第16話:翡翠の指輪と、沈黙の証人
昼下がりの後宮は、まどろみと気配に満ちていた。陽は高く、天幕越しに薄く差し込む金の光が、床に幾何学模様を描いている。
玲玲は、尚薬局から命を受けて高貴妃の寝殿へ向かっていた。目的は――ある香炉の調査。
「“香りが変わった”と、あの侍女は言っていた……」
それだけなら異変とは言えない。だが、その香を焚き始めた直後、高貴妃の咳が止まらなくなった。薬茶も効かず、喉と胸を焼くように苦しむ日が続いているという。
寝殿の奥は、静かで、空気がぬるく沈んでいた。淡く紫がかった煙が漂うその空間に、玲玲はそっと踏み入れた。
香炉は、翡翠の縁取りが美しいものだった。だが、芳香には不穏な金属臭が混じっている。
「……これは、黄丹?」
香木に混ぜられた粉――黄丹は鉛を含む顔料だ。熱すると揮発し、微量ながらも吸い続ければ肺に毒を溜める。
玲玲は手拭いで口元を覆い、香炉に近づいた。香の残り灰を指先ですくい、紙に包む。
(色も、臭いも、ほぼ一致。あとは、成分を確かめれば――)
そこへ、布を踏む微かな足音がした。玲玲は振り向かずに言った。
「気づいていたのですね。香に混ぜ物がされていたことに」
返答はない。
「黙っていれば、高貴妃が静かに衰弱するだけ。誰も手を汚さずに済む」
しばらくの沈黙の後、声が返ってきた。かすれた声だった。
「……私は、ただの侍女です。妃に逆らえば、私も終わり」
玲玲はその言葉に、少しだけ目を伏せた。
「でもあなたは、香炉を磨き、香を焚き、水を替える。その手に、真実が積もっていく」
香炉の縁に、微かに青黒い粉が付着していた。
玲玲は続けた。
「この翡翠の装飾。実は隙間に仕込みがあり、香に混ざるように粉を少しずつ落とせる構造になっている。細工が精巧で、使い手の意志がなければ作動しない」
相手の肩がわずかに震えた。
「つまり、香を替えるたびにその細工も“調整”していた。あなたは知っていた」
侍女の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「……助けたかった。でも、どうすればよかったのか……」
玲玲は香炉を両手で包み込み、静かに言った。
「次に同じことが起きれば、見逃すことはできません」
その声に、侍女は深くうなずいた。
――調査を終えた玲玲は、薬局に戻り、成分を一つずつ確かめた。
黄丹、硫黄微粉、そして麝香。本来、心臓を活性化する香だが、高温で混ぜると化学変化を起こす。
「これは……攻めの香。薬ではない。毒の域に近い」
その晩、玲玲は尚薬局の帳簿にすべてを記録した。
『翡翠香炉に毒性粉末の混入構造あり。使用者の意志により、毒性香を生成可能。毒性確認済:黄丹・硫黄・麝香混合。高貴妃の咳症状と一致』
その記録に目を通した尚薬局の典薬・沈医官は、静かに言った。
「この調査報告は、内密に保管する。上が動くには、もう一押しが必要だ」
玲玲はうなずいた。
(真実は整った。あとは、誰がそれを“語る”か)
そして翌朝、後宮内に新たな知らせが走った。
――高貴妃の侍女が自ら毒香の仕込みを告白し、牢に入れられた。
玲玲は黙って薬草を刻みながら、遠くで鳴る鐘の音に耳を澄ませていた。
風は、新たな事件の匂いを運んできていた。