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イロ


「お待たせ。はい、君の」

「あ、どうも」

「いえいえ、ね。捕まえてるの僕だし。こんくらいしないとねぇ」

 自分のところにパックジュース(おそらく同じもの)を二本置いて、ハンバーガーを三つ、テーブルの中央に転がした。私のところにも新たに置かれたコーヒーのSサイズ。まぁ、半分飲んでいるし氷も溶けきって味は薄くなっているからいいのだけれど。

「ミルクはいらないよね。さっきも入れてなかったし。僕もね、レモンティーをわざわざ頼むんだけど、このパックっていうの? これが開けられなくて」

「あけるって、先端を切れ目から割ればいいんじゃ」

「そうなんだけどさ。できないんだよね、これが。別に、いれないのも慣れちゃったし、大した問題じゃないんだけどさ」

 パックに残っていたポテトを全て、紙ナプキンの上にぶちまけて男はそれをつまみ始める。そういえば、モジャ毛の間から垣間見れる目が、正面に居る私を捉えたことがない。常に首をかしげて傾いた格好をしているからかもしれないが、話すときには相手の目を見て話しましょう、聞くときには相手の目を見て聞きましょうと教えられてきた身としては、どうにもマナーとしてそれらの行動が気にかかってしまう。

 小腹の空きを感じて、かすかに温かなハンバーガーをひとつ取った。

「あ」

「え」

「……」

「……なに」

「いえ、別に」

「……」

「なんでも」

 反応しておきながら、膨れながらちょろちょろ視線を迷わす男に、こいつ、一人で全部食べようと思ってたのかと悟った。これみよがしに音を立てて包を下げ大口でかぶりつくと、びくびく肩を上げて最後にガックリとうなだれた。面白い、ざまぁ。

「犬は」

「え、なに」

「犬だよ、犬。犬は群れで行動する生き物なんだ。いや、それが基本、本能としてインプットされていた行動だった。だから、今でも人間から少し間をあけた環境で育つ犬は群れを形成しようとし、その群れの中でリーダーを作り出そうとするの。そして、そういった犬たちは個人単位での上下運動を好まない。群れを率いるリーダーが、仲間内で最も高い場所にあるべきだという刷り込まれた認識によって。この本能の認識は躾においても有効で、群れのリーダー、つまり飼い主となる人間は滅多なことでは犬を抱き上げることをよしとしない、膝の上に抱きかかえることをしない、とそういった教えがあったりもするんだよねぇ。犬を持ち上げること、それは犬と良好な関係を築く上で必要な主従関係崩壊につながるからなんだけど」

「へぇ、知らなかった。で?」

「で?」

「いや、その話は何か、これからの話につながるとかじゃ、ないの」

「今のは閑話休題っていうか。番外編みたいな」

「あ、そう」

 やっぱり、変だ。

 ハンバーガーの半分を食べ終えた頃、男は空になった紙ナプキンを丸め、新たにハンバーガーに手を伸ばした。二個とも、自分のそばに引き寄せて私に取られまいという姿勢だ。

「あげないから」

「いりませんから」

 一個で十分です。

「つまんなかった? 犬飼うときに役立てばと思って話したんだけど」

「ていうか、なんでそこで犬を飼うって発想に至ったんだか」

「いやねぇ、なんていうか、顔?」

「顔?」

「犬っぽい、顔」

「……」

 無視して、最後のひとかけを口に放り込んだ。男はそれを見たのか、残りの半分程をふたくちで収めると、ろくに噛みもしないでアイスティー(レモン抜き)で流し込んだ。かなり辛そうに。

「は。死ぬかと思った」

 喉につまらせればよかったのに。

「でね、本題にもどるけど。本来、人間っていう生き物は狂気に染まりやすい」

「は? でも、それって遺伝ですよね。そう言ってましたし、それって狂気に至る遺伝子って結構だくさんの人間が」

「持ってるってこと。それっていうのも、遺伝子っていうのはいわば人間の経験の結晶だと僕は考えているから。ここにもひとつ例を挙げると、母親があるいは父親が、逆上がりができなかったとするとその子供も逆上がりをすることはなかなか難しい。これも実例あるものでね。そういった微々たる経験こそが、人間の精神、肉体、本能、細胞を造り、更に細胞をつくる遺伝子に組み込まれていく。遺伝子は個人単位の人間の人生が組み換え作り替えていくものだ。かすかな狂気の兆しくらい、どんな人間だって持ってるものだよ」

