イロハ
一杯目を飲み終え、二杯目のストローに男は口を付ける。空のパックを転がした右手で、ハンバーガーの包を器用に開けた。
誰かに助けを求めたい一心で、控えめに周りを見渡すといつの間にか周囲に人影はなかった。いや、詳しく言うと、このテーブルを中心に、輪のように空席が出来ている。店内の端のテーブルに数人、息を潜めるようにして黙々とシェイクを口にしている。
「人が……」
「居なくなってしまったね」
「そんな」
「怖かったんでしょうかねぇ、この話。うむ、一般的な健全な遺伝子をもった人たちってことだよねぇ。親に感謝しなきゃ」
「やめてください! そんな! 気味の悪い!!」
「気持ち悪いですかね、この話題」
「も、もちろん」
叩きつけようとした手が勢いをなくしてテーブルに落ちる。
飲み終えたらしい、左手のパックの蓋を空けて、ミルクやガムシロップやレモンのパックを入れていく。なにやら満足気な顔をして蓋を付け、ストローでごろごろ回して口を付ける仕草をした。
「僕、一度だけ、本物に会ったことがあるんだ。本物の狂気をまとった人間」
ハンバーガーを大きな一口で喰いちぎる。
「彼には才能があった。唯一の重要性を理解していない故の特徴かもしれないけれど、多方面に器用で自己の犠牲も他者の犠牲も厭うことをしなかった。そんな彼に、僕は憧れて、まぁ、そのときは傍観に徹したんだけど。彼の仕草、彼の好み、彼の行動、彼の口調、彼の思考を徹底して観察して記憶していった。憧れも、恋も、似たものだと評する人が見たらあれは恋ゆえの異常だったんだろうね。ストーカーじみていたね、あの時の僕。けど次第に、憧れは自己を侵食していった。彼が自分だったら、自分が彼だったら、彼のように振舞って彼のようになんでもできたら。そう思うようになった。考えていたけど、それは飽くまで無意識下の思考。僕は相変わらす彼のストーカー状態。そんなあるとき、彼が死んだ。多分事故死。多分っていうのは、彼、廃車ばかりを積んである立入禁止の場所で、廃車の山に挟まって死んでいたから。どんな状況かって思うだろ。あまりの事件の異常さに、警察は殺人事件も考えたらしいけれどね、彼以外の人間の痕跡は見当たらない。けれど奇妙なことに重いものを引きずったような、妙な跡がある。事件は結局解決せず、不可解な事故として片付けられた」
二口目のハンバーガーを頬張る。これだけで、残りは半分ほどになってしまった。
「けれど、実をいうと僕は彼が死ぬところを見ていた。廃車の山が見下ろせる八階建てのマンションの屋上から、双眼鏡を持って彼を観察していた。彼は何を思い立ったわけか、それは今でも知ることはできないけれど、多分なんでもない思いつきで、ちょっとした好奇心から、廃車の山を作ろうと試みていた。バカみたいだろ。それでも、彼は才能ある者で器用で狂人だ。廃車を山から引きずり下ろして積み直し、あるいは引き抜いて富士山みたいな完璧な傾斜の山を作っていたようだった。それも中程に仕上がった頃、彼は突然、無造作に積み重ねられていた方の廃車の山に向かった。山の中腹、という表現がいいのかな。あせた黄緑色の車体。運転手席のドアを開けて、彼はその中に潜り込んでいった。そして、なかなか閉まらないのかしばらく悪戦苦闘して、ついに力強く思い切ってドアを引いた。その瞬間」
包から残りを抜き出して、ガムシロップなどを入れて蓋を閉めたパックのストローを銜えて、中身をすするふりをした。ハンバーガーの残りを一口噛んで、男は包を丸める。
