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たんたん褐頭

作者: 日結月航路

 現実逃避としてさらにもう一作追加投稿致します。

 コメディ要素もエッチな要素も何も含まれておりません、ハイ。

 こんな童歌がある。

 いにしえの時代から、この地に住まう者たちの間で静かに紡がれてきた、奇妙で、そして少し悲しい調べだった。



 たんたん褐頭 お山をゆくよ

 綾織衣を揺らしてゆくよ

 ひとつふたつと山裾越えて

 密に生えたる杜の方へ

 雛形御手の触れたる跡は

 千草暮春の夢も見ゆ



 それはもう、とんでもない真夏日だった。

 太陽がギラギラ容赦なく照りつけ、神社の木々までジリジリ焼けているかのような熱気。

 境内の敷石からは陽炎がゆらめき、肌にまとわりつくような湿気が息苦しいほどだ。

 風はまったくなく、セミの声だけがミンミンと耳元で響く中、神社の階段にちょこんと座る童がいた。

 真っ赤な着物を纏った女の子。

 この暑さの中でも、その瞳だけは妙に涼しげで、じーっと一点を見つめて何かを考えている様子だった。


 木漏れ日がキラキラと降り注ぐ中、菜那は一人、ぼんやりと考えていた。

 自分のこと。

 そう、この『能力』というものについて。

 普通の子とは明らかに違う何かを持っているせいで、見えない壁を感じていた。

 心の中には、「どうして私だけ?」「なんでわかってくれないの?」という不満や不安、そしてちょっぴり苛立ちのような、さまざまな感情が渦巻いており、それをぐっと飲み込もうとしたその時――まるで陽炎が揺れるように、目の前の石段を、誰かが登ってくるのが見えた。


