第35話 何も持ち帰れない
出立の朝は、静かだった。
サイラスは荷をまとめ終え、宿の前に立っている。滞在は数日だったが、村の空気に馴染みすぎることもなく、かといって浮くこともなかった。
「お世話になりました」
深く頭を下げる。
村人たちは、過剰に引き留めない。
ただ、「道中お気をつけて」と声をかけるだけだ。
アリアは、少し離れた場所から見送っていた。
「報告は、どうなさいますか」
サイラスは、苦笑する。
「異常なし。特筆事項なし。再現性の検証不可」
淡々とした文面だった。
「それで、十分です」
「……正直に書けば、“何もなかった”になります」
「ええ」
「ですが、私は見ました」
サイラスの視線が、村をゆっくりとなぞる。
「夜が静かになる理由を」
アリアは、答えなかった。
「けれど、それは書けません」
「はい」
「習慣や、距離や、急がないことは、報告書の項目にありません」
サイラスは、書類袋を軽く叩く。
「ここに入るのは、数値と結論だけです」
その言葉に、悔しさは混じっていなかった。
ただ、事実として受け止めている声音だった。
「……それでも、来てよかった」
ぽつりと付け加える。
レオンが村の入口まで見送りに立つ。
「異常はなかったんだな」
「ああ。異常はなかった」
サイラスは、もう一度村を振り返る。
焚き火は小さく、灯りは控えめで、人の声は低い。
数値では測れない安定が、そこにある。
「これは、持ち帰れない」
小さく呟き、馬に乗る。
砂埃がゆっくりと舞い、やがて背中は見えなくなった。
昼前、村はいつも通りに戻る。
リーナがぽつりと尋ねる。
「……あの人、また来ますか」
「分かりません」
アリアは答える。
「来ても、同じです」
それ以上でも、それ以下でもない。
夜、結界は薄く、穏やかだった。
誰かに評価されることもなく、
報告書に残ることもなく、
ただ、そこにある。
結界は今日も、何も持ち帰らせないまま、村を包んでいる。
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