第1話:白粉の影
後宮の朝は、想像以上に早かった。まだ薄闇が空を覆う午前五時、鐘が三度高らかに鳴り響くと、石畳の廊下には箒を持った下女たちの足音が規則正しく鳴り響いた。
玲玲もまた、身分の低い下女の一人としてその列に加わっている。小柄で痩せ気味の体つきに、ぱっと見は目立たぬ顔立ち。黒く結い上げたおさげ髪は清潔に整えられているが、誰の視線も集まらない。そんな存在感の薄さが、後宮という閉ざされた世界で生きるにはむしろ武器になるのだ。
それでも玲玲は、どんなに小さな異変も見逃さなかった。
今日もまた、碧衣がいつものように顔に厚く塗り込んだ白粉の匂いが、いつもとは違うことに気づく。
碧衣は高貴妃の付き女官で、若くして妃の信頼を得ている。しかし、妃に媚びへつらうその態度の裏に、他の女官たちの嫉妬と陰口が絶えなかった。
玲玲は掃き掃除を続けながら、ちらりと碧衣の顔色を見た。透き通る白粉の下の肌は、普段よりも青白く、血の気が失せているように見える。
(あの白粉……何かがおかしい)
胸の奥に、小さな違和感が芽生えた。
突然、音を立てて碧衣が倒れた。
「きゃっ!」と周囲が騒然となり、数人の女官が駆け寄る。
「碧衣様! しっかりしてください!」
「息が浅い、これは毒に違いない! 侍医を!」
玲玲は動じることなく、静かに近づいた。碧衣の手を取り、その震えと冷え切った肌を確かめる。呼吸はあるが浅く、冷や汗が額から滴っている。
その頬に薄く塗られた白粉の匂いを嗅ぐと、鼻腔に鋭い金属臭が刺さった。
(鉛……鉛が混ざっている)
祖父の声が脳裏に響く。
「鉛白は、鉛を含む白粉だ。使い続ければ肌は白く美しく見えるが、鉛は皮膚を通して体内に染み込む。慢性的な中毒症状を引き起こし、内臓や神経を蝕む厄介な毒になるんだ」
当時はそれが「美白」の代名詞であり、多くの女性がそれを使い続けて身体を壊していた。白粉に混じる鉛の粒子が皮膚を傷つけ、じわじわと健康を蝕むのだ。
玲玲は低い声で告げた。
「その白粉は、鉛白の混入による毒です」
女官たちは驚きと恐怖で声を失い、言い争いが始まった。
「何を言うのです! 下女が口を挟むな!」
「黙って掃除を続けて!」
その中、一人が碧衣の化粧箱を開けた。白粉の容器からは、金属臭が強烈に漂い、顔をしかめる者もいた。
玲玲は指先で粉を掬い、そっと壁の石に擦り付けた。灰色に変色した粉は、まさに鉛白である証だった。
侍医が慌てて駆けつける。玲玲は静かに後ずさり、誰の目にも触れぬよう掃除道具を手に取り作業に戻った。
その様子を、鋭い視線がじっと見据えていた。
高貴妃の侍女長、李瑤。年を重ねた彼女の眼は、玲玲の隠れた才能を見逃さなかった。
(この子、ただの下女ではないわ。危険を察知する目、知識の深さ――)
玲玲の胸の奥には、複雑な感情が渦巻いていた。
――毒を見抜けたこと。だが、碧衣の体はもう蝕まれてしまっている。
――誰も気づかず、知らぬ間に毒が回っていく。
玲玲は震える手で父から譲り受けた小さな薬箱を握り締めた。
「この後宮で、私は何を守れるのだろうか」
薄明の中、玲玲の決意は静かに燃え始めていた。