第1話 鼻血で始まる続編
第一話 鼻血で始まる続編
処刑台の木目を、私は最後まで覚えていると思う。
王都の広場は、朝の空気だけがやけに澄んでいた。人のざわめきは濁っているのに、空だけが無関係みたいに青い。断罪の言葉は長かった。長いわりに中身は薄い。誰が何を見たのか、いつ、どこで、どう確認したのか。そういう当たり前の順序は、最初から最後まで出てこなかった。
それでも私は、背筋を伸ばして立っていた。
アルヴェイン公爵家長女。エレオノーラ・アルヴェイン。貴族としての矜持なんて、都合よく笑われるものだと分かっている。でも、最後の最後まで、それだけは手放したくなかった。
刃が落ちる気配がして、視界が一瞬だけ白くなる。
終わりだ、と私は思った。
成仏。解放。無。
そういう、物語の幕引き。
──のはずだった。
*
「……っ、いった……!」
鼻の奥が、ずん、と痛い。
痛い、というより、熱い。鈍い熱が鼻骨の内側から頭蓋まで響いて、思わず目を開けた。開けた瞬間、空が見えた。青い。広い。やけに平和。
自分が寝台ではなく、硬い地面に倒れていることに気づく。背中が冷たくて、頬がざらつく。アスファルト。王都の石畳ではない。石畳じゃないのに、なんで私は倒れている。
考えるより先に、鼻に手をやった。
ぬるり。
指先が赤くなった。
「……鼻血?」
声が高い。喉の位置が違う。自分の声じゃない。軽い。子どもの声だ。
その一言を言い終わる前に、頭の中へ、別の人生が洪水みたいに流れ込んできた。
名前。黒川ひより。
年齢。十三歳。中学二年生。
家族。父は会社員、母はパート。妹が一人。住んでいる家の間取り。自分の部屋のカーテンの柄。昨日の夕飯。今日の持ち物。体育がある。ジャージは鞄の中。国語の小テストがある。嫌だ。
通学路。駅前の交差点。コンビニの角。歩道の縁の段差。そこにある小石。今朝、急いでいて──足を取られて──前のめりになって──
鼻から、地面に突っ込む。
ゴン、という鈍い音。
痛み。
そして、ぷつん。
……。
…………。
私は、鼻血を垂らしたまま、思考を止めた。
数秒。いや、もっと短いかもしれない。脳が「それ」を処理しきれずにフリーズしている。
でも次の瞬間、処刑台の景色が割り込む。
断罪の声。
群衆。
刃。
首が落ちる直前の静けさ。
それと、いま。
アスファルト。
鼻血。
中学生。
「………………は?」
声が漏れた。素で。
もう一度、鼻から血が落ちる。ぽた、ぽた。妙に律儀なリズム。
私は起き上がった。ふらつく。でも立てる。首もある。腕もある。鼻は痛いが付いている。血は出ている。
立てる、という事実が、状況を確定させる。
「ちょっと待って」
誰に言うでもなく、私は言った。全部言葉に出る。そう決めたとかじゃない。決める前に、もう出ていた。脳内だけで抱えるには、馬鹿らしすぎた。
「私、公爵令嬢として処刑されたよね?」
返事はない。もちろんだ。通学路の朝に、処刑の返事をくれる者などいない。
「で、その直後に、石で転んで死んだ中学生に憑依?」
鼻の下を指で拭う。血がまた付く。制服の袖で拭ったら汚れる。いや、もう汚れている。最悪。
「……死に方の格差ひどくない?」
言ってから、笑いがこみ上げた。笑っていいのか分からないのに、笑いが勝つ。断頭台と鼻血だ。王都の広場とコンビニの角だ。観衆と、通学路の小石だ。
「前世、断罪。公開処刑。公式イベント」
私は指を折った。
「今世、石。鼻。即死」
指を折り切って、鼻をつまむ。痛い。
「……雑すぎでしょ、神様」
言い終わって、ふっと息を吐く。
呆れが勝つ。怒りより、悲しみより、未練より、呆れが勝つ。たぶんそれが、私が処刑台で吹っ切れていたせいだ。公爵令嬢としての人生は終わった。終わったものを、また引き戻されても困る。
困るが。
目の前に現実があるなら、やるしかない。
「なるほどね。続編呼ばれたわけだ」
私は周囲を見回す。通学路に人がいる。自転車。犬の散歩。見知らぬ家々。電柱。標識。看板。読める。読めてしまう。
日本語。
異世界語は、もう舌に残っていない。でも意味だけは残っている。公爵令嬢としての理屈と矜持だけは残っている。
そして、この身体の記憶も、全部ある。
黒川ひよりの癖。歩き方。家の場所。担任の顔。養護教諭の名前。クラスの面倒な子。空気を作る子。泣けば勝てると思っている子。声が大きいだけの正義。事なかれの大人。
「……知ってたなら避けなよ、石」
私は小石を睨んで言った。石は当然、反省しない。
