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一話だったものを分けたので、区切りがおかしいかもしれませんが……


 人は狂気に染まりにくい。

 そもそもの理性が、自我を構築する上での最も重要な土台であるということを前提にして考えてゆく。


「うまく狂うって案外大変で、ちょいと平凡に生まれてしまったらホンモノになれる確率っていうのはとっても低いわけ」

 マックのポテトをくわえながら、目の前の男はそうのたまった。照明がやけに白く眩しい店内。テーブルに広げた紙ナプキンの上の細いポテトは揚げたてで、猫舌の私にはとてもじゃないけれど食べられたものじゃない。

 そのくせに、モジャ毛の下品そうなこの男は、髪の毛とだけ対比してみればとても不釣合な形の良いツヤのある唇からポテトを一本生やして器用に口を動かす。

「狂気っていうのは遺伝だよ。そういう遺伝子があるんだ。ほら、虐待を受けた子供は体が大きくなってから他者に対して暴力を振るい易いって、聞いたことない? 虐待を受けた女性がね、将来自分は幸せな家庭を築くことを夢に見るけれど、実際結婚生活が始まり子供をもうける。そうしたら、食事がうまく摂れない、うるさい、すぐに泣く、そんな些細な理由で子に対して拳を振るう。そんな、本人にしてみればありがたくもない血のつながりってあるんだよ。トラウマが原因っていうけれどもね、僕はそうは思わないんだな、これが。僕的にはね、やっぱり遺伝子によるモノだって、そう考えるね。虐待を誘う遺伝子。親から子へ、更にその子供へ。そんな具合につながっていく。虐待と同じように、狂気に陥りやすい遺伝子っていうのは存在する。殺人に至りやすい遺伝子だって、太りやすい遺伝子と同じように存在するんだもん。どんなものだって、ありえないことはないよ」

 口に挟んだポテトを咀嚼し終え、男はカップのアイスティー(レモン抜き)をすごい勢いで飲むと、わざわざ立ててある赤いパックからポテトを数本抜き取って口に放った。

「食べないの」

「猫舌なんです。気にしないでください」

「ふーん。そういうのもまた、遺伝なんだよね。お母さん、猫舌でしょ」

 にやり、と片方の頬を上げるだけのいやらしい笑い方。思わず眉をひそめ、母がいれたての緑茶を冷まさずに飲めることを思い出した。

「いいえ。母はどんなに熱い物でも平気で口に運べます」

「あ、そう。じゃ、お父さんの方」

「も、母に同じく」

「えー、面白くないなぁ」

 とたんに不機嫌に顔をしかめ、狭いテーブルに突っ伏した。腕で器用に紙ナプキンを押しながら、その腕のなかに顔を埋める。

 危うくこぼれそうになったポテト数本を手のひらで受け、戻すのもなんだか、と口に運ぶ。

「じゃあ、君のお祖父さんかお祖母さんが猫舌なんだよ。隔世遺伝ってやつだ。きっとそうだろう」

 聞き取りにくい声で、おそらく独り言をつぶやくと、顔を横向けただけで曲げたストローからアイスティー(レモン抜き)をすすった。

 男の頭、いや、モジャ毛にもつむじはあって、渦を巻くモジャ毛を愉快に思いながら、ポテトの油を流すためにアイスコーヒーを飲む。ミルクを入れない、安物のブラックコーヒーは苦いだけで上品な云々と語れるほど旨くもない。氷の入れすぎで薄くなってしまったコーヒー(M)に百五十円の価値はあるのだろうか。

「殺人に至りやすい遺伝子っていうのは、実はまだ未発見でね」

 また始った。今度は横を向いているおかげで聞き取りやすいが、男が顔を向けている方面の席に座るお客さんがだいぶん不可解そうな表情をしている。

「ある殺人鬼の家系図をさかのぼって、彼の家系には実際殺人を起こした人物がどれだけいたのかというのを調べたものがあるんだ。どこの国の調査結果だったのか、そこまで覚えてはいないけれど、彼と血がつながっている祖先の、調べられた限りの人数で七人の人が殺人あるいは殺人未遂を起こしていた。さらにずいぶん昔、まだ魔女狩りが正当化されていた時代の話、彼の母方の女性が三人、魔女として報告され残忍な方法で処刑されている。どこの誰と血がつながっているのかわからない現代人の僕らからしても、その記録はとてつもないものだと感じざるを得ないよね。だってさ、少なくとも自分が知っている親戚たちの中で、殺人者と血が繋がっている人間なんて、なかなか居ないでしょ。そんなもんさ、言いふらすようなものじゃないけれど、いつか知られるものだしね。ほら、それを踏まえると、その殺人鬼の家系の人間は一般よりも遥かに高い確率で殺人者になりうるんだよ。この結果に驚異と信ぴょう性を感じて、そういった家族を監視及び監禁してしまおう、という試みさえ発案されたことだってある。結局、棄却されて終わったけれど。よっ」

 と、と頭を起こして男は何食わぬ顔でポテトを頬張り始めた。

「ちょっと、そっちにポテト寄せるなんてずるくない」

「あんたが腕で押したんじゃないですか」

「だっけ」

 紙ナプキンの端を掴んで自分の方へ引きずりながらも、ポテトとアイスティー(レモン抜き)を交互に口にふくむのをやめない。

 子供かこいつ。

 呆れてため息をついたとき、視界の端でそそくさと席を立つ女性二人組が見えた。この男が熱弁をふるっているとき、不可解そうな表情からだんだんと気味悪気に曇り、恐ろしそうに顔を青ざめさせていたグループだ。それに続くように、男が顔を向けていた方のテーブルから、ちらほらこちらに視線を向けながら退席する人がいる。

「あら、そして誰もいなくなった?」

「いえ、あんたの話がよっぽど恐ろしかったんでしょうよ。かわいそうに、女の人だっていたのに」

「いいじゃない。こういう話を聞いて、素直に恐ろしいって思えるのって健全な証拠だよ。そしてそんな人はとっても狂いにくいね」

「狂いにくいって」

「正気のうちにってこと。まぁ、狂気の範囲の広さにもよるけれど、健全な人間がある程度自我を忘れて周囲に気を配れない状態に陥るのは恋愛、依存、ストレスのどれかが主だ。これらは、遺伝というよりも自分の心のあり方、あるいは育ち方環境に影響を受けやすい、と僕は見ているね。だいったい、そんな在り来りな異常を狂気だ遺伝だなんて、大げさなんだ。これらはそんなのよりももっと、人間の根幹に関わるディープな問題だっていうのにさ。あ、アイスティーなくなっちゃった」

「じゃあ、これで御暇おいとま

「かわり買ってくるから待っててよ。大丈夫。空いてるしすぐ買ってくるから、ね。逃げないでね」

 男が立ち上がって、ポケットの財布の感触を確かめてからレジに行く間際、さっとよこした流し目の冷たさに問答無用に立ち去ろうと浮かした腰が固まった。照明の強すぎる光のせいじゃない影が、男の深い堀りにあいた瞳にかかっていた。

 ジーパンを履いた薄い足を見送りながら、そろそろと腰を落ち着け直した。


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