チュートリアルは突然に
「……ん、んん?」
小鳥のさえずりと、木漏れ日の暖かさで目が覚めた。
体を起こすと、そこは絵に描いたような美しい森だった。
背中には土と草の感触。見上げれば、見たこともない形状の葉を茂らせた巨木が、空を覆い隠している。
「ここ……どこだ?」
俺はバッと立ち上がり、安物のリクルートスーツについた土を払った。
アスファルトの熱気も、排気ガスの臭いもしない。あるのは濃密な緑の匂いだけ。
俺はたしか、トラックに轢かれそうになって……。
「はっ! まさか……まさか!?」
俺の心臓が早鐘を打つ。
トラック。謎の空間移動。そして、このファンタジーな森。
状況証拠は揃っている。揃いすぎている。これはもう、アレしかない。
「キタ……キタキタキタァァァッ!! 異世界転生だあああああっ!!」
俺は誰もいない森の中心で、両手を突き上げて絶叫した。
やっぱり神様はいたんだ! あのクソみたいな就活地獄からの解放! 俺の人生、ここからが本番だ!
「くくく……となれば、まずは『アレ』の確認だよな」
俺はニチャアと口元を歪め、周囲を警戒するように見回した。誰もいない。よし。
なろう読み歴十年の知識が火を吹くぜ。
俺は右手を顔の前にかざし、キリッとした表情を作って、まずは小声で呟いてみた。
「……ステータス、オープン」
シーン。
風がさらさらと木々を揺らす音だけが響く。
半透明の青いウィンドウは出てこない。
「ん? 音声認識の感度が悪いのかな。もっとハッキリ言わないとダメなタイプか」
俺は咳払いを一つ。次はビシッと人差し指を突き出し、ヒーロー番組の変身ポーズみたいに叫んだ。
「ステータス! オープンッ!!」
……シーン。
近くの枝で、鳥が気まずそうに首を傾げている。
「あれー? おかしいな。じゃあ、こっちか? 自分を見るんじゃなくて、対象を見るやつ」
俺は足元に転がっていた手頃な石ころを拾い上げた。
これに意識を集中して……スキルの名前を唱える!
「――『鑑定』!!」
カッと目が光ったり、石の情報が脳内に流れ込んでくる……はずだった。
だが、石はただの石のまま。
「…………いやー、だめか!!」
俺は石を放り投げ、ポリポリと頭をかいた。
「そっかそっか、いきなり万能じゃないパターンね。転生特典は『成長チート』型か、あるいは特定の条件で覚醒する『隠しスキル』型か……。焦らすねえ、神様も」
普通なら不安になるところだが、今の俺は無敵のポジティブシンキングだ。
能力がないわけがない。だって俺は、選ばれてここに来たんだから。
「まあいい。とりあえず街を探そう。ギルドに行けば水晶玉とかで能力がわかるはずだ」
俺は意気揚々と歩き出した。
革靴が土を踏みしめる感触すら楽しい。
しばらく藪をかき分けて進んでいると、前方の草むらがガサガサと揺れた。
「おっ? モンスターか? いきなりドラゴンとかはやめてくれよ~?」
俺は冗談めかして言いながら、草むらを覗き込んだ。
そこにいたのは――
プルプルと震える、青半透明のゼリー状の物体。
大人の頭ほどの大きさで、つぶらな瞳のような核が一つ。
「――ッ!! ス、スライムだ!!」
俺は感動で打ち震えた。
動物園にいるような生物じゃない。物理法則を無視した、正真正銘のファンタジー生物!
「うわあぁ……本物だ。すげぇ、マジで異世界だ……!」
これで確定した。ここは地球じゃない。
俺の目は輝いた。スライムといえば、初期村周辺の最弱モンスター。経験値稼ぎのボーナスキャラ。
「へへっ、悪いなスライムちゃん。俺の伝説の最初の踏み台になってもらうぜ!」
俺は近くの木の棒を拾い、剣のように構えた。
スーツ姿の冴えない男が、木の棒を持ってスライムに挑む。
第2話:チュートリアルは突然に(後編)
「……ふっ、隙ありッ!!」
俺は裂帛の気合いと共に、拾った木の棒を振り下ろした。
狙うはスライムの核と思わしき中心部。
ビチャッ!!
生々しい水音が響く。
木の棒がめり込むと、スライムは風船が割れるように弾け飛んだ。青い粘液が飛び散り、俺の安物のスーツにベットリと付着する。
「うわ、くっさ! なんだこの生ゴミみたいな臭い……」
俺は顔をしかめたが、すぐに口元を緩めた。
「だが、勝利は勝利だ。――『敵を倒しました。経験値10を獲得』……ってね」
脳内でファンファーレを鳴らす。
よし、やっぱり俺は強い。初期装備(木の棒)でモンスターをワンパンだ。これは攻撃力極振りか、あるいは『一撃必殺』のスキル持ちか。
「ふふふ、この調子なら魔王も三日くらいで倒せるんじゃね?」
俺は粘液で汚れたスーツも気にせず、意気揚々と森の奥へと進んだ。
しばらくすると、木々の隙間から煙が上がっているのが見えた。
近づくと、開けた場所で焚き火を囲む4人の男たちの姿があった。
(おっ、NPC発見!)