「とりあえず保健室だよね。鼻血出てるし」
そう言って歩き出したら、足首が少し痛い。転んだせいだ。痛いが、生きている。生きているのが妙に可笑しい。
ふと、胸の奥が軽い。
死んだはずなのに。
死んだのに、また始まったのに。
平和すぎて、笑える。
*
学校の門は、知っている場所だった。黒川ひよりの記憶が勝手に足を運ぶ。門の前で一瞬だけ立ち止まり、鼻にティッシュを詰める。保健室にあるはずだが、今はない。鞄の中を探ると、ポケットティッシュが出てくる。用意の良い中学生だ。偉い。石で死んだけど。
ティッシュを詰めた顔で校門をくぐると、ちょうど登校指導の先生と目が合った。ひよりの担任、佐伯先生。三十代後半。体育会系の声。正義と秩序を好む。悪意はない。ないが、雑。
「あ、黒川! おい、どうしたその鼻!」
普通なら焦る場面だろう。私も焦るべきなのだろう。だが、焦りより先に言葉が出た。
「見て分からない? 鼻血」
「分かるよ! そうじゃなくて……転んだのか? 保健室行け!」
「行くとこ。今行ってる」
私がそう言うと、佐伯先生は一瞬だけ口を開いたまま止まった。中学生がこんな返しをする想定がない顔だ。面白い。
「……いや、待て。遅刻だぞ。理由は?」
「石で転んだ」
「ふざけてるのか?」
ここで私は、鼻に詰めたティッシュを指で押さえながら、真顔で答えた。
「ふざけてない。石はふざけてるかもしれないけど」
「……黒川」
先生の声が低くなる。叱る準備の声だ。だが、叱る前に確認すべきことがあるはずだ。
「先生、確認していい?」
「なんだ」
「遅刻の理由、いま聞いたよね。石で転んだって」
「聞いた」
「じゃあ次は、どう確認するの? ここに石持ってくる?」
自分でも驚くくらい、言葉が止まらない。しかも、全部口から出ていく。頭の中だけで回す余裕がない。いや、余裕があるからこそ、全部言ってしまうのかもしれない。
先生がまた止まった。
「……いや、そういうことじゃなくてだな」
「そういうことだよ。理由を聞いて、確認もしないで、“ふざけてる”って言うの、順序逆」
私は肩をすくめた。制服の肩が少し汚れている。鼻血のせいだ。最悪。
「怪我してるかもしれないんだから、保健室行かせるのが先。遅刻の説教は後」
「……だから保健室行けって言っただろ」
「止めたの先生じゃん」
佐伯先生のこめかみに筋が立った。おお、分かりやすい。
私は一歩だけ近づいて、にやっと笑った。
「なに? せんせ。これくらいの正論で殴られたくらいで、もう黙るの?」
先生の目が見開かれる。
いい反応。そう、こういう反応が欲しい。断罪の場で群衆が見せた顔と、同じ種類の顔。立場の弱い者が口を開いた瞬間の、「え?」という顔。
私はさらに言った。
「ざぁこ。ざぁこざぁこ」
「……黒川!!」
怒鳴る声が校門前に響いた。周囲の生徒が振り向く。ざわっと空気が動く。
私は鼻のティッシュを押さえたまま、涼しい顔をする。鼻は痛いが、心は痛くない。心が痛いほど繊細だったら、処刑台に立ってない。
「怒鳴るのは反論じゃないよ」
淡々と言うと、佐伯先生は言葉を詰まらせた。ここで追い詰めすぎると、話が進まない。今日は第1話だ。ほどほどにしておくべきだ。
「……とにかく、保健室行け。あとで指導だ」
「はーい」
返事は素直にして、私は歩き出した。歩きながら、また言ってしまう。
「でも先生、さっきの順序、次から直したほうがいいよ。事故が起きたら責任取るの先生なんだから」
「黒川!」
「呼んだ?」
背後で先生が呻いた気がした。
面白い。
そして、平和。
*
保健室は、ひよりの記憶どおりの匂いがした。消毒液と柔軟剤が混ざった匂い。養護教諭の結城先生は、優しいが、事なかれの達人でもある。ひよりはここでよく休んでいたらしい。中二の現実は、だいたい疲れる。
「黒川さん、どうしたの、その鼻」
「見て分からない? 鼻血」
口が勝手に煽り口調になる。最初の掴みとしては良いが、相手が養護教諭だと少し可哀想な気もする。気がするだけだ。私は止まらない。
「転んだ?」
「石で」
「……また石?」
結城先生が一瞬だけ笑った。笑ったが、すぐに真面目な顔に戻る。プロだ。
「座って。ティッシュ取るね」
ティッシュと氷のうが出てくる。鼻を押さえられて、私は椅子に座る。
「痛みは? 頭は打ってない?」
「鼻からいった。だから鼻が痛い」
「頭痛は?」
「頭痛は……この世界がぬるすぎて起きてる」
「黒川さん」