 八澄だった。

 すっごくおしゃれな着物を着て、ゆらりゆらり、まるで幻のように近づいてくる。

 その姿は、真夏の陽炎と見紛うほどに、どこか掴みどころがない。

 菜那は慌てて、今考えていたことがバレないように、茶色い頭をブルンと振り、前を向いた。


 あれ? さっきまで視界にいた八澄が、いない!? 暑さで幻でも見たのだろうか? いやいや、そんなはずはない。

 菜那には、地面からモワ〜っと立ち上る熱い湯気まで見えてしまうほどなのだから。

 しかし、八澄は本当に消えた。

 次の瞬間、ふわりと夏の夜に咲く花のような、甘く不思議な香りがして――


「一体、どこを見ているのさ」


 この暑さの中でも、キンと響く声が、背後から聞こえた。

 振り返ると、そこには見下ろす八澄がいて、手の甲で口元を隠しながら、ケラケラと笑っているではないか。


「もー! びっくりさせないでよ、八澄姉ちゃん!」

「あら、別に驚かせてないさね。あんたがよそ見をしていたから気づかなかっただけでしょうに」


 八澄に悪気がないのが分かって、菜那もようやくフニャッと顔を緩めた。

 ほんの少し前まで胸を占めていた不満や苛立ちが、まるで溶けるように消えていくのを感じた。


「どうせまた、年にも似合わないような難しいことを考えていたんでしょ?」


 そう言って、八澄も着物の裾を整えながら、隣にストンと腰を下ろした。

 木陰の石段は、ひんやりと肌に心地よい。


「あー、それにしても暑いねぇ!」


 八澄は長い髪をうなじのあたりでゆったりと結い上げており、それが涼しげな首筋を強調していた。

 その手で髪を直しながら、ふぅっと一息ついて、八澄は言った。


「そんなことないもん! 私、は……って、なんでいつもすぐ当てるのよ!?」


 ぷくーっと頬を膨らませて、菜那は年上の八澄に反抗した。

 しかし、八澄は何も言わず、ただ涼しげな目で菜那の顔を見つめるだけ。

 そんな八澄は珍しいかもしれない……。

 菜那は思わずゴクリと息を飲んだ。

 そういえば、いつもヘラヘラして、なんでも適当にやり過ごしている八澄しか知らない。

 こうして二人で座るのも、もしかして初めてなのではないだろうか? そもそもなぜ八澄はここにいるのだろうか、と菜那は思った。

 まるで自分の考えていることを見透かしに来たかのようではないか。


「不思議かい、お嬢ちゃん。私がここにいるのが」


 なんて、あっさり菜那の心を見透かそうとする八澄に、菜那は言葉が出なかった。

 真夏のセミの鳴き声が、なんだか遠く聞こえる気がする。

 気づけば、背中には汗で肌着がベッタリと貼り付いていた。

 身体をガチガチにしながら、やっとのことで言葉を絞り出す。


「うん、不思議。だって八澄姉ちゃん、私なんかに全然興味ないと思ってたもん」


 たったこれだけの言葉なのに、菜那はひどく疲れた心地がした。


「あの家でもそうだよ」


 彼女の脳裏には、高校生でありながら、菜那と同じく『能力』を持つ頼れる兄、轟丸の姿が浮かんだ。


「八澄姉ちゃんは轟丸兄ちゃんにばっかり気を遣ってて、私にご飯を勧める時だって、会釈するだけで、何も言ってくれないもん!」

「子どもにはそう見えるのかもしれないねぇ……」


 八澄は菜那の勢いをふんわり受け止めながら答えた。

 視線は、ずっと眼下の街に向けられたまま。

 街の屋根は、なだらかな稜線を描いて、灰色と白のグラデーションのように広がっていた。

 ところどころに、深い緑がモコモコと生い茂っている。

 八澄は、ゆっくりと続けた。


「でもね、じっと見守るとか、待つとかってやり方で、相手を想うことだってあるんだよ……。ね、せっかくだから。今、あんたが悩んでいること、私に話してみないかい? どうなるかは分からないけれど、少しは気持ちが楽になるし、頭の中も整理できるってもんさ」


 そう言って、八澄は菜那の髪を、すーっと撫でた。

 轟丸がしてくれるように、八澄の手からも、じんわりと温かさが伝わってくる。

 茶色い髪は、撫でられるたびに、ほんのりキラキラと光った。

 いつもと違う状況に、菜那は心が動かされたのか、肩の力を抜いて、小さく「ふぅ」と息をつくと、もう観念した。

 しかし、それは笑顔ではなかった。

 こんな風に、自分の気持ちが素直に出せないことも、もしかしたら悩みのひとつなのかもしれない、と菜那は思った。

 このままモヤモヤしているのも嫌だったから、ついに話すことに決めた。

 その話は、こうだった。


 菜那の一族には、代々不思議な『能力』が備わっており、八澄もまた、血の繋がりはないが、同じ一族の者だった。

 それは、単なる個人の才能を超え、未来の事象に干渉し、あるいは運命の流れをわずかに変えることさえ可能な、神秘的な力だった。

 昔の書物にも、『人それぞれ、できることとできないことがある』と記されているらしい。

 何もないところに道を見つけたり、物事の本質を見抜いたり、一つ知れば十を理解できたりする者が多くいたという。

 もちろん、それは普通の力ではなかった。

 さまざまな能力があったが、静かな状態から動きを生み出したり、動きの中から静けさを引き出したりして、それを自分の力とすることにおいては、一族みな同じ志を持っていたらしい。