「僕は彼の血飛沫を見たよ。しぼみかけた水風船に穴を開けたときのようだった。細い血飛沫が弧を描いて落ちていった。それでも、僕はその光景を見ながら冷静だったし、同時にあんな状況になっても彼はきっと微笑みを浮かべていただろうと想像した。その頃、僕は学校に通ってたんだけど、熱がでたって嘘をついて数日ベッドの中で過ごした。僕の、依存の対象がいなくなった。どうすればいい? そのことをずっと考えてた。で、あるとき、閃いた。なら、僕自身が彼になっちゃえばいい」
「異常だわ」
「異常だろうさ。僕はそうなりたくてなったんだ。でも、ここまで演じられるようになるまで、また苦労も多かった。なにせ、彼と僕との隔たりは遺伝子の種類から、種族から違ったから。一般人と生粋の狂人。これほど深い人間間の隔たりはないよ。彼の仕草、口癖、好み、思考。できる限りと記憶した僕でも、どんな場面でそんなリアクションを彼は取るのか、この反応であっているのか、実を言うと全く自信がないんだ」
「それは」
「もちろん、人をマネするにあたって完璧な自信ってないだろうけど、ある程度、人っていうのは好みでなじみのパターンやリアクションってあるだろう。彼にはそれがなかった。場面ごとに彼のリアクションは完全にオリジナルだったから。だから、僕には未だにいたって彼のような、狂気をまとった装いが出来ているのか、全く不安で仕方ないんだ。ほら、その証拠に、僕はいつだって挙動不審で緊張している。彼本人ならば、絶対にありえないことだよ」
空っぽのパックの蓋を開けて、男は残りのハンバーガーを突っ込んだ。またもそれに蓋をして、ストローでかき混ぜる。
「僕は、彼の不完成品だ。彼のマネすらもろくにできない、中国で作られるお粗末な類似品にも劣る。僕には自信がない、そして僕の日常はいつも不安定で緊張ばかりだ。僕はね、もう、本来の自分の性格のメモリすら、彼の記録に上書きされてしまった。彼を演じるのは無理だと分かったのに、それをやめることもできない、疲れてしまったのに、彼のお粗末な類似品をやめることができなくなった。遺伝子は個人の経験の結晶だって僕は言ったよね、うん。だから、僕は自分のなかに彼を造り、彼を最後まで演じ通すことで彼の狂気の遺伝子を自分の中に作りたかった。彼の、家系の一部になりたかったってこと。僕は彼になりたかった、彼の一部になりたかった、彼を受け継ぐものになりたかった。でも、ダメだって知った。疲れたのに自分にも戻れない。前にも、後にもいけない。ならば」
ジーパンの尻ポケット。男はそこに手を伸ばし、何かを握って引き上げた。嫌な予感がした。昔から嫌な予感ほど当たり、いい予感ほど外れるのは決まっている、世の摂理だ。
刃物の閃きを瞬発的に予想して、逃げ腰になっていた私は男の手に乗った真っ青な錠剤を見て、自分でも気がつかないほどに安心した。
男は、立ち上がりかけた私をようやく見上げて、始めて、瞳を合わせた。
交錯。
「最初の目的は完遂しよう。僕は、彼の不完全品のまま、死のう」
男は無造作に、上をむいて大きく開けた口のなかに錠剤を放り込んだ。さっき、ポテトを食べていたときよりも自然に。
突き出した喉仏が上下して、少しの間。
呆然と固まった私は、未だに腰を浮かしたまま男の白く鋭い顎の先を見つめているしかない。
ぷっ。
溜めていた息を吹き出すように、天井に向かって男は小さく血を吹いた。痙攣、細長い首をかきむしるように男は両手で喉を掴む。猫背気味だった背筋が金属棒程にまっすぐ伸び、鋭い顎の先は天井を突く。
男の唇から血がこぼれ、雪解けの水の勢いで首を伝い手を染めた頃、私はようやく目を見開き、体を震わせることができた。足元から這いあがる怖気が、指先に触れたとき、男はソファーの背に体すべてを脱力させてもたれた。赤い腕が、首筋から静かに剥がれてゆくのを、絶望して私は見た。




