。私には、とても幸せそうに見えました」
これで完結。