 問題は、その『力』のせいだった。

 人というものは、目に見えないものを恐れ、自分たちの及ばない能力にはひれ伏したりもしてきた。

 それはもう昔の話だが、今でもその名残は根強く残っていた。

 他の能力者たちは、みなうまく世間と折り合いをつけていたのに、菜那だけは違った。

 おそらく、人付き合いが不器用だったのだろう。

 菜那は、なぜかうまくやれなかったのだ。


 11歳の菜那は、通っている学校で、一部の生徒たちから仲間外れにされていた。

 つい先日まで一緒にいた者にまで……。

 なぜなら、菜那は何でも難なくこなし、多くの人が苦労するような『努力』や『苦しみ』といったものを、ほとんど見せずにやり遂げてしまうからだった。

 例えば、授業の暗唱も計算も、理解力も抜群で、一度聞いたことはすべて記憶に刻まれる、といった具合である。

 運動能力にしてもそれは及んだ。

 一度体に負荷がかかると、次には以前の自分をはるかに超える力を身につけていたのだ。

 中には、その不思議さを尋ねてくる者もいたが、菜那は決まって、『ううん。だって、なんかできちゃうんだもん』と答えるのだった。


 この能力とは裏腹な、まるで感情のないような返事が、かえって同級生や周囲の人々を遠ざけさせた。

 どれだけ汗を流して頑張っても、徹夜で勉強しても、菜那にはあっさり抜かれてしまうからだった。


 追い打ちを掛けるように、『なんだ、あの茶色い頭は。まるで提灯みたいじゃないか』と、人々はさらに付け加えた。

 色抜けした茶色い髪の子は他にもいるが、菜那の髪ほど深みのある茶色い髪はなかった。

 そもそも、この見た目自体が、人との間に溝を作る決定的な原因だったのかもしれない。

 誰も持っていない能力を、まるで蛇口をひねるように簡単に使える娘。しかも髪は茶褐色。

自分たちのすぐそばに、未知のオーラをまとって、平然とそこにいる菜那を、人々は受け入れられなかったのである。

 髪の色も、菜那の底知れない深さも、もう同級生たちには耐えられなかったのだろう。

 無意識でやり過ごしていたものが、少しずつ頭の中を占めるようになり、今ではそれが彼女の中で、まるで腫瘍のように大きくなってしまっていた。


「ふうん、なるほどね。あんたも小さいのに、いろいろ考えちゃうのね……。やっぱり、難しいことばかり」


 八澄がそう言うのを聞いて、菜那は『この人に話すべきではなかった!』と思った。けれど、


「じゃあね、いいこと教えてあげようかね。不器用なあんたにね」


 年上のお姉さんが、提案するように言ってきた。

 不器用と言われて、ムッとした菜那だったが、ここまで話が進んでしまっては仕方ない。

 いや、むしろ進まされた、と言うべきか。


 再び頬を膨らませている菜那を見て、「そんなに怒らないの」と八澄が言う。

 また目が細くなって笑っている。

 まったくこの人は、若いのに下町のおばちゃんのような雰囲気を出している……。


「それに、そんなに膨れていると、男の子にもモテないよ?」


 八澄が言う。


「こんな私でも、相手してくれる男の子くらいいるもん! ……それに、別にモテなくてもいいもん!」


 菜那はちょっと照れながら、言い返した。


「おや、そうかい。それは羨ましいね。でね、そのいい方法ってのはこうよ、お嬢ちゃん。あんたも含めて、私たち一族には『力』があるでしょう? 大きさも種類も違うけれど、本質は同じなの。わかるでしょう? あんたにも」

「うん、わかってる」


 菜那は改めて気づいた。

 八澄は、まだ自分の名を呼んでくれないのだ、と。

 それよりも八澄が話し始めた途端、その口調も、唇までもが、妙に艶めいて、まるで世界を作り変えていくようだった。

 これも、この人の『手わざ』の一つなのだろうか? ついに八澄は、体ごと菜那の方を向け、再び語り出した。

 小袖の裏地の紅梅色がチラリと見えて、菜那は思わず見入った。


「この方法はね、簡単そうで、簡単じゃないんだ。つまりね、マスターすれば、小さなことから大きなものまで、能力として使えるようになるの。『後刻ごこくの術』って言うんだけどね。これはどちらかというと、私たち側の術かしらね。うん、あんたたちとは少し系統が違うね」

「簡単で簡単じゃないって、どういうことなの?」


 もう、すっかり八澄のペースに巻き込まれてしまった菜那が、思わず尋ねた。

 ひんやりとした廊下を歩いているかのような、不思議な心地がした。

 八澄は、クスッと笑った。


「まぁ、待ちなさいって。それはね、自分に何でもいいから課題とか、試練とかを出すんだよ。それで、もしそれを乗り越えられたらね、きっと『明日はうまくいく』のさ。小さな願いには小さな試練でいいけれど、大きな願いには、それなりの危険が伴う。だってそうだろ? 願いが大きくても、術の代償を払う側の器が小さかったら、逆に飲み込まれてしまうことになるんだから。物事の大きさをちゃんと見極めずに、中途半端に扱おうとすると、術を使う側は一生ものの怪我を負うことになる。とまぁ、だいたいこんな感じかね……。なんとなくは理解できたかい?」