彼らはボロボロの革鎧をまとい、無精髭を生やしている。いかにも「歴戦の冒険者」といった風貌だ。
俺の姿に気づくと、男たちの一人が親しげに手を上げた。
「おや、旅の方かい? こんな森の奥で珍しい」
リーダー格と思われる、優しげなタレ目の男だ。
俺は内心ガッツポーズをした。友好的なNPCだ! これは情報収集イベントの発生だ!
「ええ、実は道に迷ってしまいまして。東の国から来たんですが」
俺は「なろう小説」で覚えた鉄板の嘘設定を口にしつつ、愛想よく近づいた。
「ほう、東の国……どうりで珍しい服を着ているわけだ。まあ、座りなよ。少し休んでいくといい」
「いいんですか? ありがとうございます!」
俺は彼らの輪に加わり、焚き火のそばに腰を下ろした。
男たちはニコニコと笑っているが、どこか視線がジロジロと俺のスーツや革靴、腕時計をなめ回している気がする。
きっと、異世界の服が珍しいんだろう。俺は優越感に浸った。
「腹は減ってないか? スープがあるんだ。具はアルミラージだ、いい出汁が出てるぞ」
「い、いただきます!」
差し出された木の器には、ドロリとした茶色の液体。
正直、見た目は最悪だった。異世界では料理は発展してないのか??だが、これも「異世界情緒」だ。俺は一気に流し込んだ。
……酸っぱい。あと、なんか舌が痺れるような変な味がする。
「水もあるぞ。ほら、飲みな」
すかさず渡された革袋の水も飲む。
ふう、と息をつくと、急激な眠気が襲ってきた。
視界がぐにゃりと歪む。
「あれ……? なんだか、急に……」
「ははは、旅の疲れが出たんだろう。無理もない」
リーダーの男が、俺の肩をポンと叩く。
その手が、妙に重い。
ああ、そうか。スライムとの激闘で、俺も気づかないうちに消耗していたのかもな。HPじゃなくてMPを消費してたのかも。
「ここは俺たちが見張ってるから、安心して眠るといい」
「すみません……じゃあ、お言葉に甘えて……」
親切な人たちだ。やっぱり「類は友を呼ぶ」ってやつか。俺が良い奴だから、良い仲間が集まるんだな。
俺は泥のように深い眠りへと落ちていった。
――これから自分の身に何が起こるかも知らずに。
「……ん、う……?」
次に意識が浮上したのは、不快な寒さを感じたからだった。
目を開けると、視界がぼやけている。
何か、体が軽い。いや、スースーする。
「おい、この上着、意外といい生地使ってんぞ」
「靴もだ。底が全然減ってねえ。町で売ればいい金になるな」
聞き覚えのある声。
俺は薄目を開けた。
さっきの「親切な冒険者」たちが、俺を取り囲んでいる。
そして、俺のジャケットを、ネクタイを、革靴を、手際よく剥ぎ取っていた。
「あ……ぇ……? みな、さん……?」
俺は呂律の回らない口で呟いた。
何をしてるんだ? もしかして、寝苦しくないように服を脱がせてくれてるのか?
介護イベント?
「おっ、ようやく目が覚めやがったか。カモネギ野郎が」
リーダーの男が、さっきまでの優しげな表情とは別人のような、卑しい笑みを浮かべて俺を見下ろした。
その手には、俺の財布とスマホが握られている。
「え……?」
俺は自分の姿を見下ろした。
ワイシャツはボタンが引きちぎられ、ズボンもベルトが抜かれている。
下着姿になりかけた俺を、五人の男たちが、値踏みするような冷たい目で見下ろしていた。
「あ、ぁの……?」
「大人しくしてろよ、兄ちゃん。身ぐるみ全部置いていけば、命までは取らねえ……たぶんな」
男たちがドッと笑う。
そこでようやく、俺の「平和ボケした脳みそ」が、遅すぎる警鐘を鳴らし始めた。
――これ、イベントじゃない。
これ、強盗だ。
「ひっ……や、やめ……」
俺はヨレヨレのボクサーパンツ一枚の姿で、土の上に転がされていた。
寒い。森の空気は冷たく、湿った土が肌に張り付く。
何より、恥ずかしい。
「ケッ、貧相な体してやがるぜ。もっと良いモン着込んでるかと思ったがな」
「こいつの持ってた板、なんだか分からねえがピカピカ光ってやがる」
男たちが俺の全てを――財布も、スマホも、身分証も、リクルートスーツも――奪い去り、品定めしている。
あのスーツは、俺が社会と繋がるための最後の砦だった。どれだけ就活に失敗しても、「俺はまだ戦う意志がある」と自分に言い聞かせるための鎧だった。
それが剥ぎ取られ、俺はただの、情けない半裸の男になった。
「か、かぇして……それ、おれの……」
俺は震える手で、リーダー格の男が持つスマホへ手を伸ばした。
その中に詰まっている「なろう小説」のブックマークだけが、俺のアイデンティティだったから。
「あ? うぜえな、このゴミが」
男が鬱陶しそうに眉をひそめ、腰の蛮刀を抜いた。
威嚇だと思った。だって、俺はまだ何もしていない。ただ懇願しただけだ。
――ザンッ。
乾いた音がした。
俺の視界の左端で、赤い噴水が上がった。
ポーン、と何かが宙を舞う。
見覚えのある、千円で買ったカシオの腕時計。その先についている、俺の手首から先。
「――へ?」
思考が凍りつく。
何が起きた? なんで俺の手が飛んでるんだ?
