第5話 鼻血で済む世界を、私は選ぶ
月曜日の朝は、だいたい雑に始まる。
眠い。寒い。教室の床が妙に冷たい。誰かのシャーペンの芯が転がっていて踏みそうになる。そういう小さい不快が、ちゃんと“日常”として積み上がっている。
でも今日は、雑じゃないものが混ざっていた。
席に着いた真央の肩が、まだ少しだけ上がっている。呼吸が浅い。目が泳ぐ。机の端を指でいじる癖が止まらない。周りの視線が、あからさまに避けたり、逆にちらちら寄ってきたり、落ち着きがない。
噂って、火の粉みたいに舞う。
昨日の生徒指導室で「名前は出さないで」と言って、教頭は頷いた。……頷いただけだ。学校は“約束”を、だいたい検討の棚に置く。
私は席に座って、机に頬杖をついた。
「前世基準で言うと、今日は公開判決の日」
隣の咲が、眠そうに私を見てため息を吐いた。
「はいはい、エレオノーラ様。朝から縁起でもない」
「縁起はいいよ。首落ちないから」
「やめて」
咲は軽く笑う。笑ってくれるのはありがたい。笑いの皮があるだけで、空気は少しゆるむ。
ゆるんだ空気の隙間から、私は真央を見た。
目が合って、真央が小さく瞬きをした。私は声を出さずに、ほんの少しだけ頷く。
“声出していい”って、伝えたい。
今日も。
*
一時間目の終わり、佐伯先生が黒板の前で咳払いをした。
「連絡がある」
声が硬い。嫌な予感の硬さ。教室の空気が、また一瞬で“聞く体勢”になる。聞く体勢って、つまり“裁く体勢”だ。誰もが当事者じゃない顔をして、当事者を探す体勢。
「先日、SNS上での投稿について学校に報告があった件だが……」
真央が、目を伏せた。咲が小さく私の袖をつまんだ。止めるな、って合図じゃない。たぶん、心配の合図。
先生は紙を見ながら続けた。
「学校として確認を進めた結果、投稿に使用されたアカウントは、当校の生徒本人の端末からのものではない可能性が高い」
教室がざわつく。ざわつきが、一拍遅れて真央に集まる。
真央が息を止めた。
先生はそこで、言葉を選ぶように間を置いた。たぶん、上から釘を刺されている。名前は出すな、と。
「つまり、現時点で特定の生徒を疑う根拠はない。以上だ」
教室の空気が、ふっと軽くなった。軽くなった瞬間、人は最初にやる。
“なかったこと”にする。
「よかったじゃん」
「じゃあ誰だったの」
「え、他校のやつ?」
無責任な推測が飛ぶ。人は、安心するとすぐ次の生贄を探す。
私は机に肘をついたまま、わざと小さく呟いた。
「ほらね。燃料が消えたら次の火種探す」
咲が小声で返す。
「言うと思った」
先生が教室を見回して言った。
「変な憶測を広めるな。今後、こういう件については学校として対応する。クラス内で勝手に話を回すな」
……それは、先生が言うんだ。
勝手に話が回るようにしてきたのは、学校の方なのに。
私は先生の言葉に被せない。今日は抑える。ここで噛みつくと、空気がまた盛り上がる。真央にとって必要なのは、盛り上がりじゃない。沈静だ。静かな回復。
先生が出ていって、教室がざわざわに戻った。
そのざわざわの中で、真央が少しだけ肩の力を抜いた。
私は、そこだけ見て満足した。
でも、満足で終わらないのがこの世界だ。
*
昼休み。
真央が弁当を開ける手を止め、周りの視線を避けるように下を向いた。そのとき、花梨が例の調子で近づいてきた。明るい声。明るい声って、ときどき刃だ。
「真央、よかったね。疑い晴れたじゃん」
真央が顔を上げる。笑っていいのか分からない顔。
「……うん」
花梨は“いいことした人”の顔で続ける。
「いやー、でもさ、真央も最初からもっとちゃんと言えばよかったんだよ。疑われたら大きい声で否定するとか」
うわ。出た。被害者に努力を要求するやつ。
真央の表情が、また固まった。空気がじわっと花梨側に寄る。“花梨の言い分、分かるかも”の顔がいくつか増える。
私は箸を置いた。
ここだ。
私は笑って言った。軽く、いつもの調子で。厨二ラベルを先に貼るために。
「花梨、それ、前世基準で言うと二次断罪」
花梨が眉を上げる。
「は? なにそれ」
「無罪になった人に『もっと上手くやれ』って説教するやつ。ざぁこムーブ」
咲が隣で吹き出しかけて、慌てて口を押さえた。
花梨がむっとする。
「別に説教じゃないし。アドバイスだし」
「アドバイスって言えば正義になると思ってるの、便利だね」
花梨が言い返す。
「黒川ってさ、ほんとウザい。なんでも噛みつくじゃん」