 あっけにとられるほどの内容、とまではいかないが、菜那にはいまいち信じられなかった。

 本当にそんなことでいいのか、と。


「信じられないわけじゃないけど……でも」

「無理もないか。そういうところは、普通の人と同じ意見なんだねぇ。まぁいいわ、見ててごらんなさい」


 そう言って、八澄は地面に降りて、小さな石ころを手に取った。


「そんな小石、どうするの?」


 菜那が聞くと、八澄は何も答えず、ただ「数軒先の斜面に生えた木の葉に当てる」とだけ言った。

 右手に石を、左手を袖口に添えて、ひょいっと投げた。

 石は弧を描いて、葉っぱのすぐ脇を、かすりもしないで通り過ぎた。

 そして、もう一投。

 やはり石はかすりもせず、下に落ちて、落ち葉の中をコロコロ転がる音が聞こえた。

 さらにまた一投。


「なかなか難しいねぇ……」


 八澄は言いながら、それでも投げ続けた。

 当たってはいないが、石はまるで計算したかのように、少しずつ距離を縮めていく。

 足元の石ころがなくなりかけたのと同じ頃に、ついに葉っぱに命中させることができた。

 その数、なんと五投目。

 カサリ、と乾いた音が、微かに響いた。


「さて、と」


八澄がそう言うと、神社の裏手へ、そそくさと姿を消した。

 ものの数分で戻ってきた八澄は、眉を上げて、口元は丸く、ふっくらした頬がさらに輝いて見えた。

 笑っているせいだろうか?


「一体どうしたの!?」


 待ちきれない菜那が尋ねた。

 八澄はゆっくりと両手を広げ、肩まで上げると、勢いよく口の中から水を吹き出した。

 ブワッと飛び散った大粒のしずくは、菜那の顔を濡らすかと思いきや、キラキラ輝きながら霧になり、モヤとなってフワッと消えていった。

 まるで魔法のようだった。

 両腕で顔を隠していた菜那は、何も濡れてないことに気づくと、おずおずと尋ねた。


「今のは何かの術? 消えたの?」

「そうかもしれないわね。ただ、力が働いたのは確かだよ」


 手の届きそうなところにいる八澄が言った。

 巾着から手ぬぐいを出して、口元を拭いている。

 菜那はいつもの自分を取り戻すと、「ふーん」とだけ言った。

 八澄は続けた。


「私たちだからできる技なのよ。たったこれだけの、誰でも気づくような行為だけれど、これだけの力を持っているのさ。本当は力なんて、どこにでも働きかけることができるのよ。使う側次第ってだけ。まぁ、頑張ってみなさい、菜那」