「はぁ」

「問題は、さっきもちょこっと触れたけれど、狂気と定める範囲。恋愛や依存やストレスが引き起こす異常行動。狂気と銘打つ行為のほとんどを占めるこれらを、例えばそれを些細な事象、あるいは一般行動の範囲内と定めたとき、狂気の範囲はぐんと狭まり密度は増す。そんな濃い狂気を身にまとえる人間は、本当に奇特な少数だけだ。普通の、そのかすかな狂気の兆ししか持ち得ない人間っていうのはね、大体が本物の狂気を纏うことはできない。理性の粋を軽々と飛び越えること、自我の留めるところを軽々と飛び越えること、人間としての本質を軽々と飛び越えること、そんなこと良識と常識に染まった人間にできる芸当じゃないでしょ。そんな、普通じゃない。人間的じゃないことを平気でこなせる狂人に憧れる一般人はとても多い。けれど、彼らにはとてもじゃないけれどそんな一種極を極めるようなことはできっこない。ならばどうするか、傍観に徹する、それかマネをする。マネをするほとんどの人間は、その真似が自分オリジナルの狂気だと信じたがるけれど、それは違う。そんな人間はまず、自殺に走る。薬でも首吊りでも手首を切るでも、その辺はなんでもあり。死に近い暗闇を経験することで、自分は憧れの狂気をまとえると錯覚する。でも、それは間違いだ。なぜならば、本物の狂気をまとえる少数の人間は、死に近い暗闇を経由せずとも、死の光を見つめることが出来るから。死は光だ。光だから、生の輝きに溶け込んでその姿を隠すことができる。普通の人間は、死に近い暗闇を経験してからでないとその光の一瞬を捉えられない。けれど、本物の狂気は、死を恐れず生を恐れず、ただ或者として受け入れることで溶け込んだ死の光の輪郭すらも捉えることができる。死の姿を実感できる、と言う点において、狂人はつまり病人と似ているのかもしれないな。体の異常を抱える病人に対して、遺伝子に異常を抱える人間。両者は対極に位置しているようで、実は鏡の表裏のようだね。狂人と人間、て体の作りは同じ別種の生きものだと、僕は思うんだ。どんな生き物だって、共通している種は同種の死を厭うだろう。厭いの順位は最下層から他種族の死、同種族の死、近親者の死、同位くらいに血縁者の死、家族の死、最上位に自分自身の死。死とは悲しむべきもので自分自身からもっとも遠くなければいけないものだ。近ければいけない、近ければ自分の命、意識の終わりだから。死はすべての生に一度きりしか与えられていないものだからね、一度しかないものを、生き物の意識はとても恐る。それが、一般的な常識、本能、認識、刷り込み。そうでしょ。普通の人間は、高い崖の淵に立たされたとき無意識に後退る。恐ろしいから、本能故の行動だよ。狂気に憧れて、死に近い暗闇を覗いたものでも、まっすぐに死を覗き見ることができる場所に立つとき、きっと同じように後退る。死の光が届かなくなってようやく、足元が震えて腰から崩れ落ちる。そういうものなんだ。それが本来の命のあり方としてしぜんな姿。でもね、狂気を纏う人間はそうじゃない。彼らはそんな命、意識とは一線を飛び超えた場所に棲む。彼らは死に直結する淵に立ってなお、微笑んで、背を押す強風が吹いても片足を前に出して遊ぶことを怖がらない。死も生も、同価値であり、自身の意識はただの電気的な信号によって生じるもの。それを理解しても受け入れられないのが一般人で、それを遺伝子に組み込まれて生まれてきたのが狂人だ。面白いよね、彼らは唯一という認識をおそらく持ち得ないんじゃないかな。唯一はすなわち恐怖だ。その場に唯一あるもの、その場から唯一消えるもの、それは人間及び生きもの全てにとって本能、遺伝子的な恐怖を感じるものだろう」

「……」

 嬉々として語る男を前に、私はどうしようかと考えあぐねていた。

 ぽろぽろと砂が溢れるように容易く生まれてくる言葉に、理解が追いつかないというのもある。だが、一番に、目の前の男がまるで一般人と狂人を比較して調査したかのように冷静に分析して語る姿こそが、何よりの異常に見えたからだ。

 本当ならば、家に帰って夕ご飯の仕度をしたいところだったが、なんの運命か、こんな得たいのしれない男に腕をつかまれるだなんて。いよいよ目の前の男が、気味悪く恐ろしく思えてきた。このモジャ毛が買ってきたコーヒーとハンバーガーを胃の中に収めてしまったことを後悔する。

「さて、これが、結果だけれど。狂人を定める範囲、つまりより濃い密度の狂気を誘うに至る遺伝子。それは一体どんなものであるかっていうこと。僕個人としては、それは唯一という概念をもたない遺伝子だね。死の唯一、生の唯一、これらの重要性を理解できないから痛みを感覚として、喜びを感覚として、他者を同一の種族として、より薄っぺらな認識しか出来なくなる。これが、狂気に到れるかどうかの境界だ」

「……」

「元気ないね。どうだった、聞いてて楽しかったでしょ」

 両手にパックのアイスティー(レモン抜き)を持って、右手のパックのストローを銜えて中身を吸い上げる。頬がこけて、音を立てる勢いでアイスティー(レモン抜き)が飲み込まれてゆくのを、私は更に募る気味悪さに耐えながら眺めていた。本来ならば滑稽と言える姿なのだけれど、どんなに思ってみても肌を模したゴムを被せた骸骨を想像してしまう。


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