「噛みついてない。止血してるだけ」
「は?」
「鼻血の話」
周りがくすっと笑った。花梨が勝ち誇りそうに言う。
「ほらほら、こういうとこ。厨二でしょ。前世だの断罪だの」
私は肩をすくめた。
「うん。厨二でいいよ。アルヴェイン公爵家長女、エレオノーラ・アルヴェイン」
笑いが起きる。起きるけど、今日は少し違う笑いだ。昨日の生徒指導室の空気を知ってる子が、何人かいる。笑いながらも、目が真面目だ。
私は花梨の目を見たまま続ける。
「で、今のアドバイス。真央が弱いって言いたいの?」
「言ってないし」
「じゃあ言わないで。言ってないなら、口にしないで」
花梨が口を開けて、閉じた。言い返せないから、逃げ道に走る。
「……ほんと意味分かんない」
「分からないなら黙って。黙れないなら責任取って」
花梨の顔が赤くなる。怒りと恥が混ざる色。周りがまた“空気”を作ろうとする。そこで咲が、珍しく花梨側を見て言った。
「花梨。今のは、ちょっと違うと思う」
花梨が咲を見た。
「咲までそっち?」
「そっちとかじゃない。真央が悪くないのに、また責めるのは違う」
空気が、さらに止まった。
花梨は舌打ちして去っていった。周りの子たちも、弁当に戻るふりをする。逃げる。いつもの逃げ足。
真央が小さな声で言った。
「……ごめん。巻き込んで」
私は即答した。
「巻き込んだのは空気。真央は生きてただけ」
真央の目が潤んだ。咲が小声で私に言った。
「今日のひより、ちょっと優しい」
「厨二の余裕」
「そういうとこだよ」
咲が笑って、真央も小さく笑った。笑えるならいい。笑いが戻ってくるなら、回復は始まってる。
*
午後の授業が終わり、帰りのホームルームが始まった。
佐伯先生が珍しく、紙を持たずに教室を見回した。紙がないときの先生は、だいたい自分の言葉で喋る。自分の言葉は、逃げられない。
「……瀬戸」
真央の肩がぴくっと動く。
「昨日の件で、お前の名前を出したのは……良くなかった」
教室が静かになる。
先生が続けた。
「学校からも注意を受けた。俺も、考えが浅かった。瀬戸、すまない」
真央が目を見開いた。先生が謝るなんて、教室では珍しい。大人が謝ると、空気が一瞬で迷子になる。
真央は小さく頷く。
「……はい」
先生は咳払いをして、教室全体へ向けた。
「それから、クラスの中でも憶測で人を疑う発言があった。今後はやめろ。……以上だ」
雑だ。最後が雑。だが、謝ったこと自体は価値がある。雑でも、ゼロじゃない。
そのとき、後ろの方から声が上がった。
「……瀬戸、ごめん」
直人だった。直人が、少しだけ大きい声で言った。みんながそっちを見る。直人は顔を赤くして続けた。
「昨日、空気に乗ってた。俺も怖かったのに、瀬戸の方がもっと怖かったよな」
真央が驚いた顔で直人を見る。直人は視線を逸らしながら、ぽつぽつ言った。
「……ごめん」
その流れに、二人、三人と小さな謝罪が続いた。気まずい謝罪。形だけの謝罪も混ざる。けれど、混ざっていい。完璧な謝罪なんてない。あるのは、言葉にしたかどうかだけ。
真央は、泣きそうな顔で何度も頷いた。
「……うん。ありがとう」
教室の空気が、少しだけ変わった。
“なかったこと”に逃げない空気。
ほんの少しだけ。
佐伯先生が「終わり」と言って教室を出ていくと、咲が私の机の横に来た。
「今日、勝ったね」
「勝ち負けじゃない」
「でも、空気が一回変わった」
咲がそう言った。私は頷いた。
「うん。首が落ちなかった」
「だからそれやめて」
咲が笑って、私も笑った。
真央が、少し迷ってから近づいてきた。
「……黒川さん」
「ん」
「……ありがとう。昨日も今日も」
私は手をひらひら振った。
「礼はいらない。真央が声出したのが一番でかい」
真央が小さく笑った。
「……声、出した。出せた」
「偉い」
真央が頷いて、鞄を持って教室を出ていった。その背中が昨日より軽い。軽いってだけで、今日は成功だ。
*
帰り道、咲と並んで歩いた。
夕方の空は、やけに穏やかだった。コンビニの前を通る。あの角だ。石で鼻からいった場所。私は反射的に足元を見る。
小石が、まだある。
私が睨むと、咲が笑う。
「石に恨み持ちすぎ」
「だって私を殺した」
「殺してない」
「前世基準で言うと、殺したのは事実」
「また始まった」
咲は笑いながらも、ふっと真顔になった。
「ねえ、ひより」
「なに」
「……前世ってさ。本当に?」