 そう呼ばれた瞬間、菜那はハッとした。

 しかし、八澄の姿は、さっきと同じように、もう石段を降りていくところだった。

 暑さが立ち込める社殿の中に、不思議な香りがかすかに残っており、やがてゆっくりと消えていった。

 呆然とした後、菜那もその場を後にした。


 さっそく菜那は、次の日から『後刻の術』を試してみることにした。

 すると、不思議なことに、これまでギクシャクしていた周りの輪が、まるで油を差したみたいに、するすると回り始めたのだ。

 すべてが嘘のようで、信じられなかった。

 山のてっぺんから足元まで、風のように駆け下り、また登ってみた。

 それも、滝から落ちた水滴が、お猪口から溢れるくらいの短い時間で。

 すると、陰口がピタッと止まった。

 八澄と同じように、小石を投げて的に当てる練習もした。

 刈り取られたバショウの茎の真ん中に当てると、不思議と素直に本心を話せるようになり、友達の輪にもすんなり入れたのだ。


 今度は、花をそっと手で覆って、念じてみた。

 これは初めて試す力だった。

 手の中の花は枯れて、花びらも地面に落ちたが、すぐに緑がモコモコと湧き上がってきて、何事もなかったかのように元の形に戻ったのだ。

 生命を一周させてしまったのである。

 しかし、これは自然の摂理に逆らうことになってしまうため、それっきり菜那はやめてしまった。

 ちっちゃな体にはキツく、体力も消耗してしまったが、次の日には、自分からさまざまな子を誘えるようになったのだ。


 そうして、しばらくの時間が過ぎた。

『後刻の術』は、最初は確かに力を使って働きかけるが、結局は『きっかけ』の術でしかなかった。

 しかし実際、数日経つと、菜那は仲間に囲まれ、友達と呼べる者までできた。

 毎日が楽しそうで、子どもらしい本来の姿を取り戻していった。

 家の者が「菜那のやつ、最近えらく楽しそうじゃねぇか。何かあったのか」と聞くと、その場にいた八澄は、決まって「さあ……」とだけ返していた。

 口元は、かすかに上がっていたが……。


 半月ほど経った8月の終わり頃、事件は起こった。

 同級生が大切にしていた飼い犬が、病気で死んでしまったのだ。

 その男の子は、それはもうひどく悲しんでいた。

 そのことを知った菜那は、「なんとかしてあげたい!」と、全身に力がみなぎった。

 なぜならその男の子こそ、菜那が仲間外れにされていた時も、たった一人だけ、相手をしてくれた子だったからである。

 誰からも空気のように扱われ、輪の外に追いやられた時、この男の子だけが、そよ風のように優しく話しかけてくれたのだ。

 そして、話してくれる内容は、いつも彼の大好きな犬のことだった。

 菜那も、動物の中では特に犬が好きだった。

 だから菜那は、その男の子を励まそうと、もう一度『後刻の術』を使うことを心に決めたのだ。

 それも、とびっきり強力なやつを。


「あの子に、いい明日をあげたい!」


 その夜、夕食を終えた菜那は一人、「宿題するから」と言って食卓から姿を消した。

 もちろん、部屋にはいない。

 窓から抜け出すと、家の北側にある神聖な山の中へ入っていった。

 たくさんの峰に囲まれたこの霊山は、類まれな力を持った修験者が訪れる場所なのだ。

 しかしそれは儀式のためだけで、普段は入山できない。

 木々の間を登り抜けると、暗闇の入り口が菜那を待ち構えていた。

 空中の隙間まで闇に埋め尽くされた入り口を進むと、ほのかに赤いモヤが浮かび上がってきた。

 菜那は恐怖と悪寒と孤独で押しつぶされてしまいそうだった。

 荒い岩肌に足を取られ、擦り傷を作りながらも、それでも早足で狭い洞窟をかがんで進んだ。


 どれくらい進んだだろう。

 赤いモヤはまるで溶け出した鉄のように粘り気を帯び、やがて炎の明かりに変わった。

 鼻腔を焼くような硫黄の匂いと、皮膚がチリチリするほどの熱気が全身を包み込み、足元の崖の下には、はるか遠くへ流れ落ちる灼熱の溶岩が見えた。

 この崖とさらに奥の崖は、軋む音を立てる吊り橋で繋がれている。

 その橋は永きにわたりこの霊山の炎に耐え抜いてきた、古の術によって編まれた不燃の綱でできていた。

 灼熱の熱波を浴びても決して燃え尽きることのない、まさに奇跡の橋だった。

 洞窟はもう立ち上がれるくらい広くなっており、吊り橋の天井などはまるで円形ドームのように高々としていた。

 ここが修行の場、『五大』の一つ、『大火の間』だった。

 菜那は意を決すると熱風を切り裂く矢のように駆け出し、吊り橋に飛び乗った。

 それから一心不乱に吊り縄の上で、火の粉と一緒に舞った。

 その舞はまるでいにしえの儀式のようだった。

 熱された吊り縄の上で菜那は小さく、しかし確かな足取りで舞い始める。

 身体から立ち上る熱気は、彼女の情熱と混じり合い、足元の火の粉はその舞に合わせてきらめき、まるで意志を持っているかのように宙を舞った。

 菜那は幼いながらも真剣な表情で、祈りにも似た舞を捧げ続けた。


 その時、空間がひび割れ溶岩の奥から悍ましい姿が顕現した。

