第21話:最後の献薬と、白椿の嘘
玉露の香が、空気の静寂を乱すようにふわりと漂った。
献薬の儀、最後の一服――
それは琳妃の命日と重なる日。宮中においてもっとも静かで、もっとも華やかな影が射す一日。
その儀に選ばれた薬師は、玲玲であった。
「香りは、沈香と……白椿……?」
茶碗に注がれた液を口元に運び、皇帝はそう呟いた。わずかに目を細める。
「珍しい取り合わせだな。沈香は妃の記憶を引き寄せる。白椿は、あれか……」
「記憶を封じる成分を持ちます」
「そうか。つまり、思い出してはいけない“何か”を沈香で呼び、水面に浮かべ、白椿で封じる」
玲玲は静かに頷いた。
それはただの献薬ではない。十三年前の真実に対する、最後の鍵となる一杯。
献薬の儀が終わると同時に、梨花はその場に立ち尽くした。
「皇帝陛下。私にはひとつ、申し上げねばならぬことがございます」
御前の空気が凍りつく。皇帝の横に控える李尚書が眉根を寄せた。
「何だ?」
「琳妃様の御死去の件――誤解がございます」
ざわ……と微かな衣擦れの音がした。だが皇帝は、動じることなく杯を置き、静かに言った。
「話せ」
玲玲は一礼し、口を開いた。
「十三年前。琳妃様は、毒によって命を落とされたとされております。しかし、当時妃様の侍女であった〈小雪〉が残した記録から、実際には“毒”ではなく、“薬の組み合わせ”によって死に至ったことが判明いたしました」
「薬の、組み合わせ……?」
「はい。琳妃様が日常的に服していた鎮痛薬“練香丹”と、医官より新たに処方された“沈香丸”の併用が、劇症を引き起こしたのです」
李尚書が唇を引き結ぶ。「その記録とやらの所在は?」
「小雪様の遺品より見つかりました。私の診療院にて保管しております」
「だが、それでは単なる不注意だ。なぜそれが“誤解”なのか」
玲玲は、ゆっくりと首を振った。
「当時、琳妃様に沈香丸を処方した医官は、処方箋を偽造されておりました」
皇帝の目が鋭くなる。「偽造、だと?」
「はい。琳妃様の主治医を名乗る者が差し出した処方箋には、通常の三倍の濃度で沈香が記載されておりました。しかし、実際にはその医官は謁見しておらず、筆跡も別人のものと判明しております」
「つまり、琳妃を陥れるために、意図的に危険な処方を?」
玲玲はわずかに躊躇し、静かに続けた。
「……はい。そして、その筆跡は、現在禁軍の書記官である者と一致しました」
「李尚書の部下か?」
沈黙。玲玲は、皇帝の目を真正面から見つめて頷いた。
「李尚書ご自身が、琳妃様を“排すべき存在”と見なしていたことは、当時の記録からも明らかです。そして、処方箋を渡した筆跡が、書記官の“白椿”と一致しておりました」
皇帝の顔から、わずかに色が失われた。
李尚書が前に出ようとするが、皇帝が手を上げて制す。
「白椿……あの、筆の如き冷静さと忠誠を誇った男が、そんな真似を?」
「白椿は、琳妃様の姉君に仕えていた過去がございます。その姉君が皇帝の側室候補から落とされたのが十三年前。妃様の登殿と同時期でございました」
すべての点が、線となる。
「白椿は、琳妃の登殿を“妹の失墜”と捉えた。故に、琳妃を消すべく、処方箋を偽造した。李尚書はその行動を……黙認した」
皇帝の言葉に、李尚書はなお沈黙を貫く。だが、その拳は震えていた。
「愚かだったのだ、あの頃の我は」
李尚書が、低く呟くように言った。「私は、皇帝陛下が琳妃様に心を寄せすぎることを恐れた。だから――白椿の行動を止めなかった」
皇帝は静かに立ち上がる。
「罪を認めるのか?」
「はい。私が、妃を守らねばならぬ立場でありながら、その命を守らなかった」
重い沈黙が、玉露の香をも覆い隠す。
「罪を償え、李尚書。白椿には、真実を記す筆を持たせてやれ」
「……御意」
やがてその場を去る李尚書の背に、玲玲はそっと頭を垂れた。
沈香の記憶が、今ようやく解かれた。
最後の献薬。
それは妃の無念を鎮め、真実を浮かべる、静かなる告発の一服だった。
2話更新が終わったので、明日以降執筆が終わり次第、再開します。