これは夢だ。VRだ。バグだ。そうじゃなきゃおかしい。俺は勇者で、主人公で、これからチート無双するはずで……。
「ア゛ッ……ア゛アアアアアアアアアアアアアッ!??」
遅れて到達した激痛が、脳髄を直接ミキサーにかけたように掻き回した。
熱い。痛い。焼けるように熱くて、芯まで凍えるように寒い。
左腕の断面から、ドクドクと生命が溢れ出していく。
「う、うで! 俺の、腕ぇっ!!」
俺は地面をのたうち回り、泥と自分の血で半裸の体を汚した。
男たちがゲラゲラと笑っている。
「ハハハ! なんだコイツ、腕一本でこの騒ぎかよ」
「立派な身なりしてたくせによぉ、硬貨の1枚もありゃしねぇ。あーぁまじで白けたぜ」
「とどめ刺しとくか? 森の肥料くらいにはなるだろw」
ああ、そうだ。思い出した。
この感覚。この見下される視線。
就職面接で、俺の空っぽの履歴書を見た面接官の目。大学を辞めると言った時の、親の失望した目。同窓会で、スーツを着て働く友人たちが俺に向けた、哀れみと優越感の混じった目。
――お前は、いらない人間だ。
世界がそう言っている気がした。
異世界に来ても、俺は俺だった。
特別な力なんてない。才能もない。ただ運が悪く、要領が悪く、痛みに弱く、すぐに調子に乗る、どこにでもいる冴えないモブキャラ。
それが、泥と糞尿と血にまみれて死んでいく。それがお似合いの末路だ。
(嫌だ……)
男の一人が、俺の頭をブーツで踏みつけた。
泥の味が口に広がる。視界が暗くなっていく。死ぬ。本当に死ぬ。
(嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!!)
恐怖と絶望の中で、俺の心の奥底に、コールタールのように粘着質なエゴが渦を巻いた。
認めない。こんな結末、絶対に認めない。
俺は選ばれたんだ。俺は特別なんだ。
そうでなきゃ、俺のクソみたいな人生は何だったんだよ!
(俺は……俺はまだ、ご褒美をもらってねぇ!!)
死にたくないという生存本能よりも、もっと純粋で、強烈な欲望。
それが、俺の中の「何か」の引き金を引いた。
トラックに轢かれる瞬間に願った、あの妄想が、現実を侵食する。
(俺は! 美少女と! 俺をゴミを見るような目で見下しながら、それでも俺に惚れている……そんな都合のいいツンデレ美少女とイチャラブするまでは、絶対に死んでやらねぇぇぇぇぇッ!!)
ブォォォォォンッ!!
ドォォォォンッ!!
突然、目の前が真っ白になった。
鼓膜が破れそうなほどの爆音が響き、台風みたいなデタラメな突風が吹き荒れる。
俺を踏みつけていたブーツの感触が消え、男たちの「うわあっ!?」という情けない悲鳴が遠ざかっていった。
「な、なんだ……!?」
俺は腕の激痛も忘れて、薄目を開けた。
強烈な光が収まっていく。
その中心――さっきまで男たちが立っていた場所に、信じられないものが現れていた。
人影だ。
それも、むさ苦しい山賊なんかじゃない。
燃えるような鮮烈な赤髪。吸い込まれそうなほど深い蒼穹の瞳。
華奢な体を包むのは、キラキラと輝く白銀の軽鎧。その手には、美術品のように美しい長剣が握られている。
まるで、フィギュアの中からそのまま飛び出してきたような、完璧な造形。
俺がずっと画面越しに憧れ、妄想してきた、テンプレ通りの「戦う美少女」が、そこに立っていた。
彼女は、自分が突然見知らぬ森の中にいることに困惑した様子で、油断なく周囲を見回した。
そして――半裸で血まみれになり、鼻水と涙でぐちゃぐちゃの顔で震える俺と、目が合った。
時が止まる。
俺は呆然と、泥の中から彼女を見上げた。
「……あ、あの……」
彼女は、路傍の汚物を見るよりも冷徹な視線を俺に向けた。
そして、躊躇なく踏み込むと、剣の切っ先を俺の鼻先にピタリと突きつけて、言い放った。
「――おい。私の神聖な戦場を邪魔したのは、お前か? ……死に損ないの変態が。視界に入るな、不愉快だ」