 燃え盛る火炎と炭になった骨が混じり合ったような、おぞましい巨躯の妖怪だった。

 その熱は周囲の溶岩さえも沸騰させるほどで、菜那の肌は瞬く間に焦げ付くような痛みに襲われた。


「うぅっ、熱い……!」


 息をするたびに肺が焼けるようで、視界は熱で歪み、汗が瞬時に蒸発していく。

 妖怪は溶岩の飛沫を上げながら咆哮し、その熱波は菜那の体を容赦なく打ち据えた。

 まるで全身が炎に包まれているかのような苦痛に、菜那は思わず膝をつきそうになる。

 しかし、彼女の心には友を助けるという強い願いがあった。

 菜那は、その熱を逆手に取るかのように、「天地のことわり、水火の狭間に、清浄なる気よ、集え! 清気招来せいきしょうらい!」


 自身の能力を極限まで集中させた。

 体の奥底から冷気にも似た清浄な気が湧き上がり、灼熱の妖怪を取り囲む。

 火と水がぶつかり合うような音と共に、妖怪の体が激しく震え、断末魔の叫びを上げながら、その巨躯は塵となって崩れ落ちていった。

 だが、その代償は大きかった。

全身の力が抜け落ち、意識が遠のく。

 菜那の体は限界を超えた熱と力の消耗で、完全に動かなくなった。

 ぼんやりとした意識の中で、彼女は吊り橋の縄から滑り落ちる感覚に襲われた。

 暗闇と熱の渦に飲み込まれながら、菜那の意識は途絶えた。


 菜那がいなくなり、霊山に異様な力が働いているのを感じ取った轟丸は、すぐに菜那の後を追った。

『五大』の一つとはいえ、彼にとっては庭のようなものだし、実際、彼にも力があったから、何の苦労もなかった。

 闇の奥地で、ボロボロになって倒れている菜那を見つけると、優しく屋敷へと連れ帰った。


「全身、丸焦げ状態だったぞ。本当に何も聞いてないのか、八澄?」


 菜那の部屋で、床にぐったりしている菜那を見下ろしながら、青年は言った。

 菜那の体には、溶岩の熱気でできた小さな火傷がいくつかあったが、轟丸は慌てず、懐から取り出した霊薬を火傷の箇所に優しく塗った。

 すると見る見るうちに皮膚が再生され、火傷の痕が消えていく。

 さらに、彼は自身の特別な能力を使い、菜那の体内を巡る疲弊した気を整え、深い眠りへと誘った。


「いいえ、何も。でも、この子ならすぐに治りますよ」


 八澄は、全然深刻そうな様子もなく、そう答えた。


「そりゃ分かってる。だけどな、お前、一つ間違ってたら……」

「……明日は、見えたよ」


 ふいに、うっすらと目を開けた菜那が、寝床からポツリと言った。


「……そうか」


 轟丸が、菜那のおでこを優しく撫でる。

 指先からは、妹を深く想う兄の温かさと、やがてこの一族を束ねる者としての揺るぎない力が同時ににじみ出ていた。

 それは、彼がどれほど菜那を大切にしているか、そしてその手にかかればどんな困難も乗り越えられるという、確かな信頼を菜那に与えるものだった。


「もう大丈夫だよ」

「なら、安心して寝てな」

「うん」


 菜那は、安らかに瞳を閉じた。


「どうやら、うまくいったみたいだな、八澄」


 青年が言うと、「そうですね」と八澄は答えた。


 その通り、物事はうまくいったのだ。

同級生の男の子は、悲しみを乗り越えて、力強く生きていった。

 以前の彼にはどこか影があったが、今ではまるで太陽が差したように明るく、屈託のない笑顔を周りに振りまくようになった。

 その朗らかな態度は、クラス全体にも伝染し、以前よりもずっと明るい雰囲気に変わっていった。

 もちろん、菜那もその変化を一番近くで感じ取っていた。

 彼が以前のように活発に遊び、時折、犬との楽しかった思い出を笑顔で話す姿を見るたびに、菜那の胸には温かいものが広がった。

 彼の笑顔が菜那自身の心にも、新しい光を灯してくれたのだ。


 そして五大の力に触れて、世界のバランスを知り、自分の一族の秘密も垣間見た菜那は、これからの未来をもっと強く生きていくと心に決めたのだ。


 それから後も褐色頭の菜那は、今日もたんたんとお山を跳ねていたという。



 さて、何年もの時を刻んできた格式ある屋敷の縁側で、一人の女がとらえどころのない笑みを浮かべ、それでいて眼だけは神妙に、夏の夜空を仰ぎ見ている。

 年の瀬を迎えるごとになお深まる木目の縁側は、ひんやりと肌に心地よく、その女の周囲だけが、まるで時間が止まったかのように静まり返り、特別な空気に包まれていた。

 その表情は、まるで遠い過去と未来を同時に見据えているかのようであり、薄く開いた唇からは、夏の夜の虫の声にも似た、微かな笑い声が漏れた。


「あんな適当なおまじないでも、本当に効くものなのねぇ……(ケラケラケラ!)」


 怪しくも楽しそうな笑い声が、縁側に響いた。


 本作品は、かなり昔に書いたものを崩して書き直したものです。

 とにかく難しい漢字を使って書くことがかっこいいと勘違いしている残念な年代でした……。


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