第3話 最初の「ありがとう」
夜明けは、思いのほか穏やかだった。
アリアは宿屋の一室で目を覚まし、しばらく天井を見つめていた。耳を澄ませても、聞こえてくるのは風と、遠くで鳴く鳥の声だけだ。魔物の気配も、人の慌ただしい動きもない。
(……静か)
それは王都では当たり前だったが、この村では違うのだと、昨夜の話で聞いていた。夜になると柵の外が騒がしくなり、眠れない日も多いのだと。
階下に降りると、宿屋の食堂にはすでに人が集まっていた。昨夜、空を見上げていた娘――ミラが、アリアに気づいて目を見開く。
「あ、お姉さん。昨日の……結界の?」
「はい。お邪魔しています」
そう答えると、ミラは一瞬言葉に詰まり、それから勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございます!」
あまりに真っ直ぐな声に、アリアは戸惑った。
「いえ……まだ、完全では」
「でも、昨日は全然怖くなかったんです。弟も、朝までぐっすりで」
その言葉に、胸の奥がきゅっと鳴る。
成果を説明する前に、もう答えは出ていた。
朝食の席では、村人たちの会話が自然と昨夜の話題に集まっていた。
「魔物の声、聞こえなかったな」
「見張りも楽だった」
「久しぶりに、夜が短く感じたよ」
誰も大声では喜ばない。ただ、淡々と、事実として語っている。それが、かえって実感を伴っていた。
食後、村長のグスタフがアリアを呼び止めた。
「昨日の調整だが……確かに、効いている」
「よかったです。歪みはまだありますが、急ぎではありません」
「そうか」
短い返事のあと、彼はしばらく考えるように黙り込み、やがて言った。
「しばらく、ここにいないか」
その言葉に、アリアは瞬きをする。
「報酬は多く出せん。だが、寝る場所と食事は用意する。村として、頼みたい」
頼みたい。
その言葉が、ゆっくりと心に染みていく。
「……私でよければ」
そう答えると、グスタフは一度だけ、深く頷いた。
その日、アリアは村の周囲を歩いて回った。
結界は一枚ではない。重なり合い、補い合いながら、形を保っている。だがこの村では、そのほとんどが限界まで薄くなっていた。
(無理をしていないのが、救いですね)
壊れるまで使われていない。
ただ、長く放置されていただけだ。
昼過ぎ、畑仕事をしていた老人が、アリアに水を差し出してきた。
「難しいことはわからんが……助かってる」
それだけ言って、畑に戻っていく。
感謝を求めていたわけではない。それでも、胸の奥が温かくなった。
夕方、結界点を一つ調整し終えた頃、空が茜色に染まっていた。
昨日より、風が穏やかだ。
村に戻ると、ミラが走ってくる。
「お姉さん! 今日も、夜は静かですか?」
「ええ。たぶん、大丈夫です」
「よかった!」
その笑顔を見て、アリアは思う。
(ここでは……役割がある)
王都で否定されたものが、形を変えて、ここにある。
前に立たなくてもいい。戦えなくてもいい。
ただ、整えて、支える。
それだけで、誰かが眠れるなら。
その夜、村に灯る明かりは、昨日より少し多かった。
アリアは宿の窓からそれを眺めながら、静かに息を吐く。
この場所でなら。
もう少し、続けてみてもいいかもしれない。
そんなふうに思えた、自分自身に、少しだけ驚きながら。
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