第30話 戻れる場所
その日は、特別なことは何も起きなかった。
空は高く、風は穏やかで、結界の外側にも目立った動きはない。村はいつも通りに動き、いつも通りに夜を迎える準備をしている。
アリアは巡回を終え、結界点の手帳を閉じた。
今日も、記すほどの変化はない。
(……十分ですね)
村の中央では、リーナがミラと一緒に水汲みをしていた。
結界の話はしていない。桶の重さや、昨日の夕飯の話だけだ。
それでも、リーナの視線は時折、村全体をなぞるように動く。
点ではなく、面を見る目だ。
昼前、隣村から小さな荷を背負った男が立ち寄った。
一晩泊めてほしい、というだけの用件だ。
「夜は、静かですか」
確認するように聞かれる。
答えたのは、リーナだった。
「静かです。でも……無理はしません」
「?」
「夜は、休みます」
男は少し驚いた顔をしたが、やがて笑った。
「それなら、安心だ」
それ以上は、聞かなかった。
午後、アリアは久しぶりに、結界点から少し離れた場所で腰を下ろした。
直接見る必要はない。ただ、空気を感じるだけでいい。
リーナが、少し迷いながら近づいてくる。
「……アリアさん」
「はい」
「もし……私がいなくなっても、この村は回りますよね」
突然の問いだった。
アリアは、すぐには答えなかった。
結界の縁に目を向け、静かに考える。
「回ります」
はっきりとした答えだった。
リーナの表情が、少し曇る。
「でも……」
「でも、戻る場所は、残ります」
アリアは、続ける。
「回ることと、戻れることは、違います」
リーナは、その違いを、すぐには掴めない様子だった。
夕方、村の人々が自然と作業を切り上げる。
誰かの号令はない。ただ、日が傾いたからだ。
夜、結界は静かだった。
外の気配も、内のざわめきもない。
アリアは最後の確認を終え、宿へ戻る。
振り返ると、村の灯りが、柔らかく散っている。
強く集まらず、遠くまで漏れない。
(戻れる場所、ですね)
誰かが迷ったとき、立ち戻れる基準。
声に出さなくても、皆が共有している感覚。
結界は今日も、薄く村を包んでいる。
守るためではなく、戻るための輪郭として。
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