また来た。第3話のときと同じ目。ラベルで逃げない目。咲は、たまにそういう目をする。そういう目をするたびに、私の中の“公爵令嬢”が少しだけ背筋を正す。
私は歩きながら、しばらく黙った。
黙って、結局、全部言葉に出した。
「本当だよ」
咲が息を止めた。
私は続ける。
「でも、証明しない。証明した瞬間、この世界が変わる。私はそれ、望んでない」
「……なんで」
私はコンビニの看板を見上げた。光が眩しい。王都の処刑台の光とは違う。眩しいだけで、怖くない光。
「こっちはさ、鼻血で済む」
私は指で鼻の下をなぞった。もう血は出ていない。
「前は首が落ちた。理由も順序も証拠もないのに」
咲が唇を噛んだ。信じたいのか、信じたくないのか、揺れている顔。
私は笑って、わざと軽く言った。
「だから私は、黒川ひよりでいる。厨二って言われてもいい。笑われてもいい。便利だし」
「便利って……」
「便利。だって、厨二って言われると、みんな真面目に反論しないで逃げるでしょ」
「それ、ひよりが一番分かって使ってるのが怖い」
「怖いのは正義ごっこだよ」
私は足元の小石を避けて、咲をちらっと見た。
「咲はさ、信じなくていい」
「……でも」
「でも、もし咲が、今後また空気に押しつぶされそうな誰かを見たら」
私は肩をすくめる。
「そのときは、笑ってでも止めて。私みたいに。厨二でも何でも」
咲が小さく笑った。
「ほんと、めちゃくちゃな理屈」
「前世で鍛えた」
「それも怖い」
咲が笑って、私も笑った。
少し間が空いて、咲がぽつりと言った。
「……ひよりさ」
「ん」
「今日の生徒指導室の話、みんな噂してるよ。『黒川が先生黙らせた』って」
「へえ」
「で、みんな言ってた。『黒川って厨二だけど、なんか本物っぽくて怖い』って」
私は鼻で笑った。
「“本物っぽい”って便利だね」
「ひよりも便利って言葉好きすぎ」
「だって便利なんだもん」
咲が肩を揺らして笑って、急に立ち止まった。
「ねえ、ひより。最後に一個だけ」
「なに」
咲が、まっすぐ私を見る。逃げない目で。
「もし、本当に前世が公爵令嬢だったならさ」
私は目を細める。
「うん」
「……なんで今、こんなに楽しそうなの」
その質問は、意外と刺さった。
私は立ち止まって、空を見上げた。夕方の青が薄くて、きれいだ。王都の空も青かった。でも、あっちは青でも怖かった。
私は答える。
「処刑台の私はね」
一拍置く。
「最後まで“凛としてること”しかできなかった」
咲が黙って聞いている。
「でも今は、凛としてなくていい。泣いても、笑っても、鼻血出しても、明日がある」
私は咲を見る。
「だから楽しい。……それだけ」
咲が、目を伏せて小さく頷いた。
「……それだけ、か」
「それだけが一番でかい」
私は歩き出した。咲も並ぶ。
*
コンビニの角を曲がるとき、風が吹いた。小石が、ころんと転がって、私の靴先のすぐ前に止まった。
私は一瞬だけ止まり、石を見下ろした。
石は何も言わない。反省もしない。謝罪もしない。石はいつも石だ。
私は、石に向かって笑った。
「ざぁこ」
咲が吹き出す。
「石にまで言うのやめて」
「だって石が悪い」
「石は悪くない」
「悪い。前世基準で言うと、石は暗殺者」
「暗殺者って言うな」
咲が笑いながら私の腕を叩く。軽い痛み。軽い痛みは、ありがたい。
私は石を避けて、一歩踏み出した。踏み出して、わざと背筋を伸ばした。
ほんの少しだけ、格を戻す。誰に見せるでもなく、ただ自分のために。
「私は、黒川ひより」
そして、胸の奥で静かに名を確かめる。
「エレオノーラ・アルヴェイン」
その二つの名前が、喧嘩せずに並ぶ。前なら並ばなかった。前は、どちらかが死んで終わった。でも今は、並んでも首が落ちない。
私は咲に向かって、いつもの調子で言った。
「ねえ咲。今日の晩ごはん、なに」
「急に現実」
「現実が大事。前世基準で言うと、飯は正義」
「正義って言うな」
「ざぁこ正義」
「意味分かんない!」
咲が笑い、私も笑う。
笑いながら、私は最後に一言だけ、心の中じゃなく口に出した。自分の宣言として。
「鼻血で済む世界を、私は選ぶ」
咲が「なにそれ」と笑った。
その笑いが、ちょうどいい。
真実は読者だけが知っていればいい。クラスは最後まで“厨二”で処理していい。世界は変わらなくていい。
変わるべきは、順序と責任だけ。
私は、今日も小石を避けて歩く。
たぶん明日も、正義ごっこは転がっている。
でも、首は落ちない。
せいぜい、鼻血で済む。