結城先生が私の額を軽く叩くふりをした。注意というより、ツッコミだ。良い。大人にこういう余裕があるのは、前世にはなかった。
鼻血は少しずつ治まっていく。氷のうが冷たい。
「それで、どうして転んだの?」
「急いでた」
「遅刻しそうだった?」
「うん」
「じゃあ、早めに出ればよかったね」
ここで私は一瞬だけ、口を閉じた。
前世なら、この一言で「怠慢」とされる。個人の努力不足に全部押し付けて、構造を見ない。断罪の場と同じ匂いがする。悪意はないのに、雑。
私は息を吸って、言った。
「結城先生、それ、“正しい”けど、雑だよ」
「……雑?」
「うん。私の行動だけ見て、原因を全部そこに寄せてる」
結城先生が少し目を細める。観察する目だ。叱る目ではない。ここが違う。
「原因って?」
「遅刻しそうになる理由がある。家の事情とか、朝の役割とか。ひより……いや、私、妹の世話してるし」
口から「ひより」と出かけて、私は止めた。いや、止まらないのだった。だからそのまま言う。
「あと、通学路の石、普通に危ない。あれ何。罠? この世界、罠が小さすぎる」
「黒川さん、罠じゃないよ」
「でも人が死ぬサイズの罠だよ。石のくせに」
結城先生は、笑いをこらえるように口元を押さえた。笑っている。良い。笑える話に落とし込めるなら、前世の死も軽くできる。
「……とりあえず今日は、鼻血止まったら教室行こうね」
「うん」
「担任の先生には私から話しておく。遅刻の理由も」
「お願い。さっき校門で説教始めようとしてた」
「佐伯先生、真面目だからね」
「真面目なのはいいけど、順序が逆。正義ごっこは順序が命」
「黒川さん、正義ごっこって言わない」
「言う。言わないと伝わらない」
私は氷のうを鼻に当てたまま、天井を見上げる。
この保健室の天井は、処刑台の空より低い。でも、怖くない。誰も刃を落とさない。誰も群衆を煽らない。誰も、私の名を叫んで石を投げない。
その差が、笑えるくらい大きい。
結城先生がカルテのような紙に何かを書きながら言った。
「黒川さん、今日は無理しないでね。頭を打っていたら危ないから」
「分かった。無理しない。石で死ぬ世界、ほんと平和すぎるし」
「だから死んでないってば」
「いや、そこは……」
言いかけて、私は止めた。止められたのは、結城先生が私の目をまっすぐ見たからだ。軽い目じゃない。ちゃんと生徒の目を見ている。
「黒川さん、今ちょっと変だよ」
私は鼻のティッシュを押さえたまま、笑った。
「だって、変だもん」
「……何が?」
結城先生は追及しない。問いだけ置いて、逃げ道を残す。こういう大人がいる世界は、前世にはなかった。
私は少しだけ黙ってから、言った。
「私、いま、いろいろ整理中」
「うん。整理できたら、話してね」
「気が向いたら」
「そういうとこだよ」
結城先生が笑って、私は鼻を押さえたまま笑った。
*
鼻血が止まると、私は教室へ向かった。廊下の掲示物が目に入る。生徒会のお知らせ。部活動のポスター。文化祭の告知。全部、くだらなくて、愛おしい。断罪の布告よりずっといい。
教室の前で深呼吸する。ひよりの記憶が、扉の向こうの空気を予測する。今日は、クラスの何人かが小テストを嫌がっている。ある子が、別の子のノートを勝手に見て揉める。先生が「みんな仲良く」を言う。言うだけ。行動はしない。
私は扉を開けた。
「……あ、黒川。鼻どうしたの?」
数人が声をかける。ひよりの友達、咲。距離の取り方が上手い子。うまくやっている。前世なら貴族社会で生き残れたタイプ。
「石で転んだ」
「え、また?」
「石が私のこと好きすぎ」
「何それ」
笑いが起きる。良い。これでいい。この世界は、笑って済む。鼻血で済む。命で済まないことが、こんなに少ない。
そこへ担任の佐伯先生が入ってきた。さっきの怒鳴り顔は少し薄れている。結城先生が話したのだろう。ありがたい。
先生は出欠を取り始め、私にだけ一瞬、視線を向けた。説教の予告だ。でも、今はしない。順序を覚えたらしい。良い。成長だ。
私は椅子に座り、教科書を出す。手が、少しだけ震えた。痛みのせいではない。生きている現実の、妙な軽さのせいだ。
私は小さく呟く。
「……前世基準で言うとさ」
誰にも聞こえないくらいの声で、でも、ちゃんと口に出して。
「ここ、断罪にもなってない」
それが、たまらなく可笑しい。
そして――悪くない。
私は、黒川ひよりとして、今日の授業を受ける。
公爵令嬢の人生は、もう終わった。処刑台で終わった。
その代わり、ここで続きが始まった。
鼻血つきで。




